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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


餓える牙

 夜の静けさに亀裂を入れたのは悲鳴だった。高く長く、絞るような。末期を思わせる、悲嘆と恐怖に彩られた声は、夜の正体を晒した。夜と人とは相容れぬもの。駆逐出来ぬ畏怖。それを忘れかけた人々に知らしめるかのように。
 冷たい高層が連なる中にあって珍しく鬱蒼と緑を茂らせた公園を、疲れた身を凍えた夜気に委ねて歩いていた青年は、声を聞き届けた――夜より齎される闇に満ちた言伝を。
 青年は咄嗟声の方向へ目を遣る。だが、灯り少なく視界を遮る影の多い園内を見渡す事は叶わない。しかも、声は青年の在る場所より離れているようだ。
 青年は額に落ちかかった金の髪を苛立ちを抑えるように掻き上げて、足を早めた。それはすぐに駆ける速度へと変わる。
 駆けながら青年は、ロングコートのポケットからキーホルダーを取り出した。それに付けられたミニマグライトをつけ、辺りへ光を走らせる。照らすのが目的ではない。こちらの存在を報せる為だ。
「聞こえたら、返事をしろ!」
 声を求めるがいらえはない。
 青年の青い瞳に焦りが混じる。…もう、遅いか。
「何処に居る?!」
 更に叫ぶ。だがそれにも応えはなかった。
 そして青年はそれ、に気付く。
 濃厚な匂い。錆びた鉄にも似た。だが錆びには決して生み出せぬ膿む程のねっとりと絡む匂い。
――血臭。
 気付けば水溜まりに足を踏み入れていた――否。
 血溜まりに、足が浸っていた。
「…………」
 青年は1メートル程先へライトの光を向けた。
 無残な疵に身を犯された骸が三つ、折り重なっていた。

 話を終えて青年は、手にしたカップに口を付けた。一口で安物と判るコーヒーはそれでも疲れた身に染みた。昨晩三つの死体と遭遇してしまった後、警察による事情聴取やら何やらで、結局家には戻っていない。
「お前も本当にそんなモノばかりに縁のあるヤツだなぁ」
 冷め切ったコーヒーで眠気を散らそうと、草間興信所の主、草間武彦はカップを呷った。
「も、って言うのはソレ、自分の事? 草間サン」
 にこりともせず青年は返す。
「……あー、まあそれはともかく。で、土曜の朝から人んちに押しかけたのはそんな血生臭い話をする為なのか、聖?」
 神聖にして爽やかなる朝を曇らせるのが目的か? と他の者が聞いたら失笑を買いかねない言葉を付け加えて、草間が問う。
「そんだけの為にわざわざ来るわけないでしょー…。俺、昨晩の事情聴取で疲れてんだからさ」
 青年……聖は、彼にしては珍しく目の下にクマなどこさえて幾分やつれた顔を苦い笑いに歪ませた。
「それでそこの少年は?」
 聖の横に黙して座した少年に漸く気付いたと言った様子で、草間は顎で少年を示す。
 高校生だろうか、学生服をきっちりと着込んで、真面目な雰囲気の少年である。自分を見る草間に、少年はぺこりと雰囲気に違いない生真面目な会釈をする。
「だから、俺は依頼人を連れて来たんだって」
「……これが?」
「オキャクサマに随分と失礼だね、草間サン」
「……あの!」
 埒の明かない会話を続ける二人に業を煮やしたのか、少年が立ち上がった。
「アイツを、助けて欲しいんです。警察に言っても判ってくれないし……ここしか頼るトコなくって……」
「アイツ?」
「……俺の友達です」
「どうにも話が見えないな。聖が先刻した話と、君の話は関連が?」
 少年はこくりと肯いた。
「この子は、俺が遭遇した事件の犯人とおぼしき人間の……友達らしいよ」
「人外に友人が?」
「草間サン」
 咎める声に草間は肩を竦めた。
 煙草をシャツの胸ポケットから取り出して銜える。火を付けて、睨む様子の聖に右手を上げた。
「悪かった。だが聖、お前の話しを聞く限りじゃあ、人の仕業とは到底思えなくてね」
 三人の遺体はどれも身体に著しい損傷があり、警察は人の手によるものではないと判断している様だ。食い千切られた跡は、どう見ても獣の歯形であり、引き裂かれた跡は獣の鋭い爪と……それは実際に遺体を見た聖も感じた事である。
「でも! 確かにアイツだったんです! 俺がアイツを見間違う筈、無いんだ……」
 最後はいくらか勢いを落として、少年は言い終わると力が抜けたのかすとんと元の位置に腰を落とした。少年の背を聖がやわらかく叩く。
「この子は俺が見たのより一つ前の事件を目撃しててね。その時にお友達を見たそうだよ。その子が人を襲って食べるのを」
「俄には信じ難い話だが……寝惚けているのでも巫山戯ているのでもなさそうだな」
 少年の友人と言うことはおそらく同じ高校生であるのだろう。それが人を襲って食らうなどと、言われて容易に信じられるものではない。いくら草間が怪奇探偵と呼ばれているとしても、だ。
「寝惚けとお巫山戯でここまで来ないでしょ……で、今回の依頼と言うのはね」
「その少年を止めて欲しい、か?」
 先程少年は「助けて欲しい」と言った。それは友人の凶行を止めろ、とそう言う事なのだろう。
 聖は無言で肯いた。
「お、お願いします!」
 聖の隣で俯いてコーヒーを啜っていた少年が顔を上げた。真直ぐに草間を見て、言う。
「アイツ、本当は人を傷つけたりなんて出来ないヤツなんだ。臆病で……それ以上に優しいヤツなんだ。何があったか判らないけど、きっとやりたくてやってるワケじゃない。何かに巻き込まれたとかそんなのに決まってる」
 少年は言い終えてまた項垂れるように視線を自分の膝の上に落す。草間は膝上で握られた手が震えているのを寸時見下ろしてから聖へ藪睨みを向けた。
「しかし聖……どうしてお前の持ってくる依頼はこんなのばっかりなんだ?」
「俺に限らないでしょ。俺がここに来る前から草間サンとこの依頼って言えば『こんなの』ばっかりじゃない。それに俺は依頼を持って来たんじゃなくてたまたま依頼人に居合わせただけだし……と毎回似たような台詞言わせないでくれるかな」
 すっぱりと言いきって、聖は立ち上がった。インスタントコーヒーの粉末を空になっていた自分のカップに入れ湯を注ぐ。湯気がふわりと薫りを立ち上らせた。安いコーヒーでも、それなりに香ばしい。依頼人の分も新しく入れ、聖は席に戻る。
「で、草間サン、請けてくれるの? この仕事」
 聖からカップを受けとって恐縮気味に礼を述べた少年が、聖の声に顔を上げ草間を見る。瞳に浮かぶのは縋るような。
「……あいにく俺はまたもや忙しい身でな。だがちょうどいい、これから他の仕事を終えて報告に戻って来る奴等が居るからそいつ等に任せよう」
「草間サン、仕事を終えたばかりの人に任せる気なの?」
「何か問題があるか?」
「……別にいいけどね」
 ふんぞり返って開き直りを見せる草間に、聖は漏れそうになった溜息をコーヒーと共に喉に流し込んだ。

―――――――――――――――――――――――――――

 朏棗は道を往く。
 早朝、と言う程早くはない、だが時は未だ午前中。空気の清浄で涼しげな秋の朝――と言いたい所だが、朏が住む八王子の端、緑の多い町並とは随分と雰囲気は違う。午前とは言え人は多く、通勤から通学、目的の知れない若者まで種々雑多が歩道を流れ、車道はと言えばこれまた途切れを見せない。
 爽やか、と言うには少々混沌とした人の気を漂わす都心の、その存在を朏は嫌いではなかった。
 ウチの近所とは全然違うけど、と軽い足運びに呟きを乗せて朏は目的のビルを目指す。友人から引ったくるように受け取った、書類を片手に。
 書類は調査の結果を纏めたものだ。そして調査とは朏の友人がこれから向かう場所に事務所を構える興信所に協力依頼を受け、仕事を終えた後に作成された代物である。
 季節の変わり目に風邪を引き、体調を崩した友人が熱を押して外出しようとしている所に出会した朏は、無理をするなと強引に書類を取り上げ、友人を部屋に押し込み大人しくしているように強く強く言い含め書類を片手に友人宅を辞去し――現在に到る。
「ったく、すぐに無茶すんだかんな、アイツは。風邪引いたらあったかくして寝てるのがイチバンだっつーのに」
 そ、寝るのが一番、と繰り返して朏は辿り着いた書類の届け先――草間興信所の扉を勢い良く開けた。


「もーっ、暇でさ」
 勢い良く明けられた扉から入室した棗は一同を見回して、あ、と小さく声を上げると声を潜めて言う。
「ごめ……来客中だったか」
「見ての通り……暇潰しなら余所でやってくれ」
 草間がソファに座るシュラインの背後に立って、棗にしっしっと手を振る。
「そこの二人、新しい依頼人だろ? 何なら手伝うぜ?」
 草間の台詞と態度を見て見ぬ振りか、棗は真直ぐ応接のソファに向かいシュラインの隣に腰を降ろした。
「あ、コレ調査の報告書。本人が一寸体調崩したんで俺が代わりに持って来た」
 振り返りもせず草間の胸へと肩越しに書類を押し付けると、依頼人に向かって人懐こい笑顔を向ける。
「俺、朏棗。よろしくな? たまにここの手伝いしたりしてるんだ」
「俺は聖。草間サンとはオトモダチ……かな? 今回の依頼人はこっちの彼」
 負けずに人懐こく笑う聖が示した学生服の少年は新たに加わった調査員に生真面目な様子で頭を下げた。
「俺は美濃部有生です。あの……お願いします!」
「任せとけって……で、依頼はどんなの?」
 依頼内容も全く知らずに請負う自信は何処から来るのか、棗は瞳を細めて楽しそうである。
 それに苦笑するように言葉を足したのはシュライン。
「ええと……、では先程の続きをお願いしても良いかしら……聖さん?」
 草間の旧知らしいと知り、少年の緊張を解す事も目的に、シュラインは幾分砕けた口調に変える。
「はーい、じゃ、早速。……ここんとこ連続してる事件を知っていると思うんだけど」
 事件は、今月に入ってから東京某所に集中している、同一犯と見られているものだ。
 いずれも死体には獣の噛み傷のようなものがあり、死因もそれによるものと見られる。
 一時期は動物園等から逃げ出した猛獣の仕業ではないかと言われていたが、調べによれば各施設からはその様な連絡も無ければ、事実も無いらしい。
「で、警察は事件の再発を警戒して事件が集中している地域を巡回してたりしてる、ってのはニュースで見て知ってるでしょ?」
「ええ。一番最近のだと……死体に残された歯型がライオン等から比べたら随分と小さい物らしいと言うのも聞いたわ。でも犬ともまた違うようだと……」
 シュラインが今朝から既に何度も繰り返されているニュースを思い出しつつ言う。
「そうそう、多分俺はその事件に遭遇したんだと思うんだけどさ……と言っても、犯行後、なワケだけど」
 聖は自分が遭遇した死体と、その様子を語る。その間にシュラインが視線を向けた少年、美濃部は膝頭に両手を乗せ何かを堪えるように握り締めていた。
「そして、彼……美濃部くんのお友達がどうやらその事件に係りを持っているらしい」
「係りって……獣を使って人を襲わせてるとかって……そんな感じで?」
 棗が美濃部に対する気遣いからか、声を潜める。
「……違い、ます」
 応えた声は震えている――美濃部だ。
「人を……襲っているのが、多分……」
「その、友達って?」
「……はい」
「有生の友達って人間じゃねえの?」
 そのものズバリな棗の質問に、シュラインが隣で目を剥く。
 美濃部の言う事が真実ならば、その可能性は否定出来ないとシュラインも考えた、がいきなりそのままを言う者があろうとは思わなかったのである。
 聖は苦笑に唇を歪めて、頭を眼鏡の弦を親指で上げる。
「草間サンと同じような事言うね……少なくとも、彼が知っているお友達は人間だったらしいよ」
「普通の人間が、人を襲ったりするか? 喰い殺すってのは、人間に出来る事じゃないと思うんだけどな?」
 ソファに背を凭せ掛け、棗は思案に腕を組む。
「でも……、でも俺は見たんです。アイツが人を襲うのを……信じたくないけど……でも、見たんです。だけど、アイツはそんな事をするヤツじゃなくて、出来るヤツじゃなくて。……きっと何か理由があって、自分ではどうしようもなくなってるんじゃないかって、俺……ッ!」
 膝を握る手は爪が布を通して肌に食い込まん程。その手にシュラインが手を重ねる。
「落ち着いて……、お友達を助けたいんでしょう?」
 美濃部は打たれたかのように顔を上げる。そこにあるのはシュラインの青い瞳。
「だからここへ来たんでしょう? だったら、落ち着いて話してくれるかしら。一つでも多く情報が要るの。お友達を助ける為に、私達は間違うわけには行かないから」
 釦を一つ掛け違えただけで、真実には辿り着けない。
 辿り着けないが故に失うものが大きい事を、草間と共に多くの事件と係って来たシュラインはよく知っている。
 美濃部はしばらくシュラインの瞳を見詰め、頷いた。
「済みません……、俺の知ってる事は全部、話します。何でもします……だから、アイツを止めて下さい。……助けて、下さい」
 頭を深く下げて頼む美濃部の肩に空いた手を乗せ、シュラインは微笑む。
「確かに、御依頼承りました……、だから話してくれるわね? もしかしたら……貴方にとって辛い事を聞く事にもなるかも知れないけれど」
 美濃部は、下げていた顔を上げる。視線は揺らがず、真直ぐにシュラインを見る。
「はい」
 短くも強い言葉に、シュラインは少年の手を軽く叩く。それは小さい激励だ。
「では早速始めさせてもらうわね」
 表情を引き締めて、シュラインは姿勢を正す。瞬間シュラインに倣うように、全員が姿勢を正すのに、シュラインは小さく笑う……横目で見た草間までもが姿勢を改めている。
「武彦さんも、少しは手伝ってもらえるのよね?」
 聞く体勢に入っていると見て、シュラインは、ルーズリーフの1枚に必要事項を書き込むと草間に手渡す。
「……判った。確認しておこう」
 案外素直に受け取ると、草間はデスクまで行き受話器を手にした。迷いの無い様子で電話をかけ始める。
「何を頼んだんだ?」
 草間を目で追っていた棗が聞く。
「警察と報道関係から手に入れられる情報の確認よ……美濃部くん」
 呼んだ途端に少年に緊張が走る。
「お友達の名前と、判るなら住所を教えてもらえるかしら。それと通っていた学校名と。あと、写真があったら借りたいのだけれど」
「あ、はいっ……名前は熊野篤司です。住所は……」
「これに書いてもらえる? 出来れば電話番号も」
 手渡されたペンで、美濃部は住所と電話番号を記入する。右上がりの文字は、決して綺麗とは言えないが真面目そうな少年の気質がよく表れた文字。
「写真も一応持って来ました。一寸前のだけど……。俺、あいつ……篤司とは中学迄一緒で高校が違っちゃってからはあんまり会えなくて」
 中学の時のです、と渡された写真は何処かのイベント会場か、沢山の人をバックに二人の少年が写っている。一人は美濃部。もう一方が熊野少年だろう。おとなしそうな顔に含羞むような笑顔が浮かんでいる。確かに人を襲う等とは想像の出来ない雰囲気だ。
「中学まではよく遊んだんですけど、高校に入ってからはお互いにあんまり連絡も取らなくなって……、最近は全然……、だからあいつがどうしてたのか判らないんですけど」
「そう……、最後に会った時、彼はどんな感じだった?」
「ええと……別に変わった様子はなかったです。お互い受験頑張ろうな、って。後は携帯のメールでやりとりがあったくらいで……メールでも特に変わった事はなかったと思うけど」
 美濃部は言い乍ら携帯電話を取り出す。僅かな操作の後、シュラインに携帯を差し出した。
「これが最後で……、自然消滅した感じです……」
 後悔が少年の瞳に揺れる。内心が容易に想像出来て、シュラインは瞳を伏せるように携帯電話に視線を落とす。
 同時に隣の棗も覗き込む。

【最近とてもお腹が空いています。だから沢山食べる。けど、何を食べても味がしないような気がする。でもちゃんと食べてるよ。お腹が空くから】

「……気になるって言えば、気になるよーな内容だな」
 呟く棗にシュラインは同意を示す。
「……そうね。今回の件を暗示するようではあるけれど……」
「味がしないってのは……、寂しいよな」
 棗はぽす、と軽い音を立ててソファに背を預けた。
「俺、何食っても旨いと思うよ。魚とかさー、新鮮なのさばいて刺身にしてさ。ああ、そろそろ鍋が旨い季節だよなー」
「…………」
 唐突に始まった食談義に電話をしている草間を除いた一同の視線が棗に集まる。
 耳目を集めた当人は、天井を仰いでいる。
「ウチの近くに旨い豆腐を昔乍らの製法で作ってるトコがあって。あそこのがまた一度食うと他のスーパーで買う豆腐なんて食えなくなっちまうくらい旨いんだ。湯豆腐とか、いいかな」
「……俺はしゃぶしゃぶがいいな」
 それまで黙っていた聖が言い添える。
「それもいーな」
 言って棗は顔を戻すと聖に笑ってから、一同を見回した。
「食うのってさ、身体を維持するための本能の一つだけど。でもそれだけじゃ、ないよな。好きなヤツと食事すりゃあ、あんまり旨くない料理だって旨い気がするし。旨い料理ならすっごく旨く感じたりするだろ? 何食べても味がしないってのは……」
 言いさして、棗は足下に視線を落とす。そして上げた顔は美濃部に向けられる。
「周りに食う楽しさを共有出来るヤツが居なかったのかな」
 向けられた言葉に、美濃部が顔を歪める。
「篤司をさ、見付けて、首根っこ引っ掴んで……、皆で旨いもん、食いに行こうな?」
 笑う棗に美濃部は声もなく頷く。
「シュライン」
 電話を終えた草間が、片手に地図とメモを持ってシュラインの後ろに立つ。
 手渡された二つを、シュラインはテーブルに広げた。
「……先ず、被害者については共通点はなさそうだな」
 草間がシュラインに頼まれて確認した事項を報告する。
「年令、職業等々……、共通するモノはない。熊野篤司とも関連があるとは考え難い」
 淡々とした報告に、全員が聞き入る。
「目撃者も無いようだな。現在ここにある情報以上に得たものは殆ど無いと言っていい」
 淡々とした声に、小さな溜息のようなものが聞こえる。美濃部のものか……シュラインは敢えて少年を見ず、草間から地図へと視線を移した。
「……これは……」
「何?」
 棗の問いの声に、シュラインは地図に指を滑らせた。
「見て……、今美濃部くんに教わった、熊野くんの自宅がここ」
「……あ」
 シュラインが指した場所をほぼ中心に、周辺に赤いペンが入っている。事件が起きた場所だ。
「そーすっと……もし次があるとしたらこの辺、か?」
 棗が指差すそこは、赤い印を繋いで描いた円の延長線。そこだけ未だ色が入っていない。
「場所の法則があるとすれば……可能性は高いわね」
「っと、シュライン」
 頷き合う二人の間に草間が顔を出す。
「何? 武彦さん」
「犯行時間に共通点有り、だ……夜に集中している」
 言われてメモを確認すれば、確かに犯行時刻は夜、しかも殆どが深夜だ。
「これで大分絞れたわね」
 意気を込めてシュラインは、熊野少年の自宅を指先で叩く。
「聖」
「なに、草間サン」
「後は所員だけで話し合いをするから、悪いがその子を家に送ってやってくれないか」
「はーい」
 不必要な挙手に、立ち上がる聖を見上げてから美濃部は草間を見る。
 物言いた気な瞳を受けて、草間は悪いな、と呟いた。
「最終的な話し合いをは依頼人にも聞かせられない。悪いが自宅で報告を待っていてくれないか」
 シュラインはその言葉に草間を見上げた。具体的に動くわけではない草間が、言い出す事ではないように思われた。
「美濃部くん、後はこちらに任せよう。気持ちは判るけど」
「……はい」
 諦めたように頷く美濃部の腕を、棗が立ち上がって叩いた。
「最後にちっと聞きたいんだけどさ」
「何ですか」
「事件を目撃した時の様子……悪いけど聞かせてもらえないか?」
「あ……、あの時、俺は公園を歩いてて……。塾の帰りだったんですけど」
 異様な匂いがしたと言う。
「多分、血の匂いだと思います。怖かったんだけど気になって匂いのする方へ行ったら……あいつが」
 熊野はサラリーマンらしき男性の上に乗って、身体に噛み付いていた。
「最初は誰だかなんて判らなくて、どうしたらいいのか判らなくてただ見てたんです。そしたらあいつが気付いて俺を見て……顔は血に濡れてて、でも俺にはあいつだって判った……。それであいつは、篤司は俺に向かって言ったんです」

 ――おいしいよ。でも、お腹がいっぱいにならない。

「……おいしいって。でも食べても食べてもお腹がいっぱいにならない……って」
 声に出して、初めて気付いたと言うように、美濃部が再び携帯を取り出す。
「……あいつ」
 続く言葉を飲み込むように唇を噛んだ少年の頭を棗ががしがしと撫でる。
「そんな姿を見ても……お前は篤司を信じてやるんだよな?」
 少年は無言で頷く。携帯を握りしめて。
「なら、それはきっと相手にも伝わる。危険だから一緒に連れて行けないけど……何か伝えたい事、あるか?」
「……、気付いてやれなくてごめん、って。……でも、それは自分で伝えたいから」
「うん」
「帰って来い、って。また一緒にゲームやろうって」
 震える声で言う少年に棗は頷く。
「判った。必ず伝える……だから、待ってろよ?」
「はい。お願いします」
 美濃部は深く頭を下げると、聖に促されて興信所を後にした。


「武彦さん……どう言う事なのか説明してもらっても良いかしら?」
 二人が去って数分。シュラインが草間を見上げる。
「……この依頼、完全に遂行する事は出来ない」
「何だよ、それ?」
 棗がいきり立つのに、草間は宥めるように手を上げた。二人の向かいのソファに腰を降ろす。
「俺は電話をした。警察と報道関連、そしてもう一ケ所」
 シュラインと棗は無言で先を待つ。
「……熊野篤司の通っていた高校だ」
「それがどうしたの?」
「その先は私に説明させて頂けませんか」
 それまでなかった声に、三人が同時に興信所のドアを見る。
 そこには銀髪の青年と、着物姿の少女があった。
「……セレスティさん」
 シュラインの声に、セレスティ・カーニンガムは優雅な仕種で軽く頭を下げると、少女……四宮灯火を伴ってソファへと足を進める。
「座ってもよろしいでしょうか」
 問われて草間は席を空けた。
「有難うございます……やはりこちらでもお調べになっているようですね」
「こちらでもって……あんたも調べてるのか?」
「ええ初めまして……私はセレスティ・カーニンガムと申します。こちらは四宮灯火さん」
「俺は朏棗」
 互いの名乗りを終えたのを見て、シュラインが僅かに身を乗り出す。
「セレスティさん、説明をお願いします」
 何かを感じ取っている様子のシュラインに、セレスティは流石ですね、と小さく微笑んだ。
「その前に少し確認をさせて頂いても良いでしょうか」
「ええ」
 シュラインは首肯する。
「熊野篤司君に関する依頼を請けられたのですね? それはどんな御依頼ですか」
「熊野くんの友人からの依頼で、彼が事件に係っているようだから止めて欲しい……助けて欲しい、と」
「そうですか……」
 呟くように声を落とすセレスティに過る暗い表情に、棗が苛ついたような声を上げた。
「なんだよ……何があったんだ?」
「熊野少年は既に亡くなっています」
「……なに?」
 驚愕に見開かれた瞳はシュラインも棗も同じく。声も同時に二人はセレスティを痛い程の視線で射る。
「熊野少年が係っているとされる事件……獣に襲われたような痕を残して亡くなっていると言う事件ですね? これが一番最初に起きたのは先月の終わりです。熊野少年はその事件の前に亡くなられています」
 セレスティは灯火と調べた内容を告げる。
 熊野篤司は自宅で亡くなっていたのを両親に発見された。その両親は通夜の最中に、篤司の身体と共に姿を消している――。
「そん、な……」
 棗は呆然と呟く。その脳裏には、先程の美濃部の顔と声が浮かぶ。
 また、一緒に遊ぼうと。
 助けたいと願う瞳と共に。
「……美濃部くんの死因は?」
 努めて冷静に問うシュラインの顔も、流石に色を失っている。
「餓死だそうです」
「……餓死」
 携帯に残されたメール。そして美濃部が聞いた言葉。
「熊野様は彷徨っておられます……、餓えに囚われて」
 静かな声は、セレスティの横で人形のように座した――正しく人形であるのだが――灯火から。
「求めても、得られても、満たされない餓えです……」
 抑揚が無いようにも思える声に、だが悲しみが見える。
 シュラインも棗もそれ以上の言葉が無かった。
「熊野少年の御両親は事業の為に海外に出られる事が多かったようです。一人残された彼は通いの家政婦に食事等の面倒を見てもらっていたようですが……その女性は彼が亡くなる前に行方を失くしています。足取りを調べてみたのですが、少年の家に行った後の消息が掴めませんでした。警察に捜索願いが出されていますが見付かっていないようです」
「……熊野篤司の自宅は今?」
 声を失ったシュラインと棗に代わるように草間から声が上がる。
「親戚の方が管理されているようですが、今の所処分は保留されているようですね。私も直接伺ったわけではないのですが」
 部下に調べさせた事柄だと最後に付け加える。
「どうする、シュライン、朏」
 草間へと同時に顔を上げ、先に言葉を顕わしたのは棗だ。
「……どうするって、決まってる。生きていようが死んでいようが……止める」
「そうね。彷徨って、苦しんでいるなら……助けるのよ」
 確かな決意の声に、草間は溜息を落とす。
「あんまり無茶はするなよ……」
「そんなの今更だわ、武彦さん。無茶でも何でも、依頼を請けたらきっちりと」
「そ、お仕事しなきゃ、だろ?」
 痛みを隠して笑ってみせる二人に、草間は何も言わず、煙草を銜えた。


 次の行動指針を出す為に、セレスティと灯火、シュラインと棗、それぞれが得た情報を互いに開示する。
 被害者に共通点が無く、熊野篤司とも関連が無い事。共通を見い出すならば、犯行現場であり、それは熊野篤司の自宅を中心に円を描くように存在する事。再犯があると仮定した場合の次の犯行現場の可能性が大きい地域。そして犯行時刻が深夜に集中している事――。
「家系的――血統によるものかも知れないと思ったんですが、どうやらそれは無いようです」
 セレスティの報告に顔を地図から顔を上げたのはシュライン。
「じゃあ獣人の線も無いのね……亡くなった後の行動だから病原菌の可能性もあまりなさそうだし」
「……ウイルスによる蘇り人、だとどっかの映画みたいだけどなー」
 シュラインの台詞を受けた形の棗の呟きを捉えて、灯火が首を振る。
「熊野様が纏われていたのは鬼気です……、やまいではないと思います……」
「となると呪術ってのもありだよな」
「鬼、……」
 セレスティの声は、呟きにも満たない。だがそれを拾ったシュラインがセレスティを怪訝に見る。
「セレスティさん?」
「一番新しい事件が起きた公園で鬼に会いました」
「なんだって……」
 強い反応を示したのは棗だ。棗も鬼である――同族が係っているとなれば、見逃せない。
「この事件を止めて欲しいと、そのような事を言っていましたね」
「……もしかしたら」
 考え込むようなセレスティに続くように灯火も思案に瞳を伏せる。
「わたくしも……御会いしたかも知れません」
「灯火ちゃんも?」
「はい……あの『気』は今思えば……鬼気です」
 シュラインの手にしたペンが、地図を叩く。
「偶然では、ないでしょうね……別人でも」
「ないだろうな」
 棗が続けて、一息つくと勢いよく立ち上がった。
「後は動いた方が早そうだよな。 事が終わってないなら、次があるだろ? 犯行が予測される場所を特定しないと」
「……そうね」
 シュラインも地図をたたんで立ち上がる。
「セレスティさんはどうするの?」
「私は、熊野少年の自宅に行ってみます。中心になっていると言うのが気になりますから……灯火さん、手伝って頂けますか」
「はい」
 静かな、だが意志のこもった答えにセレスティもまたソファから離れる。追うように灯火も席を立つ。
「連絡は携帯で良いかしら」
「そうですね」
「んじゃ、行くか」
 棗の声を合図に、4人はそれぞれの目的地へと向かう為に扉へと向かう。


 真っ先に外へ出て、そのまま勢いを付けて走り出しそうな棗をシュラインが止める。
「今車を出して来るから、ここで待っててくれる?」
「俺、飛行出来るけど? あ、勿論隠行で」
「じゃあ手分けした方が早いかしら」
 顎に手を添えて思案するシュラインに、セレスティが微笑みかける。
「地図からすればそう広い範囲ではありませんから、一緒に行かれても良いのでは」
 余計な力を使う必要もないでしょう? とやはりにこやかなそれは、今度は棗に対して妙な引力を持っていた。
「……ああ、うん。そうだな。じゃあ、待ってる」
「? ええ、行って来るわね……すぐに戻るから」
 走り去るシュラインの背を見送って、セレスティは棗を見る。
「彼女に貴方のような、鬼と対峙する程の攻撃的な能力はありません」
「――そうか」
 そりゃ迂闊だった、と舌を出す棗にセレスティは頷く。
「お願いします」
 何を、と言われない頼みにも棗は明るく請負う。
「同族が係ってるようだからな、餅は餅屋だ」
「危険が無ければ良いのですが」
「……ああ」
 棗はシュラインに危険が及ばぬように、と願うと同時、出来れば、熊野と一戦を交えるような事はしたくないと思う。例え相手が死者でも――
「それでも、いざとなったら……俺が」
 先を言わずに身体の両脇で拳を握る姿をそっと見て、セレスティは繰り返す。
「……お願い致します」
 セレスティの傍らで灯火も、言葉無く頭を下げる。
 願いを同じくするそれを、棗は笑んで受け止めた。
「では私達は一足先に失礼しましょう」
「そっちも気を付けてな」
 棗の言葉に二人は無言の頷きを残した。


「お待たせ」
 興信所のあるビルの前に止まった車から、シュラインが顔を現す。
「二人はもう?」
「うん……行った」
「じゃあ私達も急ぎましょうか」
 棗が助手席に素早く乗り込み、車体は滑るように走り出す。
「地図を見てもらえる?」
 シュラインから手渡された地図を棗は開く。
 描かれた円が途切れた場所を見た。
「武彦さんから新情報」
「え、何?」
「今迄の事件、全て公園で起きているらしいの。規模の大小はあれ」
「へえ、なら案外目星は楽に付けられるかもな」
「ええ」
「……でも何で公園なんだ? 公園に深夜、必ず人がいるとは限らないだろ?」
 言われたシュラインも首を傾げた。
「そうね……。公園に人が現われた時だけ……って言うのもおかしいわね。熊野くんの台詞をそのままに受け取るなら、彼の行動は空腹を満たすのが目的のようだし」
 それなら、場所は何も公園でなくても良いだろう。
 信号が赤になり、停車の合間、シュラインは草間から手渡されたメモを見る。
「遺体の損傷部分にも共通点は無いのよね……。理性があるような、思考の上での行動じゃないみたい」
 メモからの推測では、衝動に突き動かされるままに、食い散らかす……そんなイメージを抱かせる。
「だけど、場所には法則性があるんだな……家を中心にほぼ綺麗な円を描いて……しかも公園ばかり」
 それは何処かちぐはぐな印象だ。
「まるで、決められた場所を回って来たみたい、よね……」
「定められた……それを言ったら公園のある場所も妙に綺麗に円を描いてるんだよな」
「……そう言えば、そうね」
 公園によって描かれた、円。それをなぞるように引き起こされる惨事。
「起きた順番も、法則的だ。時計周りに並んでる」
 刹那、二人の間に沈黙が降りる。
 既に動きだした為にシュラインはメモから前方へと視線を移し、だが一瞬棗を見る。
「棗くん言ってたわね」
「呪術……」
「だとすれば何処からが、始まりなのかしらね」
 不自然な程、綺麗に円上にある公園。
 もしそれが発端だとすれば、熊野篤司は一体何に係っていると言うのか。
 二人は、予測から既に確信へと変わった次の犯行現場――、住宅地の合間の公園へと辿り着く迄口を開く事はなかった。


 その公園は、近所の子供が遊ぶ程度の、本当に小さなものだった。
「何かがありそうな感じはないんだけどな」
 ぐるりと一周してから、棗は砂場の砂を蹴る。
 呪術が込められた場なら、何かしらアンテナにかかるだろうと思っったのだが、鬼である棗の鼻にかかるものはなかった。
 公園自体にも特別仕掛けがあるようには見えない。形に呪術の媒体を思わせるものがあるでなし。遊具が特別なものと言うのでもない。
「こうして実際に見てみると、ホントにここなのか疑いたくなるよな」
「でも円の上にある公園と言えばここだけなのよね」
 シュラインは半分埋まったタイヤの上に腰を落として地図とメモを睨んでいる。
「このまま深夜まで待つってのも……」
「私達の方が怪しまれそうね」
 シュラインの苦笑に、棗も同意の笑みを浮かべた。
 ただでさえ地域の者しか利用しないような小さな公園に、見知らぬ者が長時間居座れば巷を脅かす事件の参考人として連行されかねない。
「少し周りを見てみましょうか」
 言って、腰を浮かしかけた所で、
「……今の?」
「ええ……悲鳴だわ!」
 微かではあったが、鬼である棗と、聴覚に優れたシュラインは確かにそれを聞き取った。
 女性の、高い悲鳴。
「向こうだ!」
 人より身軽な棗が先を行く。シュラインはその背を追った。
 国道に出る真直ぐな道を行き、角を二つ曲がった所に、それは居た。
「……熊野、篤司か……?」
 先に到着した棗は、美濃部に見せられた写真と目の前の存在を比べた。
 面影は、ある。
 だが目前の人間……いや、人間であったものは、写真を良く見ていなければ同一人物とは思わせない変貌を遂げていた。
 ざんばらに伸びた髪、目は黄色く濁り乍らも爛と見開かれ、何より特徴的なのは口に生え揃った並の獣よりも鋭い、牙。黄ばんだ牙からは鮮血が滴り落ちている。
 素肌を晒す手足の爪も鋭く伸び、唸る声は獣そのものだ。
 足下には、肩を食い千切られた女性が昏倒している。

 ――お腹が、空いたよ。

 声でない、声が棗の頭に谺する……、熊野の声だ。
 空気を震わせるのは獣の唸り声だが、棗の中に届くのは少年の声。

 食べても、食べても、足りないんだ……。

 続いて辿り着いたシュラインが息を呑む。
 それに熊野が反応を示したのを咄嗟に見て取って、棗は素早くシュラインの前に出る。
 同時に、熊野は二人に向かって飛びかかった。
「……ッ!」
 棗は腕を上げて、熊野の牙を払う。
「シュライン! 退がってろ!」
 一端離れて体勢を整える熊野を視界の端に、棗はシュラインを突き飛ばすように自分から離す。
 次の瞬間には再び襲い掛かられ、棗は両腕を延ばして拳を組み、叩き落とした。即座に左方へ距離を取る。敵意を剥き出しにした少年の視野からシュラインは消えたようだ。落とされて呻くもすぐに顔を上げ、それは真直ぐに棗に向かう。
「篤司!」
 棗は名を呼ぶが、熊野の瞳に理性の光はまるでなく、声に反応する事もない。
 警戒の唸り声を発するだけだ。

 お腹が、空いたんだぁぁ……。

 虚ろな声は変わらずに、棗に届く。それは暗く暗く……、闇より出ずる、声。
 生者の声ではない……熊野は死者なのだ。
 何処かで、生きていて欲しいと、願っていた。生きているのでは、と。
 棗は拳を握る。シュラインを横目に入れれば、何かに耐えるようにしている。
 この声は、シュラインにも届いている。
 棗は足を踏み出した。熊野が跳ねる。
「棗くん、耳を閉じて……!」
 声は右後方から聞こえた……シュラインだ。
 再び飛びかかって来た熊野を跳ね返して、距離を取ると、棗は聴覚を閉じた。
 一切の音を遮断する。
 同時に、棗を追おうとしていた熊野が急に蹲る。両手で耳を塞ぎ、地面にのたうつ。
 振り返れば、シュラインが唇を開いている。
「……?」
 暫くして、唇を閉じたのを見て、棗は聴覚を開く。
「何をしたんだ?」
 駆け寄ってシュラインを後方に庇い、耳を塞いで蹲っている熊野を見たまま問う。
「彼の状態から獣の特性があるんじゃないかと思って、人の不可聴音を出してみたの」
 言い、シュラインは自らの喉を示す。
「へえ、凄いじゃん」
 もしも聴覚を中途半端に解放していたら、棗も同じ目を見ただろう。
 耳を覆ったまま動かなくなっている熊野を見て、背筋を冷やす。
 戦闘能力が無いような事を銀髪の青年は言っていたが、なかなかどうして、と棗は笑う。
「……じゃあ、俺も試してみるか」
 言った棗の姿が光を発する。シュラインがそれに目を奪われた瞬間には、既にその姿は変じていた。
 熊野の少年……二人の依頼人である美濃部有生に。
「棗……くん?」
「そ。俺も得意技のお披露目しとこうと思って」
 驚きに目を見開くシュラインに棗は茶目っ気を見せて片目を閉じると、無造作に熊野の傍に寄る。
 腰を落として、姿だけでなく声までも美濃部に変じた棗は熊野を呼ぶ。
「……篤司、帰ろうぜ」
 声に反応は……あった。覆っていた手をゆるりと外し、熊野が顔を上げる。
「……あり、き」
 唸り声だけしか発しなかった唇から、声が漏れる。
「久し振りだな……、待たせたか?」
 棗は自身の能力である魅了眼を使い、熊野を搦め取る。
「ありきぃ……?」
「そうだ。こんな所に居ないで、帰ろうぜ?」
 言い乍ら、封じの呪具を取り出す。それは、風邪を引いた友人が持っていたのを勝手に借りて来た代物だ。持たせていると休まないからと、取り上げたそれがここで役立とうとは。
 短刀の形をしたそれを、熊野の背に当てようとした、その時。
 熊野の身体が急激に震え出した。
「!」
 魅了眼が断ち切られたのを悟り、棗は後方へ飛んだ――、それは殆ど勘だった。
 棗が居た場所に熊野の爪が突き立てられる。
「早い……!」
 先程のスピードなど比べ物にならないそれに、棗は舌打ちをする。
 周囲の空気が一変しているのに気付いたのは、二度目の斬撃を右手で受けてからだ。
「……何?!」
 シュラインの鋭い声に、熊野をいなして振り返れば、そこには幾つもの影。
 二人を囲むように、熊野と同じように変貌した人々が唸り声を上げている。
 熊野もそれらに混ざって、声を荒げる。従うように、人々は咆哮を上げた。
「……熊野くんが……、彼等を呼んだの?」
「どうだろな……、でもこの空間を閉じたのは熊野じゃないと思う」
「閉じられた……?」
 じり、と囲みが狭まる。人数はざっと数えても十を越す。これだけの数が熊野と同じ速度でかかって来たら、シュラインを庇いきれるかどうか判らない。
 棗の額に汗が浮かぶ。
「ここは今結界の中だ」
「……第三者が居るって事ね?」
「当たり」
 聞き覚えの無い声に、二人は声の方向を見る。
「おっと、美人なおねーさん、俺とデートしない?」
 何時の間に現われたのか、人々を従えるように黒髪の青年が立っている。
「今それ所じゃないの……出直してもらえるかしら」
 シュラインは青年を睨む。その強い視線に、青年は楽し気に喉を慣らした。
「増々イイねえ。まさかこんな所で美女と出会すとは思わなかった」
 戯けて拍手をする青年を、シュラインに負けず睨んだ棗が声を上げた。
「なんで――、なんでこんな事をしたんだ……ッ」
 青年は一見無防備に見えるが、ただの人ではないことを棗は見抜いている。
 人ではなきもの――それは棗も同じ。
 しかも棗は同種の匂いを感じ取っていた。
 棗は鬼、だ。同種とは、つまり――。
「答えろ……、何の為だ!」
 激昂する棗を宥めるようにシュラインの手が肩にかかる。とっさにシュラインを振り返る棗に、頷いてみせる。
「こんな事をして、あなたに何の得があると言うの? 女性をデートに誘うならそれくらい答えてくれるのが礼儀だと思うけれど?」
「お姉さん凄く好みだから出血大サービスしようかな。先ずは名乗っておくよ……俺は敦賀朴洋」
 今にも飛びかかろうと声を上げる熊野の眼前で、敦賀と名乗った青年は手を振る。途端に熊野は大人しく身を伏せた。
「俺はあるものを集めていてね。それを手に入れるのに、術を解きたかった。それだけ」
「それだけって……!」
 こちらも飛び出そうとする棗を、シュラインの手が肩を掴む事で止めた。
「術を解くのに、公園で人を殺す事が必要だったと言う事?」
「そう。俺は直接人に手を下せない……だから、代わりを用意した。本当はこの公園も穢す予定だったんだけど、それまでの穢れで充分だったみたいでね……だから、そこの人に止めてって頼んだんだけど」
 そこの、と指差す先を見ればセレスティと灯火が獣の囲いの外に立っていた。
「……やはりお気付きでしたか」
 気配を殺したつもりでしたが、と微笑するセレスティに、敦賀は笑う。
「美人の気配には鋭くて」
「残念ですが私は男性ですよ」
「でも美人は美人」
 断じて、敦賀は笑う。
 灯火は無意識に隣に立つセレスティの服を掴んでいた。初めて会った時と同じ。歪んだ笑み。
 掴まれたのに気付いたセレスティが灯火の頭に優しく手を置く。
「頼んだんだけどね……あんまり楽しい面子が揃ってるもんだから、つい」
「つい、結界を張って、彼等と私達を対決させようと?」
 険のあるシュラインの声は震えもしない。冷たく鋭いそれに宿るのは怒りだ。
「そう……、楽しめそうじゃないか」
「そんな事で……貴方様は無力な人の死を貶めるような真似をなさったのですか……」
 死してなお飢える魂に力を与え、陥めるような真似を何故するのか。
 灯火の声はいつもと変わらない。だがそれでも咎めの響きは他の三人に感じられた。
「術を解いて……手に入れたかったモノは何だ……!」
 周囲に負けぬ咆哮に似た、声を棗が上げる。
 それにも敦賀は笑んだまま、右手を前に掲げる。
「これが何か、わかるかな?」
 愉快げに笑みを浮かべたままに言う敦賀の手にするのは黒ずんだ骨。泥がこびりついているようだ。
「……骨、ですね……それもまた、人のものではない?」
 セレスティが確かめるように答えると、棗が首を振る。
「人のものだよ……確かに死ぬ時は人じゃなかったかも知れない、けど。元は人間だ――」
 棗は骨を凝視したままに言う。
 棗のように生まれながらに鬼であった者とは違う。
 元は人であったもの、それが鬼と落ち、そして死んだ。その骸。
「そう。元は人だった鬼の骨だ。俺はこれを集めていてさ。これでいくつめだったかなぁ……よく覚えてないんだけど、でもあと少しで揃う筈」
 ちゅ、と音を立てて敦賀が骨に口付けた。骨は新しいものであるのか、形を損ねてはいない。
「これはねえ? うらんでうらんでうらんで死んだ鬼の骨だよ。あんたらならわかるだろ? 今でもくやしい、にくいって言っている。殺したい、殺したい、殺したいって恨んでる」
 頬ずるように青年は骨を顔に寄せ、続ける。
「叫ぶ声が聞こえない、かなぁ?」
 敦賀は、泥のついた骨を舐めた。
 棗が堪らずに叫ぶ。
「止め――ろ……ッ」
 敦賀が骨をいとしげに扱うごと、骨の陰気が深まる。
 青年が言うように、骨は恨み憎しみの気を纏い、それは未だ叫びをあげるかのようだ。
 そしてその声なき恨み声は、敦賀に向けられている。
「……ひとつ、お聞きしても?」
 セレスティがわずかに眉をひそめて問う。静かな声音には嫌悪が滲んでいる。彼にしては珍しいことと言えよう。
「何?」
「貴方はその骨を集めてどうしようと言うのです」
「それは集まってからのお楽しみ……、面白いものが見られるかも知れないな?」
 言いつつ、青年は後方へ下がる。
「……行ってしまいます……」
 灯火がセレスティの服を引く。
「待て……ッ!」
 棗が足を踏み出そうとした時には青年の姿は薄れている。
 消える瞬間、全員の耳に声だけが届く。
「彼等はお土産に置いて行くよ……楽しみな?」
 完全に敦賀が消えると、それまで大人しく声もなかった獣化した人々が四つん這いで立ち上がる。
 棗は会話の間に傍に来たセレスティと灯火を含めた三人を庇うようにして立つ。
「彼等は一体……?」
 シュラインが周囲に気を配りつつ、疑問を呟く。
「彼等は熊野くんに殺害された人々です。あまりに異常な事であるが故に、警察も報道陣も情報を伏せていたようですが。彼に殺害された方々の遺体は、翌日には姿を消していたそうです。そして彼等もまた、熊野くんと共に他の人を襲い……そうして増えて行った」
 セレスティは灯火との調査中に入った情報を告げる。
「……なんて、事を」
 シュラインは思わず口を覆う。
「どうすれば、解放出来る?」
「……鬼気の中心は今、熊野様にあります……」
 灯火が瞳を伏せて、言う。
「彼等の魂はもう、浄化出来る状態ではありません。私達ではどうする事も出来ません」
 セレスティの水による浄化も彼等の救いにはならない。セレスティは瞳を、自分を庇う背に、向けた。
「中心である彼を滅する事が出来れば、彼等を無力化する事が出来るでしょう」
「そんな! ……消滅させるって」
 シュラインが上げる声に、灯火が真直ぐに彼女を見る。
「存在を無に帰すのでなければ……彼等は何度でも、立ち上がります……」
 灯火には痛い程感じられる。彼等の中に残るのは、人であった時の魂ではない。落とされて虚ろに染められた闇。
 闇は闇に帰さねばならない。
「……これだけの数をさばいて、熊野の懐には入れない。シュライン、さっきの出来るか?」
「不可聴音ね……ええ、出来ると思うわ」
「足止めならばお手伝い出来ると思いますよ」
 セレスティが請負うのに、棗は頷く。
「……少しの間でしたら、防護壁を作れます……」
 灯火は念動力を持つ。それの応用で、自分達の周囲に壁を作り出す事なら可能だ。
「じゃあ、頼めるか? 俺が切り込む」
 棗は笑って、灯火の頭に手を置く。少女人形が軽く首を竦めたのは本人の意識しない照れからだ。
 話が纏まったのを知るかのように、周囲が咆哮を上げる。
「行くわ」
 咆哮に掻き消される事なく、シュラインの凛とした声が棗を押し出す。
 棗が走り出すと同時に、シュラインが喉を開く……溢れるのは、人には聞き取れぬ声。
 シュラインの、声に圧されて、そして捕われて獣達は跳ねようとした身体を竦める。咆哮が悲鳴へと変わって行く。
 セレスティは懐から、小さな瓶を取り出す。そこにあるのは聖なる水。
 眷属たる水を地に落としセレスティは命じる。
 奔れ、と。
 青き光が糸のように縦横に走る。それは、シュラインの声に捕えられなかった者達の動きをも縫い止めた。
 水の網を抜け出て、三人に襲い掛かった者は、灯火の防護壁によって阻まれる。
 その間にも、棗は彼等の間を抜け、真直ぐに自分に向かって来る熊野へと距離を詰める。
 棗の姿は、美濃部へと変じたままだ……それを見ているのか、熊野は棗から視線を逸らさない。そして、向かって来る。
 勢いを付け、熊野の身体が飛ぶ。
 棗は立ち止まってその牙を右腕に受けた。食い込む凶牙でなく、熊野を見て言う。
「……お前とゲームをするのが好き、だった……楽しかったよ、篤司」
 それは、美濃部が伝えたかったであろう、言葉。
 代わりに伝えると約束した言葉とは少し違えてしまった……だが。
「……ごめん、な」
 棗は左手に力を集める。小さな雷球と化した拳を右腕を噛み千切ろうとしている熊野の頭に突き出した。
 光が爆発する――。


 棗を中心とした光は一秒と経たず消え、後には遺体が……既に獣としての姿を失い、伏していた。
 それも、見る間に土塊のように色を変え、崩れて行き。
 結界が消えて元の空気を取り戻して、吹いた秋風に流されて散って行った。


 四人は草間興信所に戻り、美濃部に対する報告は翌日にするとして、解散した。
 次の日、興信所に訪れた美濃部に報告をしたのは、所員であるシュラインだ。
「……以上です。……信じられないかも知れないけれど、彼は既に亡くなっていたの」
 事実を告げる事は辛い。だが、友人を思う彼に、嘘を告げる事も出来なかった。
 そして、出来る事なら、受け止めてやって欲しいと、これは全員で出した結論だ。
「……俺が、もっと早く気付いてやって、たら」
 こんな、と続けた言葉は最後迄綴られず、美濃部の地に向けられた顔から足下に雫が落ちる。
「なんでもっと早く連絡を取ってなかったんだろう……俺は、莫迦だ……ッ」
 シャツの胸元を握りしめて、声を絞り出す。
 報告を見守る為に訪れた、他の三人と、シュラインは声もなくそれを見る。
 かけよう言葉がある筈も無い。
 助けたいと願った友人は既に亡く、遺体すら残らなかった。
「……だけど、貴方がこうしてここへ来てくれたから、彼を解放する事が出来たわ」
 そうでなければ、犠牲者はもっと増えていたろう。
 それが、彼にとって何の救いでも無い事は判っている。それでも、とシュラインは思う。
「彼はずっと餓えていたわ……それを終わらせてあげたのが貴方の声だったと言う事は、知っていて欲しいの」
 セレスティが、優しく咽ぶ少年の背を撫でる。
「彼の魂は浄化される事なく、消滅しました……だからこそ、貴方が彼を覚えていてあげて頂けませんか?」
 苦痛であろうと判っていて尚、それを望むのは酷だ。
 だが、友人であり、彼の凶行を止めた美濃部にしか出来ない事だ。
「お願い、いたします……」
 灯火が、少年を見上げる。瞳から涙を溢れさせる彼の思いが灯火には判る気がした。
 会いたかった人に、二度と会えない、それを思うだけで灯火も苦しい。
 だが、灯火なら、会えなくなっても覚えていたいと、思う。例え探す彼の人が見付からなくても。
 会えないままでも忘れたくない。
 それがどれ程辛い事でも――。
「……あのな」
 一人黙っていた棗が、美濃部の前に立つ。
「篤司に伝えといた……ゲームの事」
 再会を望む声は、過去を思う声へと変えてしまったけれど。
「……あいつ、消える直前、な」
 そこで、美濃部は顔を上げた。涙に濡れた顔は、歪んで見えた。
 棗は自分も泣きたくなって、だが笑った。
「笑ってたから」
 その言葉に、少年は新たな涙を溢れさせた。


 棗は草間興信所の帰りに友人の家に寄った。取り上げた呪具を返す為だ。
 友人は棗の言う通りに家で養生していたらしく、訪れた棗をベッドで迎えた。
 それに押し付けるようにして呪具を渡し、病を伝染されたらかなわないと冗談を残して、辞去した。
「気付かれた、かな」
 友人の心配そうな瞳が思い出されて、棗は苦笑した。
 七世紀も生きて、まだ自分の感情の抑制も出来ないのか。
 そう思ったところで、美濃部の泣き顔まで思い出され、棗は自分の頬を抓る。
 友人に気付かれたなら、同居人はもっと簡単に看破するに違いない。
 それでも暗澹たる感情のくもりは去らず、棗は同居人が外出している事を願って家の引き戸を空けた。
「……あ」
 よりによって。
 棗は眉根を寄せる。
 自分の帰宅に気付いて待ち伏せるなど、人が悪い……と思うのは、自分の身勝手でしかないと思いつつ、真直ぐに相手の顔が見られず、棗は項垂れた。
 その頭に、大きな手が載せられ、幾分乱暴な手付きで撫ぜる。
 手の温もりが心地よく、だが二度とこれを知る事のない、自分が消してしまった少年を思うとその心地よさも申し訳なく。
 棗は道中堪えていた涙を、隠すように零した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

PC
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0545 / 朏・棗*ミカヅキ・ナツメ / 男性 / 797歳 / 鬼】
【3041 / 四宮・灯火*シノミヤ・トウカ / 女性 / 1歳 / 人形】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】

NPC
【美濃部・有生*ミノベ・ユウキ / 男性 / 16 / 高校生】
【敦賀・朴洋*ツルガ・ナオミ / 男性 / ? / ?】

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■         ライター通信          ■
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大変お待たせしました匁内アキラです。
ただただお詫びを申し上げる以外に言葉がありません。
遅くなりまして申し訳ございませんでした。

せめて、このノベルを楽しんで頂ける事を祈りつつ、失礼させて頂きます……。