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蒼に沈む君に夜明けの歌を
●真珠色の花
曖昧に流れていく時の中で、セレスティは夢を見ていた。
何もかもが青に染まる夢。悲しくて懐かしい色が、世界と自分を染めてしまう夢。甘美で即効性のある、そして中毒性のある蒼い麻薬。
あぁ…
懐かしいあの海のよう…
誰もいない空間に閉じ込められて感じたその感覚は、人の住むことの出来ぬ深海に似ていた。自分はその深い海で生まれ、自由に生きてきた。
だのに、ここは自分を自由にしない。
疲れた体に鞭打って何度も人を呼んだ。誰も来ないのが分かっていたとしても、邸宅に置いてきたスタッフと庭師が悲しむから、自分は必死に誰かを呼んだのだ。
帰らなければ。
(何処へ?)
皆のもとへ。
(君の還る場所はここでしょう?)
私は…
私は皆のもとに『帰りたい』
「……ぁ…」
冷たい雫が幾つも自分に降り注ぐのを感じてセレスティはふと目を開けた。滲んだ視界は何時までもそのままだ。だが、その明るさと色彩の多さに、ここが自分の邸宅である事を思い出した。
枕元に置いた懐中時計を見れば、時間は七時ジャスト。
ベットの上で広がる銀髪を手で軽くまとめ、セレスティはクッションを使って起き上がろうと、背中の下にのろのろとクッションを入れた。そして、やっとのことで起き上がる。
「…はぁ…」
吸血鬼一族の子弟を追ったあの事件から僅か数日。精も根も尽き果てるほどに嬲られ、弄ばれて、セレスティの体は弱っていた。
元々、それほど体は丈夫とはいえない。おまけに足が弱くては、抵抗すら出来ないのだ。こうなってしまったのは仕方ないと思うものの、さすがに体力の回復はしばらく見込めなさそうだった。
「おや…?」
頬を伝う涙…いや、これは自分の涙ではない。不思議に思って周囲に視線を巡らせば、サイドテーブルの上に生けられた白い薔薇が雫に濡れていたのが見える。
「ぁ…朝露…ですか…」
密やかなその姿にセレスティは僅かに微笑む。
これを届けたのはきっと庭師だ。昨日も同じ花が届けられていた。
彼は今回の事件をともに捜査していたから、きっと気にして朝一番の摘みたての花を届けたのだろう。
僅かに苦笑するとセレスティは車椅子を引き寄せて座る。仕事を残しておくわけにはいかないので、せめて目を覚まそうとバスへと向かった。
「朝からでございますか?」
執事は驚いて目を瞬かせた。
朝から風呂に入るなど大した事では無いのだが、先日あんな事があって、やっと生存を確認したと思ったら、熱を出して倒れたばかりなのである。それは心配しない方がおかしかった。
「えぇ…もう、仕事も押していますしね」
「で、でも…セレスティ様。先日…あ、あのような…」
執事はそう言ったきり言い難そうにもごもごとさせていた。
少し頬が赤いように見える。
「あのような?」
「見知らぬ人に付いていったりしては…」
媚態をさらしていたと言うのを、警察官だと言ったあの長い黒髪の男から聞いて、執事は青くなったり赤くなったりしたものだ。
自分事ではないのに恥ずかしいやら、照れるやら。免疫の無い執事はおろおろしてしまう。
「もう無理はしませんから」
「本当でございますか?」
「えぇ…」
その言葉がどれだけ保証できるかは別として、しばらくはすっかり騙すことになってしまった執事のために大人しくしている必要がありそうだった。
●眩暈
セレスティは手伝うと言う執事の申し出を丁重に断り、一人でジャグジーに向かう。
イズニックのタイルのジャグジーは、ブルーモスク風の個人浴場然としていてゆっくりと体を癒すにはもってこいだった。都会ながら温泉が湧き出ているのも更に幸いしていると言えるだろう。
セレスティはバスローブを脱ぐと、藤細工のコーナーソファーに置き、それはパサリと音を立てた。
蒼いタイルに朝日が当たって、薄い青色にジャグジーを染め上げている中を、ゆっくりと壁伝いに歩く。湯船に近付くと、セレスティはお湯に手を伸ばした。
「やはりお風呂は良いですね…」
ほっと一息ついて、セレスティは湯船にそっと身を沈めた。
暖かさが満ちてくると、安堵の溜息を吐く。そして水をすくった。柔らかな湯の温かさに疲れが癒されていく。
ふと、近くの装飾用に嵌め込んだ鏡を見ると、自分の姿が目に映っていた。
白く細い体についた幾つもの赤い痕。花弁にも似たそれは情事の痕だ。
(こっちへおいでよ、ミスター。寒いんでしょう? 暖めてあげるよ…もっとも、貴方の方が暖かそうだけど…)
―― やめて…
(貴方は暖かくて気持ちいいね)
―― やめてください…
(本当に? やめていいの?)
―― あぁ…
やめてほしいと言いながら、その手が止まるのを惜しいと感じてしまう自分がいないわけでもなかった。自分の鈍った本音を何処まで隠し通せばいいのかも分からない。
鏡の向うには、今の自分さえも誘うような自分が映っている。
牙がもたらす魔力に閉じ込められて、甘い声を上げ続けるしか正気を保つ術無かった自分は、与えられるだけ与えられて媚態をさらした。
首謀者である吸血鬼が一命を取りとめ、あの事件は一応終結を見たと言うのに、こんな所までその時の影響は色濃く残っているようだ。
鏡の中の自分が手招く。
(そんな姿も綺麗だね。あぁ、やっぱり貴方が一番だな…)
そんな言葉が脳裏に響く。
もう一度、あの愛撫を受けてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。
深い溜息を吐いて、セレスティはジャグジーを後にした。
●涙する薔薇の下で
セレスティがジャグジーから出ると、スタッフは忙しそうに走り回っていた。主人が仕事に集中できるようにと仕事に集中しやすい午前中に、大きな物音がするような仕事を終わらせてしまおうとしているのだった。
この方をしがらみと言うもので縛り付ける事ができない。きっと風のように自由に何処へでも飛び立ってしまうのだとスタッフは感じのだ。ならば、だからこそ帰ってきたときには自分達が全力で抱きとめようと思っていた。
その中で、薔薇の手入れをする庭師の姿が見える。
何処となくモーリスは沈んでいた。
モーリスはセレスティが甘美な檻に閉じ込められて弄ばれていた時、ホテルで情報交換と言う名の逢引をして事実があったから、口惜しくて仕方が無いのだろう。守るべき人を守れなかった事に対して申し訳ないと思っているのに、周囲に人がいて能力で治療することも出来なかった。
治すのは簡単なのに、触れることが出来ない。主人は怒ったりしていないのは分かっているのだが、状況がそれを許さなかった。
いつも明るいモーリスが落ち込んでいるのを見るのが執事は忍びないようだ。執事はモーリスに近付いて慰めていた。
「どうしたんですか、モーリス。貴方らしくない」
「あぁ、じいさん。どうも…落ち込んだりしてなんか…ないですよ」
「嘘を言ってはいけませんねえ…かえって、セレスティ様が心配します」
「だって…」
―― だって、自分が早く行かなかったから。
そう言いたいのだ。モーリスは…。
どうしても、あの次元の壁を越えることが出来なかった。どういう風な理論で成り立つ空間なのかも、全く持って分からない。手出しできなかったことに悔しさと、助けることができなかったことに口惜しさを感じていた。許してくれるから――尚更だ。
「モーリス…」
ポンッと執事は肩を叩くと、にっこり笑って指差した。窓の向こうにセレスティがいることに気がついたのだ。行ってきなさいと背中を押す。
「……」
モーリスは俯くとしばらく立ち止まったまま、何処に身を置いたら良いのかわからないような様子だった。そして、ゆっくりとセレスティの傍に近付いてくる。
「セレスティ様」
「おはよう…モーリス」
いつもと変わらない笑顔と挨拶。
それが堪らなく嬉しくて辛くて、モーリスは黙ってしまう。
セレスティは微笑むとモーリスにこう言った。
「モーリス、今朝の薔薇『も』、貴方が届けてくれたのですね?」
「はい…」
「ありがとう」
「…はい」
「貴方が届けてくれる花が一番好きですよ…でも、今日の薔薇は泣いていました。貴方が辛いと、薔薇も悲しいのですね。きっと、薔薇は貴方を愛しているのでしょう…ならば、薔薇を悲しませてはいけませんよ?」
「はい…セレスティ様」
モーリスは頷くと、やっと笑った。
「さぁ、朝食にしましょう…食べてはいないのでしょう?」
「ばれてしまいましたか」
「当然ですよ…。さぁ、行きましょう」
「はい、セレスティ様」
モーリスは車椅子のグリップを握ると、セレスティと共にダイニングへと向かう。
冬近い一陣の風が薔薇とセレスティの髪を揺らした。
今日も、明日も、この人に穏やかな日々を…二人はそう互いに思っていた。
涙する薔薇の下で
果てしなき蒼を越えたら
沈む君に夜明けの歌を
ともに永き道を行く君に 夜明けの歌を…
■END■
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