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<東京怪談ノベル(シングル)>


『迷わせの霧』


 **県**村。
「日和、そっちの楽器をお願い」
「はい」
 私、初瀬日和は知り合いの頼みでとある楽団にチェロリストとして参加していた。
 演奏の依頼が入ったのは**県**村。村おこしの一環として造った文化会館のこけら落しで演奏をするのだ。
 楽団の人たちと一緒にトラックから楽器を文化会館へと運んでいく。
 何分にも知名度の低い三流楽団であるから何もかも自分たちでやらなければならないのだ。
 慣れない力仕事ではあるが私は楽しかった。
 最後に自分のチェロを中へと運ぶ。
「ふぅー。疲れたねー、日和ちゃん」
「ええ。でも楽しかったです」
「楽しかった?」
「はい、こういうのは初めてだったので。でも、良い文化会館ですよね。すごい落ち着いたデザインで、心が和みます」
「そだねー。まだ新しい建物の匂いもするしね」
 楽団のフルート担当の女性と話していると、指揮者の人がぱちぱちと手を叩いた。
「それでは舞台に楽器を並べたら、30分休憩して、パート事の練習を2時間、総合練習1時間します」
 私は手首にはめた腕時計を見た。時刻はPM2時半。練習が終わるのは7時過ぎぐらいであろうか?
「終わるのは7時を過ぎるかな?」
「そうみたいです」
「大丈夫?」
 くすっと肩を竦めながら彼女に訊かれたので、私は小首を傾げる。
「だからさ、か・れ・し・君」
 耳元に唇を近づけられてそう囁かれたので、私は顔を真っ赤にした。
 それからやっぱり楽器を並べて、休憩して、練習して、で、今日の練習が終わったのは7時を少し過ぎた時間だった。
「それでは、ここから歩いて30分の場所にある民宿に向います」
 冬の夜は空気がとても冷たく凍え渡り、故に空気はとても澄んで、夜空は本当に星々が輝いて美しかった。
 私は彼にも見せてあげたいな、と想った。
 確か文化会館を出たのが7時過ぎだから、彼はもう家に帰ってきているかもしれない。
「今、何時だろう?」
 私は手首に視線をやって、
「あっ」
 腕時計を忘れてきたのに気付いた。
 練習をするのに邪魔だからケースの上に置いておいたのだった。
「腕時計? 別に明日でもいいんじゃないの?」
「そうよ。今じゃ携帯電話もあるから困らないでしょう?」
「あ、いえ、でも大切な腕時計なので、やっぱり手元に置いておかないと落ち着かないので」
 私は苦笑を浮かべながら肩を竦め、そう説明すると、ひとり文化会館に戻った。
 しかしやはり当然の事ながら文化会館の玄関の鍵は閉まっていた。
「困ったな、どうしよう?」
 それでも私が未練がましく玄関の扉をがしゃがしゃとやってると、突然に玄関の向こうに光の点が生まれて、そしてその光りの点はだんだんと大きくなっていった。
「何をやってるの、あんた?」
 その光は懐中電灯の灯りで、その懐中電灯を持っているのは警備員さんだった。
「あ、忘れ物をして。私は楽団の者なんですが」
 そうは言ったがしかし警備員さんは首を横に振った。
「悪いけど、あんたが楽団の人だという証明をする物が無かったら、開けられないねー。ほら、もしも楽器に何かがあったら、私たちの責任になるから」
「あ、えっと、…はい、すみません」
 警備員さんの言う事はもっともなので、私が諦めて帰ろうとすると、
「おや、あんたは楽団の人かね」
 と、後ろから声をかけられた。
 後ろを振り返ると、初老の男性が立っている。
「あの、はい。そうですが?」
「館長」
 警備員さんがそう呼んで、それで私も気付いた。確かに先ほど挨拶された館長さんだ。
「どうしました?」
「あ、いえ、ちょっと中に忘れ物をして」
「そうですか」
 館長さんはほやっと笑うと、
「警備員さん、玄関の鍵を開けてくれるかね」
「はい、ただいま」
 そして玄関の鍵が開けられて、
「さあ、お嬢さんもどうぞ。早く取ってきなさい」
「すみません。ありがとうございます」
 急いで中に入って、警備員さんから懐中電灯を借りた館長さんと一緒にホールへと移動した。
 私は舞台に置かれた自分の椅子に置かれた腕時計を見つけると、それを手首にはめた。
「いいですか?」
「すみません。館長さん。良いです」
 急いで扉の前に立っている館長さんの所まで走って、それで私は彼と一緒に懐中電灯に照らされた廊下を歩き、玄関へと辿り着いた。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえいえ。それよりも夜道は気をつけてね。ここから村までは坂道を下っていくだけど、【迷わせの霧】に捕まったら大変だ」
「【迷わせの霧】ですか?」
「そう、【迷わせの霧】。それに捕まると、一生霧の中を彷徨い歩かなければいけない。もしも運良く出られても、気が触れている場合が多いのです」
「・・・」
「村に古くから伝わる伝承でね。まあ、その【迷わせの霧】よりも痴漢に出会う確率の方が高いかもですがね」
 館長さんは肩を竦めた。
 私はもう一度、館長さんにお礼を言って、夜道を歩き始めた。
 ひゅーひゅーという風の音だけが響く夜。
 私は少し…いや、だいぶ薄気味悪く想った。
 坂を下る歩のスピードを速める。
 そして、ふと私は夜の違和感に気付く。
「音が無い?」
 そう、音がしなくなったのだ、突然。
「そんな、どうして?」
 自然に体はがたがたと震え出した。
 焦燥のままに私は走り出す。
 そう、自然界において無音という現象は無いのだ。それが存在するのは人間の作り出した空間のみ。
 そして焦燥のままに走る私の視界を…
「きゃぁーーーーーー」
 霧が覆った。
 とても深い霧だ。真っ直ぐ前に伸ばした手の先すらも見えない。
 そんな霧の中に感じるのはいくつもの気配。
 私は足がすくんで歩けない。
 霧の中、いくつもある気配。その中のいくつかが私の方へ歩いてくる。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ)
 がくがくと震える私の真横を通り過ぎていくのは、頭に防空頭巾をかぶった子ども、着物を着た老婆、腰に刀を帯びた傷だらけの侍。
 ―――――その人たちは自分たちの生きていた時代がとうに過ぎ去っているのも気付いていないかのように、霧の中をさ迷い歩いていた。
 それを見て、私は、
「いやぁーーーーーー」
 切れた。
 恐慌して、頭がパニックで、真っ白で、もうどうしていいのかわからなくって、それで私は闇雲に霧の中を走った。
 どこまでもどこまでもどこまでも。
 霧はものすごく水分を含んでいて、
 それは私の下着までぐっしょりと濡らして、
 体に貼り付く服の感触にも、濡れて肌を締め付けるブラジャーの紐の不快な痛さにも、しかし私は気にならない。そんな事を気にしている余裕は無いのだ。
「そんな、どうして?」
 どこまで進んでも霧は晴れる事は無い。方向感覚すら無い霧の中、それはもう絶対に終わる事は無いのではないのかと私には思えてしまう。
 霧の中で擦れ違う人たちは皆、正気を失っていた。
 私もああなってしまうのか?
 いや、もう心は壊れかけている。
「嫌だ。助けて。誰か、助けて。狂いたくない。こんな所で一生さ迷い歩きたくない」
 だけどその願いは届けられない。
 状況は変わらない。
 そして私はその霧に覆われたこの世界を、
「そう、これは夢だわ。夢なら覚めればいいのよ」
 完全に恐慌しきった私は私の頬に両手の指を突きつけて、いっきに手を下に下ろした。爪によって皮が破れて、肉が裂けて、その傷から血が溢れ出す。
「あははは。あはははははははは。あははははははははははは」
 だけどその血の匂いも、痛みも、味も、すべて現実の物で、だから当然、これは夢じゃないから…
「いやぁーーーーーーーー」
 私は悲鳴をあげた。
 頭を掻き毟って、走って、走って、走って、走って、走りぬいて、
 でも足がもつれて、私は前のめりに転んで、それで、
「きゅぅー」
 だけどそれはその時に聞こえたのだ。
 それは私の大切な【イヅナ】の声。
 私は肩からかけていたポーチからピルケースを取り出した。
 転んで足の膝を怪我した事で、その痛みで恐慌していた頭が少し冷静になって、それで私はその声を聞けたのだ。
「助けて、お願い」
 そして私は祈りながらピルケースの蓋を開ける。
 そこから現れ出たイヅナ。
 イヅナは私の頬をぺろりと舐めると、走り出した。
 この深い霧の中、私はイヅナを見失わないように懸命にそれを追いかける。
 ―――――追いかけた。
 …………。
「ああ」
 そして気付くと私はなぜか文化会館の駐車場の真ん中にいた。
 確かに私は坂をくだっていたはずなのに、いつの間にかその下っていた坂を登って、駐車場にいた。
 頬に手をやると、そこは涙で濡れてはいたが、しかし傷はいっさいなかった。スカートを捲し上げても、ストッキングも破れていないし、だから膝も怪我してはいない。
「きゅぅー」
 イヅナは心配した声をあげながら私の頬に顔を摺り寄せて、
 そして私はただ茫然と空を見上げた。
 そこには東京で見るよりもたくさんの星々があって、オリオン座もとても綺麗に思えて、
 その降るような星空の下で、
 私はしばらくそこで座り込んで、茫然としていた。

 【了】


 ++ライターより++


 こんにちは、初瀬日和さま。
 いつもありがとうございます。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。


 今回は霧にまつわるお話でお任せで、という事でしたので、冬の怪談にしました。
 イヅナが居て、本当に良かったですね。(><
 もしもイヅナが居なかったら、と考えるとぞっとします。
 霧にまつわる心霊話はいくつかありますよね。
 民族伝承にはこのように霧の中を永遠に彷徨い続ける物がありますし、
 第二次世界大戦中のドイツかイギリスでは、突如発生した霧の中を歩いていたら、いつの間にか元いた場所からものすごく離れた、徒歩では到底移動できない距離を移動していたという話もあります。
 日本ホラーの怖さの演出は水で行われますが、霧、というのも充分に人の怖さを感じる感覚に訴えかけるモノがあるのかもしれません。


 それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
 ご依頼ありがとうございました。
 失礼します。