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春夏愁冬
月見里千里(やまなし・ちさと)はアパートまでの道を歩いていた。
急に強い木枯らしが吹き抜けて千里のスカートの裾を翻す。
とっさにスカートを抑えたが、
―――木枯らしってこんなに強かったっけ……
心の中で呟いた。
そして、呟いてから気付く。
あぁ、こんな時はいつも隣に彼が居たんだ……と。
そうを思うたびに、千里はいやでも思い出すのだ。
最愛の人が自分だけを忘れてしまったという哀しい現実を。
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「最近、本当に食欲旺盛で、私も作り甲斐がありますわ」
家に帰ると通いの家政婦さんがそう言って腕を振ってくれた夕飯を目の前に千里はぼんやりとしていた。
帰ってきた時は湯気を立てていたクリームシチューもすっかり冷えて表面に薄い膜が出来ている。
家政婦さんに申し訳ないと思いつつも千里は少し手をつけただけの夕飯を片付けた。
とにかく千里は人前では元気に過ごしていた。
いつものようによく遊びいつものようによく笑い。
彼女がいつもどおりの自分で居ようとするのは、居なくなった彼氏が戻ってきた時にいつもどおりの自分で居ないときっと負い目を感じてしまうとそう思ったからもあるし、周囲の人に心配をかけないためもある。
でも、どれだけいつもどおり元気に過ごしていても千里と親しい人はみんなそれが空元気であると判っていた。
ただ、彼女の気持ちを慮ってあえてそれは誰も口にしなかった。
2人の仲睦まじい姿を知っていればいる人ほど、何故あの2人がと思わずにはいられない。
でも、1番何故と思っているのは他ならない千里本人だろう。
いくら平気そうに振舞っていても、1人になりふとした瞬間に思い出してしまうのだから。
彼が記憶を失ったのが夏の終わり。
そしてあっという間に季節は巡ってもう秋が終わり冬の足音がそこまで聞こえてくるような季節になった。
街並みは日に日に冬支度に入り、普段イタリアンカラーといわれる赤、白、緑の3色がこのシーズンだけクリスマスカラーと名前を変えて街を彩りはじめている。
日々華やかになる街並みとは裏腹に千里の心はどんどん色も光も失いつつあった。
きっと彼は戻ってくると、戻ってきてくれると千里は信じている。その気持ちに1つの曇りも無い。
―――でもいつ?
期限が決まっていない“待つ”という期間は永遠に出口の見えない長い長いトンネルのようで。
春の暖かさも、夏の暑さも、秋の切なさも、冬の寒さも―――全ての季節を二人で過ごしてきたのに……それなのに今、彼はここには居ない。
そして少なくともこの先もしばらくは……
そんなことを考えていた千里の視界にふと入ってきた箱。
そこには、涙をこらえながら入院中に彼の部屋から持ち出してきた自分と彼との想い出の品や自分の痕跡が仕舞い込まれている。
持って帰ってきたきりずっと触れずに居たその箱を千里は恐る恐る開いた。
おそろいで買った歯ブラシも、プレゼントしあったフォトフレームもぬいぐるみにつかられていたいつかあげたリボンも……そしてその中から千里はビロード張りの長方形のシンプルな箱を取り出した。
くっつけた両手に少し余る横幅の箱をそっと開ける。
蓋の裏に付いている鏡に映る千里の指がそっと中に入っているリングを掴んだ。
いつか貰ったペアリング。
ずっと一緒に居ようと誓い貰った指輪。
そんな約束がもうずっと遠い昔のことのように感じる。
日に日に千里の心は絶望という名の闇に侵食され生きる意義を見失いつつあった。
千里の掌からリングケースが零れ落ちてフローリングの床に跳ね返る。
がしゃん!と言う音とコロコロコロと部屋の隅に転がっていくリング。
ぼんやりと焦点の合っていない目が捉えたのは割れた鏡の破片。
ほとんど衝動的に千里はその破片を左手首にそっと添えた。
鋭い先が皮膚に当たる。
破片を持つ右手をすっと横に動かそうとしたその時だった。
突然鳴り出した携帯電話に千里はびくりと肩を揺らした。
電話で正気を呼び戻された拍子に小さく刺さった破片の先が皮膚に刺さり小さく丸い赤い雫を浮かび上がらせる。
慌てて破片をその場に置いて千里は机の上に置きっぱなしにしていた鞄をあさって慌てて電話を取り出した。
『よぉ、ちさ』
名乗りもしないでいきなりそう切り出したのは千里の不肖の兄、月見里豪(やまなし・ごう)だった。
「何よ。何か用?」
不肖というか不良というか―――昔とはすっかり様変わりしてしまいイロイロと素行にも問題のある兄を毛嫌いしている千里はいつものようにつっけんどんな口調でそう答えた。
『なんや、相変わらずつれないなぁ。用っていうかなぁ……ま、どないしとるかなぁと思ってな』
「ど、どうって―――ど、どうもしないわよ!」
まるで見ていたかのようなタイミングの良さに慌てふためいて千里は答えたが、電話の向こうの豪は黙りこくる。
そして、
『―――今、近くまで来とるから』
そう言ったかと思うと一方的に電話を切られた。
「なんなのよ、もう」
突然切れた電話に千里は呆然とする。
いつもの千里なら怒り心頭というところなのだが、先ほどの後ろめたさがあってかなんだか気の抜けたような呟きになってしまう。
一つ大きくため息をついて千里はさっきの鏡の残骸を片付け始めた。
ドン!ドンドンドン!
ドンドンドンドン!
呼び鈴があるにもかかわらず連打される玄関のドア。
多分こうなる事は予想が付いていたので千里は辟易した顔で、
「開いてるわよ!」
と、ドアの向こうの人物に向かって言い放つ。
入って来たのは千里の予想通り豪だった。
つかつかと千里の元に歩み寄ってきた豪はそこにあった鏡の破片に目を止めて、眉間の皺を深める。
がしっと千里の左腕を掴み、先ほどの傷を見て軽く振りかざした手で千里の頬を叩いた。
ぱしっ……軽い音ではあったが、千里は打たれた頬に手をやる。
「何やっとるんや、お前は!」
全ての事情を知り大体の予想が付いていた豪の一言で充分だった。
頬に手をやったまま睨みつけていた千里の目に見る見るうちに涙が溜まる。
「ちさ―――」
大きな掌で頭を撫でられて、ついに千里の目から大粒の涙がポロリと溢れ落ちた。
無言で豪が抱きしめると、
「ぅ……っぅ――――」
と千里は豪の腕の中で必死に声をかみ殺しながら泣き続けた。
結局そのまま泣きつかれて眠ってしまった千里をベッドまで運び豪は涙の跡をそっと人差し指で拭ってやる。
「神様もほんまに残酷な事するわ―――」
と運命の残酷さに恨み言をもらす。
「―――お兄ちゃん」
嗚咽の合間に小さく洩れた千里が自分を呼ぶ声に懐かしさを感じつつ、豪はそっと千里の部屋を後にした。
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