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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


春にして君を離れ



 こんな夢を見た。
 彼は狭い路地をゆったりとした歩調で歩いていく。
 時折足を止めては懐かしげに古ぼけたアパートを見上げ、破れかけたポスターに目を細める。
 右手に握られたステッキは、気分よさげにコツコツと軽妙な音を周囲に響かせていた。
 青く澄んだ空の下、白い道を彼は歩いていく。
 
 

まるで迷宮のようだと、館内を歩きながらシュライン・エマは思う。
都心から電車で約一時間、武蔵野台地の片隅に位置するこの美術館は、外観こそ瀟洒で小作りな洋館だったが、足を踏み入れてみると思いのほか奥行きがある。
(まるで亜空間にでも繋がっているみたい)
 ふっとそんな荒唐無稽な考えが頭の中に浮かぶが、あながちそうとも言い切れないとシュラインは思いなおす。各フロアに展示された美術品たちは、様々な時代に、様々な思いを込められて造られたものだ。作品を媒介としてどこか別の空間と繋がっていたとしてもおかしくはない……。
 少なくとも数々の怪奇事件にかかわってきたシュラインには、「あり得ない」などと言うことは出来なかった。
 それと同時に、何故館内を広く感じるのか、シュラインには分かっていた。
 それは一つのフロアをいくつもの仕切りで細かく区切り、簡易な通路をいくつも作りあげて多くの作品を展示しているからだった。
 これにより実際の空間よりも、感覚として「広い」と人に感じさせることができる──限られた空間を生かすためによく使われる展示方法だった。
 
 
 シュラインはゆったりとした歩調で館内を歩き続け……ある絵画の前で立ち止まる。
 抑えられた照明の中で「彼女」は、迷宮を彷徨い歩いてきた旅人を「待ちくたびれた」という風情で出迎えてくれる。
 高階良輔(タカシナリョウスケ)作、「風待ち」──。
 淡い色調で描かれた女性の人物画は、先日まで怪奇現象を起こしていたため、草間興信所の調査対象となっていた作品でもある。
 シュラインが今日この美術館を訪れたのは、調査後の状況のヒアリングをするためだった。
 事件は、幾許かの曖昧な部分は残ったものの、画家によって描かれることのなかった「彼女」の対──今、彼女の傍らに展示された男性の絵を用意することによって解決をみることができた。
 先程一通りスタッフから話を聞いたが、その後「彼女」は全くアクションを起こしていないようで目新しい話は出てこなかった。今こうして眼前に立ってみても、以前感じたような悲しみの波動は伝わってはこない。
「どうやら大丈夫そうね……」
 最終調査報告書には特記なしで済みそうだと思いつつ、シュラインは「彼女」をまっすぐ見つめる。


 その時、コツンコツン、とシュラインのものではない足音と共に、あれ、という戸惑いの声が室内に響いた。
「……もしかして、エマ、さん?」
 聞き覚えのない声が自分の名を呼んだことを訝しく思いながらも、シュラインは背後に視線をむける。
 
 
 そこには一人の女性が立っていた。
 二十歳過ぎくらいだろうか、茶色いジャケットにジーパンとラフな格好をしたその人物は、目を丸くしてシュラインを見つめている。
 どこか子供っぽさを残すその顔をまじまじと見つめ、シュラインは「風待ち」を振り返る。
 目の前にいる女性と絵の中の女性は、とてもよく、似すぎているほどに似ていた。
「もしかしてあなた……」
 眼前の女性は口の端をあげて笑みを作ると、シュラインにみなまで言わせず頷く。
「初めまして、シュライン・エマさん。草間くんの昔の女、もとい、津森彩子です」



 彩子はシュラインの傍らに立つと、よもやここで会えるとは思わなかったな、と微苦笑を浮かべた。
「先制がモットーではあるんだけれども、さすがにこの間の電話はやりすぎたかなーと思って、事務所に謝りに行こうと思ってたの。草間君はあれ以来とっても不機嫌だし、アキちゃんにも……あ、あたしのお目付け役みたいな人なんだけれど……やりすぎって怒られたし」
 この間はごめんなさい、とペコリと頭を下げると、イタズラを咎められた子供のような表情を作る。
 以前電話で会話をした際の大人びた口調とはだいぶ違うその様子に、シュラインは内心戸惑いつつも、彩子をまじまじと見つめた。
「あ、恋人だったとか、そういう事実は全くないの。友達っていうか腐れ縁?ではあるんだけれど。むしろ、お兄ちゃんみたいな感じかな。……あ、そうか、だから草間君の恋路を邪魔しちゃうのか。ブラコン、ブラコンなのかなこういうのも」
 シュラインの怜悧な眼差しをまっすぐ受け止めつつ、彩子は時折独り言のような言葉を挟みつつ、マイペースに喋る。
「あのね、失礼な話だけれども、あたしエマさんがどんな人なのかずっと知りたかったの」
「それはどうしてかしら?」
 面識もないのにと、首を傾げるシュラインに、彩子はフフフと口の端をあげて笑みを作る。
「これは草間君には言わないでいてくれると嬉しいんだけれど、彼からね、エマさんの話はよく聞いてたの。大事な人だって。恋人のような、家族のような、なくてはならない人だって。……あのトーヘンボクにそんな言葉を言わせちゃうなんてどんな人なんだろうって、ずっと興味があったの」
「…………」
 武彦がどんな顔で彼女にそんな話をしたのかは想像もつかないが、他所様の口からそういう話を聞くのは非常に居心地が悪く、シュラインは頷くことも出来ずに目の前の女性を見つめる。
「興味があって、嫉妬もちょっとあって……それがあの発言になっちゃったのよね」
 ごめんなさい言いつつ、彼女の表情はとても楽しそうだ。
「実は懲りてないでしょう」
 溜息をつきつつ呟いたシュラインに、スルドイ、と彩子は笑う。
「面白きこともなき世に面白く、が信条なの。他人の人生にチャチャを入れるの大好きよ」
 そんな彩子にシュラインは肩をすくめる。
「言葉の使い方が先人が意味したものと違うように思うけれど。一つ苦言を呈させていただけるなら、あなた、そんなことばかりをしていたら最後には一人になってしまうわよ?」
 シュラインの発言に彩子は一瞬目を丸く見開き、だが次の瞬間には穏やかな大人びた微笑をその面に浮かべた。
「エマさん、いい人ね。うん、そうね、いつか皆あたしを煙たがって、誰もいなくなってしまうわね。でも、それは構わないのよ」
 澄んだ眼差しがシュラインへと向けられる。
「エマさんもあたしを嫌っていいし、怒っていいの。そりゃ、好きになってくれると嬉しいけど。ただ、なかったことにしないでくれれば」
「 ? とても意味深長な発言ね。……どういうことかしら」
 眉間に皺を寄せて尋ねると、彼女はにんまりとした笑顔を作った。
「あたしのことを覚えていてほしいなってこと」
「……あなたのような人、いい意味でも悪い意味でも忘れたくても忘れられないと思うけれど」
 その言葉に彩子は花がほころぶように笑うと、重畳、と呟く。
 そして、あ、と何か思い出したかのような声をあげてシュラインを見つめる。
「ここで会ったのも何かの縁、香奈子叔母さま……ああ、この絵の彼女のことよ……お導きかもね。一つ、調べてもらいたいことがあるの。レンに頼むか草間君に頼むか迷ったんだけれど、エマさんにここで会ったということは草間君にお願いしなさいってことなんでしょう」
「……あなたからの依頼って聞いたら、武彦さん眉を顰めそうだけれど」
 自分では即断できないと告げると、彩子は首を左右に振った。
「それでも、断らないわ。……妬ける?」
 覗きこむようにシュラインの表情を見つめる女性に、シュラインはやれやれといった風情で肩をすくめた。
「……なんていうのかしら。あなたと話していると義妹に嫉妬される義姉って気分になるわね」
「ああ、いいな、それ。昼ドラのような愛憎劇? 草間君はとっても嫌がりそうだけど。……調査案件については、そうね、明日事務所にお邪魔して詳しく説明するわ。……今回もね、絵絡みよ」



「やあ、草間君、何か仕事は入ってないかい?」
 草間興信所の古びたドアを開きながらシオン・レ・ハイが所長デスクへと声をかけると、仏頂面の草間武彦が執拗に煙草を灰皿に押し付けながら低い唸り声をあげた。
「く、草間君?」
 その様子からどうやらすこぶる機嫌が悪いようだと察し、シオンは事務用デスクに座るシュライン・エマへと視線をむける。
「今、依頼人を待っている所よ。いいタイミングね、シオンさん」
 苦笑を浮かべ、応接用のソファを勧めるシュラインにシオンは声を顰(ひそ)めつつ尋ねる。
「草間君があそこまで不機嫌そうなのは、やっぱり怪奇系の依頼だからですか?」
「いいえ……。私は簡単に内容を聞いただけなんだけれど、今回の調査は怪奇色は薄いのよ。問題は依頼人の方ね。武彦さんと……ちょっと因縁があるのよ。そちらも詳しくは知らないんだけれど」
「シュライン」
 こそこそと小声で言葉を交わす二人に、草間がむっつりとした表情のまま視線をむける。
「余計なことは言わなくていい」
 そんな草間の言葉に彼女は軽く肩をすくめ、「はいはい、じゃあ、コーヒーでも入れましょうか、ね」と給湯室へと身を翻した。
 その様子を見つめながら、シオンは微笑を浮かべる。
 この事務所を訪れる度に感じるのだが、草間が「あんな様子」でもここに人が集まるのは、零やシュラインの朗らかさ故だろうな、と思う。「ホーム」(家)のような温かさがここにはあるのだ。
「それでそんなに不本意そうであるにも係わらず、その依頼は受けるんですね? 草間君」
 ソファに背を預けながらシオンは草間へと視線を投げる。
 その問いに、むっつりとしたまま、心底不本意そうに「ああ」と草間は頷いた。
 好き嫌いの激しい草間所長の、ここまで不機嫌になりつつも断らなかった依頼とは果たしてどんなものなのだろう。そして依頼人はどんな人物なんだろうか。
(草間君には悪いけれど)
 少し楽しみだな、とシオンは口元に浮かべた笑みを深くする。
 その時、トントントン、と柔らかなノックの音が室内に響く。
 そして、事務所のドアが所長の気分を代弁するかのように、軋みをあげながら開いた。
  


 ノックの音ともに開いた扉に視線をやると、一人の男が立っていた。
 二十歳前後だろうか、一見今時の学生といった風情の青年だったが、シオンは彼を認めるや否や軽く眉を顰めた。
 (ご同類、ですか)
 匂いというのだろうか、気配というのだろうか、微弱ながらもその青年が発するソレは人外のモノだった。
 人間であれば余程そういったものに敏感でなければ気付かない程度ではあるのだが、本性がイフリートであるシオンや怪奇現象に数多く携わっている草間には一目で分かってしまうほどの違和感を漂わせている。
 青年は不機嫌そうな草間の姿を認めると、殊更にこやかに微笑みながら事務所の中へと入ってくる。
「やあ、草間。お邪魔するよ」
 そして青年の背後からは草間興信所の常連でもあるセレスティ・カーニンガムが姿を現す。
「あら、セレス」
 給湯室から戻ってきたシュラインが意外そうな声をあげると、セレスティは「こんにちは」と穏やかな笑みを浮かべた。
「先程扉の前でお会いしたんです。ご依頼があるとのことなのでお話を伺わせて頂こうと思いまして」
「そう、お誘いしたんだ。構わないよね、草間」
 草間は青年に向って鋭い眼差しを向けるものの、何も言わない。イエス・ノーのはっきりした彼が何も言わないということは了承の意なのだと、付き合いの長いメンバーは知っている。セレスティはシオンに目礼して目の前のソファへと静かに腰を下ろした。
「彩子が来ると聞いていたんだが、お前が来るとはな。明生」
 不機嫌な面構えのまま、溜息と共に草間が言葉を零すと、ああ、と青年──明生は小さく笑い声をたてた。
「本人もそのつもりだったんだけど。前回イタズラが過ぎたし、今回もここに顔を出したら何をしでかすか分からないからね。家で留守番をさせてる」
「賢明な判断に感謝すべきか? まあ、出きるならしばらくお前らの顔は見たくないし、怪奇系の依頼も御免なんだが」
「つれないな。そういいたくなる気持ちを分からないでもないけれど。でも仕事請けてくれるんだろう?」
 明生はすっと草間からその傍らに立つシュラインへと視線をむけた。
 シュラインが小さく頷く。
「……ええ、承ります。詳しい依頼内容については事務所来訪時にと彩子さんから伺っているんですけれども。……ああ、立ち話も何ですからこちらの方にお座りください」
 ソファを勧めるシュラインに明生は柔らかな笑みを浮かべたまま、左右に首を振った。
「時間があまりないので、失礼ですがこのままで。まずはこちらを預かっていただけますか」
 青年は一冊の古びたノートと袱紗に包まれた細長い箱を鞄から取り出す。
「これは?」
「”爺様”……彩子の祖父である津森孝仁(つもり・たかひと)の日記……というかどちらかというとメモ帳かな……と、この間手に入れた掛軸です。この掛軸は生前交流のあった日本画家から孝仁が頂いたものらしいんですが、何故か秘密裏に手放してしまって。今度その画家の若い頃の作品を中心にした作品展を開くから貸して欲しいと、これまたある美術館からいわれて、大急ぎで探しだしたという品なんですが」
「それで? この掛軸に何か異変でも」
 不機嫌そうに呟く草間に青年は首を横に振る。
「今回の調査は比較的まともなんだよ。……どんな理由で孝仁がこの画を手放したのかを調査してほしいんだ。だから当時の孝仁の様子が分かるように日記も持ってきた。みてみれば分かるけれど綺麗な人物画だよ。孝仁はこの日本画家のファンで他の作品は大事に持っていたのに、それだけは早い時期に手放してる」
「……随分とまともな部類に入る調査依頼だな。確かに何か理由があるんだろうが。だが、それを知ったところでどうするんだ?」
 故人が秘したことを興味本位で調査するのは如何なものか、と草間が問うと青年は小さく溜息をついた。
「その掛軸の今後を考えるときに考慮する。画家にお返しするか、蔵に入れるか、それともどこかに寄贈するか……。この画を本当はどう思っていたのか、僕たちは孝仁の気持ちを知りたいんだ」

 
 帰り際、青年が何か思い出したように草間を振り返る。
「あ、そうそう。怪異と呼べるものじゃないんだけど、彩子が近頃よく”爺様”の夢を見るって言ってたな。……もし話すことが出来たら宜しく伝えといて」
「……了解」
 草間は小さく溜息をついた。



「お話を伺っていて気付いたんですが、依頼人の……津森明生さんが仰っていた津森孝仁というのは、あの…?」
 シュラインが淹れた紅茶に一口、口をつけると、セレスティは書棚を漁る草間へと言葉を投げかけた。
「あの、と言われても俺は作家に詳しくないからな……」
 埃の被った表紙をポンポンと軽く叩くと草間はテーブルの上に一冊の本を投げ出した。
「武彦さん、書籍の取り扱いはもうちょっと丁寧に……あら」
 軽く眉を顰めて草間を嗜めたシュラインが目を見開く。
 草間が放り投げた本のタイトルは『時の果て』。著者名は『津守孝仁』となっている。
「彩子さんのお爺様って……この津守孝仁(つもり・たかひと)なの?」
「この津守孝仁だな。シュラインは読んだことあるのか?」
 その問いに頷きながらシュラインは溜息を落とした。
「そう……ね。有名な作家さんだけれど、教科書にテキストが載るほどではないし、純文学自体今はマイナーだから知らなくても仕方ない、のかしら。でもこの人、どちらかというと大衆文学よりの作風よね。あのね……直澄賞や座間文学賞とか取ってる人なのよ」
 本当に知らないのかと問うシュラインの言葉にシオンと草間は微苦笑を浮かべながら首を左右に振った。
「私は書よりは食の人ですからねえ。……でも有名な作家の方であればどんな人物であったのか、どんな方と交流があったのか調べやすいですね」
 シオンの言葉に、そうね、とシュラインは呟き、セレスティが「そういえば」と何かに気付いたかのように言葉を発した。
「津守孝仁といえば、彼の師匠として有名でしたね。草間さんやシオンさんも彼の名前はご存知だと思うのですが」
 そうしてセレスティが口にした名はあまりに有名な作家のものだった。
「若くして自殺された作家ですが未だに人気がある方ですから、作品をご存知なくとも彼の師匠として認識されてる方もいらっしゃるやもしれません」
 件の二人からの反応はやはり芳しくなく、シュラインとセレスティは仕方がないと顔を見合わせて微苦笑を浮かべる。
「……まあ、津森の爺さんのことは置いておいて、問題の掛軸を見てみるか。シュライン、頼む」
 居心地が悪げに促す所長にシュラインは小声で笑いながら席を立つ。
「あ、ごめんなさい、シオンさん手伝ってくれるかしら。手の油がつかないように手袋してね。武彦さんはデジカメで撮影をお願いね」
 自身も手袋に手を通しながら、シュラインがシオンに席を立つように促す。
「この事務所じゃちょっと広げるのは無理そうだから肝心な部分、部分で見ましょう。ええ、その掛緒と、そっちを持って。あまり強くつかんじゃ駄目よ。破ったら賠償ものだから気をつけて」
「ええと、これで大丈夫でしょうか」
「ええ」
 シオンの手を借りながら、スルスルとゆっくりとシュラインは掛軸を広げていく。
 そしてそこに描かれていたのは。
 縁側に腰掛け庭を眺める青年の姿だった。
 着物姿の青年は穏やかな面持ちで庭へと視線を注いでいる。画面の奥には淡い草木の陰が見え、青年の視線の先にはどこからともなく舞込む白い花の花弁があった。
「確かに綺麗ね。……でもこれは掛軸用に描かれた作品ではなくて、後から掛軸に表装したっていう感じね。……シオンさん上の方を少し巻いてもらえる? 署名や落款を見てみましょう」
 署名と落款は青年が手をついた縁側の床に、絵の邪魔にならぬよう小さくあった。
「『友成』……ともなり、かしら。ゆうせい、かしら。落款も篆書で友成ね」
「ではその絵を描いたのは佐伯友成画伯でしょう。絵から伝わる波動も彼のものですし、間違いはないかと思います」
 セレスティの言葉に草間が眉を顰めた。
「その画家は有名なのか」
 草間の問いに、セレスティは数瞬ためらいを見せたあと、吐息とともに「ええ」と頷いた。
「……日本を代表する日本画家でいらっしゃいますよ。財閥の文化事業方面でお世話になっています」
「つまり、俺とは関係ない世界に住んでる人間ってことだな」


「有難う、シオンさん。もう一人でも大丈夫」
 二人の会話に苦笑を浮かべながらシュラインは掛軸を巻きあげ、紐で括る。軸木に何かないかと調べてみたが特に細工などは見あたらず外題もない。
「ああ、では私が箱にしまいましょう。私でもそれくらい出来ますから」
 シオンはシュラインから掛軸を受け取り、箱に戻そうと上蓋を持ち上げ、何気なくその裏側へと視線を這わせる。すると、薄く鉛筆で描かれたらしい文字が並んでいることに気付いた。
「『昔日に思いを馳せ』ですか……。作家さんか画家さんかどちらが書き込まれたのかは分かりませんが、何か哀しいことがあったのかもしれませんね」
 シオンは目を細め、丁寧な仕草で掛軸を箱の中へと収めた。



 こんな夢を見た。
 彼は古びた二階建てアパートの一室へと入っていき、書籍や紙に溢れた室内を呆れたように見つめている。
 しばらく眉を顰めその状況を眺めていたが、小さな溜息を落として、部屋の隅に置かれた文机の上へと手を伸ばした。そこには何事かが書き込まれた原稿用紙が無造作に放り投げてある。
 彼はそれを丁寧にまとめ、端に穴を開けて綴じ紐で括ると、ペンを片手に一枚一枚めくり始めた。
 一枚めくっては前頁に戻り、何事かを書き込むと、また一枚めくる。
 その作業を丁寧に繰り返す。
 時折視線をあげて、小さな窓から見える町並みに、彼は感慨深げに視線を注いでいた。
 


 ノートへの目通しは、シュラインが担当することとなった。
 時折旧字や草書体で書かれた文面を読破するのは、他のメンバーには荷が勝ちすぎていたためだ。
 津守孝仁……いや、津森孝仁が綴ったというそれは、依頼人が言うように日記というよりメモに近かった。
 古びた大学ノートには明治の晩年に生まれ平成の世も垣間見た作家の、青年時代の何気ない生活が書き込まれている。

「昭和2年4月×日
 父より便りが来る。やはり父は未だ小説などといふものを認める気にはなれぬらしい。私への小言は兄へも向っているやうだ。申し訳ない」
「昭和7年8月×日
 学校時代の恩師であるM氏の宅を訪れる。かの人はあいかはらず。細君はとても気立てが好い」
「昭和9年11月×日
 三田文学に掲載された○○君の作品は……」
  
 書き込まれている日付は毎日のこともあれば、一週間や十日ぽっかりと空くこともある。
 内容は日常にあった些細なことに対する簡単な感想や、その日の食事のメニューが大半であり、小説家「津守孝仁」というよりは「津森孝仁」青年の、若かりし頃の物の考え方やその当時の生活が文面から伝わってくる。
 だが、調査対象である掛軸についての記述は昭和初頭には見当たらない。

「昭和11年3月末日
 夜半、池上逝去の報。雪がちらつく。雪月花のとき、か」
「昭和11年4月×日
 先人の言葉。あるほどの菊投げ入れよ棺の中」
 
 そして昭和11年5月の日記の中に、シュラインはそれらしき記述を発見することが出来た。
  
「随分と迷ったが佐伯君から貰った絵は手放すことにした。飾るには思ひ出が多く蔵するには忍びない。佐伯君の才には賞賛を惜しまぬが、かの作品は己の悲しみを冗長させるばかりである」
 
 前後の文脈から察するに、どうやらこの池上何某氏の逝去と今回の調査対象は関係があると推察できる。
 シュラインは眼鏡を外し、ふぅっと大きく息を吐くと、こう独りごちた。
「じゃあ、次は全集に収められているエッセイや論文への目通しね。そっちは武彦さんやシオンさんにも手伝ってもらいましょう」
 
 

 「おやおや、これはお珍しい方から電話が掛かってきたものだ」
 佐伯画伯の鎌倉の自宅へと電話をかけると、受話器の向こうからは笑みを含んだ声が返ってきた。セレスティの瞼の裏に、矍鑠(かくしゃく)とした老人の姿が浮かび上がる。
 彼と直接言葉を交わすのは3年ぶりくらいだが、口振りから察するにどうやら相変わらずのようだ。
「ご無沙汰しています。どうやらお尋ねするまでもなくご壮健でいらっしゃるようですね」
「まぁ、今年の夏の暑さにはさすがに体調を崩したがの。まあ、まだあっち側からお呼びはかからんよ」
「それは何よりです」
 セレスティの言葉に老人はカカッと笑い声をたてる。
「そちらは……聞くまでもなかろうな。で、この爺にいったいどんな話かね。昔話をしたいという訳でもなかろう?」
 察しのよい佐伯氏にセレスティは苦笑を浮かべつつ、実は、と事情を説明する。
「ふむ。話を聞く限り、恐らくあれのことだろうと思うんだが。……すまんが近いうちに一度その絵をわしに見せてもらえんかね」
 願ってもない申し出にセレスティの方が驚く。出会った頃とは異なり、今や彼は貧乏画家などではなく日本でも屈指の日本画家である。いつくもの名誉職に名を連ね、公演や執筆で多忙なはずなのだが。
「都合の方は良いのですか?」
「いつでも構わんよ。……夏に体調を崩したといったろう。まだお呼びはかからんが準備はな、始めるに遅くはないだろうと思ってな。周りに色々引き継いで今は随分とゆったりと過ごしておるよ。……久し振りにあんたの綺麗な顔も見てみたいし、そちらの都合の良いときにでも顔を出してもらえると助かる」
 陽気な口振りで話す佐伯氏に対し、セレスティの顔が一瞬曇る。
 考えてみれば彼もまた津森孝仁と同時代を生きた人間なのだ。元気だとはいっても、年齢から考えていつ鬼籍に入ってもおかしくはない。
「あまり寂しいことを仰らないで下さい」
「ま、人の常だから仕方あるまいよ」
 柔らかな口調でなだめるように呟く老人に聞こえぬよう、セレスティはそっと溜息をつく。
 そして穏やかな声音で佐伯氏に話しかけた。
「では、あなたが好きだったあの名店の羊羹でもお土産にお持ちしましょう。日時については後ほどまた御連絡します」
「おお、楽しみに待っとるよ」
 老人は始めと同じように楽しげな笑い声をたてた。

 ゆっくりと受話器を下ろした後、セレスティは深く息をつき、視線を窓の外へとやる。
 庭の落葉樹は色づき、風が吹くたびに舞うように散る。
 夏はとうに駆け去り……冬が来ようとしていた。
 
 

 東京駅から横須賀線で約一時間。佐伯友成氏の屋敷は鎌倉駅と北鎌倉駅のちょうど中間に位置していた。
 東京では既に木々は落葉し、空にむなしく枝を伸ばすばかりとなってしまっているというのに、こちらでは今の時分が紅葉の盛りであるようだ。
 秋の陽射しを受けて、所々で銀杏の葉が金色の炎のように輝いている。

 シュライン女史が丹念に日記に目を通した結果、前後の文脈から掛軸は「池上」なる人物と関係がある可能性が高いとのことだった。日本文学に疎い私ではあったが、津守氏とその池上氏がどのような関係であったのか、草間君と共に近在の中央図書館へと赴き津守氏の著作や評論にあたってみることにした。戦後活躍された作家ということで旧字の多い文章には難儀したが、シュライン女史と草間君の助力もあって判明したのは次のような事柄だ。

 津守氏は明治40年に山梨県に生まれ、一時画家を目指していたものの夢破れ、その後東京のW大学へと進学した。ここで件の池上氏と同窓として出会ったらしい。津守氏は三十代の半ばになってようやく文壇から評価をされた作家であったが、この池上氏は早くから津守氏の才を認めていた数少ない人物の一人だったそうだ。青年期の津守氏のエッセイには池上氏の記述が多く見られ、また研究書にも津守作品に多大な影響を与えた人物として池上氏を評すものが多い。
 津守氏の3つの転機を語る際に、多くの論文で二十代の後半に池上氏、三十代に末弟、その後に師弟関係を結んでいた弟子、それぞれとの死別をあげていたのだが、日記にある例の掛軸と思しき記述と亡くなった人々の時期を鑑みるにつけ、あの絵は池上氏がらみと確定してよいだろうという結論に至った。
 また親友である池上氏の死を悲しみ、悲しみの深さゆえに作家はその姿を模した絵を手放したのであろうというのが、調査メンバーの一致した見解である。

 私達はその推測の裏付けを得るため、またこの掛軸の今後についての一案を得るため、作者である佐伯氏を訪ねることとなったのである。



 おや、これは懐かしい。
 まだ残っていたとはなあ。保存状態もいいし、随分と大切にしてもらっていたんだな。
 まるで新品のようだ。
 うん、これは確かにわしが随分と昔に……そうだな二十代の時に描いたものだから……なんだあれからもう六十年以上も経ってしまってるんだなあ。こちらも老けるわけだ。
 ああ、それにしても懐かしい。
 ん、この人物? ああ、これは池上さんだ。池上……雄一だったじゃないかな、下の名前は。
 そうそう、孝仁さんの親友のな。
 あ? 孝仁さん? ああ知っているとも。わしも友人の末端に加えてもらっていたからな。
 孝仁さんとわしは同郷でな、年は離れておったがあの人の末の弟と同級だったせいもあって、上京してきてからも懇意にさせてもらっていた。津森の家は地元では名士でな、孝仁さんも若い頃は鳴かず飛ばずだったんだが、実家の援助があったのか食うのにそんなに困った様子はなかったんだよ。
 わしも池上さんもよく孝仁さんの所で飯を食わしてもらったもんだ。
 池上さんは孝仁さんと同窓で、大学を出た後は小さな出版書肆に勤めていた人でな、よく孝仁さんとあーでもないこーでもないと文学談義なんぞをしていた。
 口喧嘩もよくしていたが、二人とも直ぐにケロリといつもどおりに戻ってな、あれは見事だった。
 孝仁さんの初めての単行本は自分の所で出したいとよく云っていたが……結局、それは叶わなかった。肺を病んでな、床についてからあっという間だった。
 その絵はな、池上さんの晩年の姿を模したもんだよ。
 そう、そうだったな……。池上さんはいつも……さいごまでこんな風に笑んでいるような人だった。
  
 孝仁さんは一旦この絵を手放したのか、そうか。それは仕方ない。
 あの二人はな、本当に仲が良かった。
 今でも覚えとるよ。池上さんの葬式でな、孝仁さんはずっと遺影を睨みつけていた。黙って……こう手を強く握りこんでな。あふれ出しそうな自分の感情を押さえ込むように、じっとしていた。普段インテリ然としたあの人がこんな余裕のない顔をするとはと少し驚いたものだ。
 そのあとしばらく孝仁さんは筆を置き、わしは逆に悲しみに任せてこんなものを描いてしまったわけだが。
 ……当時の孝仁さんはこの絵を見るのも辛かったのかもしれん。
 
 実はこの絵はもう一枚ある。いや、あった、が正しいのか。今もあるかどうか分からん。
 もう一枚は池上さんのご遺族に差し上げたんだ。
 もしや、その展示会とやらのスタッフはそちら経由でこの絵を知ったのかもしれんな。
 よくもまあ、この絵に目をつけたもんだ。若いのにも勉強熱心なのがいるね。
 だがな、これは人に見せる絵ではないよ。
 技量が拙いというのもあるがな、これはわしと孝仁さんと当時の池上さんを知る人間だけが見れば好いものだ。そういう人間だけに見て欲しいものだ。下手に評価なんぞもらってしまったら胸糞悪い。そうだな、その美術館にはわしの方から連絡をいれておこう。まあ、別の作品を用意すれば文句はなかろうよ。

 この絵の処遇……? 
 そうさなあ。
 
 ……亡くすということは、失うということは確かに哀しいことだ。心が哀しみで満たされて、それ以外に考えがいかなくなる。その人がいなくなってしまったことばかりが辛い。だがな、時を経るごとにその人物との思い出が懐かしく、慕わしく、貴く思えるようになる。
 思い出がいつしか心の支えになることだってあるもんだ。
 わしが池上さんや孝仁さんのことをそう思うように、先に逝った友人たちを思うようにな。
 きっと孝仁さんも悲しみばかりでなかったと、信じているよ。
 ……そして、わしのこともいつかの日にそうなってくれることを信じているよ。
 カーニンガムさん。
 
 ああ、そうだ今後だがな、すまんが、しばらくこの絵はわしに預からせてもらえんかね。
 その後はそうだなあ、彩ちゃんのコレクションの片隅にでも飾ってくれればと思うよ。うん、孝仁さんのお孫さんの彩子ちゃんは、その筋では有名なコレクターだからな。故人の思いを……わしらの思いを汲んで大切にしてくれるだろう。
 
 

 こんな夢を見た。
 空は高く、青く、風は春の匂いを含ませて東南から吹いていた。
 青年が柔らかな陽射しの降り注ぐ中庭を、縁側に腰掛け眺めている。
 その姿を裏木戸から認めた彼は手を挙げ来訪を告げると、つかつかと青年の前まで歩み寄り、手にしていた原稿の束を差し出した。
 青年は相好を崩すと、原稿を受け取るなり手近の文机から赤鉛筆を取り出し、その紙の束をめくり始めた。
 その様子を見ていた彼は呆れたように目を丸くし……それから楽しげに笑った。
 青年が時折何事か尋ね、彼が鷹揚に答える。
 
 春まだ浅き庭の、穏やで温かな情景だった。
 

「ちょいと、こんなところでうたた寝するなんて、あんたって子も器用だね」
 何か硬いもので軽く肩を叩かれて津森彩子は目を開けた。
 ぼやけた視界に映ったのは、呆れ顔の碧摩蓮の姿。どうやらその手にある煙管で小突かれたらしい。 
「ああ、ごめんなさい。ちょっと締め切りが近くてこの頃寝不足だったのよね」
 曰くありげな美術品のコレクターである彩子は、アンティークショップレンの常連でもあった。
 今日も何か入荷してはいないかとふらりと立ち寄ったのだが、蓮が店の奥に商品を取りに行った数分の間、眠ってしまっていたらしい。
「でもまあ、随分といい夢だったようじゃないか。嬉しそうな顔しながら眠ってたよ」
「うん、いい夢だったから。もしかしたら、いい結果が出たのかもしれないな……」
「何のことだい?」
 訝しげな表情をする蓮に、彩子は笑顔を向ける。
「レンが祖父さんから預かってくれた掛軸の件、草間君のところにお願いしたんだよね。それの件」
 彩子の言葉に、ああ、と蓮が頷く。
「あれは預かったわけじゃない。ただ、売れなかっただけさ。あれは、呼ばなかったからね、客を」
 
 その時、彩子の携帯電話が鳴った。見れば着信名には草間武彦とある。
「はい、もしもし? 草間君」
「……噂をすれば影だね」
 蓮が面白げに小さく笑い声をたてる。
「あー、今鎌倉から戻った。で、依頼の件なんだが」

 調査の結果は聞かなくとも分かっていた。
 
 
 END  







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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 草間興信所事務員
1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥
3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / びんぼーにん

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■         ライター通信          ■
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この度はご参加有難うございました。ライターの津島ちひろです。
あいも変わらずお待たせしております。

シュライン・エマさま
いつも有難うございます。今回は例の人と直接対決?して頂きました。
津島個人としては草間さんとシュラインさまは友人以上恋人にはあと一歩足らない家族同然の相棒、
という感じで描かせて頂いたんですが、いかがでしょうか。
至らない点は仰っていただけるととてもありがたいです。
また機会がありましたら宜しくお願い致します。

津島ちひろ 拝