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果実の夢
夢を、見ていました。
一応出したものの、まだ当分使用しそうにないストーブと、あたたかいお茶。コタツではみあおが書き取りの勉強をしています。
テレビはつけていませんでした。珍しくみあおが自分から宿題に挑んでいましたから、邪魔をしないように、あたしも喋りません。
部屋は静寂に包まれていて、時々窓の向こう……ずっとずっと遠いところから、車の音が聞こえてきていました。
だから、夢の始まりは、車の音が聞こえたところからだったと言っても、過言ではないんです。実際、車の音を聞きながら、今自分は夢の中にいるんじゃないかなと考えていました。
それを打ち破ったのは、近くから唐突に聞こえた――とてもリアルな音、でした。
――風かな――
そう思い、またぼんやりと考えごとを始めたのですが、それは風などではありませんでした。お姉さまが帰宅したのです。
お姉さまは漆黒のアオザイを着て、あたしの前に佇んでいるのでした。闇の色に似ているその衣装は、目を細めれば、闇にお姉さまが抱かれているような印象を与える程でした。
「外は寒かったですか?」
急須からお茶を注いで、お姉さまに渡しながら訊ねました。震える程に寒いようなら、再度お茶を淹れなおそうと思ったんです。
少し、とお姉さまは答えました。
「秋の風が、地を這い始めました時刻ですから。なかなか心地いいですわ。みなもも一緒に庭に出ません?」
風にからまった髪を手櫛でほどき、お姉さまは微笑みました。華が溶けていくような、唇の動き――何か、企んでいるとき特有の仕草でした。
どうしようか迷っていると、すぐ傍の寝息に気付きました。真面目に勉強していた筈のみあおが、コタツに頬を乗せてうたた寝をしています。きっと、飽きてしまったんでしょう。
眠らせてあげたいけれど、漢字ドリルにはまだ空白が残っています。このまま起こさないでいて、困るのはみあおです。
「みあお……」
「ん……ふぁ〜い…………」
みあおは目をこすって、あたしとお姉さまを見比べました。お姉さまの微笑を、みあおは別の形で受け取ったのでしょう。パッと目を輝かし、「どこに行くの?」と聞いてきました。
「あのね、みあお……」
言いかけたのですが、お姉さまにさえぎられてしまいました。おそらく、みあおを巻き込むことで、あたしも一緒に行かなければならないようにするつもりなのでしょう。
「庭でね、面白いことをするの。みあおも一緒に行きましょう?」
案の定、お姉さまはそう言いました。
「いくーーー!!!」
みあおは嬉しそうに答えてから、ふと不安げにあたしを見ました。その瞳は、あたしも行くのかどうか知りたがっていました。
――仕方がないなぁ――
「暖かくして、いこうね」
あたしはみあおの首にマフラーを巻いてあげました。みあおは手をバタバタさせてくすぐったりながら、けれども楽しそうに笑います。
……風が室内へ入り込んできました。お姉さまがいち早く庭へ出て、あたしたちを呼んでいます。
「はぁい。今行きますね」
こういうとき、あたしは勝てないのだと実感します。お姉さまにも、妹にも。
海原家の庭に倒れているのは、夜、です。
冷たく、それでいてふんわりした風。(みあおは「オムレツみたいな風」だと表現していました)
お姉さまは裸足になり、弧を描いたステップをゆっくりと踏み、くらりと回ってあたしを見ました。
瞳が、柔らかく微笑んでいた気がしました。穏やかにあたしを抱くように、微笑っていたんです。
「はい、あーん」
お姉さまの指があたしの唇を刺激します。もう一度、もう一度……お姉さまの声が繰り返し響きます。
あーん。
油断したのでしょうか。自分でもよくわかりませんが、あたしは疑うこともしないで口をお姉さまの前で開いていました。
良い子。お姉さまの唇はそう動いたような気がします。同時に、口の中に異物を放り込まれました。
ふわりと匂ったのは土の香り。歯ごたえは、生の玉ねぎに似ていました。
飲み込んだあと、あたしは訊ねました。……今のは何ですか?
お姉さまは首を傾げました。……忘れてしまいましたけれど。球根だったかしら。
そのときです。
身体の奥から、何かが裂けた気がしたのは。
その音は、たとえるならスカートが破ける音のようでした。低音の……服の悲鳴に近かったのです。
ですが本当に裂けたのはあたしの体内で、悲鳴をあげたのはあたしの小さな喉でした。
ふ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ん。
身体の中で、芽が出ました。その緑色のものは、あたしの体液をすすって、生長していくようでした。
じゅるじゅる、ずるずる。
そんな音が、胃の中からするのです。気味の悪い音です。それがあたしを支配するのです。
ですが、あたしは――やはり、夢のせいだったせいでしょう。完全に嫌がってはいませんでした。恥ずかしいとは思いましたが、身体の内側から目覚めるものを、受け入れている節があったんです。皮肉にも、羞恥心が募るほど、その思いはひどくなっているようでした。
嗚呼。
身体をのけぞらせ、うめきました。あたしを吸い尽くそうと、這い上がってくる唾棄すべき呼吸が聞こえます。ズンズンと突いて、それは上へ上へと上がって来ました。
背中が震えだします。怖いような、待ち望んでいたような、自分自身が這い蹲っているような感覚が口元まで迫りました。
「アア……」
言葉に出来るのはここまでで、あとは言葉にならない声をあげていました。頭の中はフラッシュを焚いたように真っ白でした。羞恥心は何処へ消えたのか、あたしは乱れていました。自分の声と体内の音とが交じり合い、耳が遠くなる程です。
音は喘ぎ合い、宙でうねり、あたしの元に訪れたのは音の破裂による静寂でした。
恍惚の時は過ぎ、睫の間から視界を覗いて、異変に気付きます。顔の方向を変えることはおろか、指一本動かせません。
身体の変化は、まだ続いているようでした。
膝や肘を突き破った小枝が、伸びていきます。その二本の枝は腹部のところで渦を巻いて、ついにはテーブルとなりました。
腕から伸びていく枝たちは、葉を増やしていきます。あたしの視界にも枝が何本か見えています。葉の色は黄色で、力なく項垂れていました。
あたしは呼吸をしました。すると足のところから水が上がってくるのがわかります。さらに息を吸うと、吸い込んだ水が枝に回り、葉の色が緑に変化しました。頭をあげて、凛としています。
腕に重みが加わりました。風船のように、その重みはどんどん大きくなっていくようです。ああ実なのだとすぐにわかりました。
胸の膨らみからは、枝が一本生えました。枝先は蛇口のようです。
「お酒を飲む場所ですわ」
お姉さまは悪戯っぽく、教えてくれました。
いつもなら、文句を言うはずなのに、あたしは何も言いませんでした。あたしは今スタンドバーになっているのだと、認識しただけです。
「おねーさま?」
目の前にはみあおがいました。ランドセルを背負っています。手には明日持っていく筈の鍵盤ハーモニカが握られていました。息を吹き込みながら鍵盤を押すと音が出る、あの楽器です。
学校から帰って来たのだと、みあおは言いました。
外は相変わらず夜です。
――どうして――
「ここだけ時間の流れがゆっくりなのですわ。みあお、“らんどせる”を置いて、ここへ戻ってきて遊びましょうね」
「うんっ そうする!」
小さなみあおは言われるがまま、ランドセルを置きに、家の中へ行ってしまいました。
その間、あたしはお姉さまと二人きりです。
みあおが学校へ行っている間も、お姉さまはあたしを見続けていたようでした。クスクスと意味ありげな笑いを浮かべています。
お姉さまの纏うアオザイの存在感には驚かされるものがありました。室内では闇に抱かれているように見えたのに、実際闇の中に佇んでいるのを眺めると、とてもそうは思えないのです。同じ漆黒なのに、アオザイはくっきりとその輪郭を現していました。お姉さまのウエストを締め上げ、足を押さえつけ、柔らかな胸をもきつく縛っています。ですから闇の中には、お姉さまの身体のラインが鮮やかに浮かび上がっているのでした。
みあおはすぐに戻ってきましたが、鍵盤ハーモニカを抱きしめたままでした。学校でキラキラ星を習っているらしく、それをあたしたちの前で弾きたかったそうです。
「いくよ〜。ちゃんと聴いててね!」
みあおは念をおしてから、頬を膨らませてゆっくりと吹きながら鍵盤を叩き始めました。音の強弱はまちまちでしたが、不器用ながらも無邪気なメロディーが庭を包み込んでいきます。
お姉さまはテーブルの上に咲いた雪色の花弁を取りました。あたしの蛇口をひねり、その花びらが成すグラスに並々と液体を注ぎます。赤紫色のそれは、甘くかぐわしい匂いを強く放ちました。眩暈を覚える程です。ですがそれはもしかしたら、液体をあたしの身体の中から出したせいかもしれませんでした。
次にお姉さまはあたしの腕から一番小さくて可愛らしい実をもぎました。ルビー色の、表面がボツボツとした実です。それをグラスの中央に落とし、最後に小さな花びらを一枚、そこに浮かべました。
「みあお、喉が渇きましたでしょう?」
穏やかな物言いでした。
みあおは演奏を終えたばかりで、過呼吸になっているようで息を切らしていました。あたしたち姉の前だったせいか、顔も上気しています。喉が渇いていたのでしょう、みあおはコクンと頷きました。
「お姉さま、それはお酒じゃないんですか?」
「大丈夫、これはただの果汁ですもの」
お姉さまはそう答えましたが、果汁にしても“強すぎた”ようです。
みあおはグラスに顔を近づけてすぐ、香りにやられてしまいました。「くらくらする」と言いながら一口飲むと、本当に身体が揺れ出し、お姉さまに支えられました。
お姉さまは先程と同じようにグラスに果汁を注ぎ、自身の口元へ運びました。細い喉元を小鳥のように震わしながら、それを飲むのです。お姉さまの体内へそれが落ちていくとき、あたしは言いようもない悦びを感じました。あたしというよりも、あたしの中が、打ち震えるようでした。自分を受け入れられたような気がしたんです。
ですがお姉さまは、果汁を飲み干すことは出来ませんでした。半分まででグラスをテーブルに置いてしまい、息を漏らしました。
頬が赤く色づいているのを見ました。潤っている唇は、頬よりも赤く、瞳は蕩けるようにあたしを舐め回しています。
み・な・も。
お姉さまの唇が動いて、しなやかな指があたしの身体に絡みついてきました。歩けるのもやっとなのか、お姉さまは身体をこちらへ預けています。胸の柔らかな感触が腕から離れず、あたしは硬くなった身体をさらに硬くしなければなりませんでした。
濡れた唇があたしの胸を這います。何をするんですか……怯えの混じった声を出して、お姉さまの返答を待ちました。
「樹の……水の流れを感じているのですわ」
お姉さまは微笑んでいました。
「逆らってはいけませんわ……樹は喋りませんもの」
そう言いながら、あたしの果実を口に咥えています。もう果汁は飲まないのですかと訊いても、鮮やかに笑っているばかりです。
あたしは寂しさを感じました。あたしの中は確かに潤っていて、これを誰かに飲んでもらいたいのです。仕方のないこととは言え、拒否されると悲しい気持ちになります。
瞳には涙が溜まりました。
夜よりも漆黒の影が大地に映ったのは、このときです。
――みなも。
声が聞こえました。お姉さまやみあおのような高い声ではありません。もっと低い、男性の声でした。
呼んでいるのは、あたしのお父さんでした。
「お父さん……あのね……」
震える声で話し出すと、お父さんは黙って頷いてくれました。
「それじゃあ、一杯もらおうか」
「わたくしが注ぎますわ」
お姉さまはおぼつかない足取りながらも、蛇口をひねってグラスにお酒を注ぎました。そう、お父さんには果汁よりも香りの強いお酒を出したんです。口直しの果実は入れませんでした。
あたしは内心怯えていました。吐き出してしまうのではないかと思ったのです。
涙ぐんでいる眼を見て、お父さんは幻影のように笑いました。そしてそのまま、飲み干してしまったのです。躊躇する様子はありませんでした。
「もう一杯もらおうか」
「勿論ですわ」
新たに注がれたものもあっさりと飲み干し、お父さんは微笑みました。
「もう一杯」
お父さんはありったけのお酒を全て飲んでいきました。ゴクリ、と喉仏が動くのを眺める度に、あたしは自分が上りつめていくのを感じずにはいられませんでした。それはお父さんもわかっていた筈です。お父さんは声を出すあたしを肴に、グラスを重ねていくようでした。
――そろそろ時間だ。
お父さんはそう言いました。あたしには意味がわかりませんでした。それに、訊きたいことがあったんです。
「お父さんは何かの用事で帰って来たの?」
「そうだよ」
お父さんの両手があたしの身体を掴みました。樹になったあたしの身体は硬いのですが、お父さんに触れられたところだけ、柔らかくなっていくようでした。じわじわと溶けていくような気がするんです。
「………………みなもを迎えに来たんだ」
ぐちゃり。
身体が突如崩れていくのがわかりました。あたしだけではありません。お父さんも同じです。
お父さんはあたしを抱きしめました。二つの身体が絡まって、崩れていくのです。焼いた砂のような臭いがしました。大きな砂時計をひっくり返すような音も――。
あたしたちは、砂になって大地に落ちました。
それを眺めているのはお姉さまでした。
ふらついた足で、クスクスと笑い声をあげています。牡丹のような微笑で、今まで見てきたお姉さまのどの表情よりも、艶っぽいものでした。そのまま、身体が崩れていきます。足から砂になり、土の上に崩れ落ちました。
残されたのは、みあおです。
みあおは泣くと思いました。寂しさに、涙を零すと。
けれどもみあおは泣きませんでした。顔に溢れていたのは好奇心です。地面に両手を突き、四つんばいになってこちらを覗き込んでいます。
「おとーさん。みあおも、まざっていーい?」
「いいよ。おいで」
お父さんは腕を広げ(砂になったのではと思われるでしょうが、お父さんは確かに腕を広げていたんです)、みあおを受け入れる準備をしました。
みあおは無邪気な声を上げながら、こちらへ落ちてきます。
それはまるで、水に飛び込むときのようです。あたしたちは土ではなく水になったのでしょうか? みあおの姿が鮮明に見えました。
あたしたちの身体と混ざる瞬間、みあおの背中から羽が生えたように見えました。その羽はあたしの耳を掠め、羽音を響かせ、吐息をあたしの身体に零していったんです。
眼を覚ますと、そこはいつもの部屋でした。隣からはみあおの寝息が聞こえます。
あたしは安堵しました。ああやはり夢だったのだと。昨日はみあおの宿題を見てあげてから二人でお茶を飲み、眠ったのです。
掌の上には羽が一枚落ちていました。驚いて身体を起こしたあたしは、異変に気付きました。
胸元に異物が入っている感覚があり、それが胸をなぞって腹部へ落ちていきます。それは砂の感触にあまりにも似すぎていました。
終。
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