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<東京怪談ノベル(シングル)>


幽霊屋敷でおいかけっこ

 バスケットの中には、焼いたばかりのスコーン。
 「種類豊富にね」と注文をつけられたものだから、みなもは張り切って、何も入れないプレーンの他に、チョコとナッツをまぜたもの、ドライ・クランベリーとオレンジピールをまぜたもの、の、三種類を焼くことにした。
 そして、スコーンのお供はもちろんクロテッド・クリームだ。加えて、小瓶に入れた手づくりの、ブルーベリージャムにあんずのジャム、それから、マーマレードとアカシヤのハチミツ。
 甘い香りは、それだけで、人をしあわせにする。みなもは鼻歌まじりに、バスを乗り継いで、渡されたメモの住所へと出掛けた。
 彼女を招いたのは父と母である。
 父から娘に、突然、奇妙な招待状やら贈り物やらが届くのは日常ともいえる海原家であったが、今回は母も同伴というのが珍しかったかもしれない。何にせよ、みなもは母のいいつけ通り、スコーンを焼き、手づくりのジャムとともにバスケットにつめ、その屋敷へと赴いたのだ。

「…………ここ、なの?」
 そこはどんなところなの、と、みなもが訊ねたとき、母は笑ってすごく素敵なお家よ、とだけ言ったのだった。
 たしかに、切妻型の屋根や、張り出したウッドデッキや、かわいらしい出窓や――オールドアメリカン調の、それは雑誌に乗りそうな、瀟洒で愛らしい家には違いない。敷地には緑も豊富で、辺りも静かなので、門をくぐって、すこし足を踏み入れたら、もうそこが東京の街中とは思えないほどだった。
 ただ――
 風にそよぐ木々の枝振りのあいだや、閉じられたカーテンの隙間や、家の陰から……無数の視線がみなもを見つめているような……そんな雰囲気が、たちこめているのである。
(なにかいるんだ)
 霊感がほとんどないはずのみなもにも、それがよくわかった。
 独りならどうしたかわからない。けれど、父母もいるのだから、と、みなもは玄関の呼び鈴を鳴らした。
「いらっしゃい」
 誰かが言った。そして、すう――っ、と、扉が開き……
「えっ」
 みなもを、なかば突き飛ばすように、その脇を抜けて家の中へと駆け込んでいった白い影。
(うさぎ……?)
 たしかにそれは、白いウサギの……ただし、ベストを着て、懐中時計を持ったウサギの姿をしていた。
 みなもは悲鳴をあげた。うさぎに押されて、よろけた先――家の玄関口には、床というものがなかったから。

「あいたた……」
 思いきり、しりもちをついてしまった。みなもは、スカートの埃を払いながら……
(え? これって)
 それは見覚えのないスカートだった。いや、スカートだけではない、みなもの格好はいつのまにか、可愛らしい堤灯袖のブラウスとフレアスカートになっていた。
 くすくすくす――
 鈴のような声に顔を上げると、駆けてゆくベストを着た白兎。そしてその手の中には、みなものバスケット。
「あっ。ちょ、ちょっと、それ返して!」
 面白がるように、ウサギはぴょんぴょんと走る。スカートをつまみあげて、みなもは走った。
(そうか、アリスだ)
 ウサギを追って、木の穴から不思議の国へ――。見ればそこは、家のドアを抜けたはずだったのに、屋内ではない。どこかの森の中なのだ。
 くすくすくす――
 誰かが笑っている。
「もう、待ちなさいってば!」
 ちょこまか逃げるウサギを追って、アリスのみなもは走った。
 うふふふふ……
 くっくっくっ……
 あはははは……
 けたけたけた……
 笑っているのは、幹の節くれが老人の顔のように見えるその樫の木か、子どもの背丈ほどもある毒々しい模様のキノコか、ひらひらと舞う蝶々か……。その声の中に、みなもはよく知ったひとの声を聞いた気がして――。
「あいた!」
 草むらに飛び込んだ兎の背中を追っていこうとして、木の根に足をひっかけたみなもは盛大に転んだ。
「もう〜」
 起き上がろうとしたみなもは、ずしり、と、背中に重みを感じる。
「やだ、なにこれ。あたし……亀!?」
 先程までのアリス風の衣裳はどこへやら、今度のみなもは緑色のタイツのようなものを着せられ、背中に甲羅を背負った亀そのものの格好だった。
(こっちこっち)
 悪戯めいた笑いとともに、兎が駆けていくのが見えた。いや、よく見れば逃げてゆくのも――十二、三歳と見えるちいさな女の子なのだ。ただ、ふわふわした白い毛の、長い耳や丸い尻尾をつけたウサギの格好をした。
「あなたの仕業なの」
 『不思議の国のアリス』が、とたんに、『うさぎとかめ』になってしまった。――道を歩けば不思議な事件に巻き込まれる、といって過言ではないみなもだったから、多少の不条理で動じるものではない。それに、この行いに悪意や敵意がないことは、屋敷の敷地に入った時点で、わかっていたのだ。みなもをじっと見つめていた無数の視線。そこは幽霊屋敷であったに違いないが、その幽霊たちは、よほど悪戯好きで、みなもと遊びたかったに違いない!
「待って! 待ちなさーい!」
 なだらかな丘へと続く一本道をウサギ少女が駆けてゆく。みなもは追うが、亀の甲羅が重くて思うように走れない。『うさぎとかめ』なら、途中でウサギが居眠りをしてくれないといけないはずだけど。
「きゃあっ」
 また転んだ。――と、思ったら。
 ざぶん、と、みなもは水の中に沈んだ。
 どこまでも広がる青――。海の中だ。白兎の飛び込んだ木の穴に落ちた時とは違い、みなもの中にはむしろ安心感のようなものが広がる。
 笑い声が、頭上から降ってくる。さきほどの女の子が、みなもの背中(というか甲羅)の上にちょこんと坐って、にこにこと彼女の顔をのぞきこんでいた。釣り竿を携えたその姿は――
「今度は浦島太郎ってわけ」
 亀つながりで竜宮城の亀とは!
「いいわ。それなら……」
 みなもは、笑みを浮かべる。いかに重い甲羅を背負っていようが、水の中ならみなもは負けない。
「それっ」
 さながらアクロバット飛行のセスナ機よろしく、みなもは加速したり、きりもみ状に回転したり、大きく弧を描いたり。浦島少女は、きゃあきゃあと嬌声をあげて、絶叫マシーンを楽しむようにみなもにしがみつくのだった。
 水面に向ってまっすぐに登ったかと思えば、急に切り返して水底めがけて身を沈めてゆく。そのとき、ついに、女の子の手が離れた。波間から差込む陽光を受けて、きらきら輝く泡とともに、女の子の姿が海面へと登ってゆく。
 みなもは、自分が人魚になっているのに気づいた。
 それは『人魚姫』の衣裳だったのかもしれないけれど――、みなもにとっては本性である姿。
 優雅に、みなももあぶくを追い掛けていった。
「つーかまえたっ」
 ざぱん、と、海面から顔を出すと同時に、みなもが女の子を捕まえる。女の子の服は身なりのよい、異国の王子風の男装だ。やはりこれは『人魚姫』の一幕らしい。
「あなたはだぁれ」
 みなもは訊いた。女の子はにっこり笑うと、
「来てくれてありがとう」
 と、だけ言った。
 ずきん、と、その刹那、みなもは胸がしめつけられるような気分を味わう。それほどまでに、彼女の声としぐさは可憐で、その笑顔は無邪気でありながら、その裏に切実な孤独のようなものを秘めていて――
「こっちよ」
 ざぶん、と、波がうねり、うねった波は、舞踏会場のざわめきに変わった。衣裳を交換した、とでもいうように、今はみなもが、肩章や飾緒のついた王子様スタイル。こちらを振り返り、振り返り、ドレス姿の女の子が走ってゆくのが見えた。これは……『シンデレラ』。
「こっちこっち」
 誘われるままに、みなもは走る。長い長いお城の階段を駆け降りてゆく。どこからか、時計が時刻を打つ音が響いてきた。
 ボーン。
 ボーン。
 ボーン。
 ………。
 え?――と、みなもは足を止めた。『シンデレラ』なら時計がしらせるのは十二時のはず……。振仰いだところに、文字盤があった。時間は――三時。
「あ、そうか……」
 みなもは、一足だけ、そこに残されたガラスの靴をとりあげる。
「三時のお茶の時間ね」
 手に取るとそれは手づくりジャムを入れた、ガラスの小瓶だった。

 やわらかい紅茶の香りが充ちた中で、みなもは母と父の口からいきさつを聞くことができた。
 ここはもともと、地理的に霊の類が集まりやすいスポットであったこと。そこを浄化するという仕事で、母がここを訪れたこと。けれど、“彼女”と出逢ってしまい、消滅させてしまうには忍びなく思ったこと。そこで、今では土地ごと父がこの物件を買い取って管理することになったのだということ……。
 彼女は、ずっと昔に、病気で亡くなった女の子なのだという。
 もう自分の素性すら、詳しく覚えていないくらいの昔のことだ。今はこの屋敷で、他の幽霊たちと一緒に暮らしている。
 みなもの母は、暇ができたときは、ときどきこの家を訪れて、彼女の話し相手になってやっていたそうだ。
「彼女ね、亡くなる前は病気で寝たきりだったから、思いきり駆け回って遊びたかったんですって」
 スコーンに、一心にクリームを塗っている姿を見れば、幽霊だということを忘れてしまいそうだった。
「それで……お姉さんも欲しかったっていうし、それなら、みなもと会わせてあげたい、って」
「そういうこと。ちょっと吃驚したけど、でも楽しかった」
 なんだか胸があたたかく感じるのは、紅茶を飲んだせいばかりではないだろう。
「これからも、ときどき、遊びに来てあげてくれると嬉しいわ」
「ええ、いつでも」
「おねえちゃん」
 にっこりと微笑んだみなもに、口のまわりにクリームをつけた少女が、言った。
「今度、来る時も、スコーン、忘れないでね」
 幽霊屋敷の居間に、やさしい笑い声が響いた。

(了)