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メイドの願い
それは、今から少し前のこと……。
Trrrrr……
「はい。空木崎です」
「辰一さん? こんにちは。真純です」
「あ、ど、どうも。どうしたんですか?」
大切な人からの突然の電話。空木崎辰一(うつぎざき・しんいち)は、受話器を握る手が軽く汗ばむのを感じた。電話口の向こうでは、栗原真純(くりはら・ますみ)の声が一段低くなる。
「あの、ちょっと、今、いいかしら?」
「もちろんです」
「実は……、大事な話があって……。明日、うちのお店に来てくれない? お店が始まる前。そうね、一時間くらい前に」
電話では言えない大事な話。いったい何だろう? 辰一の頭の中を良いこと悪いこと、様々な物がグルグルと回り始める。だが、どちらにしても断っていいわけがない。
「わかりました。明日の朝、必ず行きます」
「ありがとう。お店の裏口って知ってる? そこの鍵を開けておくから……。よろしくね」
そう。それがすべての始まりだったのだ。
翌朝、辰一は甘味処『ゑびす』へ。真純は若いながら、この老舗の店長である。
真純に言われたとおり、辰一は店の裏に回り、店員が出入りする裏口を開けた。
「……え?」
大事な話があると呼び出された男なら誰だって、自分と相手の二人きりになることを予想するだろう。しかし、辰一の目の前には、何人もの若い女性が。
(……ああ、でも、もう開店の準備が始まっているのですね)
そう自分を納得させるも、何か妙な違和感は拭えない。
「おはよう、辰一さん。来てくれてありがとう」
そこへパタパタと駆け寄ってきた真純は、辰一と扉の間に身を滑らせると、ごく自然な仕草で戸を閉ざした。
「あ……」
真純の姿を見て、辰一は、先ほど感じた違和感の正体に気づいた。甘味処『ゑびす』では、和風の服装で接客をするのが決まりだ。必ずしも店員すべてが着物姿というわけではないが、間違っても、メイド服など着ない。しかし、ここにいる女性たちは、真純を含めて全員メイド服を着ているのだ。
「あの、真純さん、今日はいったい……?」
「ふふっ。気がついた? 今日は『ゑびす』開店百周年の記念イベントで、コスプレ接客をするの」
「コスプレって……」
「あら。だって、流行ってるんでしょ? 『ゑびす』だって、伝統を守るだけじゃ時代に取り残されちゃうわ。大丈夫。今日一日だけだもの。話題作りのためよ」
見事な経営戦略。これなら『ゑびす』も当分は安泰だ。客観的にはそうなのだが、辰一には言いたいことが一つある。
「それで、大事な話って?」
待ってましたとばかりに、真純は天使のような――あるいは悪魔のような――笑みを向けて、紺と白で彩られた何物かを差し出した。
「今日来るはずのバイトの子が、昨日から風邪で寝込んじゃって。こういう仕事だから、無理に来てもらうわけにも行かないでしょ? だから、代わりに、お願い」
「あの、真純さん。僕は……」
「大丈夫。お客様の注文を取ってくれるだけでいいの。今日は混むと思うのよね。辰一さんが手伝ってくれると、ほんとに助かるんだけど……」
断れと言う自分と、真純のためだと言う自分。どちらが勝つかなど、考える余地もない。
「……わかりました」
「やってくれるのね? よかったあ。じゃあ、こっちに来て。ここが更衣室なの」
「ところで真純さん。そのネコミミも、ですか?」
「そうよ」
真純は、当たり前だという顔で言った。
「ただのメイド服じゃ、コスプレにならないでしょ?」
主に調理担当の男性従業員用更衣室には、幸いにも先客はいなかった。
「……はあ……」
辰一は深々と息を吐き、真新しい紺のワンピースに袖を通す。
「これは……?」
姿見を横目で見る。サイズはぴったり。代役とは思えないほどに。
(……いや、急病のアルバイトさんが、僕と同じ背格好だったのでしょう。だから僕が呼ばれたのですね)
無理にでもそう自分に言い聞かせ、着替えを続ける。初めから自分にメイド服を着せるつもりだったのではないかなどと疑いを挟んだら、どうにかなってしまいそうだ。
最後に猫耳カチューシャを着け、そっと更衣室のドアを開ける。外には、救急箱に似た物をぶら下げた真純がいた。
「うん。よく似合うわ」
「……ありがとう」
女装を褒められて礼を言うなんて、と、もう一人の自分が心の中でボヤく。
「それじゃあ、仕上げに、メイクをしてあげるわね」
真純はやけに嬉しそうだ。
「メイク? 化粧ですか? いいですよ、そんな」
「うーん、確かにスッピンでも綺麗だとは思うけど……。常連さんの中には、辰一さんの顔を覚えている人が……」
真純が言い終わる前に、辰一の口が開く。
「あの、だったら、僕だとわからなくなるように化粧してください」
「いらっしゃいませーっ」
「あんみつ二つですね。少々お待ちください」
いつもと変わらぬ賑わいの中、いつもとは違う会話が混じる。
「真純ちゃん、そういう服も似合うねぇ。これから時々、着てみたらどう?」
「ありがとうございます。でも、これは今日だけです。今日は特別な日ですから」
「そうかあ。まあ、親父さんの考えもあるだろうから、仕方ないねえ。ところで、あの子は新しい子? 見たことない顔だけど……」
客が小さく指さした先には、辰一の姿が。
「はい。今日は忙しくなるので、臨時のアルバイトをお願いしました」
「ふーん……」
辰一は、自分の横顔に注がれる熱い視線を、気まずく受け止めていた。
(ああ、また勘違いされていますね……)
だが今だけは、いっそ女性に見られる方がマシだ。メイド好きが高じて、自ら袖を通してしまう男性もいるが、それはごく少数派。残念ながら、辰一は多数派の方である。居心地悪さを全身で感じている辰一に、別の客が呼び掛ける。
「お姉さん」
「あ、はい、少々お待ちください」
声で男とバレそうなものだが、人の感覚とは不思議な物。端正な顔立ち、華奢な体つきの人間が女物の服を着ていれば、声が低くても、体の丸みが少なくても、女性だと思いこんでしまう。
「お待たせいたしました」
「お茶を足してくれるかな?」
ちらりと湯飲みを見れば、半分以上残っているお茶が湯気を立てている。明らかに店員を近くに呼びたいだけの行動だ。内心うんざりしながら、辰一は答える。
「気づきませんで申し訳ありません。ただ今お持ちいたします」
真純の苦労を思いながら厨房へと向かう背中では、聞こえよがしの会話が。
「なあ、あの子、美人だよな。メイド服もバッチリ似合ってるし」
「ははは。お前って、ああいうのが好みなんだ」
「真純ちゃんも可愛いけどさ。でも、あの子、ひょっとしてモデルだったりして」
「そうかもな。俺がその手の仕事だったら、絶対スカウトするだろうなあ。こりゃ真純ちゃんも、うかうかしてらんないぜ」
(……イヤだ。あの卓にだけは、もう行きたくないです)
助けを求めるつもりで真純を呼び止め、客の注文を告げると、にっこりと盆を渡される。
「お茶二つね。こういう時は、注ぎ足すんじゃなくて、お茶碗ごと替えてちょうだいね」
外が暗くなる頃には、辰一の精神的な疲労は限界に達していた。それでも体は疲れていないから、何とかボロを出さずには済んでいたが。
そしてようやく閉店。
「お疲れ様。イベントは大成功だったわ。みんなのおかげよ。ありがとう」
慣れているのか、それとも店長としての責任感が支えているのか。真純は、疲れなど微塵も感じさせずに、店員たちを労った。
皆が更衣室に向かおうとする中、真純は辰一に近づく。
「辰一さん。今日はどうもありがとう。急に仕事を頼んじゃって、ごめんなさいね」
「いえ……、真純さんの役に立てたなら、それで」
「お礼って言ってはなんだけど、何か食べていかない? もちろん、バイト代はちゃんと払うわよ。それとは別に」
「あ、でも、いいんですか?」
「いいわよ。残り物になっちゃうけど」
「それじゃあ、遠慮なく。その前に、着替えてきます」
「あ、それはダメ」
「えっ?」
真純はクスクスと笑う。
「だって、ほかの人に言ってないから。その格好で男性用の更衣室に入ったら、中の人がびっくりしちゃうわ」
結局、辰一は、ほかの従業員が全員帰るまで、ネコミミメイド姿でお茶に付き合わされることになる。
(はあ……。もう二度と、こんな目には遭いたくないです。もう一生、メイド服なんか着なくて済みますように)
それからしばらくの後、辰一は、自分の願いが叶えられなかったことを知るのだった……。
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