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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>
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◆◇ 片翼天女 ◇◆
くすんだ白は、その品が重ねた歳月を感じさせた。純白ではない、僅かに黄色掛かった甘い色彩。
飛び立つ寸前の鳥の翼を模した、片羽だけのピアスだ。
丁度、親指の爪ほどの大きさ。冷たい感触は、象牙のもの。
薄暗い店のなかに沈み込む褪せた色合いを、蓮は手のひらで転がした。
微かに、魔術の香りが漂う。
「妹が子供のころ好きだったものです」
それを持ち込んだ男は、二十代後半。柔らかなニットが似合う、穏やかな雰囲気を纏った青年だった。
「もう片方は?」
片羽だけの翼。片方だけのピアス。対ならば、丁度双翼が揃うだろう。
端正につくられた品だけに、物哀しい欠落感が募る。
「僕が壊しました」
ふわりと、青年が微笑む。
「妹が大切にしていたものだったから、つい、壊したくなりました」
「あんた、善良そうな顔して物騒なことを」
「そうですか? もう随分前のことだから、時効でしょう。そのまま忘れていたのに、最近になってひょんなところから出て来たんです」
そこで言葉を切って、青年は店内を見渡した。
古めかしい像や、曇りのあるアンティーク家具。どんないわく因縁があるか分からない品々に、青年は満足そうに頷く。
「今、僕の傍らに妹はいません。なら彼女の思い出のひとつくらい、手許にあっても好い」
色々好奇心は疼いたけれど、蓮は取り合えず、全て丸めて無理矢理飲み下す。
下手に突っ込んで、好いことなどなにもない。まして、胡乱な品物を持ち込んだ客なら尚更だ。
「今回お願いしたいのは、これのもう片方の羽です」
「あんたが、壊してしまったんだろう?」
「ええ」
青年は頷いて、蓮の手からピアスを掬う。
「こうやって」
ぎゅっと、握り潰す真似をして、ぱっと手のひらを翳す。
指に摘まれた小さな片翼は、本物さながらの脆さを晒していた。
「確かに、これの対なるものは僕が壊しました。でも、これは呪物です。同じような呪物なら、幾らでもあるのではないですか? それを購いたい」
空を飛ぶもの。翼あるもの。対なるなにかを失ったもの。
彼の言葉は曖昧で、だからこそ、どんな『答え』でも間に合わせられる。
青年からピアスを受け取って、蓮は深く、椅子に座り直した。
「こちらに全て、任せて貰えるんだね?」
「勿論」
青年が笑みを深くする。
なんだか、舶来ものの絵本の、邪悪な月の笑顔に似ていた。
「ただし、これ以外はありえない、というものを。お願い、出来ますか?」
◆◇ ◆◇◆ ◇◆
真昼でも陰々と沈んだ店先、錆びた扉に掛かる軒先に、その鳥籠は垂れ下がっていた。草の蔓で編まれた、東洋の雰囲気漂う鳥籠である。さて、どんな鳥を籠めれば似合いだろう。
空っぽのそれを見上げて、苑上蜜生は想像を膨らませた。極彩色の大鳥か、それとも、寂寥色の小さな鳥か。
「どちらも、きっと素敵ですね」
甘い溜め息を漏らして、店に入る。
そこにいたのは、馴染みの店主と、端正な顔立ちの見知らぬ青年だった。
蜜生と視線が合うと、柔らかい笑みで会釈をされる。穏やかだけどなんだか、芯に凍えた塊を抱いていそうなひと。ほんの少し冷たい印象をひとつ首を振って、蜜生は頭から追い出した。
「好く来たね。丁度好い」
笑みのかたちをした笑みに似た表情を浮かべ、碧摩蓮が云う。小首を傾げた蜜生に取り敢えずと、彼女は青年の隣の席を勧めた。
目の前に差し出されたのは、くすんだ白のピアス。ただし――片方だけ。
揃えれば羽ばたくべき両翼となるはずの羽を模した耳飾りは、ひとつだけではなんだか物足りなく、物哀しく思える。
「これの、対なるものを探して欲しいとさ」
不貞腐れたように、蓮が吐き捨てる。躊躇いもなく、蜜生の横から伸びた手がピアスを掬い上げる。節呉れた、細く長い指が優しく羽を撫でた。
「もう片方は?」
「依頼人自身が、壊したんだと」
「それを、今更欲しいと云うんですか?」
「ああ、今更ね」
青年の問いに、投げるように蓮が答える。
「対なる、呪物?」
蜜生も、小さな声で呟く。
「ああ。呪物ならば、対ならぬものでも対なるかも知れんだと」
「碧摩さんのさんのお店にある物じゃなくて好いなら僕のピアスを差し上げますけど。僕のピアス、右に1つで左に2つだからどうしても1個余るし」
「却下。あんたのピアスじゃあ、荷が重い」
「銀製だから、魔を祓うくらいは出来ますよ」
悪戯っぽく、青年が片目を瞑る。そうすると、ひどく子供っぽく親しみやすい顔になる。最初に蜜生が感じた冷たさが、和らぐ。
「だから、却下、だ。どちらかと云えば、こいつは魔の領域だろう? 呪物なんだから」
青年の戯言を流す余裕もなく、蓮が苛々、真っ赤な髪を掻き混ぜた。
蜜生はと云えば、話を聞いているうちに生まれた胸のしこりを確かめる。哀しい気持ち。寂しい気持ち。それが生まれる理由。
「……呪物とは云え」
掠れた声が知らず、漏れる。
蓮の促す視線に、もう一度、今度ははっきりと繰り返す。
「呪物とは云え、この世に生まれ落ちし対なるものというのは、元来代用が利くようにできているのかしら。失われたら似たような他の何かで購えるのですか?」
「購えないと、僕は思います」
傍らの青年が、きっぱりと云い切る。
「購えるのなら、誰も足掻きはしない。失う痛みを、抱えたりしない」
青い眸が、深い色を湛えている。意思ある静かな横顔が、ひどく綺麗だった。
――壊したもの。失くした……亡くした、もの。
蜜生の胸が、ざわついた。蜜生を拾ってくれたおばあさん。彼女を亡くした記憶は、まだ新しい。だけど、もっと胸に喰い込む、泣くことすら出来ず、無闇に蜜生を喰い潰す喪失を知っているような気がするのだ。
――知らない。なにも蜜生は、知らない。
ぎゅっと、蜜生は着物の胸元を握り締める。強い力に、布地が軋む。
「でもこのまま、そんな依頼は受けられないと突っぱねるのも、芸がない。それに、そんな幕切れはつまらないだろ?」
「碧摩さん」
あんまりな言い草に、青年が苦笑する。
「すまないね」
ちっともすまなそうではなしに、ひょい、と蓮が肩を竦めた。
「ここにこうして集まったのも、なにかの縁だ。ちょいと、手伝ってくれないかい?」
白い、羽根。片方だけになった羽根。毟られた翼。
ふわりと儚い仄かなひかりが、薄闇に灯る。ふわふわと、羽毛のように浮かび上がる。
飛べない翼の、足掻きに似た羽ばたき。
浮かび上がった羽根を辿るうちに、片羽根自身の輪郭まで甘く滲む。滲んで、他のかたちになる。
ゆらり、幻のように作り変えられた羽根のかたちは――鳥籠のかたち。
内側になにを封じ込めているのか、それさえも見えない白いぼやけた、華奢な鳥籠。
――捕らえたい。
ただ、それだけの意思が読み取れた。
――なにを?
問い掛けても、答えは返らない。
片割れのピアスに淡色の髪の少女が視たものは、そんな情景。
だから、店の表から裏から、さまざまなかたちの鳥籠が持ち出された。
ゆらゆら、天井から吊るされて揺れる。透けた檻の果てから、また檻が透ける。幾重にも、戒めが重なる。まるで鳥籠のなかに己が籠められているような、不思議な感覚。
もともと、蓮の店は呪術纏う品々の潜めた意思で押し潰され、いつも空気が薄い。だからこそ、向坂愁は迷いがあるとき、ここを訪れるのを好んだ。
他のいろに弾き出され、己の色彩を浮き彫りにされる心地が、するから。
話し合いとも云えぬ話合いはうやむやのうちに、愁と、蜜生と名乗った少女と、蓮は、無数の鳥籠を並べて唸っている。
もともと曖昧で、正解など誰にもわからないような問い。
すでに、蓮には悪いが探す気持ちは失せ、ただ、珍しいものを手にとって蓮を呼ぶ。それを繰り返す愁である。
そもそも、蓮に連絡を貰ったときから、この依頼に気乗りはしなかった。
――失われた対なる呪物の、対なるもの。
そんなものが存在するとは、絶対に思わない。
失われればそれはそのまま絶対的な欠落。得がたいものは失われれば二度と得られず、他のもので誤魔化すしかないと、愁は考える。
「碧摩さん、これは?」
店の奥にひっそり鎮座していたケースを、翳す。
「どうして、それが今回関係あるんだか……」
ぶちぶち云いながら、蓮が近付いてくる。
興味を惹かれて、綺麗な頬に埃を付けた蜜生も、そっと中身を覗き込んだ。柔らかい髪の気配が、ひどく女らしい。なのに、愁は彼女から、女じみた生々しさを感じなかった。可憐な形のなかに、生臭い息吹は存在しない。もしかしたら、こんな想像は失礼かも知れないが、並ぶビスクドールと大差ない気がした。
「随分、立派なものですね。……外側が」
蜜生が零す。
それは、深紅のビロードの張られた、細長い木のケース。
そこにはご立派な外装に不似合いな、シンプルな銀色のメスが収まっていた。
「“ジャック・ザ・リッパーのメス”」
蓮が、指先で研ぎ澄まされた刃を撫でる。
蜜生が、微かに眉を顰める。
愁はと云えば、なんとも複雑な気分になった。
「……ベタな名前ですね」
あんまりにもあからさまな名前に、雰囲気もなにもかも、吹っ飛んでしまった。むしろ、ひどく落胆してしまう。
「ベタな名前を馬鹿にしつつも、そのベタベタさに隠れた魔術に思いを馳せる。そういう愉しみもあるだろう?」
「あるかも知れませんね」
あっさり放り出して、愁はまたゴミだか商品だか分からない代物を漁り始める。
飽きたのか、無責任にも蓮はすぐに消えてしまった。残されたふたりであてどなく、店を引っ掻き回す。
「なんだか、ここは玩具箱みたいですね」
蜜生が、浮き立った声で云う。
ほんの少し滲む笑みもひかりが灯ったように明るく、薄暗い店のなかに映える。
「私は、子供のころの記憶がありません。すっぽり、幼い日々と云うものが抜けています。でも……だからこそでしょうか。こう云う、宝探しめいたものはわくわくしてしまって」
くすくすと、込み上げる笑いを堪え切れないように、蜜生が声を漏らす。
そう云われ、愁はゆっくりと、床に膝を着いたまま店内を見渡した。
つんと澄ました人形たちは、低い位置から眺めれば意外と優しい表情を見せるし、壁に貼り付けられた異形の仮面は、その裏側に物語を感じさせる。うっすらと被った埃は秘密の匂い。するすると想像の糸を伸ばせば、どこまでも広がる。
「そうですね」
愁もまた、にっこり微笑む。
愁の心には、くっきりと子供のときの記憶が焼き付いている。幸せの香りのない、苦い、孤独の重なりに過ぎない代物だった。
思い返す思い出がないことは、目の前で座り込んだ蜜生と同じ。
だからこそ、重なる喜びと――微かな、切なさがある。
子供の時間を取り返すように、おとなのための玩具――アンティークに触れる。不思議に触れる。そうやって、欠けたものを埋め合わせる。
では――この片羽根に関わる兄妹は、どんな時間を過ごしたのだろうか。
蜜生もまた、同じことを考えたらしい。
細い指が、ほんのり白いピアスを、掬い上げる。
「少し……視て、みましょうか」
小さく、愁が頷いた。
蜜生は、そっと両手でピアスを包み込んだ。
手のひらのピアスは、蜜生の熱を吸い取って、少しずつ温まっていく。眸を閉じて、眸を凝らす。そうすると、蜜生には視えてくるものがある。
「小さな、女の子」
真っ黒な髪の毛に、不似合いに薄い灰色の眸のあどけない少女が、きつく誰かを睨み付けている。
――別に、兄さんがあたしを嫌いだって、構わないわ。
片手に、握り締めていたなにかを、力任せに投げ捨てる。
地面に転がって、土に塗れたのはいま、蜜生が触れているピアスだった。
片方だけになって、泥に汚れてしまった純白の翼だ。
――兄さんは、あたしがいるだけでご不満なんでしょう? でも、構わない。あたしも、兄さんを、嫌いになるから。
まだ、小学校にあがるか、あがらないか。そんな幼さなのに、くっきりとした言葉を少女は吐き捨てる。己の兄を、睨み上げる。
視界の隅に、こちらはもう制服を着た少年が、薄笑いを浮かべていた。
足元に、粉々に砕かれた白い破片が落ちている。
天女の片翼――もう、飛び立てやしない。
――お前に嫌いと云われるのは、心地好いね。
冷たい手触りの、少年の揶揄。
かっと頬を紅潮させた少女が、身を翻す。その背中に、もう一言。
――意味がない存在だと云われるよりは、よっぽど好い。
少年の、深く浸透した感情は、言葉にされずに沈んでいく。
眸を開けて、蜜生はほう、と詰めていた息を吐き出した。
「どうでしたか?」
愁の問いに、蜜生は、曖昧に首を傾げた。
「本当に、翼が必要だったのは、誰だったのでしょうね……」
残った片翼を投げ捨てた少女か、それを拾い上げた少年か。
「私たちは、誰のためのなにを、探しているのでしょうか」
最後に視えた少年の顔は、ひどく、切なげで、哀しげだったから。
「それは、誰かの救いになるのでしょうか」
その問いの答えは、愁のなかにはなかった。
今朝、ササキビ・クミノは冷たい悪夢で目を醒ました。
障壁で、周りの人間全てが死に絶える夢。殺す夢。
当たり前に繰り返してきた夢に諦めながら、毎回、冷たい汗をかく。起き上がって、無機製の同居人にはなにも告げず住居である店を飛び出した。
人殺しであることを止めたのに、クミノには安住の地がない。心が、いつも囚われている。捕えているのは、自分。自分の能力が鎖。いつまで経っても、クミノは解放されない。
「……それでも、いまは自由だ」
――少なくとも、意に染まぬ罪を犯す必要はない。
そう云い聞かせながらも、クミノの声は暗い。薄闇は、しっかりとクミノの身体にこびり付いてしまっていた。
コートの裾を蹴りながら、始まり掛けの冬の街を歩く。
凍えた空気に包まれると、日のひかりはやけに白く感じる。
できるだけ人気のない陰を歩くのは、クミノが身に着けた自衛手段だった。
誰かを、傷付けないため。誰かを傷付けて、その傷で自分が傷付かないため。
でも、どこかに衝動が眠っている。好い子好い子と宥めて、生きていかなければならない自分がいる。
でもいま、クミノは自由だ。だから、全てどうでも好い。不自由も、自由も。
ぱたぱたと足音を立てて、地面を蹴る。視線は自然と道のモザイク模様に落ち、いつのまにかクミノは路地に紛れ込んでいた。
「おやおや、随分と可愛い小鳥ちゃんだ」
艶っぽい、女の声に、クミノは勢い好く振り返る。
クミノは無自覚に、自分の感覚に自信を持っている。いままで生きてきて、これまで生き抜いた。それは、自分の鋭い五感の賜物だと思っている。だからこそ、予想外のもの全てに神経を尖らせずにはいられない。
「誰?」
それでも、喉からせり上がった声は、ひどく醒めて冷静なものだった。おおよそ、十三歳の少女には似合わない。
「この店の、あるじ」
そんなクミノの反応を充分に愉しんでから、声の主はにんまりと微笑む。
深紅のチャイナドレス、深紅の髪。剥き出しの腕はひどく滑らかで、非現実的。
こん、と背にした戸を叩いたのは、彼女が手にした煙管だった。
「店?」
「そう。アンティークショップ。骨董と――呪物を扱う店さ。茶と、菓子くらいは出してやるよ」
「……菓子は要りません」
注意しなければわからないほどごく僅かに顔を顰め、クミノは小さな声で呟いた。
扉の上で、白い鳥籠が揺れている。
「空っぽですか?」
訊ねたら、蓮は含みのある笑みを浮かべた。
「空であることに意味があるのさ」
意味がわからない。わざわざ訊き直すほどでもない。
それよりも店の内部の惨憺たる状態に、クミノは僅かに怯んだ。
「なんだ、こりゃ」
蓮もまた、両手を挙げてお手上げのポーズだ。
「ごめんなさい」
「なんだか、やっているうちに興に乗ってしまって」
金髪と、黒髪。色合いの微妙に違う青い眸の男女が、床に座ったまま蓮とクミノを見上げる。
――生身の臭いのない美女と、偽りの殻を纏う青年。
一瞬で、印象が決まる。どちらも綺麗であることには変わりがない。それなら、どうでも好い。
彼らの周りには、さまざまな文物が散らばっている。豪奢なもの。禍々しいもの。秘密の匂いがするもの。どれも曰くありげで重い空気を纏っている。そして、幾つも吊り下げられた鳥籠たち。窒息しそうな空間。
床に転がる品のひとつに、クミノは無造作に手を伸ばした。
「よっぽど、それは今日の当たり星なんだね」
蓮が面白そうに呟く。
クミノの手にしっくりと添う、銀色の手術器具。
鋭い刃に、クミノの、まだあどけない顔が映る。濁りのない漆黒の眸と、濃い影を落とす睫毛のコントラストが、やや暗い印象を醸し出していた。
「彼女は? 碧摩さん」
服に付いた埃をはたき、青年が立ち上がる。
「店の前で拾った。カラスみたいだろう」
「カラスですか?」
青年が苦笑する。
折角だから、と説明されたのは片翼のピアスの話。羽根を捨てた妹と、それを拾った兄。兄が欲しがる、片翼の対なるもの。
クミノの頭のなかに、幾つかのパーツが閃く。
白い羽根と白い鳥籠。
漆黒の髪と漆黒の眸の依頼人。
そして――銀のメス。
クミノを呼ぶ作り物のメイドの声が、脳のどこかに響く。
クミノクミノクミノ。
――鳥籠のなかに囚われているのは、誰?
「簡単なこと」
ぽつん、と言葉を漏らす。
三人の視線が集中する。それを煩わしく振り払って、クミノはもう一度、繰り返した。
「そんなの、簡単なことです。鳥籠は、ここにはない」
鳥籠は、捕らえたいものと、捕らわれるべきものがある場所に存在する。
冷たいメスの感触が、指先に染みた。
依頼人の青年に、あるじの蓮。そして、クミノを中央に、左右に蜜生と、愁。
それだけのひとが集まると、店はひどく手狭に見える。
「対なるものが、見付かったのでしょう?」
穏やかに、青年が促す。
「勿論」
蓮が口を開く前に、すっと、クミノが動いた。
この場のキング、この場のクイーンは誰が見ても、一番幼いクミノだった。真実を知るものが一番強い。自明の理。
そして女王の手には王錫ではなく、華奢なひかりの銀色の刃。
「差し上げます。本当にあなたの欲しいものでは、なくても」
クミノの左手が素早く机のうえのピアスを拾い、止め具を外し針を構える。
メスが、風を切った。
「……ッ」
鮮血に、蜜生が口に手をあて、声にならない悲鳴を上げた。
一滴、飛んだ飛沫がクミノの頬に当たる。
日に当たっていない青白い肌に――深紅の、鮮血。
クミノの奮ったメスが、青年の右胸を浅く切り裂いた。
「は……ッ」
青年の唇から、低い呻きが漏れる。だがそれは純粋に傷のせいであって、驚きのせいではないらしい。その証拠に、漆黒の眸に揺らぎはない。好奇心と不可解な情だけで、クミノの暴挙を見返していた。
とん、と飛んだクミノが間合いを詰めて、青年に肉薄する。左手のピアスを、いま生まれたばかりの傷口へ。ぐっと、切り裂いた傷口をピアスの針が抉る。
蓮は一歩下がり、ゆっくりと腕を組む。決して止めない。見物のかたち。きゅっと唇の両端を吊り上げて、薄ら笑っている。
蜜生は凍りついたまま、手近な椅子の背に手を掛ける。みし、と鈍い、嫌な音がした。
そして愁は――すっと手を翳す。
「やめなさい」
確かに、彼女に任せた。
彼女が、愁の解けない問いの答えを持っているのなら、それも好いと思った。
だけど、血が流すことを許した覚えはない。
「やめなさい――でなければ、無理にでも止めるよ」
彼女が奇妙な障壁を纏っていることは、初めて見たときからわかっていた。
それは誰彼ともなく害する、無差別な攻撃とも取れる。ならば、愁はそれを利用する。向けられた能力を、クミノに跳ね返す。それが、愁の能力だから。
いくら己の障壁であってもクミノとて、無事ではすまないはずだ。
「別に、僕は構いませんよ……殺されても」
青年が、いっそ愉しそうに愁を遮る。珍しくきつい眸で、愁は青年を睨んだ。
二人の様子をクミノは気にした様子もなく、メスを構え直す。
「ササキビさん!」
もったりと、刃先から赤い雫がクミノの手首に伝っている。それを払うように、もう一閃。
「羽根は、片羽になったときから、もう、羽根なんて求めません」
「そうだね。だからこそ、僕は足掻くしかない」
クミノの醒めた声に、青年がじんわりと笑う。血を流しながら、動揺した風もない。諦めか、超越か。それとも――切望か。
蜜生の脳裏を、遠見に聴いた会話が過ぎる。
――意味がない存在だと云われるよりは、よっぽど好い。
ならば、あの彼女が傍にいない、彼のいまは?
蜜生が、はっと顔を上げる。
噛み合った、気がした。視線で、愁を留める。彼の訝しさも纏めて、首を振ってみせる。
「飛びたいのに、飛べない羽根をお希みのあなたは、空っぽの鳥籠みたいです。ただ、羽根を抱えて満足のふり」
クミノの、神託にも似た言葉の連なりは、途切れない。
まだ、鳥籠の内側にあるクミノだから、云える言葉だと思った。自分にしか云えない言葉だと、クミノは信じる。
青年の右胸が血に染まる。その中央に突き刺さる白い羽根。飛べない翼。
――飛び去ってしまった大切なもの。
大切なものを捕まえられなかった青年は、その事実に囚われ続ける。
「片方だけの羽根は、鳥籠に。鳥籠は、あなたの為に。誰も捕らえられないままで、あなただけを封じ込める。もう、羽根の持ち主は己の脚で走り去った。残された片翼に、対なる呪物。それは」
――あなた、だ。
場違いに赤い唇だけが、声にならない言葉を紡ぐ。
自分の吐いた気障な台詞に照れたのか、クミノは頭を一振り、してみせて。
そして、メスがもう一度奮われる。
しゃらん、と儚い音を立てて、青年の胸元に飾られた片方だけの翼が、粉々に砕けた。
満開の花を散らしたような様だった。
――ごめんなさい。
耳を澄まさなければ聴こえないほどの微かな囁きが、飛び散った羽根を思わせる破片に紛れて耳許を掠める。
あどけない、幼い子供の声
「あ……」
蜜生が思い当たり、小さく声を上げる。
漆黒の髪に、灰色の眸。子供のくせに、ひとを射抜く目をした少女。
翼を捨てた童女の、嘆きが聴こえる。
――ごめんなさい。本当は、兄さんのことが好きよ。だけど、あたしの存在は兄さんの邪魔にしかならないんだね。
だったら、と少女は、言葉を切る。
――あたしは、兄さんの傍から消える。
躊躇って、最後に落とされた呟き。
――本当は大好きよ、兄さん。
「とおこ……」
青年が、クミノが奮うメスを前にしても平然としていた青年が、初めて感情を見せた。
どこか、痛みを堪えるような、顔を。
切り裂かれたシャツを脱いで、青年は蜜生の手当てを受けることになった。
好く好く見れば、胸元を掠めたメスは薄皮一枚だけを器用に切り裂き、ピアスの針で抉られているものの軽く押さえただけで血は容易く拭い去れる。
クミノは壁に寄り掛かり、その様を眺めて僅かに肩の力を抜いた。己の為した技とは云え、彼女なりに心配はしていたらしい。不器用そうな少女を、愁は嫌いにはなれなくなる。
「……壊れてしまいましたね」
青年は羽の名残をひとつ手に取り、ぽつり、呟く。
「なら、対なるものも要らないでしょう?」
青年自身が鳥籠に囚われる意味もないと、言外にクミノは云う。そのまま、背中を向けて奥に引っ込んでしまった。
「好い子ですね。……妹に、少し似ています」
「妹さんは、何故傍にいないんですか?」
躊躇ったけれど、愁はやはり、訊いてしまう。そもそもの原因は、その別離だ。
指を組み合わせ、ほどいて。幾度かそんな動作を繰り返したあと、青年が語り出す。
「あるところに、とある能力を受け継ぐ血統の家が、ありました」
あくまで、他人事として。
そんな前置きに頷いて、愁は先を促す。
手当てを終えた蜜生が、愁の横に腰を下ろした。
店主は素知らぬふりで、窓辺で煙管を吹かしている。
「当主には子が幾人か。一番上の兄には能力が薄く、末子である女児が一番強い能力を受け継ぎました。当然、双方担いでの跡目争いが起こる」
「結果は?」
「末子が放逐され、無能な長子が当主となりました」
にこり、と青年は微笑む。
「昔話です。僕とは違う世界の話です」
傷に触らぬよう慎重に、青年が立ち上がる。
「では、そろそろ僕は。店を放ってきてしまったので」
小さなブックカフェを営んでいると云う青年は、そのまま店を横切ろうとする。
その背中に、蜜生は思わず声を投げた。
「お互い生きているのなら、何故、会ってはいけないのですか? 死んでしまったら……もう、後悔することしかできないのに」
悲鳴じみて、声が掠れる。
振り返った青年は、じっと、蜜生の青い眸を見返す。初めて、視線を交わした、そんな気がした。
「どんな気持ちも、片方が死んでしまったら、全て終わりなのですよ?」
胸が、苦しい。心が痛む。苦しくて苦しくて、息ができなくなる。
――蜜生の知らない、蜜生の心が疼く。
「そうかも知れませんね」
青年が、頷く。
それでも、と青年は続けた。
「それでも、僕には彼女に、この脚で会いに行くことはできません。なにひとつ、いま手のなかにあるものは捨てない。それは、彼女を捨てて得たものです。もう一度彼女を手に入れるために捨てるなんて、間尺に合わない。所詮、僕は動けない鳥籠に過ぎません。天女の訪れを待つしかない。だけど」
――彼女を、鳥籠に差し招くことなら。
「ずるいですね」
愁が非難を込めて、見据える。
それでも、青年は同じように、頷いただけ。
「ずるいでしょう。汚いやり方もします。それが僕にできる足掻き方だから」
そう云い残して、今度こそ青年は店から消える。
「……そう云う、在り様もあるんだろうさ」
ぽん、と煙管で窓枠を叩いて、蓮が嘯く。
いつのまにか顔を出したクミノは、複雑な顔で無言のまま。
蜜生は、じっと膝の上に重ねた己の手を眺めている。
愁は頷くこともできないまま、彼が消えた扉を見詰めていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 4233 / 苑上・蜜生 / 女性 / 19歳 / 煎餅屋 】
【 1166 / ササキビ・クミノ / 女性 / 13歳 / 殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。 】
【 2193 / 向坂・愁 / 男性 / 24歳 / ヴァイオリニスト 】
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■ ライター通信 ■
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この度はご依頼、ありがとうございました。締め切りぎりぎりのお届けとなってしまい、申し訳ございません。
● 苑上・蜜生さま……苑上さまのプレイングの『鳥籠』をメインに据えて進行させて頂きました。苑上さまは、内側に空洞を抱えた美女、と云う感じかなあ、と思いつつ描きましたが、如何でしょうか? イメージと合っていれば幸いです。
● ササキビ・クミノさま……ササキビさまのディープな設定を生かし切れず、申し訳ありません。ササキビさまは理屈をすっ飛ばして真理に行き着く伏目がちハイパー美少女かしら、と思って描いた次第です。
● 向坂・愁さま……二度目のご発注、ありがとうございました。今回は、なんとなく裏方物語の良心、と云う感じですが……どうでしょう? きょうだい・失われた存在、そんなパーツが一番似合うひとは向坂さまじゃないかなあ、と個人的には思っています。もっと、向坂さまの内面まで描ければ好かったのですが。申し訳ありません。
今回は、本当に自分としても難産となりました。いろいろ不備な点がございますが、少しでも愉しんで頂ければ、と祈ります。
繰り返しになりますが、ご発注、ありがとうございました。
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