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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


リンを求めて

○オープニング

 からっと晴れた、11月のある日のこと。
 草間興信所に入ってきた少女は、革張りソファの端にちょこんと腰掛けるなり、せっぱ詰まった表情で依頼内容を口にした。
「リンを探してほしいんです」
「リン?」
 くわえていたマルボロを灰皿にこすりつけ、草間は聞き返す。
「犬です。雄のウェルシュ・コーギー」
 真剣な眼差しで草間を見つめたまま、少女は答える。自己紹介では12歳ということだったが、目が大きいのでもう少し幼く見えた。
 ああそう、と草間は気のない返事をする。
 ――犬探し。
「ええと、立崎さん、だっけ。悪いけどそういう仕事はしない主義なんだ。他をあたってくれないかな」
「草間興信所は怪奇事件ならなんでも解決してくれるって聞きました。お願いします、ここしかないんですっ」
 少女……立崎翠(たちさきみどり)は、頭を下げて必死に頼み込んでくる。
「怪奇事件ならなおのことお断りだ。他をあたってくれ」
「お兄さん、話だけでも聞いてあげたらどうですか」
 零にはどうも弱い草間である。
「……聞くだけだからな。話してみな」
 零の援護を受けて、翠は早口に語り出した。

 ――3日前、散歩をしていると、いつの間にか山の奥に迷い込んでいた。家があったので道を尋ねようと入ってみると、綺麗な女性が出てきてご馳走をしてくれた。それから池に突き落とされて、気が付いてみれば自宅の前だった。

「置いてきちゃったんです。リンを……あそこに」
 翠は泣きそうに目を潤ませながら言う。
「あれから何度もあの山に行こうとしたのに、ぜんぜん行けないんです」
 草間はタバコに火を付け深く肺に吸い込み、はぁーっとゆっくり吐き出した。
「まあ、調査だけならしてやるよ」
「ほんとですか!」
「俺だけじゃ手に負えないだろうから、助っ人を頼むが……それでもいいんなら」
「お願いします」
 翠は勢いよく頭を下げた。

○草間興信所

「面白そうですね〜」
 のんびりとした少年の声が、応接室に流れた。
 同時に、ソファに座っていた草間が前のめりに倒れる。
 草間の背に乗りかかったもの。それは、大人の背丈ほどもある、巨大な招き猫だった。
「一つ、我輩も手をお貸ししましょう」
「それはいいから……」
 ローテーブルに突っ伏した草間は、腕を立ててえいやっと身を起こした。
「俺の背から退けっ」
 巨大な招き猫は、質量からは考えられないほど身軽に――というより羽のように軽やかに、草間の座るソファの後ろに降り立った。
「何の用だよ、豪徳寺。金は借りていないはずだが」
 豪徳寺嵐(ごうとくじあらし)、というのがこの招き猫の名前だ。何処かから仕入れたいわく付きの品を売ったり、金貸しをしたりしている、神出鬼没の商売人である。
「いやだなあ、草間さん。面白そうな話が聞こえたから来ただけですよ。山奥の異世界なんて実に興味深い。この話、我輩も仲間に入れてもらいますよ」
 もちろん、興味深いというだけで動くほど嵐は純真ではない。「変わった物が仕入れられるかも〜。これってチャンス〜」なんて考えたうえでの言動だ。
「あ、お手伝い料はいただきますよ、こちらも商売ですからね。う〜ん、それにしても我輩だけというのも心細いな。人を呼びましょう」
 草間の返事も待たず、嵐は左手を挙げた。
 豪徳寺嵐は、招き猫が百年の月日を経て付喪神へと昇華したもの。招き猫としての力も当然使える。
 右手で招けば金が、左手で招けば人がやって来る――。
 くいくい。くいくい。
 丸っこい左手で招くと、それに応えるかのように、二つの方向から同時に人が現れた。
「武彦さん。きのうのタクシーなんだけど、領収書どこやったか覚えてる?」
 室内奥、磨りガラスのついたてから出てきたのは、胸元を大きく開けた赤いスーツの女性、シュライン・エマ。
「こんにちは、草間さん。兎ちゃんを連れてきましたよ」
 外から入ってきたのは、胸のはだけだ黒いスーツに身を包み、大事そうに白い兎を抱えた、シオン・レ・ハイだった。

○調査開始

 草間は領収書を探しに席を外し、零も買い出しに行ってしまった。
 結果、嵐、シュライン、シオンの三人で少女の依頼内容を確認することになった。
「まずは情報整理ね」
 シュラインが使い込まれた大学ノートにボールペンを走らせる。
「犬の名前はリン、犬種はウェルシュ・コーギー。雄の3歳。――散歩コースは?」
「え、えっと、近所をまわって公園に行きました」
 目の前で繰り広げられた不可思議な光景に呆然としていた翠は、はっと顔を硬くしてシュラインの問いに答えた。
「山道に入るのはどのあたり?」
「いえ、山道になんか入りません」
「入らない?」
 シュラインは首を傾げる。
「でも山奥に行って、そこで犬を置いてきたんでしょう」
「気が付いたら山奥だったんです……」
 少女の目には涙が溜まってきている。
 厳しいなぁ、と嵐は思った。
 犬を失って悲しむ12歳の少女にする質問としては、厳しすぎるし、急すぎる。もっと穏やかに、相手をいたわりながら質問しなければならないのに。
 助けを求めるように、シュラインはシオンに視線を向けた。
「大丈夫ですよ」
 視線を受けたシオンが、少女ににっこりと微笑みかける。
「ワンちゃんは私たちが責任を持って見つけますから。安心してください」
「は、はい。お願いします」
 少女は潤んだ瞳でシオンに頭を下げる。安心して気がゆるんだからだろうか、頬がほんのりと薄紅に染まっていた。
 シオンの青い目に、悲しみの色がちらっと走った。少女に同情したのだろう。
「そのためには、散歩のことを詳しく教えてもらいたいんです。どうやって山奥に行ったのか、そのときの天気とか……変わったことはありませんでしたか」
「女性の服装や、家の形、池の大きさとかも知りたいわ」
 すかさずシュラインも質問した。
「うんうん、家の様子は詳しく聞きたいですね〜。何か面白い物はありましたか」
 二人と一体に見つめられ、翠は少しずつ語り出した。

○図書館

 少女から話を聞いたあと、嵐たちは二手に分かれることにした。
 シオンは翠を連れて散歩コースの調査に。
 シュラインは図書館で資料を見たいといったので、嵐は同行することにした。
「豪徳寺くん、気が付いた?」
 モダンなデザインの中央図書館に入ると、シュラインは抑えた声で嵐に話し掛けてきた。
「気が付くって、なにをです」
 こたえる嵐の姿は、巨大な招き猫――ではない。十代半ばの少年の姿に変化している。焦茶色の髪に人なつっこい笑顔という、元の姿とはかけ離れた格好だ。人前に出るのには、元の姿では不都合が多いので、こうして人の姿に化生することにしている。
「この街、新しくない」
 しごく真面目にシュラインは言う。
 確かに、駅からここまで来る途中、古そうな建物は一つもなかった。
 アスファルトも、電柱も、家も……もちろん中央図書館も、すべてが新しかった。
「新興住宅地ってやつなんでしょうね〜。山を切り開いて造り上げた、人間のための街」
 いいながら、嵐は気付く。
「開拓前の姿だ、と言いたいのですか? 山奥の異世界が」
「断言はできないわ。でも、昔の地図と今の地図を比べてみるのは悪い考えじゃないと思う。それに、この地に伝わる逸話や昔話も調べてみたい」
 ――立崎翠の話によれば、彼女が異世界に入ったのは、近所の公園にある竹林からだ。夕方、西日の眩しさに目を細めていたら、突風が巻き起こって竹をざわめかし……前も後ろも、終わりのない竹林になっていたという。
「翠ちゃんが会ったっていう女性。着物を着ていたそうだし、最近のモノじゃないことは確かよ」
「名前も豊(とよ)ですからね〜。昔話でも伝わっていたらいいんですが〜」
 助けを求めて歩き回る翠が見つけた、平屋の日本家屋。
 出てきたのは、豊と名乗る、着物姿の美しい女性だったそうだ。
「妖が伴侶や相棒を求めたか、それとも犬が好きだった人の霊が犬を欲しがったのか。色々考えられるけれど……。豊さんが何者なのか、少しでも尻尾がつかめたらいいわね」
 話しながら、嵐とシュラインはエントランスから閲覧室に入った。

 シュラインは、まず古地図と今の地図を比べた。
 その結果、シュラインの予想は当っていることが分かった。
 翠が異世界に誘われた公園は、ほんの20年前まで、いちばん近い村落からでも5キロは離れているという、まったくの未開の地であった。
 それからこの地に伝わる昔話を調べる。
 すぐに見つかった。
「『豊姫のご馳走』か……」
「そのまんまですねえ」
 二人はつぶやきながら本をのぞき込む。
 内容は、ある日ぐうぜん山奥に入り込んでしまった男が、豊姫に接待され、何十年かしてから帰ってくる……というものだった。
「浦島太郎に似てますね〜」
 嵐がのんびりと感想を漏らす。
 竜宮城から帰ってきたとき、地上はすでに何百年もの歳月が経過していたという、浦島太郎。舞台が海から山に変わっただけで、ストーリーはほとんど同じである。
 今回の事件でも、夕方に異世界に入り、体感的には1時間弱しか経っていないのに、翠が現実世界に戻ってきたときには、すでに午前零時をまわっていたという。
 豊姫とは、乙姫に該当する、異世界の主らしい。
 さらに、嵐の目が、昔話の一節に吸い付けられた。
『その家のまわりはお花畑でした。春に咲く花も、夏に咲く花も、秋に咲く花も、冬に咲く花も、一緒に咲いていました。白いはずのリンドウは輝くような黄金色に、シロツメクサは花までもが緑色、彼岸花は空のような青い色に咲いています』
 ――これは、これは。珍しい花が咲くようですね〜。
「情報も得たし。公園に寄ってみましょうか、豪徳寺くん」
「そうですね。シオンさんたちと落ち合って帰りますか」
 本に落としていた目をシュラインに向け、嵐はにっこりと笑った。

「そうだ」
 中央図書館から出たシュラインは、目の前にある百貨店を見て、突然言い出した。
「ちょっと買いたい物があるんだけど、いいかしら」
「どうぞどうぞ」
 買い物を終えて百貨店から出てきたときには、すでに日は暮れてしまっていた。
 公園に着いたときはもう真っ暗だった。遠い間隔で設置された外灯は、闇をより濃くする役目しか果たしていない。
 人の姿もなく、たまに会社帰りらしいスーツ姿の男と行き交うだけだ。
 シオンと翠の姿はなかった。
「もう帰ったんですかね〜?」
「電話してみるわ」
 百貨店の買い物袋を手に提げたまま、シュラインは携帯電話を操作した。
 ひとことふたこと話したシュラインは、携帯電話のスイッチを切った。
 そして嵐に、シオンたちはまだ草間興信所に帰ってきていない、と告げた。
 竹林が風に揺れる音がする。
「山奥の異世界に、行っちゃったみたいですね〜」
 時空回廊を開く力のある嵐には、分かる。
 この公園の、竹林の方向。時空の歪みが微かに漂ってきている。が、あまりにも微かすぎて、嵐ですら入れない。
 おそらくシオンたちは、どうにかしてあの歪みのなかに入り込んだのだろう。
 ――先を越されましたね〜。
 小さく、嵐は舌打ちした。

○異空間へと続く道

 草間興信所へ帰ると、シュラインは来客用の革張りソファに腰を落とした。
 時計を見ると、午後八時だった。
 少年の姿を解かないまま、嵐もソファに座った。
 山奥の異世界には行きたい。
 予想が正しければ、『あれ』が手にはいるかもしれないのだ。
 シオンが気がかりだ。シオンが『あれ』のことを知らなければいいのだが。
 知っていたら。
 ――ああ、我輩も行きたいものです〜。
 嵐の力を使えば、山奥の異世界に行けないこともない。
 だが――。
「大丈夫よ」
 シュラインはうつむかせていた顔を上げ、嵐に向かって微笑んだ。
「前に翠ちゃんが行ったときだって、すぐに帰ってこれたんだし。今回はシオンもついてる。私たちはここで待っていればいいのよ」
「せっかくですし、行ってみませんか?」
 嵐は、シュラインに持ちかけることにした。
「行くって、どこへ」
「やだなぁ、山奥の異世界に決まってるじゃないですか〜」
「豪徳寺くん、相手は異世界なのよ。異なる世界。そう簡単には行けないから苦労してるんじゃないの」
「確かに。だからこそ、我輩も言い出せなかったんです」
 シュラインは黙って嵐を見つめた。
「そういえば……」
 暗く沈んでいたシュラインの青い目が、次第に鮮やかな色彩を帯びていく。
「あんた、神出鬼没よね。突然現れるし、突然消えるし。あんた、まさか……」
「ええ。もちろん、できるのはテレポートだけじゃありませんよ。異空間から品物を仕入れるのも我輩の仕事の一つですから」
 シュラインは声を荒げ、嵐を怒鳴りつけた。
「なんで始めからそれを言わないのよ」
「ちょっとした問題があってですね〜」
「いいから」
 百貨店の袋を掴んで、シュラインは立ち上がる。
「連れていきなさい。山奥の異世界に」
「はいはい。我輩としても、どうしても行きたいですからね」
「あんたが? どうして……」
 シュラインに説明するわけにはいかない。ライバルが増えるのは好ましくない。
 嵐は素早く出入り口のドアまで移動し、開けた。
「は〜い、ここが次元回廊の入り口です。行きましょう、シュラインさん」
 ドアの向こうには、薄暗い廊下が伸びていた。

 切れそうな蛍光灯が延々と続いている。
「豪徳寺くん?」
 後ろに着いてくるシュラインが、嵐に声を掛けてくる。
「ここ、通らなかった」
 雑居ビルの廊下のような、無機質で暗い廊下が続いている。たまに、右や左へ道が分かれているが、その先も、見えなくなるまでずっと廊下だった。ドアや窓は一つもない。
「う〜ん、やっぱり迷いましたね」
「やっぱりって……」
「初めて行く世界の場合、回廊内で迷う危険があるんですよ〜」
「……迷ったら、どうなるの」
「迷いがなくなるまで歩き続けます。そうすれば、何処かに出ます。目的の世界かどうかは分かりませんが」
「あのねえ」
 シュラインが立ち止まる気配があった。
「山奥の異世界に行けないんじゃ、意味ないじゃないの」
 嵐も立ち止まり、振り返る。
「ちょっとした問題があるって言いましたでしょ〜。これは最終手段なんですよ〜」
「ああ……」
 シュラインは、大げさにため息をついた。
「そう落胆しないでくださいよ。これでも、犬の臭いをたどって進んでるんですから」
 どこからか、犬の臭いが漂ってきていた。その臭いを頼りに歩いているのだが、嵐自身、半信半疑だった。そもそも、少女が探している犬の臭いかどうかも分からない。
「犬の臭い?」
「微かにしてるんですよ。この臭いをたどっていけば……」
 ――あるいは、行けるかもしれませんね〜。
 その言葉は言わなかった。
 と、シュラインは斜め上を向いた。大きく口を開ける。
 長く余韻を残す、どこかもの悲しい獣の声が、シュラインの口から流れ出た。
「シュラインさん?」
 間違いなく人間であるはずのシュラインの口から、どう聞いても、犬の遠吠えな声が発せられる。
 そういえば、聞いたことがある。
 草間興信所の事務員は、声帯模写の達人だ、と――。
 それにしても、ここまで正確とは。
 もう一度、シュラインは遠吠えをはなつ。
 別の遠吠えが聞こえた。
『あおおぉぉぉぉぉぉぉぉ……』
 シュラインと嵐は目を合わせた。
 急いで、シュラインは遠吠えを返した。
 本物の犬の遠吠えがすぐあとに続く。
 二人は、犬の声のするほうに足を向けた。
 唐突に廊下は終わった。
 目の前の壁にドアがある。
 嵐が開ける。
 外は、明るい日差しのもと、竹林が広がっていた。
『あおおおぉぉぉぉぉぉぉん』
 はっきりと犬の遠吠えが聞こえた。すぐ近くだ。
 嵐たちは次元回廊を抜けると、遠吠えの方向に走り出した。

 竹藪はすぐに終わり、竹林のなかに忽然とひらけた花園に出た。
 青や白や黄の野花が咲き乱れ、広間の中央には、黒っぽい、昔風の平屋が建っていた。
 嵐は目ざとく、『あれ』がないかどうかチェックした。
 ――あった。
 折り紙の青のような、真っ新な青い絵の具のような、青いハルジオン……。
 家の向こうから、少女と犬が走り出てくる。
 少女は嵐たちの姿を認めると、顔を輝かせて走り寄ってきた。
「探偵さん! リン、見つかりました!」
「そう。良かった」
 シュラインが笑顔で答える。
 翠の横にお座りしたウェルシュ・コーギーは、口を閉じて嵐とシュラインを見つめている。
 嵐は招き猫だが、置物なので、とくに犬嫌いというわけではない。
「お手柄よ、リン。よく答えてくれたわ」
 あぉん、とリンは一声鳴いた。
 シュラインの言葉の意味が分からない翠は、不思議そうに、シュラインと嵐、リンを見比べている。
「翠ちゃん、シオンはどこかしら」
「家のあっち側の、ベランダにいます」
「そう、ありがとう」
 嵐とシュラインは、翠をおいて、家の角を曲がっていった。

 縁側に腰掛けたシオンが、立ち上がった女性を見上げていた。
 背の中程で束ねた黒い髪を、グラデーションのように肩に流した女性だった。小花の刺繍を散らした、淡い桜色の打ち掛けを着ている。豊姫だ。
「では、どうぞこちらへ。お食事のご用意は、もうできております」
 豊姫は、打ち掛けを白い手で引き、室内奥に入ろうとする。
「そんな時間、ないわよ!」
 シュラインが叫んだ。

○合流

 シオンと豊姫が、いっせいにこちらを見た。
 嵐とシュラインは、二人に近寄っていく。
 腕時計を爪で叩きながら、シュラインはシオンを睨んだ。
「あんた、いま何時だと思ってるの」
「え……そうですね、6時20分くらいですか」
 戸惑いながらシオンが答えると、シュラインは首を振ってきっぱりと言った。
「もう8時よ。いえ、もう9時かもしれないわ」
「時間の進み方が違いますからね〜。浦島太郎みたいなものですよ。現実の世界より、時間の進み具合が遅いんです〜」
「そういえば、そうでしたね。でも、それが何か……」
「翠嬢は12歳の女の子なのよ。遅くなったらご両親が心配するでしょう」
「あ、そうですね。では、私だけでもご馳走になりましょうか」
 シュラインがシオンを睨むと、シオンは笑顔のまま無言になった。
 豊姫を見上げ、シュラインは笑顔で言う。
「豊姫、そういうわけで、翠ちゃんはすぐに連れ帰らなくてはならないんです」
「人の身でここに長くいるのは、とても危険なことですから。私といたしましても、早く帰られることを望みます」
 そう言ったが、豊姫は悲しそうに視線を落とした。
「ですが、寂しいものですね……。最近はあまり客人も来られませんし……」
「それなら」
 とにこやかに言ったのは嵐だ。
「我輩が話し相手として遊びに来ましょう」
「ですが、そう簡単に来られる場所ではありませんよ、ここは」
「いえいえ、一度来たら、次からは簡単に来られるんですよ。それにこの花のことで相談したいこともありますし……」
 嵐は、摘み取っておいた青いハルジオンを見せた。
「まあ、そういうことでして。長いお付き合いをお願いしますよ〜」
 オホン、と、シュラインが咳払いする。
「豊姫。このあいだは、翠ちゃんをおもてなしいただいて、ありがとうございました。お礼……といってはなんですが、どうぞお受け取りください」
 シュラインは手に持っていた紙バッグを豊に渡した。図書館から公園へ向かう途中に買った、あれである。
「まあ、なんでしょう。開けてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
 豊姫が包みを解くと、犬のぬいぐるみが出てきた。
 大きな耳に潤んだ瞳、ふさふさの毛並――CMなどでおなじみの、ロングコートチワワのぬいぐるみだ。
「まあ……」
「ウェルシュ・コーギーのが見つからなくて、それにしたんですが。お気に召せばいいのですが」
「ええ」
 豊姫はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます。大切にしますね」

 翠とリンを呼び、嵐たちは異空間から去ることにした。
 豊姫が地に降りて一同を案内し、家の裏手へと向かう。
 裏には、花に囲まれた池があった。大きさは六畳一間くらいだろうか。
「ああ、これですね」
 シオンが頷く。
 嵐もも、翠の話を思い返していた。
 突き落とされ、気が付けば家だったという、帰り道の池。
「それでは、豊さん。機会がありましたら是非、ご馳走にあずかりたいものです。また会う日まで、さようなら」
 一礼すると、シオンは池に飛び込んだ。
 じゃぽん、と、勢いよく水しぶきが上がる。
「え」
 シュラインが、突然のことに目を点にしている。
 着物の袖を口に当て、豊はくすりと笑った。
「シオンさんは、人の世界に帰られました。帰りたい場所を念じながらこの池に入れば、その場所へと出るそうです」
「あ、だから私、家に帰れたんだ」
 翠が軽く手を打つ。その手には、しっかりと犬の綱が握られていた。
 豊の言葉を裏付けるように、池には波紋が広がっているのに、水中にシオンの姿はなかった。
「では、豊姫」
 シュラインは豊姫に向き直った。
「これにてお暇いたします」
「ええ……。犬さん、ありがとうございました」
 翠の手を握ると、シュラインは一緒に池に飛び込んだ。
 残った嵐は、少しのあいだ思案した。
 別に、こんなものを使わなくても、自分の能力で帰ることが出来る。
 ――まあ、せっかくですし。池を使わせてもらいますか。
「豊姫さん」
 振り返り、嵐は人なつっこい顔で笑った。
「それでは、また、後ほどお会いいたしましょう」
「ええ、楽しみにしています」
 嵐は池にジャンプした。

 この池は、時空と時空を結ぶ、一方通行の通路の入り口だった。
 時空を渡りなれていないものが通れば、ほんの一瞬で通過してしまうだろう。
 嵐にとっては、いつも通る、なじみの空間である。
 そう。嵐には、時空回廊の廊下として認識されるのだ。
 天井には切れかかった蛍光灯。
 右も左も壁。
 目の前には半開きの扉が、振り返れば完全に閉まった扉がある。
 それだけの空間……他にドアもなければ、分かれ道もない。
「いない……。翠ちゃんがいない!」
 前方の、薄く開いた扉から、シュラインの取り乱した声が聞こえた。
「武彦さん、大変よ。はぐれたわ!」
「ご心配には及びませんよ」
 言いながら、嵐は扉を開けてなかに入り込んだ。
 出たのは草間の背の上だった。
 草間がローテーブルに上半身を突っ伏している。
「だから」
 草間は一気に身を起こした。
「なんで俺の背中に出るんだよ、豪徳寺!」
 少年の姿の嵐は、草間の背から、身軽にソファの後ろに降り立った。
「なんでと言われましても〜。偶然ですよ〜偶然〜」
「それより豪徳寺くん、心配には及ばないって」
 シュラインが身を捩って、こちらを向いて質問してきた。
 シュラインは、草間の隣に蒼い顔で座っていた。正面のソファには、腰を浮かしかけたシオンがいる。事務机には零がいて、微笑んで嵐たちを眺めていた。掛け時計は9時5分を差している。
「ああ、豊姫が言ったでしょう、強く念じた場所に出ると。おおかた、翠さんは自宅に出たんですよ。心配なら電話でも掛けてみることですね」
 と――事務机の上の黒電話が、大音量の目覚まし時計のようなベル音を響かせた。
 取ったのは、零だ。
「はい、草間興信所……はい、はい。あ、そうですか。ご丁寧にどうも」
 チン。
 受話器を戻すと、零はその場にいる全員に微笑みかけた。
「立崎翠さんは、家に出られたそうです。心配するといけないからと、急いで電話をくれました」
 一同のあいだに、ほっとした空気が流れた。
 シオンはソファに掛け直し、シュラインはほぅっと息をつく。草間はタバコの煙をふーっと長く噴き出した。
「そうだ、シュライン」
 草間はポケットを探り、小さく折りたたんだ紙切れをシュラインに差し出した。
「なに?」
「大変だったんだからな」
 タバコを取り、緑色の100円ライターで火を付ける草間。
「どこをどう探してもなくてさ。しょうがないからタクシー会社に行って、無理だっていうのを頼み込んで、同じ領収書切ってもらったんだよ」
「武彦さん、このために外出を……」
 そういえば、嵐が助っ人を呼んだとき、シュラインは草間に「領収書はどこ」と訊いていた。あのことだろう。
「領収書をなくしたのは俺だからな。シュラインに迷惑は掛けられないだろ」
 シュラインは立ち上がった。
「ありがと、武彦さん。さぁて、それより、事件が解決したんだから。報告書を作らなくちゃね」
 嵐たちに背を向け、磨りガラスの向こうの自分の机に歩いていく。

○後日談

 一週間が過ぎた。
 嵐は仕事料をもらうため、再び草間興信所をおとずれていた。
「まあ、そういうわけで、兎ちゃんがいなかったらワンちゃんにも会えなかったんですよ」
 一緒に仕事をしたシオンも、金を受け取るために来ている。
 シオンは、零のいれたコーヒーを口に含み、笑顔で零に言った。
「うん、おいしい。零ちゃんのいれたコーヒーは美味しいですね」
「ありがとうございます」
 頭を上げてシオンに礼をいうと、零は目を兎に戻した。
 兎は、零の与えたニンジンを夢中でかじっている。
 室内にいるのはシオンを入れて4人だ。シュラインは、ついたての向こうで事務処理をしている。
「ひーふーみーよー」
 人の姿でソファに座った嵐は、こぼれるような笑顔で、先程から預金通帳を見つめていた。
「いつむーななやー……ふふふ……」
 8つ、だ。
 億にはとどかないが、迫る勢いの数字たち。
 ――青いハルジオン様々です。
 にやけるな、というほうが無理だ。
「豪徳寺」
 窓の外に向かってタバコを吹かしていた草間が、嵐の名をつぶやいた。
 ちなみに嵐の出現位置は、例によって草間の背の上だった。
「知り合いから聞いたんだが、おまえ、最近もうけてるんだってな」
「ええ、おかげさまで」
「青いハルジオン、か……」
「ええ、おかげさまで」
「何です? その、青いハルジオンというのは」
 シオンの問いに、外を眺めたまま草間は答える。
「限られた特別な空間で、ハルジオンは真っ青に咲く……。妖怪がかかる病をなんでも治すっていう、万混誠丸の材料だ。超高値で取引される」
「おかげさまで、もうけさせてもらってますよ」
 豊姫は、花園が痛まない程度なら、青いハルジオンを摘んでいってもいい、といった。
 よって、それほど多い入荷とはならなかった。。
 が、もしたくさん詰めたとしても、嵐はほんのちょっとずつしか卸さなかっただろう。
 希少価値があるほうが、値段は当然のことながら上がるのだ。
 そして、値段もさることながら、物の価値を決めているのは自分なのだという事実が、嵐には楽しくて仕方なかった。
「そうだ、シオンさん」
 嵐は預金通帳から顔を上げた。
「豊姫、犬のぬいぐるみに名前を付けたんですよ。なんだと思います」
「さぁ……」
「犬ちゃん、だそうですよ。青い炎の殿方にあやかって、と言っていました」
「そうですか。素直でいいお名前ですね」
 シュラインがついたての向こうから出てきた。
「お待たせ。といっても、そんなに大金じゃないけど……」
 ローテーブルの上に、シュラインは千円札を二枚置いた。
 シオンはしばし無言でそれを見る。
 嵐はすぐに見切った。
 おそらく、草間は翠から正規の依頼料を取らなかったのだ。これは翠から受け取った依頼料のすべてか、それとも草間のポケットマネーか、そのどちらかだろう。
「え、これだけ? って顔ね。そうよ、これだけよ。一人千円。はい、受領書にサインして」
 大学ノートを広げ、ボールペンを乗せる。
「文句があるなら所長に言ってね」
 シュラインは、所長、を強調しながら、窓にもたれかかった草間の背を睨んだ。
「……相手は小学生だぞ。正規の値段をふっかけられるか」
 草間の頭の向こうを、向かいの雑居ビルを背景に、煙がふわりと昇っていく。煙はすぐに大気にまぎれた。
「文句なんてありませんよ」
 シオンはボールペンを取り、ノートに受領のサインを書いた。ページの下の、カーボン印刷されたサインを引き出し、千円札とともに懐に入れる。
 嵐にしても文句などあるはずがない。青いハルジオンの利益があるのだ。
 この千円は、何千万という利益の呼び水なのだ。そう思うとありがたさが違ってくる。
「まったく。これだから興信所の設備がいつまでたっても新しくならないのよ。私の給料だって、いったいいつになったらちゃんと払われるのかしらね」
 シュラインが口を尖らせる。眼は怒っていない。穏やかに草間の背を見つめている。
 嵐は、カーボン印刷された自分のサインと千円札をがま口に入れると、視線を預金通帳へと戻した。
 それから、ふと、草間興信所のドアを眺める。
 あのドアを、嵐は、次元回廊へと繋げることができる。
 回廊の向こう側、閉じられた竹藪のなかに、一人、姫君が訪問者を待ちわびている。
 青いハルジオンは、しばらくは摘みにいく必要はない。それどころか、出回る量が多くなれば、価値が下がってしまう。
 遊びにいくっていうのも、異空間におもむく立派な動機ですよね、と嵐は思った。
 シュライン、シオン、零に草間。
 豊姫の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 ――我輩の青いハルジオンを取らないって約束させてから、ですけどね〜。

終わり


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3356 / シオン・レ・ハイ / 男性 / 42歳 / びんぼーにん(食住)+α
4378 /  豪徳寺・嵐   / 男性 / 144歳 / 何でも卸問屋


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■         ライター通信          ■
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 大変お待たせいたしました。
 「リンを求めて」をお届けします。

○豪徳寺・嵐様
 初めての嵐様の作品であるため、かなり緊張しました。
 神出鬼没である嵐様の特性を生かしたくて、あんな登場の仕方になりました。
 商人としての頭の回転の速さと、スローペースな喋り方、うまく引き出せたでしょうか。


 各ノベルで、それぞれ違った部分があります。他の方のノベル読むと、ひょっとしたら、ストーリーの違った面が見えてくるかもしれません。
 読んでいただけると幸いです。

 感想をいただけると嬉しいです。

 このたびは、この事件へのご参加、本当にありがとうございました。