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<東京怪談ノベル(シングル)>


フロスト・パッション


「そうでした。取って置きのスコッチがあります。いかがです?」
「お任せします」
「――少々お待ちを」

 九尾桐伯が知る銘酒のひとつとして、『フロスト・パッション』がある。
 名前に似合わず、一口飲めば、喉がかっと燃え上がる。
 だが確かに、その舌触りは、いやにひんやりとしているのだ――
 あまり知られていないスコッチ・モルト・ウイスキーだ。まさに、知る人ぞ知る。桐伯ならば、知っていたとしても、誰が不思議がるというか。
 こぢんまりとしたバーではあるが、都内でも有数の蔵酒を誇る『ケイオス・シーカー』のこと、当然この酒も持っていた。だが、実際に客の口に入る機会といえば、それはひどく少ないのである。
 もはや、この酒は手に入らないのだ。
 桐伯の手元に、それは確かに残り、彼の記憶と舌にひんやりとした恐怖を与えている。



 『フロスト・パッション』の蒸留所は、スコットランドの片隅にあった。
 日本からそこに向かうだけで、数日はかかる辺境の地――地元スコットランドの人間すら、訪れるのはまれだろう。何しろその村には、モルト・ウイスキー蒸留所と、清水と澄んだ空気以外に何もないからだ。
 村はひどく静かだった。
 いや、風の唸りには凄まじいものがあった。
 何ものかが吼えているような風の音は、揺れる低木が立てる音なのか。
 静けさの中の風の音を、桐伯は愛していた。だが、この村に吹き荒ぶこの風には、少しの魅力も感じない。桐伯の長い黒髪を、冷たい風は切り裂こうとしていた。
 桐伯は、ふと、蒸留所に来るまでの道のりの中で見た、村の風景を思い出した。
 寒風にあてられたかのような家々が、ぱらぱらと建っていた。どの家も窓ガラスは割れ、庭の草花は立ち枯れていた。
 そうだ――
 風すらも死んでいるのだ。
 桐伯はだまって、蒸留所のドアを叩く。
 まるでそれが当然とでもいうかのように、返事はなかった。

 桐伯がここを訪れるのは初めてだ。
 『フロスト・パッション』の存在を知ったのもつい最近で、その味に魅せられてから、ここにこうして直接買い付けに来るまで、しばらくの時間が経っていた。いろいろと野暮用が重なって(その野暮用をもたらすのは、約一名のうっかり者なのであった)しまっていたのだ。
 しかし、ここは、無人の蒸留所というわけではあるまい――
 人気のない蒸留所内は、ひどく冷え込んでいた。確かに今は夜であり、ここは北海道よりも北にあたるが、それにしても、寒すぎる。
 何気なく辿り着いた先には、桐伯が焦がれていた『フロスト・パッション』の樽が並ぶ貯蔵庫もあった。風の音が聞こえる貯蔵庫には、素晴らしい薫りが漂っていたのだが、何か、身を切るような冷たさもそこにあった。
 呼びかけても、無駄だろう――
 桐伯は無言で貯蔵庫を突っ切り、なおも蒸留所内を歩き回った。正確にいえば、人を探し回っていたのだが。
 彼が最終的に辿り着いた部屋の中は、濃厚なウイスキーの薫りに満ちていた。デスクの上の酒瓶が倒れ、琥珀色のウイスキーがこぼれていたのだ。
 ウイスキーの池の中に、革張りの手帳があった。
 手帳は開かれた状態で放置されていた。革張りの表紙のおかげで、ページがウイスキーを吸うことは免れたらしい。
『フロスト・パッション』の薫りと風の音の中で、桐伯はいやな予感を抱きながら、手帳の中身に目を落とした……。


 ■8月7日
 神よ、憐れみを。
 風に乗りて歩むものは、他に何を望むというのか。
 かのものに忠誠を示さぬ人間は、皆解雇した。
 どのみち彼らに払える金もないのだから。

 ■8月9日
 名乗らない男から、また電話あり。
 わたしを散々に嘲り、わたしに風に乗りて歩む御方の恐怖を語る。
 御方はわたしに興味を抱きつつあるか、
 わたしに対して怒りを覚えておられるか、
 或いは何の興味も示されていないとのこと。

 ■8月10日
 確かにかの神はもはや、わたしに富を授けては下さらないようだ。
 ああ!
 神ではなく、『フロスト・パッション』の味を信じてさえいればよかったのだ。
 かつてのように、わたしと妻、甥の3人だけで、またいちから始めるだけでよかった。
 わたしは何故、名も知らぬ男の誘いに乗ったのか。

 ■8月12日
 声だ! 声があった。

 ■8月13日
 声は、村の入り口まで近づいてきている。
 池のそばの小うるさい老婆が、飼い犬とともに死体で見つかった。
 死体を見つけたのは甥だ。甥は死体を見るなり、あまりの恐ろしさに気絶したらしい。
 死体と甥は隣町の病院に搬送された。
 妻が付き添いとして村を出て行った。
 ここにはわたしと、あとひとりだけだ。
 祈りを続けようと思う。

 ■8月14日
 神よ、どうか憐れみを。
 カダスの凍てついた空気と水、そして黄金は、もう返すことも出来ない。
 わたしは空を見ることが出来ない。
 星がふたつだけまたたいているのではないか。
 声は


 手記は唐突にそこで終わりを告げ、桐伯はただ、手元だけに目を落とした。
 窓の外では、風が吹き荒んでいる。
 風はもはや、蒸留所を吹き飛ばさんばかりに強くなっていた。

 ウゥ―――ウ―――ウォ――――――ッ!!
 オォ――――ウォウ―――ォオオ――――――ッッ!!

 風ではない! 風ではない!

 桐伯の赤い目は、けっしてけっして窓の外の夜空を見ない。きっと今、そこに夜空はないからだ。この蒸留所の、もとの持ち主がそうであったように、きっと暗闇の中の二つ星をみるだろう。まるで眼のように並んだ、双子の星を!
 ウイスキーの薫りの中で、桐伯は、部屋の中に歪んだ祭壇があるのを認めた。
 祭壇に奉られているのは――

 窓が割れ、風が吹き込み、桐伯は身を伏せた。部屋の中のものが吹き飛ばされ、やかましく騒ぎ立てた。
 風が幅を利かせていたのはほんの数十秒間のことだ。
 風が止み、身を切るような冷たい空気が、ほんのわずかばかり暖かみを帯びた。
 そうだ……今は、9月なのだ。これくらいの暖かさが、妥当なところだ。それまで、ここは、まるで極地のように冷え込んでいた。
 桐伯がゆっくりと顔を上げると、部屋の中はひどい具合にかき回され、ウイスキーの薫りも消し飛ばされていた。
 祭壇も崩されている。
 明らかに、奉られていたものはなくなっているようだった。
 だが……振り向いて夜空を確かめるほど、桐伯は浅はかではない。



 手帳、祭壇に敷かれていた奇妙な素材の布、そして『フロスト・パッション』ひと樽。
 桐伯が拝借し、スコットランドから持ち帰ったのはそれだけだ。手帳と布は、すでに友人に渡している。多くは語らなかった(「これをどこで?」「それは秘密です」)。
 あの風の大きさであれば、スコットランドから日本までは、ほんの数またぎだろう。桐伯は未だに、夜空を見上げるときは風の声を聞くようにしている。
 まぼろしの酒ひと樽は、星空の代償としていただいたのだ。
 その夜もひんやりと冷えた味が、桐伯の舌と喉を楽しませた。

 実を言えば、彼がこの酒を平気で呑めるようになったのは、つい最近だった。
 それまで、彼はこの酒にまつわる曰くについては何も語らず、ただ黙って常連客に薦めていたのだった。客は口を揃えて『フロスト・パッション』を誉めていて、桐伯は、『無知』であることを有り難さを羨んだ。
 自分は何故、こうも、知りすぎてしまったのか――。

「おや! これは美味しい」
「はは、そうでしょうね」
「何というお酒ですか?」
「言えばきっとあなたは驚きますから……秘密にしておきます」
「……何かありますね、キュウビさん」
「はは、それも秘密です。――もう一杯、いかがですか?」




<了>