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<東京怪談ノベル(シングル)>


さかなびと


 ぼんやりとした微睡みの中で、はじめに気が付いたのはその臭いだった。
(なんだろう。これは……)
 暗い天井を、焦点の合わない目で見つめながら、意識に向かって問いかける。
 それがなんの臭いであるか、知っているような、知らないような。漠然として判別がつかない。ただ、吐き気をもよおす汚臭。
 ぴしゃと、天井から滴り落ちた冷たい水滴が頬を打つ。
 此処はいったい何処であろうか。
 周囲を見渡そうと立ち上がりかけ、そこでがくんと首が引かれた。
「げぅ……!」
 潰されたヒキガエルのような声を出して背中から、くたと地面に落ちる。
 反射的に両手を首にやりかけて、また途中で引かれた。ざらりと耳にまとわりつくような金擦りの音。それが硬い鉄の鎖の立てる音であることに気付いてようやく、みなもは自身の置かれている状況を理解した。
 繋がれているのだ。四肢と首元に鎖をかけられて。
 背の地肌にぴったりと冷たい感触が張り付いている。
「きゃッ!」
 いつの間にか全身の服も剥ぎ取られていた。軽いパニックに陥る。何処で、何故に、如何にして。なにもわからない。狼狽の声が、知らず知らずのうちに口をつく。
「な、なに。なんなの……?」
 ふと横合いから、どこか心配そうな弱々しい声がみなもに投げかけられり。
「気がついた?」
 かろうじて首だけを動かしてそちらの方を見る。そこではじめて、みなもは天井以外の室内の様子に目を向けた。
「ひっ」
 見た瞬間、恐怖に小さく悲鳴を飲み込む。
 目の前には石台に鎖でつながれ、やつれきった様子の全裸の女。おそらく自分も似たような状況なのだろう。
 いや、恐怖を感じたのはそれに対してではない。さらにその向こう。あるいはその下に広がるおぞましく凄惨な光景にだ。
 ばちばちと時折爆ぜ揺れるたいまつの光。ゆうらゆらと薄暗く照らし出され室内はただ真赤であった。
 その色が何であるか、多少なりとも想像力を持ち合わせていたならばすぐに分かる。少なくともペンキなどではない。
 赤い血である。
 床といわず壁といわず、一面に塗りたくられたそれ。また、それをぶちまけたであろう人の残骸も、無造作に散らばって放り出されている。
 はらわたはおそらく食い散らかされたのであろう。無残にもだらりとだらしなく四肢を投げ出し、腹に開いた大穴にはちらちらと所々に白い蛆が蠢いている。弛緩した筋肉は糞尿を垂れ流しにし、血臭、腐臭と相まって壮絶な臭いを醸し出していた。
「うぅ……」
 内臓が丸ごと引っくり返るような感覚。鎖で縛られていては、とっさに手で抑えることも出来ない。気付いた時には、嫌悪感と共に、腹の底から湧き上がる重い感触を吐き出していた。
 びしゃりと、嘔吐物が耳元の石に落ちる。つうんとすっぱい臭いが、みなもの鼻腔に押し入ってきた。
「おちついた?」
「……はい」
 心配そうに問い掛ける女に、みなもは荒い息を抑えながら、ようやく小さく返事を返す。
「あの、ここはどこですか?」
「さあ、私も気を失ってる間に連れてこられたから、どこかはよく分からないわ」
 みなもの問い掛けに、女は弱々しく首を振った。
「わかっているのは、私たちをつれてきた“やつら”が、私たちを生かしたまま帰すつもりが無いってことだけ」
「“やつら”?」
「ああ、あなたはまだ見たことがないんだ」
 その女は言いづらそうに口ごもる。
 丁度その時だった。みなもの、足の方角から、何十匹もの蛙を一度に捻り殺したような、えもいわれぬ奇妙な音が聞こえたのは。

 げえぐる げうぐ ぐえうえぐう

 女の顔色が瞬時にして白く染まる。なにか恐ろしい秘め事をささやくように声をひそませて、肩を震わせながら一言だけ言い放った。
「“やつら”よ」
 みなもが音のした方向に首をめぐらせる。
 はたしてそれはいた。
 全身をことごとく覆い尽くす青緑銅色の鱗。皿のようにぎょろりと剥いた、薄く濁る魚の目。地を踏むいびつな足には水をかくための水かきと、巨大なひれがついている。おぞましい人と魚の合体。みなもの知る人魚とはまた違った半魚の人が、そこに。


 海原みなもが、この忌まわしき水棲人類の住む村を訪れた経緯は、そもそも三日ほど前、彼女が彼女ら人魚の棲家たる海中にて、人魚としての研鑚に励んでいた時にまでさかのぼる。
 周囲を巡る海流をつかまえて、広く、長く、鋭く、意識をしみこませていく
。ちょうどその最中である。
「みなもちゃん」
 唐突にかけられた言葉に、集中が乱れ、水の流れが四散する。何ごとかと振り返って、そこにいたのは顔見知りの、みなもより幾分先輩の人魚だった。
「少し頼みたいことがあるんだけど、いいかしら?」
 声に含まれたためらいの色を感じとって、みなもは首をかしげる。
「なんでしょうか?」
「陸の上で起こってる連続失踪事件のこと、知っている?」
 言われてすぐに思い当たった。ここのところ世間をにぎわせている、あの失踪事件のことだろう。
「失踪事件って、日本の東京で起こってるあの失踪事件ですよね?」
「そうよ」
 もちろん、ただの失踪事件ではない。
 単に人が居なくなるだけならば世間は見向きもしなかっただろう。失踪者というのは警察に届け出が出ているものだけでも、年間約一〇万人に達するのだ。と、知り合いのオカルト雑誌編集長が語っていたことを思い出す。
 では、何故その事件が特別に世間を騒がしているかというと、その理由は三つほどある。
 まず、人目を引いたのは失踪者は全員若い女性であるということ。また、毎日のように起こっており、すでに五〇人近くもいなくなっているというのに、いまだ未解決であること。そして、失踪現場は例外なく大量の水で水浸しになっていること。
 「おかげでうちはしばらく紙面に悩まなくてすんでるわ」と、その雑誌編集長は苛立たしげにつぶやいていた。そのあまりに奇怪な事件に、オカルトとの関係を疑う人間も多いのだった。
「その事件がどうかしたんですか?」
「あの事件、どうも地下の水脈が犯行に使われているらしいの。それで、“水のもの”が関係しているかどうか調べましょうということになったのだけど」
 そこでまた、彼女は言いにくそうに口ごもる。
「みんなちょうど別の仕事で忙しくって、手の開いてる人が居ないのよ」
「それは大変ですねえ」
 他人事のように言うみなもに、彼女は少し苦笑しながら言う。
「あのねえ、みなもちゃん」
「はい?」
「頼まれてくれないかしら」
「えっ?」
 呆けたように一瞬ぽかんと口を開いて、みなもは慌てた様子でまくし立てた。
「あ、あたしがですか! どうして?」
「みなもちゃんなら陸の上のことにも詳しいでしょう。他の子は海の中でずっと育って、陸になんか上ったこともない子も多いくらいだから」
 そう言われて、考えてみる。
 たしかに、陸に住む人魚というのは少ない。また、自分たちがいる海は地図で見れば日本から遠く離れている。
 ちょうど都合よく東京都内に住んでいる人魚というのは、思い当たる限り自分と、その姉くらいしかいなかった。
 それでも、一瞬躊躇する。あの東京で、表に出ないながらも怪奇事件というものが溢れているあの街で。二十日もの間誰も解決できていない事件なのだ。姉ならともかく、自分にそんな大事件がどうにかできるものだろうか。
「もちろん、最初から最後まで全部調べてくれとは言ってないわ」
「え?」
 先輩の人魚は続けていった。
「水脈の源はもうこっちで掴んでるし、一人でどうにもなりそうになかったら戻ってきてくれて良いわ」
 不安そうに、じっと上目遣いでみなもの目を見つめてくる。ポツリと一言。
「頼まれて、くれないかしら」
 そこで、折れた。
「わかりました。それじゃあ、あたしが行きます」
「助かるわ」
 心底安心したように、彼女はため息をついた。
 受けると言ってしまったあとも、みなもは湧きあがる不安を拭いきれなかった。自分でどうにかできる事件なのだろうか。安請負をしてしまって、本当に良かったのかしら。
 もちろん、いけなかったのである。


 入ってきたのは全部で八匹ほど。いずれもその全身にぬめる鱗をまとわりつかせた半魚の人だ。
「いやああッ! やだッ。いやだあッ!!」
 狂ったような悲鳴が上がる。先ほど、みなもと話していた女ではない。そのさらに向こう。どうやら、みなもの位置からは見えぬ場所にもまだ何人も女が囚われているようだ。
 魚が、互いに目をくばせてなにか低く唸る。中から一人、一際大柄の魚が悲鳴に向かって進み出る。
 何も言わない。淡々と、銛のような長いものを振り下ろす様が見えた。
 それっきり静かになった。
 隣の女と目が合う。悔しそうに歯をかんで、肩を震わせていた。唇が動いて、“しんだ”と短い言葉を作る。
 ああ、人というものは意外に簡単に死んでしまうものなのだな。と、どこか遠い部分で考えていた。
 生々しい水音が聞こえる。がりごりと骨を噛み砕く音。咀嚼の音。魚が、殺した人を喰らっている。再びまた、腹の奥からなにかこみ上げてきそうになるも、喜ぶべきか哀しむべきか、みなもの腹にはもはや胃液以外の何物も残ってはいない。背を丸めて中途半端にむせ返るだけに留まる
 すすり泣く声が部屋のあちらこちらから聞こえてきた。みなもも、泣いてしまいたい気分だった。
 魚の一群から、今度はみなもの方に向かって一匹進み出てくる。
「ひッ……」
 ついに自分も喰らわれるのかと、見を硬くする。が、そうではなかった。魚の手には、銛の代わりに濁った液体の入った注射器が握られている。
(なんだろう……)
 液体の中には薄黒い藻のようななにか。考えをめぐらせる前に、ぐいと魚の顔がみなもの顔に近づけられた。反射的に顔をそむけようとするも、乱暴に髪を掴まれ、無理矢理向きなおらされる。
「うぅ」
 生臭い息が真正面からみなもの顔に吐きかけられる。
 魚が、口の端を引きつらせてゲッゲッと鳴く。笑ったのだと、理屈で無く察した。鱗の下の表情は固く、容易に計り知れるようなものでもないが、どうしてかみなもにはそれが愉悦の笑みであると理解できた。
『かワルのダ、ヲトめヨ。ワれらがトヨたまびメ。おおイなル神ノ仔を孕ム胎トナるのダ』
 人語を発するに適しないはずの魚の喉から出てきた言葉は、濁り枯れながらもたしかに人の言葉であった。
『ナらネバ先のオんナのヨうにワれらが糧とナル。ナりソコなえバ、仔ヲ成さヌワれらノ慰みトしヨウ』
 そこでまた奇怪に笑って、ぷつり、針がみなもの静脈に突き刺さる。
「ああッ!」
 その瞬間、みなもの目は確かに見た。注射器の中に浮かぶ藻のような黒い塊が、まるでそれ自身に意思があるかのようにどくりと蠢く様を。歓喜に打ち震えるようなそのいやらしい動きを。
 しかし、押さえつけられた腕で抵抗できようはずも無く、その塊はみなもの血管の中へと吸い込まれていく。ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「な、なにを注射したんですかッ」
 魚は答えず、ただ不気味に笑っている。どくり、どくり。自分の心音が奇妙なほど、耳の近くに聞こえた。
「いぎぅッ!!」
 全身の筋肉がことごとく竦み上がるような感覚。ぎしりぎしりと、骨が擦れあって音を立てる。なにが起こっているかはわからずとも、自分の身体に大きな変化がおとずれているということだけは理解できた。
 最初に感じた悪寒は鎮まるどころか、首筋、わき腹、しりの辺りまで徐々に広がっている。蕁麻疹のようにぶつぶつと、このまま全身に広がっていくのだ。
 ずるりと、頭からなにかが落ちる。長い髪が頭皮ごと剥け落ちていた。それをきっかけに、ばらばらと全身の皮膚が剥がれていく。
 皮膚の下から姿をあらわしたのは、魚達と同じ青緑銅色の鱗だ。得体の知れぬ粘膜に包まれて、なめくじの足跡のようにぬめぬめ照り光っている。
「いやあッ!」
 鱗は乳房と腹を除いて全身に広がっている。みちりと、肉を破って二の腕からひれが飛び出した。身体がみるまに半魚の人間へと変わっていく。
 人魚の姿になったことは今までに幾度もある。しかし、これほど嫌悪を覚える変態をしたのはこれがはじめてだ。
 隣を見ると、みなもと同様、半ばまで魚と化した女が、白目を剥いて背を逸らし、があがあとあひるのように鳴いている。苦痛と絶望、嫌悪と諦観。あらゆるものの混じったうめき声がそこかしこを入り乱れる。その変化はみなもだけでなく、部屋中の女たちに訪れているようであった。
 様々なものがいる。みなものように全てが魚になりきってしまったものはまだ幸せであるといわざるを得ない。
 あるものは全身が膨れあがり、鱗で口腔や瞼の中まで覆い尽くされ、また体のあらゆるところから鱗ある手の生えた異形と成り果てるものも居た。“藻”に対して何も変化が無かったものもいた。
 彼女らが幸せであるかといえばそうではない。人の姿のまま変わりなかった女たちは生きながらに腹を喰らわれ骨を砕かれ、激痛の中でそのまま嬲り殺されていく。
 凄まじい地獄の光景の中みなもがその意識を手放したのは、あるいは悪逆な神のただ一つの慈悲なのかもしれない。


 次に目を覚ました時、部屋に満ち溢れた血臭はそれと分かるほど濃厚なものになっていた。
 すすり泣く声はいまだに途絶えていない。最初に話し掛けてきた隣の女は、死んでこそいなかったものの、何かの副作用か片目が腐り落ちていた。
 魚たちは、なにか用事でもあったのか部屋に残っているのは銛を持った一匹だけである。それも、みなもの方を見てはいない。
(今のうちに逃げなきゃ)
 このままここにいては何をされるかわからない。幸いなことに、と言っていいのか。この部屋にはたっぷりと水気がある。元々天然の洞窟を掘って作られたようで、岩肌からは水が染み出しているし、床には大量の血の池が出来ている。鎖を切断するだけの水分はすぐに集められた。
 魚の姿に変態して以来、どこかおかしい平衡感覚に苦心しながら身を起こす。
 慣れ親しんだ人魚の身体によく似て、どこか決定的な部分で外れたその身体。一々動くたびにおぞましく皮膚の下で擦りあわされるしこりのようなうろこの感覚。みなもは吐き気を堪えて、さらに石台から立ち上がる。
 ぺちゃりと、水かきのついた足が音を立てた。驚いて、魚がみなもの方を振り向く。
 しかし、それは遅すぎる。
「やあッ!」
 手持ちの水から高圧で水滴をはじき出し、魚の頭蓋を貫く。悲鳴一つ上げず、魚はそのまま地面に倒れた。
 となりの女が驚いた様子でみなもの方をみている。
「あなた、何したの?」
「待っててください。すぐあなたの鎖も外しますから」
 質問には答えず、魚のほうに向かう。おそらく、鎖を外す鍵を持っているはずだ。
 あらためて部屋を見直す。ある程度覚悟はしていたものの、凄まじい様相であった。生存して、縛り付けられている女は全部で六人。血と肉の塊になって打ち捨てられているものは数え切れないほど転がっている。吐き気を堪えながら、意識を鍵のほうに集中する。
「あった」
 それらしきものを見つけて、鎖にあてる。予想通り、かちゃかちゃと小さく音を立てて枷は外れた。締め付けられていた手首などを抑えながら、女たちが立ち上がる。
「どうするの」
 一人の女がおどおどと言った。他の女も不安そうな目でみなもを見つめてくる。みなもは声を高くして言った。
「もちろん逃げるんです」
「逃げられっこないわ」
「そうよ、つかまって連れ戻されるのがオチよ」
「じゃあ、ここで死ぬのを待ってるっていうの!」
 片目の女が苛立たしげに言うと、女たちはだまりこんだ。みなもはその様子を見て、もう一度言う。
「逃げましょう、皆さん。ここで迷っててもどうにもなりませんよ」
 お互いに顔を見やって、しかしまだ不安そうに女たちは頷いた。ただ一人だけを除いて。
「やっぱり私残る。怖いもの。もしかしたら、大人しくしてたら帰してくれるかもしれないし」
「そんなわけないでしょ!」
 片目の女があきれたようにいうと、その女は彼女を睨みつけて言った。
「なんであなたが断言できるの」
「それじゃ、あんたは残ればいい。行こう」
「いいんですか?」
「仕方ないよ」
 残ると主張する女を心配そうに一瞥して、しかしみなもは結局置いていくことを決意した。言い争っている余裕も無かったし、たしかに女の言うとおり、逃げた方が安全であるという保障も無いのだ。
「ちょっと」
 そうして背を向けて、歩き出そうとした時、後ろからまた呼び止められた。
「なんですか?」
 振り返ったところをちょうど、ざっくり肩口に銛を突き立てられる。
 先ほどの魚が手にしていた銛だ。焼けるような鋭い痛みが右肩に走る。何ごとが起こったのか一瞬理解できなかった。女の一人が悲鳴を上げた。片目の女が、銛を突き出した女に飛びかかる。
「なにしてるの、あんた!」
「あなたたちが逃げ出したら、私のせいにされるかもしれないじゃない」
 銛の女はあっさりと取り押さえられて、ヒステリックにわめく。
 みなもは右肩を抑えて、ゆっくり深呼吸する。幸い、骨にまでは達していないようだが、しばらくは自由に動かせそうにない。水を操って出来る限り出血を抑える。
「だ、だいじょうぶ?」
 心配そうに声をかけてくる女に、みなもは精一杯元気を装って笑いかけた。
「だいじょうぶです。それよりも、早く逃げないと。今の悲鳴で誰かくるかも」
 ハッと女たちは顔を見合わせた。水気の多い洞窟だ、音はよく響く。魚たちに今の声が気付かれていない方がおかしい。
「ねえ、置いていかないでよ!」
 みなもを銛で刺した女が背後でがなり立てている。
 今度はみなもも振り返らなかったし、女もそれ以上なにをしようともしなかった。
 その女がその後どうなったのかは、みなもは知らない。


 順路などわからない。自分たちは出口に向かっているのか、洞窟のさらに奥へと向かっているのか。ただがむしゃらに走る。
 背後からは追っ手の息遣いが聞こえてくる。逃亡をはじめて魚たちに見つかり、もう二〇分近くは走り続けていた。
「キャアッ!」
 みなもの後ろを走っていた女が転ぶ。そこかしこに水溜りのある洞窟であったから、足場が悪いのは仕方の無いことだ。それは追っ手にとっても同じことである。
 これまで逃げてきた間に何度も転んだし、そのたびに起き上がってまた走り出した。いまもまた、そうするべきであった。しかし、女は激しく息を吐きながら、そのままぺたりとしりもちを突いて、その場に座り込む。
「だめ、私もう一歩も歩けない。みんな、私のことは放って行って」
「そんなことできません!」
 みなもが言って、なんとか励まそうとするが、女は首を振るだけで動くことが出来なかった。
「仕方ない、私が背負う」
 片目の女が言って、無理矢理に女を自らに負ぶさらせる。
「そんな、あなただって疲れてるんでしょ!」
「だからって、放っておけるわけないでしょ」
 再び走り始めるも、慣れない魚の身体で走り詰である。みな体力の限界が近かった。段々と速度は落ち、背後に迫る魚たちの気配はいよいよ近くなるばかりだ。
 止むを得ない。と、みなもは足を止めた。
「皆さん、先に言ってください」
「どうしたの、あなたも疲れた?」
 不安そうに言う女の一人に、しかしみなもは笑って首を振る。
「ここであたしが食い止めますから、皆さん先に逃げてください」
 その言葉に、女たちは息を飲み込んだ。片目の女が声を張り上げる。
「無茶だ! そんなことしても何の意味もない」
「大丈夫です。あたしひとりならなんとかなるから」
「どういうこと?」
 不信と心配を込めて、女の一人が言う。少し哀しげに笑って、みなもは言った。
「あたし、少し人とは違うんです。水を操って戦うことが出来ます」
 足元の水溜りに手をつけて、それを手のひらの上で躍らせてみせる。女たちはなにも言わないで、ただ驚きと、かすかな恐怖の入り混じった目でそれを見つめている。
 みなもは少しだけ、心が痛かった。
「だから、あたし一人だったらなんとかなります。先に逃げてください」
「つまり、私たちがいたほうが足手まといなのね」
 確認するように、片目の女が言う。
「はい」
 平気な顔で嘘をついた。
 本当のところ、みなもに魚たちを相手に戦ってどうにかする自信など全くといっていいほど無い。一匹、二匹程度ならまだしも、数が多すぎる。慣れない半魚人の身体で、水を操る力に何かしらの制約がかるかもしれない。なにより敵の中にみなもと同様、水を操るものがいないという保障は何処にも無いのだ。
 しかし、だからといってこのまま逃げていれば追いつかれるのは時間の問題だった。誰かが何とかして魚たちを足止めしない限り逃げ切ることは不可能だ。そして、その足止めの役にもっとも適しているのは自分であるという自覚が、みなもにはあった。
 あるいは、女たちを見捨ててみなもだけで逃げようとすれば、それはどうにかなったかもしれない。魚たちは水脈を通って遠く東京の地まで行き来していたのだ。同じこよがみなもに出来ないはずも無い。
 しかし、みなもの脳裏には、他人を犠牲にして自分だけ助かる何なんていう選択肢はこれっぽっちも浮かばなかった。
 しばらくの間、みなもと片目の女は見詰め合っていた。何十秒と経ったようにも思えるし、たった一瞬のことだったようにも感じる。やがて、お互いに背を向け合って、道を分かれた。
「行こう」
「ちょっと、本当にあの娘を置いていくの!?」
「……本人がそうしろっていってるんだもの……仕方ないでしょ!」
 その声を背に聞きながら、みなもは真っ直ぐに前を見詰める。
 魚たちの姿が見えるところまで近づいてきた。手元には少しの水。後ろには守ろうと思う人。戦うのには十分な状況だ。左の手を突き出して、薄く、しかし十分な硬さを持った水の壁を張る。
 とさりと、何かが倒れる音が背後で聞こえた。
(……今の音は、なに?)
 いやな予感がした。
 振り向くな。振り向きたくない。ぺちゃり、ぺちゃりと水かきが地面を踏みつける音。ゆっくりと、こちらに向かって近づいている。

 うぐるう ぐう げうぐるるう ぐえう

 水棲人類の歪な声が、後ろから聞こえる。みなもは、そちらを振り返って、見た。
 青緑銅のぬめりをおびた鱗。銛で突きぬかれた女たち。知らぬ間に、挟み撃ちにされていたのだと、否応無しにも気付いていた。
「あ、あぁ……」
 女たちは地面に倒れ付して動かない。確かめるまでもない。絶命している。喉を突き破られて、心の臓を抉られて、頭蓋を割って脳漿を飛び散らせながらなお生きているというのなら、それは人間ではない。
「ああぁぁあッ!」
 湧き出るようにみなもの周囲に水が溢れ出す。激情に任せた水の奔流が、魚たちを無残に打ち殺した。だが、みなもはそんなものは気にも留めず、遠くに向かって走り出す。逃げ出したかった。すべてから。
(助けて。お父さま、お母さま、お姉さま。誰でもいいから、ここから助けて!)
 水と走る人魚に、不恰好な魚人間が追いつけるはずもない。
 そのままみなもは、闇の奥へと消えていく。


「はぁ……はぁ……」
 どれほど走り続けていたのか知れない。
 気がつけば、静かなところに出ていた。魚たちの気配は、少なくともみなもが感じ取れる限りにおいて、存在しない。
 ぴちょんと、高い天井から滴り落ちた水滴が淵に飛び込む。底の見えない、深い淵。水溜り。
 助かった。と、みなもは思った。これだけ深い淵ならば、どこか水脈に通じているはずだ。少なくとも、水中で何処にも繋がっていないということはありえない。
 離れなくては。と、みなもは思った。深い、深い、魂まで落ちていきそうな淵。どうしてか、ここに近づいてはならないと知っている。
(水の声が聞こえない。なにもわからない)
(いや。ここ、なに変)
(なにを恐れることがある。魚が水を恐れるものか)
(怖い。ただ怖い)
(ここに飛び込めば、家に帰れる!)
 矛盾する複数の心の声。結局、最初から選択肢は一つしかなかった。引き返せば確実に、魚たちに捕らえられるであろうことは目に見えている。みなもはここに飛び込むより他ないのだ。

 とぷん

 小さく水がはねる。みなもの体はゆっくりと沈んでいく。
 水はひんやりと冷たく、心地が良い。異なる魚の身体になろうともそれは変わらなかった。
 鱗に、冷たい水が溶け込んでいく。錯覚。
 出口を捜して、みなもはただ奥へ奥へと進む。
 この奥に行ってはならない。触れるべきではない。魚の身体に、みなもの知らない記憶が流れ込んでくる。花嫁なのだ。外より来たりて神の仔をはらむ女の胎なのだ。沈む。沈む。
 淵の奥底。闇の中で何物かが蠢く。
『神だ。わが神。大いなる父』
 慣れぬ鱗に覆われた身体が喜びに震えている。ここに来たのは間違いだった。意識が混濁する。ここに来たるサダメであった。暗い淵の底のそこ。なんと素晴らしいこと。
 流れる血潮の一滴一滴が、そう叫び、謳う。ひれがピンとたちあがって水に揺れ踊る。だが、肝心のみなも自身の心はそれを強く恐れ、遠く逃げることを望んでいる。
 ああ、みなもは確かにここを知っていた。とおく、とおく、あおうなはらのおくのそこ。あめとつちがまだわかれて間もないころ。ただうみだけがあったときのきおく。
『ふふふ』
 眠るものが寝返りを打った。きんいろのおおきなめだまが大きく見開かれる。
 みなもはそれを見た。そして、それに見られた。
 心ごと打ち壊されてしまいそうな恐怖と、喜びと。人魚は瞬間、その心を失った。
 それから後のことは誰も、何も覚えていない。


『昨夜未明、埼玉県秩父郡○○町にある陀子村が原因不明の突発的集中豪雨やそれにともなう土砂崩れなどの被害により、甚大な打撃をこうむりました』
 遠く、どこかから淡々と告げる声を、みなもはまどろみの中で聞いている。
『陀子村は昭和六〇年ごろに過疎で最後の住人が居なくなった小さな集落で、現在は廃屋の建ち並ぶ廃村となっており、死傷者の数は〇名。下流での鉄砲水などによる二次災害が心配されて……』
「起きましたか、みなも?」
 優しくかけられた声に、急速に意識が覚醒していく。
「あ、お姉さま……?」
 呼んでから、違和感を覚える。何故こんなところに姉がいるのだろうか。まず居るわけがないはずだ。それに姉は――
 とそこで首をかしげる。 
 そもそも、こんなところとはいったい何処であったろうか。
 周囲を見渡す。自分の家の、自分の部屋だ。姉がいるのは珍しくはあるがおかしなことではない。
「大丈夫ですか、みなも。百面相をしてらっしゃいますけど」
「あ、いえ。本当に大丈夫です」
 顔に微笑みを作って答える。続けて、なぜか妙な問いが口をついて出た。
「あの、お姉さま? ここは家ですよね」
「そうですよ」
 にこやかに姉は答える。みなもはそれでもまだ首をかしげて、もう一つだけ聞いた。
「あの、あたし昨日なにしてたかわかりますか?」
「昨日ですか。特に何も……強いてあげるとすればキドニーパイを作ってました。美味しかったですわ」
 と、今度は姉が首をかしげて問い返す。
「それがどうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
 なにか釈然としないながら、今度また作りますねと言っておく。
 分からないなら、気にするほどのことではないと思い直して、テレビに視線を向ける。ちょうど集中豪雨の話が終わって、昨今世間を騒がせている失踪事件のニュースが流れているところだった。
「犯人、まだつかまってないって……」
「怖いですね……あら?」
 ふとこちらを見て、姉が驚いたように口元に手を当てる。
「なにを泣いているのです、みなも?」
「え、あれ?」
 言われて、目元に手をやる。たしかに、そこは濡れていた。袖で拭っても、次から次へどんどんと、流れは止まらない。
「やだ、あたし、どうして泣いてるんだろう」
「怖い夢を見たんですね」
 やわらかな手がみなもの肩に当てられる。よしよしと頭を撫でる感触。赤子をあやすような優しく、穏やかな声で、姉はみなもに語りかけた。
「大丈夫ですよ、みなも。もう大丈夫ですから」
 悲しいわけではない。つらいわけではない。ただ胸の奥が締め付けられるようで、辛い。
 わけのわからないその思いに突き動かされて、みなもは、涙が枯れて止まるまで姉の懐に抱かれて泣き明かした。