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リンを求めて
○オープニング
からっと晴れた、11月のある日のこと。
草間興信所に入ってきた少女は、革張りソファの端にちょこんと腰掛けるなり、せっぱ詰まった表情で依頼内容を口にした。
「リンを探してほしいんです」
「リン?」
くわえていたマルボロを灰皿にこすりつけ、草間は聞き返す。
「犬です。雄のウェルシュ・コーギー」
真剣な眼差しで草間を見つめたまま、少女は答える。自己紹介では12歳ということだったが、目が大きいのでもう少し幼く見えた。
ああそう、と草間は気のない返事をする。
――犬探し。
「ええと、立崎さん、だっけ。悪いけどそういう仕事はしない主義なんだ。他をあたってくれないかな」
「草間興信所は怪奇事件ならなんでも解決してくれるって聞きました。お願いします、ここしかないんですっ」
少女……立崎翠(たちさきみどり)は、頭を下げて必死に頼み込んでくる。
「怪奇事件ならなおのことお断りだ。他をあたってくれ」
「お兄さん、話だけでも聞いてあげたらどうですか」
零にはどうも弱い草間である。
「……聞くだけだからな。話してみな」
零の援護を受けて、翠は早口に語り出した。
――3日前、散歩をしていると、いつの間にか山の奥に迷い込んでいた。家があったので道を尋ねようと入ってみると、綺麗な女性が出てきてご馳走をしてくれた。それから池に突き落とされて、気が付いてみれば自宅の前だった。
「置いてきちゃったんです。リンを……あそこに」
翠は泣きそうに目を潤ませながら言う。
「あれから何度もあの山に行こうとしたのに、ぜんぜん行けないんです」
草間はタバコに火を付け深く肺に吸い込み、はぁーっとゆっくり吐き出した。
「まあ、調査だけならしてやるよ」
「ほんとですか!」
「俺だけじゃ手に負えないだろうから、助っ人を頼むが……それでもいいんなら」
「お願いします」
翠は勢いよく頭を下げた。
○草間興信所
「面白そうですね〜」
のんびりとした少年の声が、応接室に流れた。
同時に、ソファに座っていた草間が前のめりに倒れる。
草間の背に乗りかかったもの。それは、大人の背丈ほどもある、巨大な招き猫だった。
「一つ、我輩も手をお貸ししましょう」
「それはいいから……」
ローテーブルに突っ伏した草間は、腕を立ててえいやっと身を起こした。
「俺の背から退けっ」
巨大な招き猫は、質量からは考えられないほど身軽に――というより羽のように軽やかに、草間の座るソファの後ろに降り立った。
「何の用だよ、豪徳寺。金は借りていないはずだが」
豪徳寺嵐(ごうとくじあらし)、というのがこの招き猫の名前だ。何処かから仕入れたいわく付きの品を売ったり、金貸しをしたりしている、神出鬼没の商売人である。
「いやだなあ、草間さん。面白そうな話が聞こえたから来ただけですよ。山奥の異世界なんて実に興味深い。この話、我輩も仲間に入れてもらいますよ」
もちろん、興味深いというだけで動くほど嵐は純真ではない。「変わった物が仕入れられるかも〜。これってチャンス〜」なんて考えたうえでの言動だ。
「あ、お手伝い料はいただきますよ、こちらも商売ですからね。う〜ん、それにしても我輩だけというのも心細いな。人を呼びましょう」
草間の返事も待たず、嵐は左手を挙げた。
豪徳寺嵐は、招き猫が百年の月日を経て付喪神へと昇華したもの。招き猫としての力も当然使える。
右手で招けば金が、左手で招けば人がやって来る――。
くいくい。くいくい。
丸っこい左手で招くと、それに応えるかのように、二つの方向から同時に人が現れた。
「武彦さん。きのうのタクシーなんだけど、領収書どこやったか覚えてる?」
室内奥、磨りガラスのついたてから出てきたのは、胸元を大きく開けた赤いスーツの女性、シュライン・エマ。
「こんにちは、草間さん。兎ちゃんを連れてきましたよ」
外から入ってきたのは、胸のはだけだ黒いスーツに身を包み、大事そうに白い兎を抱えた、シオン・レ・ハイだった。
○調査開始
草間は領収書を探しに席を外し、零も買い出しに行ってしまった。
結果、シオン、シュライン、嵐の三人で少女の依頼内容を確認することになった。
「まずは情報整理ね」
シュラインが使い込まれた大学ノートにボールペンを走らせる。
「犬の名前はリン、犬種はウェルシュ・コーギー。雄の3歳。――散歩コースは?」
「え、えっと、近所をまわって公園に行きました」
目の前で繰り広げられた不可思議な光景に呆然としていた翠は、はっと顔を硬くしてシュラインの問いに答えた。
「山道に入るのはどのあたり?」
「いえ、山道になんか入りません」
「入らない?」
シュラインは首を傾げる。
「でも山奥に行って、そこで犬を置いてきたんでしょう」
「気が付いたら山奥だったんです……」
少女の目には涙が溜まってきている。シュラインの強い眼差しに怯えてしまったのだろう。
己に厳しいシュラインは、知ってか知らずか他人にまで同じレベルの厳しさを要求する。
大人であるシオンなら、それを受け流したりはぐらかしたりすることができる。が、12歳の少女――それも愛犬を失って悲しんでいる少女には、少々刺激が強すぎるだろう。
助けを求めるような視線をシュラインから向けられ、シオンは少女を安心させるべく、とびきりの微笑みを頬に浮かべた。
「大丈夫ですよ、ワンちゃんは私たちが責任を持って見つけますから。安心してください」
「は、はい。お願いします」
少女は潤んだ瞳でシオンに頭を下げる。安心して気がゆるんだからだろうか、頬がほんのりと薄紅に染まっていた。
少女が犬を失って心を痛めている……。まるで自分のことのように、シオンまでもが心を痛めた。なんとかしてやりたい。少女の憂いを取ってやりたい。
「そのためには、散歩のことを詳しく教えてもらいたいんです。どうやって山奥に行ったのか、そのときの天気とか……変わったことはありませんでしたか」
「女性の服装や、家の形、池の大きさとかも知りたいわ」
すかさずシュラインも質問した。
「うんうん、家の様子は詳しく聞きたいですね〜。何か面白い物はありましたか」
二人と一体に見つめられ、翠は少しずつ語り出した。
○少女と涙と公園と
少女から話を聞いたシオンたちは、二手に分かれて調査することにした。
シュラインが、翠の地元の図書館で、事件の資料がないかどうか調べたいといい、これに嵐も同行することになった。
シオンは翠を連れて、異世界に入った現場へ行ってみることにした。
少女の話によれば、彼女が異世界に入ったのは、近所の公園にある竹林からだ。夕方、西日の眩しさに目を細めていたら、突風が巻き起こって竹をざわめかし……前も後ろも、終わりのない竹林になっていたという。
「大きな公園ですね」
公園の門をくぐって目的の竹林へと歩きながら、シオンはあたりを見渡した。犬の散歩をする人がいるので、襲われる危険を避けるために、兎は胸に抱いている。
公園といっても、ブランコや滑り台があるような、子供の遊び場としての公園ではなかった。
小学校のグラウンドほどもある広い芝生の広場や、噴水、人工的な林といった設備の、市民の憩いの場としての公園だった。
――でも、公園なんだから、ブランコの一つでもあったほうがいいのに。
そんなことを思ってしまうシオンだった。
「こっちです」
浮かない顔で足を進める翠に続いて、シオンも芝生広場に足を踏み入れた。
「シオンさん」
ぽつりと、少女は言った。
「はい、なんですか」
「あの、私のこと、信じてくれてますか」
「信じるもなにも、翠ちゃんは嘘なんかついてないでしょう」
「でも、だって、自分でも信じられないんです。あそこに行って、豊(とよ)さんに会ったこと」
見ず知らずの竹林のなか、助けを求めて歩き回る翠が見つけた、平屋の日本家屋。
出てきたのは、豊と名乗る、着物姿の美しい女性だった。
「……夢だったのかなって。でもリンはいないし。お母さんやお父さんに言っても、怒るだけで信じてくれないし」
――体感では1時間弱の経過だったにもかかわらず、翠が異世界から戻ってきたときには、現実世界ではすでに午前零時をまわっていた。夕方から深夜まで心配しどおしだった翠の両親は、当然のごとく愛娘の話を信じようとはしなかった。
翠の顔がどんどんうつむいていく。
歩みの幅が狭くなり、ついには立ち止まった。
ぽたりと雫が芝生に落ちる。
「私、自分でも信じられないんです。なのに誰かに信じてもらおうなんて、そんな都合のいいこと考えてるんです。こんなんじゃ、あの女の探偵さんに嘘だと思われても仕方なくて……」
女の探偵さん、というのはシュラインのことだろう。
「確かに、翠ちゃんが体験したことは、普通なら夢物語で片付けられる部類ですね」
「やっぱり、シオンさん……」
少女のか細い声に、シオンは微笑んで首を振った。
「いいえ。自慢じゃありませんけど、私も夢物語に属する者なんです。だから、翠ちゃんの話が本当のことだったと、確信があります。それに、あの女探偵さんだって、翠ちゃんの話を疑ったりなんかしていませんよ。もちろん嵐くんも。みんな真剣に、リンちゃんを取り戻そうとしてるんです」
少女は顔を上げた。
頬の涙の筋もそのままに、シオンに見入る。
「シオンさんって、いったい……?」
「あなたの味方ですよ」
にっこりと、シオンは笑んだ。
「さあ、これで涙を拭いてください」
シオンはポケットからハンカチを取り出し、少女に手渡した。シルクの白いハンカチだった。
「あ……、ありがとうございます」
少女はハンカチを借りて頬を拭うと、シオンにハンカチを返し、一緒に歩き出した。
○異なる空間へ
竹林に着いて空を見上げると、不気味なほどに赤かった。竹が切り絵のように黒い姿をさらしている。
「ここです」
気味悪そうに、翠は辺りを見回した。
竹林ゾーンは、学校の教室四つ分ほどの広さの、周囲を小川に囲まれた区画だった。円形に形作られたゾーンのなかを、幅50センチの細い散歩道が迷路のように敷かれている。
もう遅いからか、人の気配はない。
「ワンちゃんの好きな玩具とか餌とか、持っていますか」
「いえ……、今は、持ってないです。家にならあるけど」
「そうですか。それじゃ、とりあえず、名前を呼んでみましょう」
「はい」
というわけで、二人は声を限りに犬の名を呼んでみた。
「リンちゃーん!」
「リン! リン! 出ておいで、リンっ!」
少女の声の必死さを背で聞き、シオンの胸は締め付けられた。
――絶対に探し出さなければ。この少女のために。
と。
シオンの大きな声に驚いたのか、胸に抱いていた白兎が、シオンの胸板を蹴って飛び出した。
「兎ちゃん」
竹の葉でふかふかした地面で、白い兎はじっとしている。
「ああ、ごめんね、驚かせて」
そっと白兎に近付いて、抱き上げようとすると……。
シオンの手の間から、兎は前へジャンプした。
「兎ちゃん?」
呼ばれ、兎は振り返り、赤い瞳でシオンを見上げた。
「兎ちゃん――」
「あ、私、反対側に回ります。挟みうちにして捕まえましょう」
翠が気の利いたことを言ってくれたが、シオンは兎を見つめたまま、低く唸るようにつぶやいた。
「いや……」
兎ちゃんは、何かを伝えようとしている。
ここは、少女と飼い犬のリンが異世界へ迷い込んだ場所だ。異世界につながる空間があるはずだ。自分には分からないその空間の歪みを、白兎は感じたのかもしれない。
――それを、私に教えようとしている。
直感である。
飼い主の親馬鹿根性の発露かもしれない。
だが、他に手がかりがない今、直感を信じても害にはならないだろう。
「翠ちゃん、こっちに来てください」
「はい」
「兎ちゃんのあとを追いましょう」
「え?」
兎はぴょんと前へジャンプした。振り返ってシオンを見上げる。長い耳は、シオンではなく、前方……竹藪のなかの音を探っている。
――やはり。
シオンは直感を確信に変えた。
「こっちです」
迷わないように、シオンは翠の手を握った。
一歩、兎に向かって踏み出す。
一歩。一歩。
兎は前を跳んで歩く。
ちょうど五歩目を数えたときだった。
風が、足下から巻き上がった。
揺さぶられた竹が互いにぶつかり、カン、カン、と幹のなかの空洞を響かせる。
何百というカスタネットを乱れうちしたような音は、一瞬で治まった。
空が明るい。
「あ……」
翠が口に手を当てた。
「こ、ここです」
シオンは周囲を確認した。
竹林が延々と広がっていた。
公園など、もはや存在していない。
「こっちです」
翠は震える声で言うと、シオンの手をほどき、歩き出した。
シオンは兎を抱き上げ、翠の後に続いた。
兎はシオンの胸でおとなしくしている。
――よしよし。お手柄だったね。
黒手袋をしたままの手で兎を撫でると、兎は気持ちよさそうに目を閉じた。
しばらく歩いていくと、竹林はふいに途切れた。
青や白や黄色の野花に囲まれた一軒家がある。
全体的に黒っぽい、昔風の平屋だ。
家の脇から、一匹の犬がシオンたち目がけて飛んできた。
「リン……っ」
少女はしゃがみ、両手を開いて犬を迎える。
茶色で、座高が低く、胴の長い、ふっくらとした犬だった。狐のような、大きな三角の耳をしている。
「リン、リン……」
翠の目に涙が浮かぶ。
犬は、そんな翠の顔を、一生懸命嘗める。
シオンは胸をなで下ろした。
犬は見つかった。あとは、帰るだけだ。
「どなたかいらしたのですか?」
家から、透き通った女性の声が聞こえた。
平屋の縁側に、着物姿の女性が立っていた。
「ああ、あなたが豊さんですね」
シオンたちは家に近付く。
女性の薦めに従い縁側に腰掛けたシオンは、女性を観察した。
背の中程でゆったり束ねられた髪が、グラデーションのように肩に掛かっていた。着ているものは、小花を刺繍した淡い桜色の打ち掛け。縁側の内側に正座すると、裾が美しく広がった。
「可愛らしい兎さんですね」
豊は、シオンが抱く兎を、指の先で撫でた。兎は目も開けずじっとしている。
「お名前はなんとおっしゃいます」
「兎ちゃんです」
「素直でよいお名前ですね」
「それで……」
シオンは話を本題へと戻す。
「ええ。私はこの空間の主で、豊と申します。迷い込んだ人をおもてなしするのを楽しみとする、あなた方のいうところの山姫です。犬に関しましては、翠さんを帰してすぐ、忘れていかれたことに気が付きました。さりとて私はこの世界から出ることのかなわぬ身。返すに返せませず難儀しておりましたところ、シオンさまがいらっしゃいました。本当に助かりました」
「そうですか」
シオンは軒先で遊ぶ翠とリンを見やった。
再開がよほど嬉しいのだろう、少女と犬はじゃれあって追いかけっこをしている。
と、突然犬が立ち止まり、上を向いた。
『あおおおぉぉぉぉぉぉぉん』
遠吠えがシオンたちを圧倒する。
「リンちゃん?」
驚いた翠が歩み寄る。
犬は虚空を見つめたまま動かない。
『あおおおぉぉぉぉぉぉぉん』
「……リンちゃん、どうしたの」
『あおおおぉぉぉぉぉぉぉん』
その遠吠えを最後に、何事もなかったかのように、犬はご主人とのじゃれあいに戻った。
「シオンさま」
豊の声に、シオンは視線を室内に戻す。
「お礼にお食事でもいかがでしょう。もちろん、お酒もお出しします」
「いいですねぇ」
翠の話にあった、『ご馳走』だ。
じつは、これには興味津々だった。
「あ、お箸は結構ですよ。私、常にマイお箸を持参しておりますから」
シオンは器用に、兎を抱いた胸から片手で箸入れ箱を取り出した。中央に虹の絵が描かれた水色のプラスチック製、スライド形式である。
「箸使いにも少々自信がございまして……小豆つまみ選手権などで上位に食い込むこと間違いなしです。残念ながら開催の噂を聞いたことがなく、在野のままなのですが」
「己の力を示すにしても、機会というのもがございますものね」
「まったくです。そういったタイミングの良さも、実力のうち、ということなのでしょう」
頷きながら、シオンは懐に箸入れをしまった。
「では、どうぞこちらへ。お食事のご用意は、もうできております」
豊が立ち上がったときだった。
「そんな時間、ないわよ!」
○合流
声の主は、紙バッグを持った、赤いスーツのシュライン・エマだった。
横には、十代中頃の、焦茶の髪に人なつっこい笑顔の少年がいる。
――あの少年は、誰でしたっけ。
思いあぐねていると、シュラインが爪で腕時計を叩いた。
「あんた、いま何時だと思ってるの」
「え……そうですね」
シオンは腕時計をしていない。携帯電話も持っていない。正確なところは分からないが、確か、こちらの世界に入ったときに空が真っ赤に染まっていたから、だいたい6時くらいだろう。あれからまだ20分も経っていないから――。
「6時20分くらいですか」
「もう8時よ。いえ、もう9時かもしれないわ」
「時間の進み方が違いますからね〜」
少年の声には聞き覚えがあった。豪徳寺嵐だ。人間に化生しているようだ。
「浦島太郎みたいなものですよ。現実の世界より、時間の進み具合が遅いんです〜」
「そういえば、そうでしたね」
翠の話にも、体感で一時間弱だったのに、実際には何時間も経っていた、とあった。
「でも、それが何か……」
「翠嬢は12歳の女の子なのよ。遅くなったらご両親が心配するでしょう」
「あ、そうですね」
そんなことも翠は言っていた。お父さんもお母さんも、怒るばかりで信じてくれない、と――。
「では、私だけでもご馳走になりましょうか」
その案は、シュラインの鋭すぎる視線によって却下された。
シュラインは豊を見上げると、笑顔になった。
「豊姫、そういうわけで、翠ちゃんはすぐに連れ帰らなくてはならないんです」
「人の身でここに長くいるのは、とても危険なことですから。私といたしましても、早く帰られることを望みます」
そう言ったが、豊は悲しそうに視線を落とした。
「ですが、寂しいものですね……。最近はあまり客人も来られませんし……」
「それなら」
とにこやかに言ったのは嵐だ。
「我輩が話し相手として遊びに来ましょう」
「ですが、そう簡単に来られる場所ではありませんよ、ここは」
「いえいえ、一度来たら、次からは簡単に来られるんですよ。それにこの花のことで相談したいこともありますし……」
嵐は手に持つ青い花を見せた。
「まあ、そういうことでして。長いお付き合いをお願いしますよ〜」
オホン、と、シュラインが咳払いする。
「豊姫。このあいだは、翠ちゃんをおもてなしいただいて、ありがとうございました。お礼……といってはなんですが、どうぞお受け取りください」
シュラインは紙バッグを豊に渡した。
「まあ、なんでしょう。開けてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
豊が包みを解くと、犬のぬいぐるみが出てきた。
大きな耳に潤んだ瞳、ふさふさの毛並――散歩しているのを最近よく見る、小さな犬のぬいぐるみだ。
「まあ……」
「ウェルシュ・コーギーのが見つからなくて、それにしたんですが。お気に召せばいいのですが」
「ええ」
豊はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます。大切にしますね」
翠とリンを呼ぶと、シオンたちは異空間から去ることにした。
豊が地に降りて一同を案内し、家の裏手へと向かう。
裏には、花に囲まれた池があった。大きさは六畳一間くらいだろうか。
「ああ、これですね」
シオンは頷く。
翠が突き落とされ、気が付けば家だったという――おそらくは帰り道の、池。
「それでは、豊さん。機会がありましたら是非、ご馳走にあずかりたいものです。また会う日まで、さようなら」
一礼すると、シオンは池に飛び込んだ。
じゃぽん、と水しぶきが上がる音が耳元で鳴った。
シオンの尻はソファに落ちる。
そこは草間興信所の、応接室であった。
「お、シオン」
向かいのソファに、背を丸めてタバコを吹かす草間がいた。
「どこから湧いて出たんだ? あんたに時空跳躍の力なんてあったっけ」
さすがに怪奇探偵、このくらいのことでは驚かない。
草間の事務机に座った零が、何も言わず、笑顔でこちらを見てる。掛け時計に目を走らせると、午後9時を5分過ぎたところだった。
「池を通ってきたんです。もう少ししたら、シュラインさんや嵐くん、それに翠ちゃんとリンちゃんも帰ってくるでしょう」
「ということは、見つかったのか、犬」
「はい。兎ちゃんが大活躍だったんですよ」
「ほう、そいつがねえ」
そうこう言っていると、草間の隣に、虚空からシュラインが落ちてきた。
「ああ、シュライン」
「武彦さん」
シュラインの顔が、ほっとしたような笑顔になる。
「お帰り。犬を見つけたんだってな。ご苦労さん」
「ええ――」
途端にシュラインの顔が強ばった。
「どうした」
「いない……。翠ちゃんがいない! 武彦さん、大変よ。はぐれたわ!」
そんな。
翠が、時空の狭間で、はぐれた。それでは翠はどうなってしまうのだ。
シオンが腰を浮かしかけたときだった。
「ご心配には及びませんよ」
声とともに、草間は前へ突っ伏した。
とっさにタバコを顔から離した素早さは、怪異に日常的に触れている、草間ならではの動きである。
「だから」
草間は一気に身を起こした。
「なんで俺の背中に出るんだよ、豪徳寺!」
少年の姿の嵐は、草間の背から、身軽にソファの後ろに降り立った。
「なんでと言われましても〜。偶然ですよ〜偶然〜」
「それより豪徳寺くん、心配には及ばないって」
シュラインが身を捩って、後ろに立った嵐に問いをぶつける。
「ああ、豊姫が言ったでしょう、強く念じた場所に出ると。おおかた、翠さんは自宅に出たんですよ。心配なら電話でも掛けてみることですね」
と――事務机の上の黒電話が、大音量の目覚まし時計のようなベル音を響かせた。
取ったのは、零だ。
「はい、草間興信所……はい、はい。あ、そうですか。ご丁寧にどうも」
チン。
受話器を戻すと、零はその場にいる全員に微笑みかけた。
「立崎翠さんは、家に出られたそうです。心配するといけないからと、急いで電話をくれました」
一同のあいだに、ほっとした空気が流れた。
――よかった。
シオンはふぅっと、胸の中の冷たい心配を、吐息に乗せて外へと排出した。
「そうだ、シュライン」
草間はポケットを探り、小さく折りたたんだ紙切れをシュラインに差し出した。
「なに?」
「大変だったんだからな」
タバコを取り、緑色の100円ライターで火を付ける草間。
「どこをどう探してもなくてさ。しょうがないからタクシー会社に行って、無理だっていうのを頼み込んで、同じ領収書切ってもらったんだよ」
「武彦さん、このために外出を……」
そういえば、シオンが草間興信所に入ったとき、シュラインは「領収書はどこ」と草間に訊いていた。あのことだろう。
「領収書をなくしたのは俺だからな。シュラインに迷惑は掛けられないだろ」
シュラインは立ち上がり、シオンたちに背を向けた。
「ありがと、武彦さん。さぁて、それより、事件が解決したんだから。報告書を作らなくちゃね」
その目に、いつもと違う輝きを見た気がしたのは、シオンの思い違いだったのだろうか。
○後日談
一週間が過ぎた。
シオンは仕事料をもらうため、兎と一緒に、草間興信所をおとずれていた。
「まあ、そういうわけで、兎ちゃんがいなかったらワンちゃんにも会えなかったんですよ」
シオンは零のいれてくれたコーヒーを口に含む。
「うん、おいしい。零ちゃんのいれたコーヒーは美味しいですね」
「ありがとうございます」
頭を上げてシオンに礼をいうと、零は目を兎に戻した。
兎は、零の与えたニンジンを夢中でかじっている。
室内にいるのはシオンを入れて4人。いや、シオン的には、兎も入れて5人なのだが。
「ひーふーみーよー」
人の姿でソファに座った嵐は、こぼれるような笑顔で、先程から預金通帳を眺めている。
「いつむーななやー……ふふふ……」
金の位を数えているのだろうか。8つ並んだ数字。幾らになるんだろう、とシオンは指折ってあてはめてみた。
――千万。
「豪徳寺」
窓の外に向かってタバコを吹かしていた草間が、嵐の名をつぶやいた。
ちなみに嵐の出現は、例によって草間の背の上だった。
「知り合いから聞いたんだが、おまえ、最近もうけてるんだってな」
「ええ、おかげさまで」
「青いハルジオン、か……」
「ええ、おかげさまで」
「何です? その、青いハルジオンというのは」
シオンの問いに、外を眺めたまま草間は答える。
「限られた特別な空間で、ハルジオンは真っ青に咲く……。妖怪がかかる病をなんでも治すっていう、万混誠丸の材料だ。超高値で取引される」
「おかげさまで、もうけさせてもらってますよ」
豊の家の周辺に咲いていた青い花だ。
……嵐が妙に熱心だったのは、こういう裏があったのか。シオンは苦笑した。
まあ、嵐の協力があればこそ、翠は親にしかられずにすんだのだから。良しとしよう。
そう。翠は午後9時、彼女の部屋に、犬とともに出現した。両親はもちろん心配してあちこち探していたのだが、翠がずっと部屋にいたというのを信じ、今回は怒らなかったのだ。
シオン一人なら、あそこでご馳走を食べ、翠を家へ帰すのが深夜になっていただろう。時空を超える嵐がいたからこそ、シュラインの注意を受けることができたのだ。
「そうだ、シオンさん」
嵐が預金通帳から顔を上げた。
「豊姫、犬のぬいぐるみに名前を付けたんですよ。なんだと思います」
「さぁ……」
「犬ちゃん、だそうですよ。青い炎の殿方にあやかって、と言っていました」
「そうですか。素直でいいお名前ですね」
シュラインがついたての向こうから出てきた。
「お待たせ。といっても、そんなに大金じゃないけど……」
ローテーブルの上に、シュラインは千円札を二枚置いた。
シオンはしばし無言でそれを見る。
「え、これだけ? って顔ね。そうよ、これだけよ。一人千円。はい、受領書にサインして」
大学ノートを広げ、ボールペンを乗せる。
「文句があるなら所長に言ってね」
シュラインは、所長、を強調しながら、窓にもたれかかった草間の背を睨んだ。
「……相手は小学生だぞ。正規の値段をふっかけられるか」
草間の頭の向こうを、向かいの雑居ビルを背景に、煙がふわりと昇っていく。煙はすぐに大気にまぎれた。
「文句なんてありませんよ」
シオンはボールペンを取り、ノートに受領のサインを書いた。ページの下の、カーボン印刷された自分のサインを引き出し、千円札とともに懐に入れる。
嵐も文句はないようで、笑顔でサインした。……嵐の場合、青いハルジオンの利益があるのだが。
――ありがとう、草間さん。
シオンは、胸の中で草間に頭を下げた。
少女が大金を取られずにすんだことが、嬉しかった。
「まったく。これだから興信所の設備がいつまでたっても新しくならないのよ。私の給料だって、いったいいつになったらちゃんと払われるのかしらね」
シュラインが口を尖らせる。眼は怒っていない。穏やかに草間の背を見つめている。
――ご苦労さまです、女探偵さん。
さて、千円で何を買うか。
兎ちゃん用に、新しいマフラーを編む毛糸を買おうか……そうだ、それがいい。いちばんのお手柄だった兎ちゃんに、千円を還元しよう。
何色が似合うだろう。
シオンが兎を見ると、零にもらった二本目のニンジンを、ぽりぽりと食べているところだった。
――オレンジ。ニンジンのような、オレンジ色のマフラーにしよう。
終わり
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / びんぼーにん(食住)+α
4378 / 豪徳寺・嵐 / 男性 / 144歳 / 何でも卸問屋
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■ ライター通信 ■
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大変お待たせいたしました。
「リンを求めて」をお届けします。
○シオン・レ・ハイ様
兎ちゃんと絡ませたいがため、他の二人とは別行動になりました。
シオン様の持つ、優しさや茶目っ気を表現したかったのですが、出ていますでしょうか。
お気に召しましたでしょうか。
各ノベルで、それぞれ違った部分があります。他の方のノベル読むと、ひょっとしたら、ストーリーの違った面が見えてくるかもしれません。
読んでいただけると幸いです。
感想をいただけると嬉しいです。
このたびは、この事件へのご参加、本当にありがとうございました。
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