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せせらぎ+
近江――かつては山城、京の都に近く位置し、琵琶湖と平地によって発展してきた地域。
その近江は、現在豪族連合体のような存在によって地盤が固められている。連合体に一人の男を擁し、各々が各々、勝手な考えを持ち、張り巡らされし国。それが、今の近江だ。
ならば、千剣破の領域は極めて良好な安定度を誇っていると言えるのかもしれない。
そう、今はまだ……。
「水鏡千剣破です。何か大切な用事があるって聞いたんですけど……?」
彼女は広い門のインターホンへと話し掛けた。
近江、長浜。それが、現在の豪族連合の盟主の領域。そして自宅だ。
彼女は、今そこへ一人で立っていた。
「水鏡千剣破様がいらっしゃいました」
暗い部屋の中、部下に言われて、男は身振りで通せと指図する。
「水の巫女……か。無理矢理押さえ付けたとしたら、どんな声で鳴くかな」
男は吐き捨てるように呟いた。
何もかも見下した、冷たい目だった。
目の前に立つ、この男の考えている事は、千剣破には、なんとなく解る気がする。
彼、この近江の支配者は、自分の力を中てにしている。彼女は、立ち上がりながら語りかける男を見上げた。モデルのように整った容姿に、染め上げられた金髪が眩しい男だった。
やや芝居掛かった動きすら見せるこの男が、今の近江の、事実上の支配者である。
「解ってもらえるかな、水鏡君?」
男は丁寧に言葉を選んで語りかける。その様子に、先ほど一人のときに見せた暗い眼は写っていない。
やたらと広い応接間に、毛の深いソファー。壁には絵画が飾られ、程よい感覚で調度品も並べられている。
雰囲気は悪くない。だが……言いようの無い不快感は、常に付きまとっていた。それは、今目の前に居る彼が切り出した用件の中身が気に入らなかったから、ではない。
もっと別の意味で、精神的に不快感を感じるのだ。
無遠慮に人の肌や胸に触ってくるかのような、不快感。
「山城に近い場所では、最近妖狐の出現も増えてる……」
特に、と言って、彼は写真を指し示した。
「この白い妖弧だ。しかも、前は狐がちらほら姿を見せていただけなのにね、最近は他の存在も介入して来てるんだ」
恐らくは、この狐の背後の存在だろう。
狐が誰なのかは大方、予想が付いていた。一時期京都に跋扈していた御霊であろう。そしてその狐は他勢力へ降伏してしまった。
つまりは……その征服者が援軍を繰り出している可能性も有る訳だ。
「しかし、美濃や越前の方面も放置は出来ませんから……」
息苦しさを胸に感じながら、千剣破は口を開いた。
彼女の立場は、微妙な位置にあった。この男に従属していると言えば確かだが、命令を受ける立場ではない。名目上は付き従っているが、実際には独立している。
そう言えば確かなのだが、それでも尚、この男の言葉を聞いてしまう事があった。
何故なのかは解らない。だが、それはこの男に好意を抱けるからだとか、そういった次元ではない。不快感ゆえに言葉を聞いてしまう、と言ってもいいのかも知れない。
だが確証が無いのが現状で、早とちりするわけにも行かない。
「それは解ってるよ。けど、偵察や警戒なら他の者に任せられる」
前に座った彼が、まっすぐに眼を向ける。
「君は、そういった重要な方面に向かってくれないかな?」
不快感が、増した。
――いけない。
知らず、頭が囁く。警告が鳴り響いた。
「あたしは、今の領域を守るのに専念した方が良いと思います」
「ン、そうだね。けど、キミの伊吹山は非常に重要な位置に有る。それを利用できれば……解るだろう?」
相変わらず、自分の言葉に酔いしれるかのように、男は喋りつづける。
「ですが、私は今の領域を維持してこそ、平穏が保てると思います……」
苦しい反論……彼は無論の事、これくらいで引き下がる訳は無かろう。となれば、相手は更に口を開く。不快感な感覚は喋る度に感じている。
このままでは駄目だ、そう感じた途端、相手よりも早く言葉を口にした。
「あ、あたしもう帰ります」
「いや、もう少しゆっくり話をしてい……」
「学校の課題もあるし、今日はもう時間が無いんです」
引き止める言葉を振り切って、彼女は立ち上がった。
この場から早く去りたい。その一心で、やや語尾が強まる。
「御霊としての自覚が有れば、学校や課題なんて、構っていられなくなると思うけどね……」
千剣破は、その言葉に一度だけ振り向いた。
その言葉が指す意味を、彼女は知っているのだから。
夕日は良い。暖かさが程よくて、疲れた身体にしっとりと染み込んでくれる。同時に疲れは抜けて、身体も軽くなっていく。
「千剣破、大丈夫?」
彼女は友人の声で目を覚ました。
辺りを見回す。授業は既に終りを告げたのか、誰もが帰る支度を始め、軽口を交わしながら教室を出て行く。
そういえば先ほどからの記憶も無い。もしかしなくても、居眠りをしていたのだろう。
心配な顔をさせまいとして、彼女は笑みを浮かべた。それだけで、相手も大して気にはしなくなる。
だが、そもそも居眠りをしていたのは、昨日は夜が遅かったからだ。度重なる御霊の戦乱は拡大の一途を辿っている。自分の領域でも時折、小競り合いは有った。
だから今のままでは過ごせなくなる。
自然、結界を施し、警戒網を張り巡らし、そのようにして労力を割いて安定を保たざるを得ない。
「でも結局……」
千剣破は、顔をやや伏せながら英語のノートを見やった。
宿題は終わっておらず、提出期日はとうの昔に過ぎている。
終わってないのは仕方が無い。学校側もそれは考慮してくれるし、大きく難癖をつけられる訳ではない。彼女は御霊であり、伊吹山を中心とした一帯の領域を保持している。
妖魔駆逐の為に働く事も有れば、領域を保持する為の仕事もしなくてはならない。
宿題を終わらせるなんて、そんな時間が少しも無かったのだ。
「あたし最近、全体的にテストの点数下がってきたんだよね……」
溜息混じりにノートを開く。
昼間は何とか出席し、御霊としての行動は夜の間に済ます。その方法をとろうと努力したところで、たかが知れていた。
休んだ時には気付かなかったが、今改めて見直せば、自分は驚くほど学校を欠席していた。
目の前の友人が心配そうに顔を覗き込んだ。やや少女的で童顔な顔を目の前に見せる友人も、御霊である。
ただ、彼はそれほど、御霊同士の争いに足を踏み入れていない。
「あぁ、ごめんごめん! ちょっと悔しいかなって思っただけ!」
無理に笑いを作りながら席を立ち、鞄を取り出して帰る用意を整える。
「あ、千剣破ぁ! ねね、近くに出来たケーキ屋さん、今から行かない?」
突然の声が背後から投げかけられた。
けれど、ケーキ屋だなんて、何のことか解りもしなければ覚えにも無い。近所に新しく出来たという事だろうが、一体何時完成したというのだろうか。
「あの、何時できた? そのケーキ屋さん」
「え? 確か十日くらい前だけど…」
それでだ。十日前と言えば、狐の事で調査に出回っていて、暫く学校には来ていない。学校どころか、伊吹山に篭って世間にすら触れていない……。
怪訝な顔をして、相手はまくし立てる。
「まっ、それは良いとして、ねっ、久々に行こうよ!」
「うん……」
寂しく、適当な返事を返すしかなかった。
「止めなよ、千剣破忙しいもん、無理に誘ったら悪いよ。ね?」
「ゴメンね……あたし最近付き合い悪いよね。あはは」
力なく笑い、誤魔化して教室を出て行く。
寂しくないと言えば嘘になる。自分だってまだ年齢が年齢だ。色々な事をして遊びたい。勉強だってしたい。
しかし御霊として、自分の領域を護るために最大限の努力をすれば、おのずと切り詰めていくしかなかった。
本当はそれくらいの時間……とは思う。だが、実際には時間が足りない。もしかすれば、甘く見ていたのかもしれない。
近い友人を守りたい一心から、領域一体を護り始め、そうして何時しか戦乱に足を踏み入れていた。その時はまだ、学校と御霊の両立は出来ると考えていたのだから。
けど、実際はどうだろう。
成績は急降下爆撃。余暇は荷物を纏めて夜逃げ。世間の流れは容赦なく駆け抜けて行く。
それでもせめて、御霊同士の争いに沈静化の目処さえ立っていれば、我慢も出来る。しかし、争いは沈静化どころか、増加傾向に有ると言う。
(ならあたしは何処まで続ければ良い……?)
もう止めてしまおうか、とも思う。
全て投げ出して、他人に任せるままにして、以前の生活を取り戻す。
そうできれば……
『けど、キミの伊吹山は非常に重要な位置に有る。それを利用できれば……』
駄目だ。投げ出すわけには行かない。
味方でさえも、その力を好き勝手に利用しようとしている。例え信用ならないと言えど、仮にも味方なのに、だ。
彼らがこの領域を安全に保護してくれる保障は何処にも無い。
そして……それ以上に、力を持ちつつある自分を、放っておいてはくれない。
校門の外で、背丈の高い男に声を掛けられた。
昨日の件で確かに話を付けたい為、お待ちしておられます……使者からそう言われては、無下には断れない。しかし、どうしても先ほどの言葉が再び脳裏をよぎる。
近江の支配者として振舞っている彼は、利用する事しか考えていないのではないのか?
なら、自分が支配権を放棄して、その後はどうなるのか……?
(やっぱり、今更止める訳にはいかないのかな……うぅ、駄目よ駄目!)
心の中で叫ぶと、彼女は自らの頬をぴしゃりとはたいた。
(後ろ向きじゃ駄目。彼の言葉は危険なんだから)
そうだ。意志を強くもたなくては、つい言葉に頷いてしまう。そういった怖さを持つ言葉と、語り方だ。気を強く持つ事は、今の自分にとって必要な事だ。
自分自身の事は、まだ考えてはいけない。
不安も、後悔も、嘆きも、何もかも、今はまだ、押し殺すしかないのだ。
彼女は眼を伏せたまま足を進めた。
迷いは、未だに断ち切れない。
― 終 ―
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