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◆◇ 図書館の歌姫 ◇◆
神経質なほど規格の揃った書架。気持ち悪いほど型の揃った背表紙。定規で測ったように幅の揃った通路。
分厚い書物はささやかな物音まで吸い込み、代わりに一種独特の黴臭い沈黙を吐き出す。死んでも生きてもいない紙の束の、足掻きのような呼吸。
神聖都学園が誇る図書館の地下、一般開架がされていない書庫は、まるで墓地のよう。
だけど透己にとっては、一番のお気に入りだった。
その日も、新見透己は馴染みの司書から鍵を借り受け、書庫へと向かっていた。
自習室の扉に、検索用のPC。勿論並ぶ本棚と、その狭間を行き交う制服。図書館だけあって誰もが声を潜めてはいるけれど、聡耳の透己には煩すぎるノイズ。
分厚い書庫の引き戸を力任せに閉じて初めて、肩の力を抜く。
「静か……」
漏れた声が、冷たい床に跳ねる。思わず、両手で口を塞いだ。
本を手に取ったりしない。常連だからと親切にしてくれる司書には悪いが、透己にとってここは静寂を堪能するだけの場所で、それ以上の意味を持たない。
透己の耳は、現実のもの、そのあわいを越えたもの、全てをくまなく拾い上げる。敏すぎる聴力は、時折、ひどく透己を心底疲れさせてしまう。
書庫は、そんな透己が見付けた、学園のなかでは数少ない聖域だった。
指先で乾いた背表紙を辿りながら、昼寝に最適な場所を探す。穏やかな透己の顔が、ふと歪んだのはその時だった。
灰色の眼が、整理された本の群を辿る。鋭い視線が、セピア色の背表紙の上で止まった。
「唄が、聴こえる」
ずるりと、書架から本を引き出す。途端に、隙もなく整列していた本が倒れた。
爪で引っかくように表紙を捲る。黄ばみすらない不自然に白いページ。ぺらぺらと捲っていく。次も白。その次も白。印刷された文字は、ひとかけらもない。
代わりに溢れ出したのは、生の唄。
ページを捲るごとに、段々とその声は大きくなっていく。綺麗だけど、薄暗い唄声。
「……うるさい」
透己は、本を床に叩き付けた。それでも唄は途切れずに、しつこく書庫に広がっていく。
透己の頭のなかに、いくつかの名前が浮かんでは消える。
陰気な唄を唄う本を排除し、透己の聖域を取り戻してくれるひとは、誰だろうか。
「誰が、これを黙らせてくれる?」
◆◇ ◆◇◆ ◇◆
朝っぱらから、羽角悠宇は慌しかった。
『悠宇は学校に行ってね。帰って来たら今日のこと、いっぱい話して』
風邪で寝込んだ彼女がそう囁いたから、悠宇は、飛び切りの『今日の話』を探して、学園中を駆け回ることになる。
そんな悠宇が、掲示板に留められたノートの切れ端に気付いたのは、今日も後半、終わり掛けた昼休みのこと。
その紙に書いてあるのは、一言。
『書庫にて、うるさい本の口を塞いでくれる方、お待ちしています』
この学校では、こんな奇妙な代物は珍しくない。また、そういう悪ふざけめいたことに喜んで乗る馬鹿にも事欠かない。胡乱な噂は、羽根より軽く校内を巡り巡る。
つまりは、退屈潰しの種を拾うのは早い者勝ち、という図式だ。
好い加減疲れ果てていた悠宇は、思い切り好く紙を引っぺがした。
図書館は、それほど嫌いではない。
だけど、司書の鍵を借りなければ入れない書庫のなかを覗いたのは、初めてだった。
「こっちです」
無愛想な横顔で、ひとつ下級生だと云う少女――新見透己が促す。
ばっさりと、肩に付かないほど短く切られた真っ黒な髪。質感は違うのに、なんだか誰かを思い出させた。
大切にしたいのに大切にする方法が思い浮かばない、それくらい大切な少女だ。
「先輩、おひとりで来るとは思いませんでした」
彼女とは似ても似つかない冷ややか口調で、透己が告げる。
「いつも、髪の長い綺麗な先輩と、ご一緒だから。バラ売りなしだと思っていました」
「今日は、あいつは風邪でダウンしてるんだよ」
「いつも仲好いですよね、腹が立つくらい、いつでもどこでも一緒で」
髪をかき上げ、透己が微妙に突っ掛かる。
「なんだよ」
引き摺られて、悠宇も微妙に喧嘩腰。途端、すい、と透己は目を逸らした。
「別に。……ああ、あれです」
まるで高層ビル群のように突き立った本棚の影、うっすら埃の気配がする床に、件の本は放り出されていた。
「……拾っておいてやれよ」
なんとなく、床に投げ出された本、と云う状況は、目に優しくない。悠宇の咎めに、透己は小さく首を振る。
「だって、鳴くんです」
「鳴くって……唄うの間違いだろ?」
ふたりの見ている前で、床の上の本はぱらぱらと、勝手にページが捲れていく。
白いページが重なる。眠くなるような、同じ速度。
葉擦れのように、音が――声が、聴こえた。
「どこかで聴いたことのある唄だな」
一歩、悠宇は足を踏み出す。
「当たり前です」
腕を組んだまま、透己は書架に背中を預けている。悠宇を盾に、自分は動かないつもりらしい。
「だって、これ、あれですもん。そう、あの……“下校のテーマ”」
「ああ……そうか」
この学校では、五時半に下校放送が掛かる。『校舎に残っている生徒は、すみやかに下校しなさい』。そんな無個性な案内のバックに掛かっているのが、この唄だった。
一昔前の、洋楽。音楽の授業で習ってしまうくらいの、古い唄。悠宇が生まれる前に出来た、どこか懐かしい曲だ。
なんだか、ぐっと親近感が沸く。と云うよりも、肩透かし。ぺらぺら一定速度で捲れていく白いページに薄暗い唄は気味悪くても、そんな馴染みの曲では怖さは半減する。
すたすた、悠宇は歩いていく。
ぱたぱた、相変わらずページは捲られていく。
せめて拾い上げようと、悠宇は分厚いその本に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、変化が起きた。
「げッ」
「先輩!?」
透己の鋭い声。でも、それどころではない。
ずぶずぶ、と。
本の触れた悠宇の手が、本のなかに吸い込まれていく。否――本が溶けて、悠宇を呑み込んでいく。
透己の伸ばした手が、悠宇の腕を捕らえるのも空しく。
悠宇は、どこまでもどこまでも、唄う本のなかに沈んでいった。
どろりと空気が溶けて、悠宇の身体に纏わり付く。
温かくて、もどかしい感じ。
あの唄が、風の音のように響いてくる。
そして、もうひとつ。
『魔法を、掛けよう』
そんな、潤んだ声。
『哀しいことなど、なにもなかった。そう、魔法を掛けて、忘れてしまおう』
ぱっと、目の前が開けた。
夕刻の書庫。
天井近くの窓から、夕日の赤さが染み込んでくる。高く高く聳える書架の狭間で、制服姿の少女が、片手にセピア色の本を抱えていた。
件の本だと、遠く眺める悠宇は気付く。
『バイバイね』
傍らに、彼女を慰めるために伸ばしかけた指を持て余して、立ち尽くす少年がもうひとり。埃っぽい書庫のなかには、彼らふたりの姿しかない。
『ごめん』
『仕方ないことだもの』
泣きぼくろが可愛らしい少女が、眉を下げて笑う。
素直過ぎるほど素直に別れを受け入れて、彼女は微笑んでいる。
細い輪郭を、薄紅いひかりが縁取っていた。
『仕方ないよ。親の都合には逆らえない。あたしたち、まだ学生だもん。扶養家族だもん』
さばさばした口調。
『大学生になったら、また戻ってきて。また、一緒にいよう?』
『……うん』
『仕方ないよ……仕方ない』
ふっと、場面が切り替わる。
同じ場所、同じ時刻。
でも、その場にいるのは、少女だけ。
『ごめんね』
今度、謝るのは少女の方。
ぎゅっと、両手で抱え込んでいるのは、分厚い本。
否――好く好く見れば、渋い革で装丁されたそれは日記帳だった。
夢見がちな少女が机の引き出しに隠していそうな、日記帳。
交換日記なんて可愛らしいことを、彼女は、彼に付き合わせた。
初めはお互い恥ずかしくて、飾った言葉を無駄に書き連ねた。でも年を重ねた今は、真っ直ぐ、伝えたい言葉だけが積み重なる。
好き。
大好き。
――傍にいて。
『手許に置いてはおけない。ここに置いて行く。置いて行って、全部忘れてしまう』
一度きつく抱き締めて、少女は手近な書架から一冊、本を抜き取る。代わりに、日記帳を押し込める。同じサイズの本のなかにくすんだ背表紙は馴染み、すぐに違和感がなくなる。埋没してしまう。
分厚い書庫の扉の隙間から、無粋な下校放送が漏れてくる。そして、あの唄も。
少女は小さな声で、虚ろに唄を重ねた。
『あたしはもう、待たない。もう、二度と思い出さない。この場所のことも、この日記のことも、彼のことも』
「どうして?」
知らず、悠宇の口から言葉が零れ落ちた。
ゆらゆら、幻想のなかの少女と、目が合う。
「どうしてだよ」
『……変わってしまうのが、怖いから。ずっと離れていたら、きっとあたしは彼を好きではいられない。今、こんなに大好きなのに。絶対に、変わってしまう。変容した自分を見るのは、辛い』
――だから、初めからなかったことにしてしまう。
少女は痛々しく、微笑む。
『一生、一緒にいられるなんて幻想、信じていた訳じゃない。永遠なんて知らない。いつか別れるときが来るのだって、知っていた。でも、なんで今なんだろう。もっと前なら、別れることが辛くなんてなかった。なんで、親なんかの都合で別れなきゃならないんだろう。自分たちの意思で別れたのなら、きっと辛さも飲み込めた。消化し切れない気持ちは、あたしを半端に蝕んでしまう』
――だから、魔法を掛ける。魔法で、全部忘れてしまうの。
「駄目だ……」
絶対に止めたい。悠宇には、彼女の魔法とやらは受け入れられない。なのに悠宇には、彼女を止める術が見付からない。
もどかしくて、きつく拳を握った。
『あなただって、そうでしょう?』
ちろりと、少女の眸に揶揄めいたひかりが宿る。
『あなただってきっと、大切なひとがいなくなったら、彼女の存在ごと忘れようとするわ』
彼女が、いなくなったら。
考えたくもない、だからこそ、考えずにはいられない。まだ起こってはいない、だからこそ、実際以上の痛みを想像してしまうこと。
彼女がいるから、悠宇は、背中に翼を持つ異形の自分自身を認められた。
彼女に笑い掛けられることで、彼女を守ることで、悠宇は、悠宇の価値を確認する。
彼女が消えたら――全て崩れる。
『ねえ、そうでしょう? なら、初めから忘れてしまえば? ここで、一緒に眠りましょう。眠って、全部忘れてしまいましょう』
邪気もなく、泣きほくろの少女が誘う。
『眠ってしまったら、怖いことなんてなくなるわ』
――本当に?
頷き掛けた自分に、気付く。
だけど、頷き切れない自分もまた、悠宇は自覚していた。
「違う」
ぶん、と子供じみた強さで、首を振る。
「絶対に、そんなの正しくない。だって、あいつに会わなかったら、俺は、あいつと一緒にいるって幸せを知ることさえ出来なかった」
ささやかであっても、手に入れてしまったら、戻れない。
「おまえ、そんな暗い唄、唄っているなよ。忘れてしまうなんて、云うなよ。自分の足が、ある。子供だけど、年端も行かないガキじゃない。自分で歩いていける。出来ることなんて、幾らでもある。足掻けよ。掴みに行けよ!」
そんなに簡単なことではないと、悠宇だって承知だ。それでも子供のように、希みは叶うと信じている。
――永遠に、彼女と共にいられると信じている。
ぎゅっと掴んだブレザーのポケットに、硬い感触。探り出したのは、冷たい金属の塊。入れっぱなしのブルースハープ。
少女の掠れた唄を消したくて、唇を当てて、弾んだ音色を紡ぎ出した。
陰気な絵を塗り潰すように、派手な色彩を重ねる。その下に、不安が息衝いているとわかっていた。だけど。
魔法を掛けるのなら、哀しい忘却よりも、鮮やかに明るい偽りの方が好い。
『あたしは……』
少女の眸が微かに潤む。唇が、震える。
その瞬間、夕日差し込む書庫から、悠宇は突然弾き出された。
「先輩!」
透己が、悠宇の顔を覗き込んでいる。
背中に、固くて埃っぽい床のタッチ。どうやら、仰向けに悠宇は書庫に転がっているらしい。
「先輩、いきなり倒れたんですよ。覚えていますか?」
生憎全然、覚えていない。
「大丈夫?」
もうひとり、悠宇の顔を覗き込んでくる人間がいる。貸し出しカウンターで好く見る若い女性。泣きぼくろが可愛いと、密かに人気がある司書の姿。
上半身を起こして、頭を振る。ぐらりと、視界が揺らぐ。
「あの、本は?」
額に手を当てて、悠宇は呻いた。
「先輩が倒れた瞬間、静かになった」
透己が、呟く。
「どういうことだろね。先輩、生気かなにか、あの本に食わせましたか?」
「さあな」
泣きぼくろの司書の冷たい指が、悠宇の額に触れる。右の手。細い薬指に、プラチナ。
『今、幸せですか?』
訊きたい気がしたけど、止めておいた。
「ごめんなさい、先輩」
殊勝げに、透己が俯く。
「あたしが、こんなこと頼んだから」
「別に、好いよ」
悠宇は首を振る。
「あたし、先輩たちが嫌いな訳じゃ、ないですよ。ただ、すごく羨ましくて、ねたましいだけ。先輩たちは本当に、幸せそうに、お互い大切そうに、傍にいるから」
うっそりと、透己が笑う。
本のなかの彼女の笑みと、なんだか少し似ていた。
透己の腕のなかに、褪せたセピア色の表紙。
寂しいと、もうその本は泣かない。
書架に手を着いて、悠宇は立ち上がる。僅かな立ち眩みは、ぎゅっと目を閉じてやり過ごす。
こんなところに、寝ていられない。
「先輩、もうちょっと休んでいたほうが好いよ」
「そうよ」
透己と、泣きぼくろの司書の二重奏に、悠宇は首を振った。
「早く、帰らなきゃいけないんだ。……待っている奴が、いるから」
もう、とっておきの今日のお話は、仕入れた。
いや、仕入れていなくても好い。
ひとときでも逃さず傍にいたいから、悠宇は勢い好く、書庫を飛び出した。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3525 / 羽角・悠宇 / 男性 / 16 / 高校生】
【NPC1859 / 新見・透己 / 女性 / 16 / 高校生】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、カツラギカヤです。この度は、海のものとも山のものとも知れぬ新人ライターにご発注頂き、ありがとうございました。
さて、このような仕上がりになりましたが、如何でしょうか? やや湿った空気になっておりますが、羽角悠宇さんの内面の強さを出せれば、と考えて仕上げました。イメージと違っていましたら、申し訳ありません。
繰り返しになりますが、この度はありがとうございました。また是非、宜しくお願いします。
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