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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


落ちてくる、臓器


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 頭上に何か、冷たくてねっとりとしたものが落ちて来た。
 それは微かな重みを持って、草間武彦の頭に張り付いた。何だ、と思うその前に、トロリと何かが額を伝う。反射的に額を拭った。頭にあった微かな重みも、拭ったものと一緒に引き摺り落とした。ぷるんとした奇妙な弾力を伴い、それは手の中へと跳ね返る。
 武彦は暫く、それが一体何であるかを理解することが出来ずにいた。いや、思いついたその言葉を脳が拒絶していたのかも知れない。もしも今この場所ではなくそれ相応の場所で見たならば、理解出来ないほど奇妙なものではないのだろう。
 遠くから聞こえる子供の笑い声。自転車のベルの音、主婦の声、何処かの家から聞こえてくる下手くそなピアノの音、住宅街に溢れるありきたりの音。
 その日常の全てを頭から全て追い出して、武彦はやっと自分の手の中にあるものを認識することが出来る。
 血だった。
 人の、臓器だった。
 それ自体がまだ息を持っているかのように、嫌な振動を刻みながら、掌に蹲る。
 こめかみの辺りに、ぎゅっと血が詰まった。動機が早くなり、逆に体の温度は下がっていくかのようだった。
「どうして。こんな物が」
 頭上には重なり合うように走る電線と、その向こうに秋雲が泳ぐ水色の空が見える。何の変哲もなく、ましてや人の臓器が振ってくるなんてことは考えられない。
 投げられたのか。落ちて来たのか。
 しかしこんな。夕暮れの住宅街で?
 脇に建つ住宅を見上げる。小さな庭を持ったその白い壁の家は、静かで緩やかな時を重ねたような佇まいでそこに建っている。平穏無事であることが何よりの幸せだと、その壁が語りかけてくるかのようだった。辺りを見回しても他の全ての家々から、同じものを感じた。
 家の中のことは誰にも分からない。どんな家庭だって悩みの一つや二つ、三つや四つは抱えているだろう。しかし、だからといってこの臓器は。
 余りに現実から離れすぎている。
 吸い込んだ息は気管に詰まり、唾液が喉に張り付いた。


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001




 雪森雛太は今、瞳を閉じている。
 瞳を閉じながらも、周りの状態を察知している。
 周りが動き始め、自分だけはまだ目を閉じていると意識する瞬間。目覚めを思い浮かべなければならないこの瞬間が、雛太は酷く憂鬱だった。
「おい」
 掠れた声が耳を突き、そして肩には振動が落ちてくる。
「おいったら。起きろよ」
 微かにだけ瞳を開けると黄ばんだ白いシーツが目に入り、親しみのない匂いが鼻腔をかすめ、雛太はここが慣れ親しんだ自分の寝床ではないことを思い出す。
「おーい。雪森! 雪森ってばよ。なんかお迎えが来てンだってば」
「迎え……?」
 周りが起き始めると、間違いなく自分もその輪の中に引き摺り出される。自分一人だけがそこから解放されるわけにはいかない。覚醒と睡眠の間での寝たふりだって、ここでは通用しない。
 雛太は盛大な舌打ちと唸り声を上げ、目を開けた。自分の肩を揺らしていた男を睨みつけ、「んーだよー」とお門違いかも知れない愚痴をぶつける。
「や。だから。お迎えが来てンだってば」
 別段気を悪くするでもなく軽い調子で言い、雄太はその親指を玄関へと向ける。
「あー。もー。まじでウザイ。勘弁してよ」
「それはこっちのセリフだって。お前、寝起き悪過ぎ……いや、だから。目ぇ閉じるなって!」
「ちょ。もう、ほんとマジで」
 口の中でモゴモゴと言いながら、傍にあった毛布を引き寄せる。
「こら!」
「いやだあああああああ!」
「いや。マジでさ」
「もおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「このや」
「僕に任せて下さい」
 雄太を制したのであろう声に、脳の一部が反応した。
「起きないとまた、チュウしちゃうぞ」
 胸の中にある、嫌な場所を突く声だった。絡みつくように、声は続ける。
「雛太くんってば。起きないと知らないよ。チュウしちゃうよ」
 ロウの声だった。認識した途端、目がパッチリと開いた。
 何を意識するより前に、その顔を殴りつけていた。



「酷いよ。突然殴りつけるなんてさ」
 外に出ると、いくらか冷たくなった風が雛太の横を通り過ぎた。寒さに肩をいからせ、ポケットの中に両手を突っ込む。突っかけただけのシューズの踵を直しながら言ってやった。
「お前がとんでもないことを言うからだ」
「とんでもないことを言わなきゃ、起きない雛太くんが悪いんじゃないか」
 殴られた頬を撫でながら恨みがましく呟かれ、だったら徹マンした朝に来る方が悪いと思った。
 雀荘で知り合った麻雀仲間の雄太とは、かれこれ一ヶ月ほどの付き合いになる。麻雀以外で共通するものは年齢くらいだったが、とにかく麻雀という趣味が共通していればそれだけで話はできた。
 雄太のマンションにお邪魔することになったのは、常々通っている雀荘が何故かその日に限って閉まっていたからだ。その場にいた常連客と共に、全自動麻雀卓があるという雄太の部屋にお邪魔し時間が経つのも忘れ打ちまくった。今までのことを思えば勝率もそれほど良くはなく、微妙な気分で眠りについたのは陽の光が高く上がってからだった。
 元々寝起きが良い方ではないのだが、それ以前に眠っていない。頭の中は深い霧に覆われているかのようで、不機嫌ではもちろんあったが、それ以上に不穏だった。コンクリートの壁越しに見える清々しい秋晴れにすら、唾を吐きかけてやりたくなる。
「ヤな役回りだな。僕だって別に来たくて来たわけじゃないのに」
「俺だってお前に起こされて目覚めが悪ィよ。最悪の日だよ、今日は! だいたいどうやってこの場所が分かったわけ? なんで雄太ンちまで知ってんよ」
「だって麻雀しに行くって言ってたでしょ?」
 答えになっていなかった。確かに麻雀をしに行くと言って興信所を出た気はするが、だからと言って偶然のように訪れた雄太の家に自分が居ることを、どうしてこの男が知っているのだ。
 不快を通り越し、薄ら寒ささえ覚える。どうにも分からないところが多い男なのだった。
「でも。迎えに行けって言うくらいなら所長が自分で行けばいいのに。殴られるなんて、僕ヤだよ」
 クリンとした大きな瞳が、恨みがましく雛太を見上げる。唇は幼稚園児のように突き出され、顔いっぱいでロウは不快感を露わにした。
 それがどうにも人の同情心を煽っているように見えてしまい、雛太は急激な苛立ちに駆られる。思いのままに引っ叩いてやると、ロウが頬を押さえ目を見張らせた。
「何すンの!」
「あ。つい。日頃の恨みだよ」
 冗談めかしてそうは言ったが、それは限りなく真実だった。この童顔に油断して痛い目に合ったのは一度や二度じゃない。痛い目というと御幣があるような気もしなくないが、とにかく彼の非常識な部分に辟易させられていることは間違いない。
 草間興信所に彼が居座ってからというもの、その非常識な部分は常に嫌な意味で雛太を刺激し続けている。寝不足の苛立ちも相まって、その鬱憤を晴らすのは今だとばかりにもう一発平手打ちを食らわせた。
「もう! 痛いの嫌だ!」
 抗議してくる声に胸の中で舌を出す。
 最近では草間興信所に寝泊りする方が実家へ帰る回数よりも多くなった、ほぼ住み込み状態である雛太にとってロウは目の上のタンコブみたいなものだった。嫌いかと聞かれれば良く分からないが、鬱陶しいかと聞かれれば首を真っ直ぐ縦に振るだろう。むかつくかと聞かれてもきっと首を縦に振る。
 それでも何だかんだと一緒に居るのは、帳尻合わせのためだった。今放ったビンタのように雛太は乱暴な態度で彼をいなし、彼は彼でまた、何処かで雛太に逆襲をする。帳尻合わせを終わらせる気は雛太にはまだないし、彼もまだないのかも知れない。小さな戦いは当分終わりそうにない。
 不意に雄太の部屋の隣の部屋のドアが開き、一人の男が顔を出した。目が合ったので小さく会釈する。大声を出したつもりはなかったが、煩かったのかも知れない。
 確かに神経質そうな顔つきをした男だった。顔中の何処もかしこもがシャープな線で表現されており、全体的にとんがったイメージがある。昨日も、「煩い」と何度も夜中に壁を叩かれた。雄太曰く、いつもそうらしい。直接文句を言うでなく、そうして壁や玄関の戸を叩いて注意を促すのだそうだ。それは何だか少し、陰険なやり方のようにも見えた。文句があるなら、直接言うべきだ。男なら、特に。
 雛太はそう思う。
 会釈を無視し、男は部屋の中へと引き上げていく。小さく肩を竦めると、雛太は階段に向かい歩き出す。



「ずいぶん遅いお帰りだな」
 草間興信所のドアを潜ると、そうそうにそんなことを言われた。
「今日調査を手伝うと約束したんじゃなかったか」
 所長である武彦は憮然とした面持ちでデスクに肘をついている。
「あー。そうだっけ?」
 雛太は軽く流すことにした。そして自分が、ここでは自由であれることを少し感謝した。ここで共に生活する武彦やロウ、そして頻繁に出入りしている姉御ことシュライン・エマとは、いつでもどんな時でも、本能勝負だ。思いのまま自分は言葉を吐き、そして彼等も思いのまま受け止め、素直な感情で返してくる。
 学生時代、社交辞令やオベンチャラの使い方が上手くなっていくのが大人になるということならば、そんなものにはなりたくないとずっと思っていた。成績が優秀だとかスポーツが万能だとか、例えばそういうことを抜きにしてありのままに接してくれる人間は多くなく、人には囲まれていたとしても心の中にはいつも虚しい風が吹いていた。そう気付いた時から、自分は少し変わり始めたように思う。
 そしてここへ来て、やっぱり社交辞令やオベンチャラを使えることが少しも立派なことではなかったことを一段と思い知った。楽しい時は笑う。悲しい時は泣く。嫌な時は嫌で、良い時は良い。そういう当たり前のことをぶつけ合える関係の素晴らしさを、いつも噛み締めている。
「今から行くんだぞ」
 事務所のキッチンスペースでミネラルウォーターを口に運んでいると、また武彦の憮然とした声が振ってきた。
「それは無理」
 キャップを閉めながら軽く言った。
「寝てないんだもん。だって」
「それはお前の責任だろー?」
「もう。ごめん。ごめんなさい。今日はホンッとマジで無理。オッサン、行って来てよ。頼むよ」
「俺はいろいろと忙し」
「じゃあ。宜しくね」
 冷蔵庫にペットボトルを仕舞い、傍にあった住居スペースへと続くドアを引く。そのままベットへと倒れこんだ。
「ただ飯食らい!」
 事務所の方から武彦の唸り声が聞こえる。
「全く! ロウ! お前という奴は」
「ぼ。僕は、悪くないでしょ。ちゃんと言いつけ通りに迎えに行きました!」
 小門違いな怒りを向けられうろたえるロウの姿はやすやすと目に浮かび、雛太はベットに潜り込みながら小さくほくそえむ。麻雀には負けたが、ロウには勝った。
 頭の中がぼんやりとフェイドアウトし、眠りの泥がとろとろと侵入してくる。
「あー! シュラインさあん」
 扉の向こうから甲高く跳ね上がったロウの声が聞こえ、そういえば帰って来た時、シュラインの顔を見てなかったと思い出した。何処かに出かけていたのだろうか。
「聞いて下さい」
「どうしたのロウくん? あれ? 雛太くんは?」
「雛太くん……」
「え? 寝てるの?」
「それから。僕のこと叩いた。五回も!」
 言いやがったな。
 起き出して行くパワーはなかったが、不快に背筋がヒヤリとする。
 アイツ。起きたら覚えてろよ。
 思いながらも意識は眠りの泥の中へと引きずり込まれていった。



 秋晴れの空が広がっていた。
 綿菓子のように柔らかい雲が頭上をゆっくりと横切っていき、暫くするとその切れ目から太陽が顔を出す。頭上を見上げていた龍ヶ崎常澄はその太陽に目を射られ慌てて視線を逸らせた。
 瞼の裏に虹色の輪が飛んでいる。
「ねえ。マスター。何処に行きましょう?」
「パフェ食べに行くンでしょ」
 目を擦りながら、龍ヶ崎常澄は答えた。
「だから、何処に食べに行きましょうか、と言ってるんです」
「勝手に決めれば」
 悪魔であるルルにパフェが食べたいと言い出されたのは、昨夜のことだ。
 常澄は悪魔の館という美術館にも博物館にも似た施設を所有し、経営している。元々は家族と共に生活するためにあった洋館なのだが、母が他界し父が仕事で世界中を飛びまわっている今、家族という纏まりはほとんど崩壊してしまった。
 その本来家族が埋めるはずだったスペースに、父の影響で悪魔召喚についての知識を持っていた常澄が自分で悪魔を召喚し住まわせることにしたのは、何年前くらいからだっただろうか。始めて召喚を成功させた時は嬉しくもあったが、それ以上に呆然とした。目の前にある悪魔の姿が信じられなかった。
 それが今では十数人の悪魔を抱える洋館のマスターだ。
 悪魔の館の経営が順調ということもあり、悪魔の数は一ヶ月に一人程度の数で増えている。召喚するにはその悪魔に対しての膨大かつ正確な知識が必要となるので、そういう時には父の書斎にある書籍や書物を持ち出して勉強している。
 父の書斎だった部屋は今でもそっくりそのまま残されている。日々悪魔が増えるに従い客足も増え、そろそろ新しく部屋が必要となっているのはわかっているが、その部屋だけはまだ開け放せずにいる。
 それがほんの少しの思いやりと、最後の砦としてのしがみ付きであるのだと自覚する度、いいようのない憂鬱さに駆られる。
 そんな自分の気分を察知して、話しかけてくる悪魔は少なくない。そこに温かさはなく、ただ不穏な空気を読み取るというだけなのだが、彼等はやはり、そういうものを察知する能力が優れているのかも知れない。
 ルルもそんな一人だ。パフェが食べたいと言い出したのはきっと、彼女自身が最近人間界に興味を持ち始め好奇心があったからなのだろうが、それを言い出すタイミングを昨日にしたのは、もしかしたら自分のそういう不穏な空気を読み取ったからかも知れないと少し自惚れる。
 勝手に決めればと言われ、普段はほっそりとした頬を膨らませた彼女は、長い足を俊敏に動かしながら先頭切って歩いていく。その後を歩きながら何処に行くのだろうと考えた。
 黙ってついていくと、彼女は大きな公園の前で足を止めた。
「マスター。私、ザッシというもので見たんです。今日はハレですから、ソトでパフェを食べるのも悪くないと思うんです。どう? あれは。えーっと。カフェテラスって言うんですって」
 彼女のお国言語に人間界の言葉が混じる様子は、少しおかしかった。
 常澄は広々とした公園の中に視線を馳せる。コンクリートと緑で作りこまれた空間の中央には、緩やかな水を湛える噴水があった。その噴水から数メートル離れたところに、ホットドッグ販売のバンが止まりその回りにパラソルが咲いている。カフェテラスと言うのは間違っている。けれど、雰囲気の良い場所だった。
 確かに快晴の日には、こんな所に出た方が良いのかも知れない。
「あら? マスター。どうして笑うの?」
「パフェはないと思う」
「え!」
「残念だったね」
 公園の中へと足を進め、ホットドッグ販売をしているバンへと近づく。その手前で噴水の前に立つ、ピエロの男に目を止めた。手には空へ向かいふわふわと浮く風船の束を持っている。
「あれは。何ですか? 可愛いですね」
「欲しいのか」
「貰えるの?」
「そうか。聞いてみよう」
 風船を持つピエロへと方向転換する。
 平日ということもあり人はそれほど多くはなかったが、二人がピエロに辿り着く前に二人組みの男に先を越された。少年でも幼児でもなく、成人した男性がピエロから風船を貰っている。ふわふわと空に舞う赤い風船が、どうにも似合わない二人組みだった。シャープな顔をした男が、それよりかはいくらか若そうな栗色の髪の男にピエロから受け取った風船を渡す。
 茶髪の男の顔は、ちっとも嬉しそうではなかった。もっと言えば、苦痛に満ちた表情をしていた。世の中の全てが嫌になったかのような顔。いつだったか常澄も、そんな顔を鏡で見たことがある。
 二人の顔つきは、対照的だった。
「マスター」
 腕を引っ張られ、自分達の番が回ってきたことを知り、常澄は歩いていく二人から顔を戻した。ピエロから風船を手渡されると同時に、おどけたようなポーズで笑顔を向けられたルルは、同じようなポーズを取り柔らかい笑顔を返す。
 そんな風に柔らかく微笑むルルを見て、物心がつく前に他界してしまった母が今傍に居たらと少し、思う。


 ホットドッグを受け取ったルルは、真っ先にそれの匂いを嗅いだ。
 鼻先にケチャップをつけている姿が何とも間抜けで笑いをそそる。常澄がホットドッグにかぶりつくと、奇妙な物でも見るような目を向けた。
「食べ物だよ、だって」
「食べ物?」
「パフェと同じ」
 答えながらそう言えば、彼女は物を食べないと思い出した。
 もしかしたら雑誌で見かけたパフェのことも飾り物だとでも思っているのではないだろうか。そう思い当たり、その可能性もなきにしもあらずだと思った。彼女の背中では、椅子にくくりつけられた空と同じ水色の風船が、柔らかい風に揺れられふわふわと浮いている。
 憂鬱になるほど、良い天気だと思った。



「本当に今日は……その。良いお天気ですね」
 その躊躇ったような言葉遣いが、何より彼の気持ちを表現しているように思えた。久緒と一緒に時間を過ごすのはこれで三回目になる。彼は始めて逢った時から少しも変わらない、いやむしろ、いくらか執拗になったような瞳で自分を見ている。
 悪い男ではないと思う。顔つきだって嫌いじゃないし、体つきだって嫌いじゃない。けれど彼の真面目さは窮屈で、その窮屈さは彼を肯定するべきどの理由よりもほんの少し勝っていた。
「貴方のような人が……その。僕のような男と……一緒に時間を過ごしてくれているということは。大変幸運なことだと思ってるんです」
 貴方のような人。という言葉にモーリス・ラジアルは聊かうっとりとする。彼には自分が一体どんな風に見えているのだろう。
「そうですか? 貴方は口の上手い人だ」
 彼の言葉を上滑りさせ、気のない返事を返す。そういう言葉に今彼がどんな思いを抱き、もしかしたら打ちのめされているのかも知れないなどと空想する時、これは酷く恋に似ていると感じる。ただ、恋に似ているというだけで継続できる関係には限界があるのだとも知っている。
「いえ。本当に……本当にそう思ったものですから」
 頬に彼の視線が突き刺さる。それは緩やかな秋の風の流れを止めてしまうほどの力を持っている。
「嬉しいですね」
 顔を向けると久緒は慌てて視線を逸らせた。


 今日は今朝から秋晴れの空が広がっていた。スケジュールを埋めるような用事も特になく、それは多忙な毎日を送るモーリスにとって奇跡的なことでもあった。
 この奇跡を誰と埋めるべきか。自室で一人、陽の光を溢れさせる窓を見やりながらぼんやり考えた。その時、部屋の隅に置かれてあるデスクの上で置き放たれていた携帯電話が振動した。画面を見ると、久緒という文字が表示されていた。
 久緒は仕事関係で出会った男だ。
 リンスター財閥の総帥の片腕として仕事をしていると、いろんな場所でいろんな人間に出会う。そしてその中に、好意を寄せてくる女や男がいる。モーリスはそんな彼等と、ゲームのような恋愛を楽しむのが好きだった。人を観察する良い機会にもなるし、仕事の合間にあるほんの一時間を埋める暇潰しにもなる。数が多いなら多いほどいい。
 久緒を見た時、ある種予感めいたものがモーリスの胸にはあった。
 名刺を受け取る仕草、その表情、話をする時の目線、その態度。滲み出てくる好意に、自分の方が照れくさくなってしまうほどだった。
 一度目は仕事を通して逢った。二回目は仕事を抜きにして食事をした。
 そして、三度目。
「はい」
 モーリスは通話口に向かい声を出す。
「あ、久緒ですが。今、お暇ですか」
 いくらか緊張したような声が言う。食事をした日から、丁度一週間。悪くないタイミングだと思った。
「ええ。何でしょう」
「いや。あの。何というわけでは……ただ、ちょっと」
 受話器の向こうの声がこもる。モーリスは窓の外へ顔を向けた。
「今日はいい天気ですよねえ」
「あ、え? あ、はい」
「では。散歩にでも出かけませんか」
 主導権は自分にあるのだと思った。


 散歩に訪れた公園にある緑の配置とその設計はモーリスが手がけたものだ。つまり、リンスター財閥のお抱えの土地だった。
 普段は総帥の自宅や数少ない彼自身の所有物件で小さな箱庭などの造園を手がけているのだが、その能力を買われ時には大きな仕事が手元に舞い込んでくる。この公園もその一つだ。
 手入れは契約に入っておらず、この公園を訪れたのも一年ぶりくらいだった。
 公園の中央には噴水があり、その前にピエロの男が幾つ物風船を持ち立っている。少し先にはホットドッグを売っているバンが見え、そこに掲げられた旗が平日の日の緩やかな流れの暇を訴えるかのように流れている。
「人気の無い公園って……今まで何だか淋しいだけのような気がしてたんですが。こうして見ると何だか落ち着きますね」
「ええ。そうですね」
「あの」
 不意に強張った声色が、モーリスの耳を突いた。
「はい?」
「これ」
 久緒が徐に、ジャケットのポケットの中から小さな包みを取り出す。
「なんですか」
「あの。いえ。差し出がましいかと思ったんですが……その。以前お食事した時に。好きな香りの話をしてらっしゃったから」
 それは唐突とも言えるプレゼントだった。
 まだ手も握らないうちからプレゼントとは、どういう心境からなのだろう。
 封を開け中身を取り出すと独特の曲線を描くパフュームの壜が姿を現した。それは掌に収まるくらいで、決して嵩張るものでもそれほど高価だと思わせるものでもなかったが、壜の口からほのかなフゼア系の香りが立ち上がってきた瞬間、足元がぐらつくかのような鬱陶しさが込み上げてきた。確かにこの香りは好きだ。愛用もしている。けれどその毎日使うものの中に久緒が目をつけているということに、堪らない鬱陶しさを感じた。
「嬉しいですね」
 これがバッグや洋服、その他のプレゼントだったならばそう気にはしない。けれど、香水やアクセサリーは意味合いが少し違う。流行に流されない日常的につけられるものをプレゼントする時、人は酷くその裏側に期待を込めている。
「是非、使って下さい」
「ええ」
 彼を見ずに前を見た。人通りの少ない公園を、自分達と同じような年代の二人組みの男が横切っていく。可笑しいことに、男のうちの一人は赤い風船を持っていた。噴水の前に居るピエロに貰ったものだろう。表情は何だか居心地が悪そうだ。もう一人はそんな茶髪の相棒を見つめ、喜々として歩いているように見えた。もしかしたら自分は今、あの男のように居心地の悪い顔をしてしまっているのだろうか。
「良かったな。喜んで貰えて。やっぱりどうせなら、毎日使えるものをプレゼントしたいから」
「そうですか」
 手の中にあるパフュームの壜が重さを増したような気がする。俯いていた顔を上げ前方を見ると、不意に男のヒステリックな声が聞こえた。いつの間にかは分からないが、茶髪の髪の男が背の高い男に手首を捕まれもがいている。彼の手から離れた赤い風船が水色の空へと吸い込まれ、「やめろよ!」「放せよ!」「いい加減にしろよ!」というような声が遠く聞こえてくる。
 それは助け舟だ、と思った。
 パフュームの壜を包みに戻し、自分のジャケットの中へと収める。いくらか気まずそうな顔で二人組みを見ていた久緒の横顔に視線を向けた。
 好きでも。嫌いでもない。
 肉体関係を結ぶ早さは、小さな自己主張だ。分別のある大人を相手にするならば、早ければ早いほど愛情を薄めることが出来る。
「そろそろ場所を変えましょうか」
「あ。そ、そうですね。食事でも」
 言い出す久緒を遮り、モーリスは言う。
「静かにお話できる場所に」



 冷たさを孕んだ風が火照った体に心地良い。
 シオン・レ・ハイは公園の奥まった場所に植えられた木々に向かい大きく深呼吸した。見えはしないが爽快な風が肺の中へと流れ込んできたような気がして、とても気持ち良いと思った。脇に上られた木々達は、その申し訳程度についた木の葉を赤く染め冬を迎える準備をしている。
 爽快な気分で背伸びをしたら、不意に腹の底からクウと絞り出すような音がした。
 いつものことだった。日課であるお風呂と洗濯を終え、散歩がてらにこの公園を回り、そうしているとお腹がすいてくる。毎日のリズムを、体はちゃんと分かっている。
「今日も草間興信所にお邪魔してみようかな」
 軽い調子で呟いて、呟いた瞬間に心は決まった。
 公園の中央に位置する噴水を通り過ぎ、自分が入ってきた入り口とは逆の方向にある出口へと向かう。草間興信所がある雑居ビルへは、そちらの方から出た方が早かった。
 楕円形の噴水の裏手に出たとき、ピエロの格好をした男を見つけた。手には風船を繋いだ紐の束を持っている。これをお土産に貰って行こうかとふと思い、ピエロへと駆け寄った。
 前方に、ピンク色のバンを見つける。
 ピエロの前を通り過ぎ、シオンの足はついついそちらへと引き摺られていった。
 バンの前には「ホットドッグ」と書かれた看板がある。
「お腹がすいた。お腹がすいた」
 頭の中にケチャップたっぷりの、おいしそうなホットドッグのイメージが浮かんだ。口の中に唾液が溢れ、知らぬ間に口が動く。
 シオンはバンの前まで駆けつけると、小さな窓のように繰り抜かれたバンの内部にじっと視線を馳せた。頭にタオルを巻いた青年が、ぼんやりと暇そうに雑誌のページを繰っている。
 そんなに暇なら一つくらいタダで作ってくれないかな。
 そんなことを思いながらスーツの懐をそっと押さえる。実はお金を持っていなかった。
 お気に入りの風呂屋で今日のお小遣いである六百八十円を使い切ってしまったシオンに、その他のことへ使えるお金の余裕はない。
 ここで草間興信所にでも行ってチョチョイと依頼を手伝えば、何かしら食い物にはありつけるのだろうが、シオンは今この場でこのホットドッグが食べたくて堪らなかった。
 怨念を込められるなら、今この目に込めたい。
 シオンはそこに棒立ちし、じっと店員を見つめる。彼は気付かず雑誌のページを繰っている。
「○▽×♪$」
「え?」
 間近で聞こえたマシンガンのように勢いのある声に、シオンは無意識に返事を返していた。上手く聞き取れなかったが呼ばれたような気がした。声と共に顔を向けるとそこに英国人にも見える少女が立っている。やはり上手く聞き取れないのだが、彼女は何かしらを必死に訴えていた。
「あー。アーイキャーントスピークジャパニーズ」
 それでは、私は日本語が話せませんだった。
「あー。ノウノウノウ」
 顔の前で両手をばたつかせ苦笑いする。少女は小首を傾げて後を振り返った。ホットドッグ屋がサービスで置いてあるのだろうパラソルの下に、赤いコートが印象的な、茶色く柔らかそうな髪をした少年が座っている。
「彼女のことなら気にするな」
 シオンと目が合うと、彼は憮然として言った。
「あ、は、はあ」
 彼が日本語を喋れたことに、聊か安堵し頷いた。
 彼は彼女と何かしら会話し立ち上がる。彼女は笑顔でまた何かしらシオンに向け言うと、小さく礼をしテーブルへと戻った。そこに置き去りにされてあったホットドッグを掴み、ゴミ箱へと向かう。
 まさか捨てる気か、と思った。
「わああああ! ちょ。ちょっと待って下さい!」
 シオンは飛び掛りそうな勢いで彼女の腕を掴む。
「それ、捨てないで下さい!」
 彼女が驚いたような目でシオンを見上げる。
「ノー! ノーダンプ! ノーよ! ノー!! そして私に下さいな!」
 彼女がオロオロとした仕草で後を振り返り、赤いコートの彼を見る。シオンも彼を見た。
 切羽詰った四つの瞳に見つめられ、彼はどうして良いか分からないようにただ眉を寄せた。
「私もホットドッグ食べたいんですよォ」
 縋るように言ったシオンの言葉に、彼の眉間の眉が一段と深くなる。



「やあ。なんか。おじさん、強引に貰っちゃったみたいで、ごめんね」
 ホットドッグにかぶりつきながら赤いコートの彼に言うと、彼は小さく会釈を返した。
 英国人の彼女はただニコニコと、シオンがホットドッグにかぶりつく様を眺めている。
「そんなに見つめられるとおじさん、テレちゃう」
 ムフフと笑いホットドッグを租借する。彼女の手が伸びてきて、シオンの口元をゆったりと拭った。
「▽♪$○■」
「ついてたと言っている」
「ああ。それは失敬! いやあ。こんな素敵なお二人に出逢うことが出来て私はとても嬉しいですよ。これから草間興信所という場所に行くつもりだったんですけどね。ホットドッグがどうしても食べたくて」
「草間興信所?」
「お前から絶対に逃げてやる!」
 背後で突然金切り声が上がり、シオンはその驚きで喉の奥にホットドッグを詰まらせかけた。
 胸を叩き詰まったものを力ずくで流し込みながら、後を振り返る。
 二人組みの男が言い争いをしていた。
「物騒だな」
 赤いコートを着た少年が不穏に呟く。
 確かに物騒だと思った。けれど事情も何も知らない自分がノコノコと止めに入るのもおかしい気がして、シオンは「何事もありませんように」と胸の中でただ祈る。
 目の前に座る赤いコートの彼とはまた違う、茶髪の髪をした二人組みの一人は体全部で自分を繋ぎとめようとするかのような、面長の男の手から懸命にもがき逃げるようでもあった。
 二人組みはそんな調子のまま、言い争いながら公園を出て行く。嵐が過ぎ去った後、やけに公園の中が静まり返ったかのような気がした。
「ところで。草間興信所なら僕も知ってる」
 背後でポツリと声がした。
「え?」
「何か、事件でもあったのか」
 顔を戻すとやけに真剣な顔をした少年がそう言った。



 ぼんやり歩いているからそういうことになるのだと思った。
 香坂儚は腕を引っ張られながら小さく後悔する。
 ちゃんと頭を働かせておけばよかった。
 腕を引かれたままに辺りを見回す。見慣れない住宅、見慣れない塀、見慣れない街並み。ここは一体、どこなのだろう。
「要するに道に迷ったってこと?」
 自問自答するように小さく呟く。自分の前方を歩くラブラドールレトリバーは振り向きもしない。
「どうしたモンかな」
 溜め息を滲ませ呟いてはみたが、本当のところどうにでもなるような気もしていた。問題は、ちゃんと家に帰れるかではない。ちゃんと時間に間に合うのかだ。
 地図を持ってくれば良かったと後悔はしたが、それもすぐに消えた。後悔しても始まらないことがこの世の中には沢山あってしまうことを思い出したからだ。
 そもそも悔やむというならば始めから悔やまなければならない。生まれた時から、施設で育ったことから、そして自分の体がまだ小学校六年生の小柄な男子のままなことから。
 このラブラドールに出逢う前にきっと悔やむのに疲れてしまうだろう。
 見慣れない住宅街の舗道には、人の姿一つ見つからない。先ほど一人、主婦の姿を見かけたが、彼女は儚の姿を訝しげに眺めるだけで決して近づいてこようとはしなかった。
 儚はコウテイペンギンの子供の着ぐるみをいつも着ている。彼女はそれに驚き、あんな視線を寄越してきたのだろう。だからと言ってどうということはない。儚がこんな姿で歩いてようとも、声をかけてきたり好意的な視線を寄越してきたりする人はいる。
 ペンギンの着ぐるみを着ることで、上っ面の人の心は手に取るように見えるようになった。ペンギンの着ぐるみを着ていても良いのか。それは常識外れだと嫌悪するのか。

 暫く犬が引くまま住宅街の舗道を歩いていると、向こうからヒョロリと背の高い面長の男が歩いてきた。背を曲げ地面を見つめるその姿からは、卑屈な歪みのようなものを感じる。
 男が顔を上げた。目が合った。不意に「あれだ」という思いが腹の辺りからせりあがってきた。
 道を聞くならあの男にしよう。表情を見てそう思った。儚をじっと見やる男の顔には、少なくとも拒絶の色は浮かんでいない。ラブラドールを繋いでいる紐をぐいっと引き、反対側を歩く男に近づこうとする。
 しかしラブラドールの力は思いのほか強かった。何故か彼は足を目一杯踏ん張り、抵抗している。
 便利屋の仕事から犬の世話を抜こうかと思うのは、こんな時だ。
「きみ」
 ラブラドールと格闘している間に、男が駆け寄ってきていた。儚は顔を挙げ上目使いに男を見上げる。
「犬の散歩かい? 大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ!」
 たどたどしい仕草を演出しながら、掌に紐を巻きつける。
「あのね。ちょっと。聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいことォ?」
 小首を傾げると男はニッコリと微笑んだ。
「この辺りで……人を見なかったかな、と思って。えっと。僕より少し若い男の人でね。茶色い髪をした人なんだけど」
「うーん。茶色い髪の人ォ? ……見てないなあ」
「そうか」
 苛立ちを含んだように言い、男が眉根を寄せる。
「ねえ! ねえ! お兄さん! ボクも聞きたいことがあるんだけどね!」
「え? あ、ああ。何?」
「ちょっと。道に迷っちゃって」
「ああ、そうなの。えっと。何処に向かうんだい?」
「お兄さん、携帯電話持ってる? 地図見せて欲しいなって思うんだけど」
「あ、ああ。そうか。地図ね……でもそれを見て分かるかな?」
「うん! 大丈夫だよ!」
「そう」
 男のポケットから出された携帯電話の画面を覗き込む。暫くして地図が表示され、なるほどこんな遠くまで来てたのかと儚は内心で舌を巻いた。
 帰りは走りかも知れない。
「うん。よし、分かった! お兄さん! ありがとう!」
「本当に大丈夫かい?」
「うん!」
「そっか……じゃあ。ごめんね。僕も急いでるから」
「そっか。じゃあ、お兄さん! ありがとう!」
「じゃあ」
 微かに手を振り男が儚に背を向ける。ふっと振り返り、その後姿を見た。
 不穏な顔だったなと思った。
 嫌な空気か体中から滲み出ており、しかしそれを自分では上手く隠し通せていると思っているところが、何よりも不気味だった。他の人間には分からないのかも知れない。けれど、儚にはひしひしと感じる。
 あの男は、きっと何かをやろうとしている。とても怖くて、恐ろしいことを。
 儚は小さく息を吐き出し、顔を戻した。
 しかし何はともあれ今は約束の時間だ。
 今日、儚が育った施設でお誕生会という名目の小さなパーティが開かれることになっていた。施設には自分を待ってくれている子供達や先生達がいる。
 ラブラドールを繋いだ紐を引き、早くこの散歩という業務を終わらせようと思った。





「どうして逃げるんだ!」
 張り裂けるような声が耳に痛い。
「何もかも与えてやったじゃないか。分かるか? 俺は君の為ならどんなことでもする。どんな物でも与えてやる。その変わりに、君の自由が欲しいと言っているだけだ。何が間違ってるんだ。どうして駄目なんだよ。何が足りたいんだ? え! 言ってみろ!」
 こうなるともう手がつけられなくなる。
 こんな光景を見るのは何度目だっただろう。
 今日は一段と激しい気がする。部屋の持ち主でもあり今の自分の仮初の主人である男は、茶色い髪をした柔らかい顔をした青年の体を激しく打った。
 もうそれ以上殴らないであげて欲しい。
 クローゼットの上からその様子を眺めていた四宮灯火は、切にそう想った。
 始めて見た時にはとても柔らかく優しい表情をしていた青年の顔は、今では苦悩と苦痛に歪み頬がげっそりと扱けている。
 彼を始めて見た時、あの方にとても似ていると想った。灯火をとても可愛がってくれたあの方だ。今では何処にいらっしゃるのか分からないが、深い深い愛情で包み込んでくれていた四宮の姉様に、彼はとても良く似ていた。笑うと目尻に刻まれる皺や、柔らかい掌や、白い頬や通った鼻筋や、自分を見る時の茶色にも黒にも見える淡い瞳や。それが今ではこんな姿へと変わってしまった。
 人形である灯火がこの部屋へ拾われてきたのは、一ヶ月ほど前のことになる。神影の主人から人前では動いては駄目だと言われていたにも関わらず、四宮様を探すことをどうしても諦めきれず、街中を彷徨っていた日に、この部屋の持ち主である男に出会った。
 ゴミ捨て場に隠れていたところを拾われ、そしてクローゼットの上に飾られた。
 すぐにも逃げ出そうとしたが、そこへ四宮様に似た彼が現れ灯火はタイミングを失ってしまった。もちろん彼は彼なのであって四宮様ではないことはわかっていたが、その瞳に見つめられると手足の力が抜けてしまい身動きが取れなくなってしまうのだった。
「どうしてわかってくれないんだ!」
 また耳を突くような声がする。そして、四宮様に似た彼の上げる悲鳴が聞こえる。
 誰も助けにはこない。彼の声は何処へも届かない。
 それはいつだったかこの部屋の持ち主である男が言っていた、「隣の部屋の奴らは毎日毎日友人を連れ込んでいて煩い」ということも関係しているのかも知れない。男が言う会話を結びつけ、神影の主人に教わった「常識」というものをそこへ編み込んでいくと、隣の部屋には人が居るには居るのだが彼の上げる悲鳴までは聞こえていない、ということになるのだろう。
 どうにもならない。助けてあげられない。灯火はただ、切ない思いを抱えたまま見つめることしかできない。

 不意に部屋の主人が動きを止めた。
 ぐったりと倒れこむ彼を上から見下ろし、今までのことが嘘だったかのように部屋の主人はそこに立ち尽くしている。自分と同じ、人形のようですらあった。
 部屋の中には静寂が訪れた。二人の人間が微かに吐き出す息だけが静寂の中に浮いている。

「殺してやる」
 それは、不意に部屋の主人が呟いた。
 ぞっとするほど優しくか細い声だった。
「殺してやるよ。なあ? そしたらお前はもう、この部屋から出ていけなくなるだろう? なあ?」
 部屋の主人はその場にそっと膝を着き、彼の額を優しく撫でる。
「いいよ。殺してやるよ。な?」
 煮詰まったような瞳で彼が部屋の主人を見上げる。
 口は何かを言いたげに開かれていたが、結局そこから言葉が吐きだされることはなかった。
 彼の行動は素早かった。今までそこに倒れ込んでいたのが信じられないくらい、素早い動きで彼は立ち上がり、そして部屋の主の手から逃げた。灯火の視界からは消え、次に姿を現した時には彼の手に、先端の尖った銀色に輝くものが握られていた。
「殺されたくない」
 今までに一度も聞いたことがないような、低い低い声で彼が呟く。
「ま。待て」
「もう。嫌だ」
 絞り出すように言った彼の喉が、大きくなる。
「もう、嫌だ。もう……」
 上辺を滑るような彼の声だけが、部屋の中に浮いていた。



 インターホンを押しても誰かが出てくる気配はなかった。
 十ヶ崎正は念のためと思い、もう一度インターホンのボタンを押し込む。
 奇妙な余韻を残す機械音が辺りに響いた。
「不在、かな」
 誰も出てこないのを見届け、正は自分に向け呟いた。
 不在なら不在で困ることはなかった。むしろ、引越しの騒音が迷惑にならないのかと思うと安堵さえする。ただ、挨拶の為に持ってきたこの紅茶は無駄になってしまった。
「仕方ないかな」
 引越し作業の後に飲めばいいかと考え直し、踵を返す。
 そこで更に隣の部屋のドアが開いた。鍵を外す音の後、姿を現した若い男に正は小さく会釈する。
「どうも」
 男は訝しげに会釈を返した。
「ああ。いえ。僕はあの。この隣の隣の部屋に引っ越して来た、蒲生の知り合いでして。引越しの作業のせいで今日はちょっとバタバタとしてしまいますので。ご挨拶にと」
 説明しながら反射的に、その部屋のネームプレートを見る。秋永雄太と書かれてあった。
「あ、ああ。そうだったんだ。俺、ここに住んでる秋永っての。よろしくね」
「宜しくお願い致します」
 深々と頭を下げ、挨拶を返した。
「あの。それでこの部屋の方は……不在、なんでしょうか」
「ああ。ここ? さあ? 朝は何か見かけたけど。でも隣に住んでる人間かどうかはわかんないなあ。俺、人の顔とか覚えるの苦手なんだよね。でもとにかく人は居たぜ? ああ、物音にはチョー煩いからこれからも気をつけた方がいいかもしんねえ。夜中とかコッチ煩くしてるとさ、壁とかドンドン叩いてくるから。でもなあ。それほど煩くしてるつもりでもない時にも、ガッタガッタと煩いンだよねえ。オメーが壁叩く音のが騒音だっつの。なあ?」
「は、はあ」
「ま。そんな感じだから。頑張ってね。じゃ」
 軽い調子で去っていく背中を見送りながら、やっぱり不在で良かったな、と正は胸を撫で下ろす。
 廊下を戻り、引越し作業中の部屋へと入った。
 部屋の中はまだ乱雑としていた。キャンバスや油絵の道具が散らばり、そこに加えて整理し切れていない衣服や食器の入ったダンボール箱が積み上げられている。その間を上手く掻い潜り、リビングへ出た。
 蒲生は黙々とダンボールを開ける作業をしている。
「隣の人、居なかったみたいだ」
「そうですか」
 顔すら上げず作業に没頭する蒲生の横を通り過ぎ、まだカーテンのかかっていないベランダへと続く窓を開ける。空には薄い雲が浮かび、入り込んでくる風は熱のない清々しさに満ちていた。
「上々の部屋だね」
 正はベランダへと足を伸ばす。
「しかしこの、路上に面した窓というのはどうなんだろう」
 そして後を振り返り蒲生を見た。
「制作の邪魔にはならないかい?」
 蒲生は最近、正が発掘した新人画家だ。一風変わったコンセプトを持ち、画商である正の感性を強く擽ってくる。
 彼は生気の薄い目で正を見やり「人通りとか、多くありませんから」と、か細い声で主張した。
「そうか。なら、良いね」
 また体を返し下に広がる道路を見下ろした。確かに今この瞬間には人も車も走っていない。
「引っ越してから絵が書けなくなったりしたら困るからね」
 確認するように、独り言を言う。
 そして何気無く隣の部屋のベランダを見た。その瞬間、正は思わず「え」とか細い声を漏らしていた。
 血?
 人の血のような跡がコンクリートの上に伸びている。更に、この角度からでは良く見えないが、窓のサッシからちょろりと伸びているもの。あれは、人の手ではないだろうか。
 まさか、と思った。
 まさか、隣人に何かあったのか。
 たった今から自分の大事な画家が生活する部屋の隣に、不穏な物を見つけてしまった気がして、正は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 まさか。まさか。
 否定はしても、疑念はわきあがってくる。確かめなければずっと気にかかり続けるだろうと思った。
 何でもないと確かめなければ。とにかく、自分の目でまず確かめなければ。
 居てもたっても居られなくなり、正は部屋を飛び出す。
 隣の部屋のインターホンを押し、ドンドンと扉を叩いた。
「すみません! もしもし! すみません!」
 勢い余ってドアノブを回してしまうと、それは思いのほかさっくりと開いてしまう。
 どうしよう、と思った。
 人様の家に勝手に入り込むのか。しかし、鍵が開いている時点で間違っているような気もする。
「すみません! お邪魔しますよ!」
 前置きして扉を開けた。
 その瞬間、何とも言えぬ衝撃的な匂いが正の鼻腔を突いた。思わずスーツの袖で鼻を覆う。
「なんだこの匂いは」
 嗚咽を抑えながら中へ入り込む。
 部屋の中は悲惨な状態だった。血があちらこちらに伸び、そして何より、腸を書き出された男がそこに伸びている。手はさきほど正が見つけたようにベランダのサッシへとかかっていた。
 足から嫌悪が這い上がってきて、正は思わずへたり込みそうになる。
「こ。これ、は」
 その場に足を止めていることすら気持ちが悪く感じられて、部屋の中を呆然と横切った。ベランダへ出ようとした時、足の裏にいやに柔らかく生暖かいものが触れる。
「わああ!」
 飛び上がり、咄嗟にそれを拾い上げていた。
 そして今度は自分の手の中にある物が、そこに横たわっている男の内臓だと認識し、体が震える。
「ど。どう」
 小さく頭の中がパニックになり、気がつけば正は、それをベランダから放り投げていた。



「全く。好き勝手に生きやがって」
 草間武彦は、興信所に居る居候に向け小さく文句を吐いた。
 本来ならば今頃は彼がこの道を歩き、自分は興信所でゆったりと書類の整理でもしていたはずなのだ。
「全く。何が徹マンだ」

 そうして暫く俯き加減で歩いていると、頭上に何か冷たくてねっとりとしたものが落ちて来た。
 それは微かな重みを持って、武彦の頭に張り付いた。何だ、と思うその前に、トロリと何かが額を伝う。反射的に額を拭った。頭にあった微かな重みも、拭ったものと一緒に引き摺り落とした。ぷるんとした奇妙な弾力を伴い、それは手の中へと跳ね返る。
 武彦は暫く、それが一体何であるかを理解することが出来ずにいた。いや、思いついたその言葉を脳が拒絶していたのかも知れない。もしも今この場所ではなくそれ相応の場所で見たならば、理解出来ないほど奇妙なものではないのだろう。
 遠くから聞こえる子供の笑い声。自転車のベルの音、主婦の声、何処かの家から聞こえてくる下手くそなピアノの音、住宅街に溢れるありきたりの音。
 その日常の全てを頭から全て追い出して、武彦はやっと自分の手の中にあるものを認識することが出来る。
 血だった。
 人の、臓器だった。
 それ自体がまだ息を持っているかのように、嫌な振動を刻みながら、掌に蹲る。
 こめかみの辺りに、ぎゅっと血が詰まった。動機が早くなり、逆に体の温度は下がっていくかのようだった。
「どうして。こんな物が」
 頭上には重なり合うように走る電線と、その向こうに秋雲が泳ぐ水色の空が見える。何の変哲もなく、ましてや人の臓器が振ってくるなんてことは考えられない。
 投げられたのか。落ちて来たのか。
 しかしこんな。夕暮れの住宅街で?
 脇に建つ住宅を見上げる。小さな庭を持ったその白い壁の家は、静かで緩やかな時を重ねたような佇まいでそこに建っている。平穏無事であることが何よりの幸せだと、その壁が語りかけてくるかのようだった。辺りを見回しても他の全ての家々から、同じものを感じた。
 家の中のことは誰にも分からない。どんな家庭だって悩みの一つや二つ、三つや四つは抱えているだろう。しかし、だからといってこの臓器は。
 余りに現実から離れすぎている。
 吸い込んだ息は気管に詰まり、唾液が喉に張り付いた。



「お帰りなさい」
 言ってから振り返り、そこに呆然と立ち尽くす武彦の額を見て、シュライン・エマは血の気が引いた。
 彼の額が赤く濡れている。
「ど。どうしたの! 武彦さん!」
 ソファから勢い良く立ち上がり、武彦の下へ駆けつけた。
「ちょ。こ。これ、何? 血?」
「落ちてきたんだ」
 呆然とした表情のまま、武彦が呟く。
「落ちてきたってな、何が。ああ、その前にそれを拭かなくちゃ。タオルタオル」
 武彦が額に血を浴びて帰ってくることなど、そうあるわけではない。
 すっかりうろたえてしまったシュラインは、住居スペースにあるクローゼットから、引っかかって仕方がないタオルを何とか取り出した。
 どうして今日に限ってこんなにもタオルが引っかかってしまうのだろうと思い、自分の手を見ると微かに震えていた。

「武彦さん! 貴方は大丈夫なの?」
 その額を少々乱暴に拭った。
「あ、ああ。俺は大丈夫だ、多分」
「落ちて来たって何が落ちてきたのよ」
「人の……内臓?」
「えええええええええええええええええ?!」
 裏返った声が口からあふれ出してしまい、シュラインは思わず自分の口をタオルで押さえた。
「そんなの……降ってくるものなの」
「降って来たんだから仕方ないじゃないか」
「本当に人の臓器なの? 間違いないの? 召喚とかの失敗だとか、実は造形作家さんの作品だとか」
「うーん。そう言われてみるとそうかも知れんが」
「もし人の臓器だとしたらどの部分なわけ? それ、拾ってないの? あ、警察には?」
「そんないっぺんにいろいろ言うな。俺だって驚いてるんだから」
「もし人の臓器だったとしたら、これは殺人よ!」
「どうだろうな」

「ちょー。何、煩いってば」
 住居スペースから暢気にも思える声が聞こえる。
 居候兼お手伝いの雪森雛太が顔を出していた。
「それどころじゃないのよ」
 シュラインは腹の底から吐き出した。
「人の臓器が落ちて来たの。人の臓器よ? 臓器が落ちてくるなんてこと、考えられる?」
 一気にまくし立てた声に、雛太が「はあ?」と間の抜けた返事を返した。









END











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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2254 / 雪森・雛太 (ゆきもり・ひなた) / 男性 / 23歳 / 大学生】
【4017 / 龍ヶ崎・常澄 (りゅうがさき・つねずみ) / 男性 / 21歳 / 悪魔召喚士、悪魔の館館長】
【0086 / シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2318 / モーリス・ラジアル (もーりす・らじある) / 男性 / 527歳 / ガードナー・医師・調和者】
【4310 / 香坂・儚 (こうさか・はかな) / 男性 / 16歳 / 便利屋(見習い)】
【3419 / 十ヶ崎・正 (じゅうがさき・ただし) / 男性 / 27歳 / 美術館オーナー兼仲介業】
【1537 / シオン・レ・ハイ (しおん・れ・はい) / 男性 / 42歳 / びんぼーにん(食住)+α】
【1537 / 四宮・灯火 (しのみや・とうか) / 女性 / 1歳 / 人形】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 落ちてくる、臓器 にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。
 素晴らしいプレイングと
 ご購入いただいた皆様、PCをお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝致します。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                       感謝△和  下田マサル