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『麗しのクレメンタイン』
「とにかくマジなんですよ! きていただけりゃわかりますから! 不吉なことがこれでもかってぐらい……」
何の前触れもなく興信所に闖入してきた比良松と名乗るその男は、かれこれ一時間近く、この調子でまくしたてていた。眼にクマをつくり、顔色は青ざめている。
応接用のソファーで話を聞く草間武彦の前の灰皿には、既に吸殻が山をなしていた。
うんざりした様子で天井を見上げながら、武彦はもう何度言ったかわからない台詞を返す。
「だから、見間違いかなんかでしょう……」
泡を食って支離滅裂だが、その比良松という依頼者の言い分を整理するとこうである。
自分はバーテンダーだが、最近になってやっと出資者から一人営業を任せてもらえるようになった。それだけの信頼を得たということで、自分も張り切っていた。それだけなら喜ばしいことである。
ところが、バーボンウィスキー『クレメンタイン8年』のラベルに描かれた女性の肖像が、毎晩毎晩、すさまじい憎悪の表情を浮かべる。
そういうときには、客の入りは悪いわ、隣に置いたボトルが勝手に倒れる、ヒビが入る、製氷機の氷は故障でもないのに溶けて水になっちまう、どんなに蛇口を締めても水道が出っ放しになる、この前の地震で他のボトルが全滅したときも唯一全く位置を変えず勝ち誇ったように棚に収まっていた、etc、etc。
「ご存知かどうかわかりませんが、クレメンタインのボトルの女性は微笑を浮かべてるんですよ。それがもうこっちを睨むようなおっそろしい表情で。むかーし溺死した娘の名前なんですよ、クレメンタイン。」
「はぁ、俺もラベルぐらいは見たことはありますが。だから、見間違いかなんかでしょう」
武彦は呆れ顔を通り越して、返事をするのも億劫そうである。
「ああ、これはもう呪いだ。ぜったいそうだ。クレメンタインの霊にウチの店は憑かれちまったんだ! そうだもうおしまいだ、ホールに左遷だ、いやもしかしたらクビ」
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さい。そのボトルを捨てちゃえばいいじゃないですか」
「いいえ、それは絶対駄目です。商品ですから。」
先程までの狼狽っぷりはどこへやら、比良松はバーテンダーの顔に戻ってキッパリと答えた。
「じゃあラベルを剥がしてしまえばいい」
「いいえ。絶対に駄目です。商品ですから。」
またもやキッパリと比良松は答えた。
職人根性かなんか知らないが、武彦は……コイツは処置なしだと判断した。
「申し訳ないですが、ウチは興信所ですから。お役に立てそうにありませんね」
「そんなぁ、ここならこの手の事件は解決間違いなしって聞いたのに」
「……誰から聞いたんですか、そんなこと」
「それは以前飲みに来て下さったお客様から。」
誰だ、余計なことを吹聴してまわってる奴は。
武彦が疑わしい知り合いの名を頭の中でピックアップしているうちに、ベルが鳴り、零の取次ぎで客が入ってきた。
1.
「どうも。……仕事でも、ないですかね」
ガタピシ悲鳴を上げるドアを肩で押し開けてのっそりと現れたのはシオン・レ・ハイ。
年齢からくる衰えを感じさせない白い肌は、母方の雪女の血ゆえであろうか。黒を基調にセンスよく統一された服に身を固めたその姿は、夕日が差込み始めしなびた雰囲気をさらに増す興信所内で、一段と際立って見える。
いかにもたいした期待もなく立ち寄った、という風情である。
それでいて事あるごとに『びんぼーにん』を自称するのだからわからないな、と武彦は思う。
「ああ、いいとこに来てくれた。俺の手に負えないんだ。相手してやってくれないか」
シオンの纏う只ならぬ気品と気配、がっしりした体格を見るなり比良松は救いの主でも見出したつもりになったのか、先刻までの泣きの一手とはうって変わって喜色満面。一方的に今度はシオンに向かって経緯を話し始めた。先刻までの武彦への期待っぷりはなんだったのか。
まあ、これ以上オカルティックな探偵としての名ばかり上がったって喜ばしいわけじゃないが、調子のいい奴だ……。武彦はそう思ったが、既にシオンに任せた――というか押し付けたつもりで、新しい一本に火を点け紫煙を深々と吸い込むと、宙空を仰いでゆったりと吐き出す。
と、その煙の渦巻く先、依頼人の居座っているソファーの背後に、いつからそうしていたのかシュライン・エマが佇んでいた。仕切り越しに話を聞き、事務机に落ち着いてはいられなくなったのだろう。独特の艶を含んだ切れ長の視線で、ちょうどソファーをはさんで対角上に位置するシオンに目礼を送る。伏せ眼になると、長く乱れの無い睫毛が目立ち、中性的な色気がいっそう凄みをます。シオンもあわてて目礼を返した。
比良松は依然、自らの窮状を訴え続けている。
眉をよせ、実に真剣な面持ちで耳を傾けるシオン。
と見せかけて実は、エマのスーツの大きくはだけた胸元が気になって仕方なく、自らの悲しい男のサガと格闘している故のこの表情なのであった……。
(うーむ、眼福。いや眼に毒だ。いかん見ちゃ駄目だ見ちゃ駄目だ。でも目の保養――いかーん! やばい見すぎたか? 気付かれたか!? )
「と、こういうわけなんですよ! どうにか助けていただけませんか。お酒ぐらいでしかお礼はできませんが、高級酒でもレアボトルでもお出ししますから! お願いします!」
「……はっ? え、あ、お任せ下さい」
突然現実に引き戻され、シオンは思わずそう口走ってしまった。が、本当のところ話の半分もまともに聞いていないのであった。
「なかなか面白そうではあるわね。私も行くわ。いいでしょ? 武彦さん」
手を顎にあて興味深そうに聞いていたエマが初めて口を開いた。
「ろくに給金も払えてやれてないからな。俺がどうこう言えることじゃない。……でも、怪我はしないでくれ」
「あら、心配してくれるのね?」
「……誰が事務所の昼飯をつくるんだ。煮っ転がしが食えなくなると困る」
クールさを装いとってつけたようなその言葉に、武彦の自分に対する労わりをエマは感じた。くすぐったいような嬉しさ。素直じゃないな、こういうとこがかわいいんだけど、と思って内心くすりと笑う。
「大丈夫よ。それに、“水”にうってつけの友達、知っているから。そろそろ下校時間だし、彼女もきっと来てくれるわよ。……解決したら飲みに行きましょ?」
「そうだな、それは悪くない」
「ええ、そりゃもう、無事解決していただけた暁にはお三方には大盤振る舞いさせていただきますとも!」
比良松は拝みだしそうな勢いだ。
「私は武彦さんと二人が良いのだけれど」
「おや、私だけ独り酒ですかな」
どこまで本気か、幾分哀愁の漂う微笑を浮かべつつ不精ヒゲを撫ぜるシオン。
「とにかく行くとしましょうか。その、エマさんのお知り合い、心強い助っ人をお向かえに」
「そうしましょ」
携帯電話をとりだすエマ。
「あ、ところでシオンさんだったかしら。あまり初対面の女性のボディラインをちらちら見るものではなくてよ? 悪意はないようなので気にしませんけど」
「ばっ、ばれていましたか……失礼……」
2.
憂いと悲しみを宿す、澄んだ蒼い瞳。
サファイアを編んだかのような艶やかな彼女の髪が、夕刻の風になびく。制服の袖からほっそりと伸びたその右手は、胸元にきゅっと握り締めた形で押し当てられている。
そこに痛みでも感じるのだろうか。しかし表情に苦悶の色は無い。元より人通りの少ない下校路ではあったが、そんな不可解な様子で往来に佇む彼女に声をかける通行人はない。
海原・みなも(うなばら・みなも)は、彼女自身も意識せずその歩みを止める程に、今強く『それ』を感じていた。人魚の末裔としての彼女の感性に、いずこかから波紋のように伝わってくる、強い念。
時に非情に、想像を絶する苦しみでもって人間を殺す、水への執着と怨み。
(これはどこからくるのだろう。この感じは、おそらくもう生きてこの世にいない。終わりなく続く、溺れの苦しみ)
切なく、胸が苦しい。解放してあげたい。この感覚の戸惑いつつも少女らしい、いや彼女らしい優しさでみなもはそう想う……。
鞄から伝わってくる振動で、みなもは我に帰った。電話がなっている。伝統校ながら自由な校風で知られる彼女の中学では、生徒が携帯電話を持つことにも寛容というか、無頓着だ。あわててサイドポケットからケイタイを取り出した。着信を示す画面にはシュライン・エマの名が浮かんでいる。
「もしもし」
「もしもしみなもちゃん、久しぶりね、お元気?」
「はい、おかげさまで。今ちょうど寄らせてもらおうかなって思ってたんですよ。ところでなんだか騒がしそうですけれど、どうしたんですか」
エマの声の向こうから、喚くような嘆くような男の声が聞こえてくる。それがまだ恥も外聞もなく騒ぎ続けている比良松の声――いまや奇声と呼ばれるレベルに達さんとしている――だとは、もちろんみなもの知る由ではない。
「ああ、一応ね、依頼人がきてるのよ。それでみなもちゃんに手伝ってもらえたらと思って」
……「一応」に思いっきり、アクセントがこもっていた。
3.
合流して問題の店に向かう道すがら。
みなもは比良松に酒一般の基礎知識について質問攻めを浴びせていた。中学生の彼女にとってバーなど未知の世界。自由な校風といっても、さすがに夜の商売の店への出入りは禁じられている。
人助けとはいえ形式上は校規を破る、ちょっとしたスリル。自分で気付かぬ程度に、普段よりもほんの少しみなもは多弁になっていた。かすかに頬を紅潮させ、目を輝かせて聞き入っている。
「バーボンっていうのは世界五大ウィスキーのひとつでね、かなり簡単にいっちゃえばトウモロコシが主な原料でね、そもそも火事で焦げた樽を貧乏で仕方なく使って作ると美味しかった、なんてところから始まって、ちなみにケンタッキー州で作られたものしかバーボンウィスキーとは……」
以下ひたすら酒の薀蓄を続ける比良松だが、ともかくも語り続けることで彼も多少は落ち着いてきたようだ。
「……あ」
シオンが突然何か思いついたような声をあげた。エマが怪訝そうな視線を向ける。
「どうかしたの?」
「すいません皆さん、ちょっとだけここで待ってて下さい。」
言うが早いか、シオンは前傾姿勢の猛ダッシュで行きがけのコンビニへ突進して行った。先程までの紳士然、悠然とした歩き方はどこへいったのか。
「な、なんなのかしら」
「さあ、買い物でしょうか」
「早くしないとそろそろ、オープン作業の時間、クレメンタインが怒り出す時間……うう」
またもやぼやきだす比良松。エマがとうとうぴくりと片眉を上げた。
「ちょっとあんたね、もう少しシャキッとしなさいよ。雇われだってマスターなんでしょ? あんたの店なのよ?」
「でもやっぱり怖いものは怖いです。ありえない」
「エマさん、不慣れな方には仕方ありませんよ、あたし達と違って……」
「いや、失礼! お待たせしました」
シオンが戻ってきた。が、両の手にビニール袋はない。
「早かったわね」
「何の用事だったんですか?」
「うーむ、それは言わぬが花というものです、フ」
不敵な微笑を口元に浮かべるシオン。
「よくわからない人ね、まあいいわ。ほら、あんたさっさと案内しなさい。もう近いんでしょ」
エマが尻を蹴飛ばさん勢いで比良松に先導を促す。
三人の背中を眺めながら。
みなもは下校途中に感じたものと同じ胸苦しさが徐々に強くなるのを感じ、不安を独り募らせていた。
4.
『CLOSED』と張り紙のある重厚なドアをくぐり、一行は問題のバーに足を踏み入れた。席数は二十もない。小さな店である。地元の人間の社交場として賑わう予定であったのだろう。
「意外ね、しっかり片付いてるじゃない。もっと惨憺たる状況かと思ってたわ」
「ええ、昼も寝ないで掃除しましたから……」
しかしラックに並ぶ酒類は、空白の方が多いほどに少ない。それが例のボトルの引き起こした傷跡をはっきりと物語っている。
もの珍しいのだろう、くるくるとつぶらな碧眼を動かし店内を見渡すみなも。その視線がふととまる。棚の上段中ほど、問題の『クレメンタイン8年』がその先にあった。
「これですね、クレメンタイン」
当然ながら、ラベルに刷られている英単語は教科書には出てこないたぐいの、みなもには馴染みの無いものばかりだ。しかし彼女には直感的にそれだとわかった。
少女の肖像は、依頼者の言葉どおり苦悶と憎悪の表情を浮かべている。封はされたままだ。
「おっ?」
シオンが店の奥の一角にある一段高いスペースに興味を示した。
「キーボードがあるではないですか。あとで弾かせていただこうかな」
「バンドを呼んでの生演奏も企画してたんで……ああ、でももうそれも全てパァなんだ……」
また延々と比良松の弱気な愚痴が始まりそうな気配を察して、エマはさっさと本題に入ることに決めた。竹を割ったような性格の彼女には、正直、比良松の嘆きが聞き苦しい。
……とっとと解決して武彦さんとさんざんタダ酒飲んでやるわ。
「さて、と。一人営業を任せられるまでは何の問題もなかったのよね? 異変が起こるようになる前と今で、何か変わったことは思い当たらないかしら? どんな細かいことでもいいから」
「あと比良松さん、あたしは彼女が、いえこのお酒がここに来た経緯、知りたいです」
二人の質問に、比良松は悲しげに首を横に振った。
「新規の店舗展開なんです。オープンと同時にこの有様なんで、最初からこうなんですよ。クレメンタイン8年は、俺自身が買い付けに行きました。他の酒と同様です。とくに曰くみたいなものはないんす。わけがわからない」
そう言われればかすかに、新築した内装の独特の臭いがするようだ。
「手がかりなし、か。場所のせいとか、かしら」
「解決の糸口になるかわかりませんが、あたし実は、彼女にいくらか心あたりが――」
突然、そのみなもの言葉を遮るようにシオンの声が響いた。
「早く飲んでくれないから、クレメンタイン嬢がひねくれているのですよ!」
見ると何時の間にやらシオンはカウンター内に入っていた。右手にクレメンタインをぶらさげている。既に封を開け、グラスに注いでぐびぐびとあおっている。極め付けには、少女の肖像の額に油性ペンで「内」の文字が落書きされている……。
「ギャー」比良松が悲鳴をあげる。
「肉、じゃないとこが重要なんです、これ」
なんのこだわりだ。
「ユウレイさんが現れたらこの文字も反映されるのかなって。実験です。ぐびぐび」
……あまりに不可解且つシュールな行動に誰一人として声をあげられない。
「あれ、どうしたんです? ああ、このペンですか。さっき寄ったコンビニで買ったんです。それより皆さんも飲みましょうよ」
「え、遠慮しておくわ」
「あたし、まだ飲める年じゃないです」
「残念ですねえ。美味しいのに。うーん、いい気分になってきた。比良松さん、ピアノお借りしてもよろしいですかね」
「もうどうにでも、してください……」
シオンはグラスになみなみとクレメンタインを注ぐと、それを片手にキーボードの前にいくらかあやしい足取りで座った。ゆったりとしたメロディ、コード。酔った上の即興演奏にしてはなかなかのものであるが。
(この人、もう戦力外かしら……)
とエマは思った。咳払いをひとつする。
「えー、気を取り直していくわよ」
「エマさん、さっきの続きなんですけど」
みなもは一息つくと、彼女の感じた核心を話し始めた。
「彼女の幽体は、ずっと溺れ続けています。1800年代から今まで、ずっと、今も。このボトルに憑いているのは、二百年前のクレメンタインさん本人です。どうしてここで、このバーで異変を起こしだしたのか、あたしにもわからないんですけど」
「そう……きっかけ、ね。あんた実はクレメンタイン嬢に惚れられちゃったんじゃないの」
瞳を細め、エマが比良松に悪戯っぽい視線を送る。
「か、カンベンしてくださいよぉ」
「いえ、あるかもしれませんよ」
口ぞえするみなもの表情は至って真剣である。
「そんなぁ」
「それはともかく、私が呼び掛けてみるわ。おそらく英語がいいでしょうね」
真剣な面持ちでエマが唇を湿らせる。
「お力添え致しますよ、エマさん。」
意外な方向から、声が響いた。
すっかり酔っ払って音楽に興じていると思われていたが、エマの予想をいい意味で裏切り、シオンはしっかりと話を把握していたのである。そしてシオンはその場のだれしも聞き覚えのあるメロディーを奏で出した。
一片の酔いの淀みも感じさせぬ声でエマに促す。
「……どうぞ、呼びかけを。」
エマはシオンの意図するところを即座に理解した。
姿勢を整えボトルに向き直ると――落書きが一瞬気になったが無視――エマは、その卓越したヴォイスコントロール、張りのある美しい声量で『いとしのクレメンタイン』を歌いだす。
その姿には音神ミューズを彷彿させるような、見るものをハッとさせる気高さがあった。
「Ruby lips above the water
Blowing bubbles, soft and fine
But, alas, I was no swimmer
So I lost my Clementine
Oh my darling, oh my darling,
Oh my darling, Clementine !
Thou art lost and gone forever
Dreadful sorry, Clementine
Oh my darling, oh my darling,
Oh my darling, Clementine !
Thou art lost and gone forever
Dreadful sorry, Clementine...」
(沈みゆく紅い唇
彼女の吐息は水中で かよわく小さな泡に
私は彼女を失った
マイダーリン クレメンタイン.
貴女は戻ってこない、永遠に
死にそうに悲しいよ、クレメンタイン
貴女は行ってしまった 永遠に
マイダーリン、クレメンタイン.....)
「こんなところかしら」
「……いやあ、お見事。あなたとセッションできて光栄の至りですよ」
シオンが立ち上がり、拍手を送る。
「上手いなあ、エマさん」
「ありがとう、でも問題はこの呼びかけが彼女に通じたか、どうかなのよ」
あくまでクールにボトルを注視するエマ。
しかし、変化は起こっていた。
まず滲み出すように、それから湧き出すように。ボトル周辺から水が噴出し始めたのである。
それを見るなり即座に、人魚の末裔であるみなもが口火を切った。
「もういいんです、クレメンタインさん。もう溺れている必要はないんですよ。今の貴女は美味しさと心地良い時間を、みなさんに提供できる存在なんですよ」
そのみなもが呼びかけだしたという事は、クレメンタインの幽体が既にそこに発現していることの照明であった。
それを察したか、続いてシオンがボトルに歩み寄る。
「……苦しかったでしょう、なにせもう二百年だ。遅すぎるかもしれません、でも私は、貴女が救いを求めて手を伸ばすなら、喜んでひっぱり上げて差し上げるつもりですよ」
(ほら比良松、あんたもなんとかいいなさい!)
放心状態の依頼者を、小声で叱咤するエマ。震える声で比良松も呼びかける。
「は、はい、え、えとクレメンタインさん、あなたは俺が責任もって必ず美味しく楽しく、いただくっす、落書きも落とします。俺にはあなたにできる供養はこんなことしか」
(よし、よく言ったわ。あんたにしてはね)
(どど、ど、どうも。)
「これは美しかったであろう貴女へのプレゼントです、聞いていただいたお礼に」
どこに隠し持っていたのか、シオンが手品のようにパラを一輪ぽんと取り出すと、少女の肖像の前にそっとそえた。水滴を浴びて、瑞々しく輝く。
沈黙。
それぞれがぞれぞれの想いで、ボトルを見つめている。と、その周りで滲み出していた水が、すす、と動き出し何かの形を成しはじめた。
『thank』、……そう読めなくもない。
気付けば少女は、ラベルに刷られた元通りの、――いや、それ以上に幸福そうな微笑を浮かべていた。
-----------------エピローグ-----------------
その後依頼者から、以後何の異変も起きていない、皆さんには本当に感謝していると、興信所に電話があった。ついては約束どおり、お礼代わりにお酒を振舞わせてほしい。開店時間を早めてお待ちしておりますので是非お越し下さい。とのこと。
武彦のスーツにブラシをかけたり、ネクタイの曲がっているのを直したり。
二人きりで飲みにいけるというのでエマはその日の朝から上機嫌であった。今回の依頼の顛末など話しながら肩を並べて歩く二人。彼女の足取りは軽い。
比良松の申し出どおり、陽が沈みきっていないにも関わらずバーのドアには『OPEN』の札が下がっている。レディーファーストで武彦がドアを開け、エマに先に入るよう促す。
「こんばんは、来たわよ」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。お煙草はお吸いになられますか?」
比良松はすっかりプロらしい落ち着きを取り戻している。が、その笑顔は営業用のものではなく心から歓迎の意を示していた。
「俺は吸う」と武彦。
「私はいいわ、喉に悪いから。って……」
そう広くない店内を見渡すなり、エマは言葉を失った。
申し訳なさそうな微笑を浮かべて、カウンターにちょこんとみなもが座っているのである。
「ど、どうもエマさん。あ、これジンジャーエールですから、大丈夫です。あの、あたしはもう少し飲み物頂いたら帰りますから。お二人でごゆっくりしていって下さい」
優しい彼女らしく気を遣ってくれている。
「おやおや、みなもさんもゆっくり飲んでいけばよろしいではないですか。しかしエマさん、武彦さん、奇遇ですな」
聞き覚えのある声だと思い店の奥にエマが目をこらすと、なんとキーボードの前にシオンも鎮座していた。
「奇遇じゃないでしょ……。あなた、意外に野暮ねえ」
「いえいえ。エマさん、とんでもない。これは、まさに奇遇というものです。今の私はしがない、さすらいの雇われ演奏家……。今日はこちらのバーでたまたま弾かせていただいている次第です。どうです、みなもさん。私の演奏で一曲歌いませんか?」
「えっ、あたしですか。エマさんの前じゃちょっと恥ずかしい、かな……」
相変わらず掴み所の無い男だわ、とエマは思い、こめかみに手を当て短いため息をついた。とはいえ元々サバサバとした性格の彼女である。予想とは違ったけれど、今夜はこれで楽しもう、とエマは思った。
「歌いたければ私の前だとか気にしなくていいわよ、みなもちゃん。あなたいい声してるし、きっと上手いわ」
シオンの気ままに奏でるピアノをバックに、貸切り状態のバー。
美酒と談笑、静かで和やかな時間が流れていく。
そんな彼らをクレメンタインの肖像も、ボトル棚から澄んだ笑顔で眺めていた。
-end-
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13歳/中学生】
【3356/シオン・レ・ハイ/男性/42歳/びんぼーにん(食住)+α】
【NPC1733/比良松・雄樹(ひらまつ・ゆうき)/男性/36歳/マネージャー】
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマ様
お初にお目にかかります。
そして私のような新参者の依頼に、ご参加ありがとうございました
エマ様は多くの先輩ライター様に描かれてきたPCであると思いますが、私が描いた姿はPL様にお気に召して頂けたでしょうか。
また、草間武彦へのエマ様の愛情、凛とした大人の女性の魅力を表現しようと努めて意識して執筆いたしましたが、この点ご満足いただけたか気にかかっております^^;
クレメンタインのボトルへの呼びかけは、シオン様のプレイングに演奏がありましたので、声のエキスパートという能力をより発揮していただけばとあのような形にしてみました。
(歌詞の和訳は自前でアレンジしたものですのであやしいです(笑)
自身で書いていて言うのもおかしな話なのですが。
エマ様が非常に積極的且つクールに活躍してくれて、惚れる、という言い方は度が過ぎますがとても愛着が湧きました。
おかげ様で楽しく執筆が進みました、有難うございます。
それではエマ様のますますの御活躍を祈りつつ……
あきしまいさむ
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