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<東京怪談ノベル(シングル)>


労働基準法適用中。




『×月△日。不思議の国のお城にて。一日限りの家事手伝いの募集。頼まれてくれ、私の可愛いみなもよ』
 そんな手紙が届いた。
 宛先は海原みなも。裏書は彼女の父。
 その郵便物が彼女の幸せを運んだ事はあまりないが、それでも、彼女がその頼みごとを断った事はやはり、あまりない。というか、そっちはほぼない。
 そう言うわけで、学校もバイトもオフのその一日。
 みなもは不思議の国で家事手伝いと相成った。




「あの」
 くる、と振り向いたその女性は、真っ白なワンピースの水着を着ていて、そこから伸びる足は白い編みタイツに包まれていて、白いハイ・ヒールにて終決する。背中の半分くらいまで伸びているのは白銀の髪。そして、その頭の頂上から、ちょこん、と真っ白い羽毛の兎の耳が飛び出している。
 俗に言うバニーガールという奴だ。しかも、白一色。そうそうお目にかかれるものではない。
 そのバニーガールのお姉さんが、にっこりと笑う。
 心配いらない。
 白いルージュを引かれた唇が、ゆっくりとそう綴ったけれど声はなかった。
 しかし。
 心配いらない、と言われると逆に心配になるのは大抵の人間の共通する部分である。そもそも、本当に心配のない場合、そんな事を言ってみせる必要はないのだから。
「はぁ」
 そうですか。
 生返事を返して曖昧に笑ったみなも。相対した彼女は、白に対照的な青だった。その腰まで伸ばされた艶やかな髪も、微かに和んだ瞳も。白とのコントラストは青空と雲、というより、紺碧の海岸とその波、といった風情である。
 バニーガールのお姉さんは、灰色の瞳に笑みを浮かべて、また歩き出した。
 二人はだだっ広い野原を歩いていた。
 右手には森が見える。左側には湖があった。そして、暫く無言で進んでいく。
 一つ丘を越えれば、城が全容を現した。
 クレパスで殴り描いたような空の下、奇妙なほどにアニメタッチなお城。それに違和感を感じない自分に違和感を感じるべきか、とみなもが真剣に考えている事を知ってか知らずか。バニーガールのお姉さんは彼女を城の中へと導いていく。
 門番のいない大門を通り抜けて、野放図の庭を進み、蝶番の外れた扉を開けた先は、一見薄暗い場所だった。
 直ぐに謁見室へと繋がる空間だと解ったが、そのわりには華やかさにかける。部屋の両端に配置された鎧は黒ずんだ灰色。天井から釣り下がっているのは黄色とも白ともいえぬ、奇妙に薄汚れたイメージの旗。次の扉まで続いている絨毯は、所々が奇妙に赤い、薄紅だった。
 なんともいえぬ気分のままにみなもは絨毯に足を乗せた。
 そして、直ぐに後悔した。
 一歩踏み出した瞬間に舞い上がる埃。その足を退けてみれば、確かに、昔は深紅の絨毯だったのだろうと納得できる色が垣間見える。
 所々が赤いのは、人が通ったか何かあって、元の色が露出しているだけだ。
 ここのハウスキーパー―――城だから、キャッスルキーパーと称するべきか―――は思ったより骨が折れそうである。
 これがみなも以外であれば、ゲンナリとしてやる気を失ったかもしれない。しかし、彼女は奮い立った。一度任された仕事はきちんとこなす。それが、給料を貰う上での常識であり、また、彼女は人の期待を裏切れない人間であった。
 やってくれるか、といわれたら、よほどの無理でもない限り、頷いてしまうのである。そして、最後まで責任をもって仕上げるのが筋だと思っているから、決して手を抜かない。
 真面目な彼女は、きっと前を見据えたのだった。
 それは決意の現れである。
 その彼女の眼前で、二枚目の扉が軋みながら開かれた。
 ここも要修理だと心に思いながら、みなもは雇い主の前に進み出る。バニーのお姉さんは扉からは入ってこない様子で、みなもはたった一人、軽く百メートルは在りそうな謁見の間を、歩いた。
 ここの絨毯も歩くたびに埃が舞い、無造作に開けられた窓から入ってくる光の中で踊っていた。風に揺れるレースのカーテンも、昔は純白だったのだろう。
「オマエは?」
 頭上から、居丈高な声が降り注ぐ。みなもは着ている服が汚れる事を諦めて、その場に膝を着き頭を垂れた。
「お初に御目文字仕ります。海原みなもと申します」
 叩頭したみなもに一瞥だけくれた女王は、あぁ、と気のない返事を返しながら面倒くさそうに手に持っている扇でゆったりと自分を仰ぐ。いいたくはないが、玉座に積もった埃が舞う。
「この城の召使たちが、ストライキを起こしてしまってまったく城が回らない。だからオマエを雇うんだよ」
 端的な説明は、いっそ心地よい。
「顔を上げよ」
 彼女が顔を上げると、その視線の先に女王様が嫣然と微笑んでいた。
「早速取り掛かるがよい。わらわはこのかび臭い城に耐えられぬわ」
 だったら自分でやれ、という言葉は言わぬほうが懸命である。
「そうさね。まずはわらわの食事を用意せい」
 それだけいい置いて、去って行こうとするその態度は、自分が世界の中心だと雄弁に語っていた。その背中に、みなもは凛と声をかける。
「申し訳ありませんが、このお話はお断りさせていただきます」
 昨日今日始まったわけではなさそうなストライキ。そこに部外者がくちばしを挟むのは気が引ける。何より、ここの小間使いとしてきたわけではない。
 そうみなもが言おうとした瞬間。
「お黙り」
 女王様が、振り向いて一睨みした。
 たった、それだけだった。
 が、次に起こった事は劇的だった。
 いきなり天井から紙―――と言っていいものかどうか悩むほどの大きさだが、薄っぺらさといい、見た目の質感といい、紙としか言い様がない―――が降ってきたかと思うと、みなもの前後に展開した。
 彼女の身長ほどもあるその紙は、前振りなしに彼女をつぶしてしまう。
 ぺちゃ。
 そんなイージーな音がして、みなもの体は潰れた。
 本人の感覚としては、いきなり視界が白く染まったかと思うと、一瞬の息苦しさ。
 続く感触は、こそばゆいというか、心地よいというか、不快感はあまりない。そして、体が薄くなってゆく。
 内蔵や骨格はどうなっているのか。知りたいけれど知りたくない。
 そんな彼女の内情を無視して、変形は完了した。
 トランプ―――大きさではなく、柄や形―――に頭と手足が生えている、というのが一番現状を良くあらわしている。模様はハートのジャック。凛々しいような可愛らしいような、微妙な柄。
 これは、拒否権なしをあらわしているらしい。
「さっさとおし!」
 どこか頼りない感じに違和感を覚えつつも、みなもは今度は素直に頷いたのだった。
 溜息一つ、その場に落ちた。




「遅い!」
 みなもの一番初めの仕事に対する評価は、それだった。
 結局、厨房の場所すら教えずに女王様が去って行ってしまうものだから、みなもはそこから城中を走り回って厨房を探し、更に食事の用意に四苦八苦した。勝手の知らない台所は、ある意味異世界である。
 包丁の場所から調味料の種類まで。
 その全くわけの解らない場所で折角用意した料理に対する評価が、それ。
 理不尽といわずしてなんという。
「薄い!」
 シチューを一口啜った次の一言は、これ。
「申し訳ありません」
 とブラック・ペッパーのビンを取りに行きながら、みなもは思った以上に重労働になりそうだ、と再確認をする。
「まったく、料理一つ満足に出来ないのかい」
 みなもが一抱えもあるビンをもって食堂に戻ってくると、まったく、と繰り返しながらしかし、女王様はもう食事を終えていた。
「何をぐずぐずしているんだい! 次は床磨きだよ」
「はいっ!」
 すぐさま踵を返して小走りで厨房に駆け込む。その後ろから、
「埃を立てるんじゃないよ!」
 と声が飛ぶ。
 首を縮めて怒声をやり過ごし、みなもは今度は早歩きで女王の所へ戻った。
「謁見の間だと、言われなくちゃ解らないのかえ!」
「は、はい!」
 解るわけがない、との言葉を飲み込んで謁見の間に向かう。その途中ででも、あちこちに埃の積もった鎧が配してあり、薄汚れた旗がかけてある。床を磨く前にそれらの掃除をしないと、二度手間だ。
「女王様、先に上から埃を落とした方が―――」
 その言葉の続きは消えた。多分、永遠に。
「一介の召使が」
 足を止めて振り向いた女王様。その双眸には熾烈な怒りが灯っている。
「このわらわに口出しするなんて、どういうつもり!?」
「いえ、出すぎた真似を…」
 慌てて頭を下げたみなもに、鼻を鳴らして女王様は先を行く。
 これはストライキが起こっても仕方ないかもしれない。
 みなもは、床磨きの後に絨毯の交換、洗濯。旗の交換、洗濯に、鎧の掃除。そしてもう一度、床磨きと絨毯の交換、洗濯。
「どうして先に上からやらない! 掃除の基本も知らないのかえ!!」
 錆びた玉座の拭き掃除に、どこから手をつけていいのか解らない庭の手入れ。
「きっちり、元の姿に戻すんだよ!」
 門の蝶番の修復に、各個室の整理整頓。
「若いんだから、多少の力仕事ぐらいぶつくさ言わずにおやり!」
 何をするにも、女王様からの不条理な文句及び苦情が飛ぶ。
 一体自分が何をしただろう。こんなばちが当たるほど悪い事をしただろうか、と人生を振り返りたくなるほどの不条理ぶり。
「役に立たないのに、それを恥じる事すら知らないのかえ?」
 一通り掃除が終了してもまだ、日は高い。どうも、現実とは時間の進み方が違うらしい。一日の長さに、みなもは珍しくげんなりした。
「何をぼんやりしているんだい! 次は図書館の整理だと何度言わせるの!」
 もちろん、初めて聞いた言葉だ。
 しかし、みなもはそれには言及せず、従順に頷いて見せながら、図書館なんかあったのか、と感心する。強大な城だから、何があっても不思議ではないが。
 歩きながら、先刻拭き掃除をしたばかりの廊下の窓枠を、女王様は指でなぞった。そこに埃でも付けばまた、文句を言われただろう。が、みなもの掃除は完璧だった。
 とりあえず、そこでは何も言われずに図書館に通される。
「わらわは急がしいゆえ、オマエ、一人でここを掃除しておくように。頃合を見計らって様子を見に来るから、手を抜こうなんて考えるんじゃないよ」
 睨み付けられて、みなもは頷く。もう、声を発する事すら億劫になってきた。その様子に、また女王は鼻を鳴らして去ってゆく。
 扉が閉まった音がして、みなもは大きく息をついた。
 女王が、今まで真横に着いていたことの方がおかしい。そんな事をする暇があるなら、手伝うか自分ですればいいのだ。横から不条理に口だけ出されては叶わない。
 ともかく、ようやく自由に掃除が出来るようになったので、みなもは決意も新たに行動を開始する。
 叩きを持って上から、と見上げた瞬間。
 視界の端を何かがよぎった。見間違いではない。思わずそちらを凝視すると、今度ははっきりと、何かが動いている。
 気配を消して忍び寄るみなも。相手は背を向けているようだった。
 ようだった、というのは、相手が人間ではなく、トランプでもなく、どうも、本だったからだ。裏表紙か背表紙か、判断つきにくい。ただ、後頭部が見えたので彼女はそう判断した。
 今まで気付かなかったのは、図書館という場所で違和感が無かったからだ。少なくとも、等身大のハートのジャックのトランプよりは、等身大の手垢で汚れた感じの本の方が。
 どうも、必死で何かを探しているらしい。
 この城で女王様と自分以外を見かけたのははじめてのみなも。思い切って声をかける事にした。
「あの、ストライキ中の城の方ですか」
 びくぅっと背中が震える。そして、怯えた顔がみなもを振り返った。
「私、今日だけハウスキーパーとして雇われた者です」
「あぁ……」
 頷きつつも、本は今ひとつ落ち着かない様子であたりに視線を走らせた。その意味を直ぐに悟って、みなもは「女王様は、私にここの掃除を任せてお仕事に戻られました」と継げた。
「あぁ」
 今度こそ安堵した表情で、本は体全体振り向く。
「すまないね。僕たちのストのせいで、君にはしなくていい苦労をかけたようだ」
 まったくもってそのとおりだったが、気持ちはよく解るので曖昧に笑うだけで留めておいた。
「しかし、すごいな、君」
 突然送られた賛辞に、みなもは首を傾げる。
「あの女王様が、君にここの掃除を任せたんだろう?」
「はい」
 その意味するところを図りかね、みなもは相手の言葉を待つ。本は少し言葉を選んでから、口を開いた。
「女王様は本がお好きでね。ここを一人で任された配下は何人もいないよ。きっと、凄く信用されたんだね」
 お陰で、余計な手間が増えたが。
「そうなんですか」
「そうなんだよ。しかし……君………」
 本はまた、口を噤む。今度の沈黙は、やや重い。
 第一、こうしてサボっている間に女王が帰って来てしまう可能性もあるため、みなもは内心大いに焦った。情報収集は大切だが、現状は予断ならない。
「私、掃除をしなくてはなりませんので」
 ここで失礼します、と言おうとすると、本は切羽詰った表情で言葉を吐いた。
「僕たちに、協力してくれないか」
 真摯な表情。
 それは、高らかに命令を下す譲王様の声よりも、みなもの心に響いたのだった。




 密談、と呼ぶにはそこの雰囲気は明らかにざっくばらんである。
 しかし、雑談と呼ぶにはそれぞれの表情は暗い。
 図書館から続く秘密の抜け道。しかも、その途中に無理矢理部屋を作って、集会場所を得たらしい。普段は、それぞれ散り散りになっているとか。安全性を考えればそれも致し方ない。
「なるほど、そいつは使えるかも知れん」
 リーダー格の男性は、スペードのジャック。トランプだ。その横で頷いている副官の女性は、どうもティーカップらしい。そのほか、様々な道具に身をやつした配下たちがその場に会していた。
 スペードのジャックが、みなもに目をやる。
 その眼光は、ただの召使、と呼ぶには鋭く野性味を帯びたものだった。恐らくは、兵士だろう。
「ここにきてくれたからには、協力してくれるのだと思いたい。いいか?」
 無遠慮な言葉に、みなもは微笑む。
「そのつもりで参りました」
 微かに、彼の眼光が和らいだ。
「実は、我々は女王様を”引っ繰り返す”機会をずっと待っているのだ」
「”引っ繰り返す”?」
 あぁ、と頷く男。隣のティーカップの女性が説明を継いだ。
「本来、女王様は明るく気さくで、お優しい方なのです。けれど、階段から落ちた拍子に”ひっくり返って”しまって。今のようになってしまいました。もう一度”引っ繰り返せ”ば、元の女王様に戻っていただけるはずなのです」
「”引っ繰り返す”とは、上下をさかさまにする事です。ハートのクイーンを正位置に戻すことで、我々の安穏が戻ると信じています」
 タロットカードは、正位置と逆位置で、意味が正反対になる。それと同じイメージで、戻せるのだと、みなもは解釈しておく事にした。
「解りました。具体的にはどうやって?」
「誰かが女王様の直ぐ傍まで行って、気をひきつけておく必要があった。だが、我々では傍に近寄るどころか、女王様の視界に入るだけでも危険だったのだ」
「ですが、貴方は女王様の直ぐ傍に、何の抵抗もなくいられます。それは、チャンスがあるという事です」
 今まで無だったものが、有に転じ始めている。
 彼らはそう言って盛り上がった。
「具体案としては、最初と同じ。つまり、階段の上から落ちていただく」
 ある意味殺人計画と変わらない物騒な台詞だが、意外にみなもには抵抗が無かった。この体になったときから、こちらの世界の常識に馴染んでしまったのかもしれない。
「じゃぁ、階段まで誘導するのが私の役目、という事ですか」
「そして、気をひきつけておいて欲しい。実際足元を掬うのは俺がやる」
 スペードのジャックは、不敵に笑って見せた。失敗すれば、彼の命の保障はないだろう。
 雰囲気が突然真剣身を帯びる。
 それに、みなもは柔らかに微笑んで。
「解りました。何とかやってみます」
 その青い瞳に、そこにいた全員が希望を託した。





「掃除は済んだのかい!?」
 足音高く、鼻息荒く、居丈高な声で、女王は図書館に帰ってきた。みなもは密談の時間の空白がばれないように急いで掃除をするつもりだったが、本職のメイドが手伝ってくれ、大した体力も消費せずに掃除は終っていた。
 窓枠まで、きっちりチェック済みである。
「はい」
 ざっと見回し、本が著者名順で整理されていることまで確認し―――窓枠は基本である―――床に自分の顔が移っている事に、女王は満足した様子だった。
「ふん、猫の手よりはましみたいだね」
 初めての誉め言葉。あまり嬉しくはないが。
「あの、女王様」
 みなもは、切り出した。これが計画の始まりである。
「ホールにあるシャンデリアを掃除させていただけませんか?」
 謁見の間の左手側にある扉を潜ると、そこは美しい吹き抜けのホールになっている。階段を上れば女王の寝室に繋がる廊下もあり、豪奢なつくりだ。
 そのシャンデリアは、本物の水晶にダイヤモンドカットを施した高級品で、蝋燭が灯されればそれこそ幻想的な美しさを誇る。
 しかし、その姿を久しく見ていないであろう女王は、その提案に満足した模様。
「少しは頭も回るようになったかえ?」
「お陰さまで」
 そう答えておいた。この会話を図書館の死角部分で本が聞いているはずで、それはスペードのジャックに伝えられるはずだ。
 第一作戦は成功。
 次は、あの階段の上に上ってもらわなければならない。
 しかも、注意力散漫な状態で。
 改めて考えると、それはとても難しく感じられた。しかし、今更引き下がるわけには行かない。
「では」
 さっそく、と女王を促すが、彼女は少し考え込んだ様子で動き出そうとしない。
「何か?」
 尋ねると、思案顔で返事が返ってきた。
「あの水晶を磨く、特別製の布があったはずなんだけどねぇ」
 どこにやったか、と。
「倉庫に在ったはず。先にそっちを片すとしようか」
 やぶへびである。
 しかし、こちらから振った手前、やっぱり止めましょうとはいえない。もう既に倉庫に向かって歩き出した女王の後ろを、みなもは早足に追いかけた。
 作戦延長である。
 そして、その延長はみなもが予想したよりも遥かに長かった。
 まず、倉庫に向かった。そこに向かう途中の渡り廊下を掃除して。
 倉庫の前の荒れた石畳を、整備。
 更に、倉庫の前に着いたはいいが、鍵が女王の寝室だという。
 今度は寝室に取って返し、そこで部屋の整理。掃除。
 脱ぎ散らかした衣装の洗濯。
 クローゼットの整理をしていたら、女王は急に着替えると言い出して、今度はお召し物の用意。髪飾り、耳飾、ネックレスを合わせて、靴をそろえ、ドレスを用意すると、その服にこの香りは合わないという。
 次は風呂の用意だ。当然また掃除。
 バスタイムにあたり、オイルを選んで、浮かべる花びらを選び、入浴していただいて、化粧のお手伝い。演劇部でなれたものだが、誇るつもりにはならなかった。
 オイルと合った香水を選び、お召し代えを手伝い、身なりを一掃した女王が、ようやく倉庫の鍵を思い出してくれた。
 鍵は割りと直ぐ見つかったが、倉庫の中は惨状だった。想像していたのでこれには落胆せずに、すぐさま掃除と整理に取り掛かる。
 散々働かされたが、太陽はまだ真上になる。
 まだ、彼女の一日は終らない。
 ようやく目的の布を発見した頃には、みなもはくたくただった。様々なバイトをしてきた彼女は、多少なりとも自信、というか、自負のようなものがあった。大抵の事はこなせる、という。
 しかし、これは体力と忍耐勝負。
 幾ら温厚で真面目な彼女と言っても、限界も近い。
 早い所作戦を決行しようと、みなもは無理を言ってシャンデリアの掃除に取り掛かる事にしたのだった。
「はぁ……」
 思わず溜息も出ようというものだ。
 そんな彼女をよそに、女王ははきはきと命令を下す。
「まず、シャンデリアをある程度の高さまで下ろすゆえ、それから掃除に取り掛かるがよい」
「はい」
 そして、待ちに待った瞬間が訪れる。

 長いドレスの裾を、流石ともいえる優雅さで捌いて階段を上る女王。
 その一歩一歩が、みなもの心音を高鳴らせた。

 女王が背を向けている視界の端で、スペードのジャックが合図を送ってくる。それを確認して、みなもは、大きく息を吸い込んだ。
 後一歩で、女王が階段の踊り場に上ろうとした。その足を上げた刹那―――


「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 渾身の声で、悲鳴を上げた。
「何事!?」
 アンバランスな姿勢で、女王は振り向く。足がもつれ。
 そこに止めを刺すように、スペードのジャックが飛び出して行って足元を救い上げた。

 みなもがセットした髪が乱れて宙を舞う。
 それを飾っていたティアラが放り出された。
 重い耳飾が大きく揺れて。
 女王は、何が起こったかまるで理解していない表情で。
 落ちていった。
 どこにいたというのか、わらわらと他の配下たちも姿を現す。誰彼となく、無言で女王を見やり、それからスペードのジャックの肩―――だと思われる辺り―――を軽く叩いていく。
 痛いほどの沈黙。
 期待と不安がない混ぜになったそれは、奇妙に居心地の悪い空間だった。






 結局、彼らの計画はうまく行った。
 埃の取り払われた絨毯から体を起こした女王は、その双眸に混乱と、それから穏やかさを含んでいて。
「あら?」
 ひどく、間の抜けたのんきな声を上げたのだった。







「本当に、お構いもせずに悪かったわね」
 おっとり、という表現が良く似合う笑顔で、女王は言う。あれから、お茶会に呼ばれて、他愛のない雑談が終る頃には、みなもが即席で掃除をした城内はどこか生活観を漂わせた、落ち着いた雰囲気を取り戻していた。
 それぞれのスペシャリストが腕を振るった結果であろう。
 餅は餅屋。
 そんな言葉が、みなもの脳裏をよぎったが、今は忘れておく事にする。
「ああなると、ちょっと意識が飛んで、乱暴しちゃうみたいで」
 本当にありがとう。それから、ごめんなさいね。
 少女のように笑う、その人。
 ちょっと?
 そういいたいのを、ぐっと抑えて。
「お礼と謝罪は、スペードのジャックさんに。私は、本当に何もしてませんから」
「彼にも言うけれど、あなたにも言っておきたいの。いいでしょう?」
 そういわれたら、断れないのが人の情だ。
 微笑んで、言葉をありがたく頂戴する。
「また、いらしてくださいね。それから、貴方を紹介してくださった紳士にも、お礼をお伝えしてくださいな」
「はい。また是非」
 元の姿に戻してもらったみなもは、こうして一日のオフを終えたのだった。
 やはり、父からの手紙でいい事があった験しはない。




END