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昼下がりのビター・テイスト・コーヒー
はじめて飲んだコーヒーの味は良く覚えている。
何歳の時だっけかな? とにかく、まだやんちゃ坊主とか言われてもおかしくないようなガキの頃。
好奇心と、背伸びしたい気持ちとで挑戦してみて、なんだこれ苦いじゃないか、大人は良くこんなモン飲んでるな、なんて顔をしかめたものだ。
無理してブラックで飲むこともなかったのだが、意地で最後まで飲み切って、うん、それだけで満足してた。俺も大人に近づいたんだなーなんつって。
それが守崎北斗の、コーヒーに纏わる思い出。
で、双子の兄、守崎啓斗はと言うと。
「…………」
秋も終わりに近づく昼下がり。
黙っているだけで朴念仁とか言われてしまう(むしろ黙っているせいで、か)顔をさらに難しくして、守崎啓斗は、卓袱台の上に置かれたインスタントコーヒーを睨んでいるのであった。
(兄貴って……コーヒー飲んだっけ?)
北斗は首を捻る。
――純和風家屋の守崎家、その居間。
お煎餅と茶器がデフォルトで置かれている卓袱台に、インスタントコーヒーが加わっていることに気づいたのは、ちょうど小腹も空いてきた午後二時過ぎのこと。
さて、お茶でも淹れて間食するか、と居間へやって来たら、啓斗が何やら腕組みをして、コーヒーの瓶を睨みつけていたのであった。
「……兄貴、緑茶淹れるけど、飲む?」
背後から訊ねると、いや、と短く啓斗は答えた。「俺はコーヒーを飲むから」
兄貴、今までコーヒー飲んだことあったっけか?
――と訊ねようにも、あまりにも真剣な顔つきをしているので……、おっかなくて、訊けない。
啓斗がコーヒーを飲んでいるところなぞ、北斗は今まで一度も見たことがなかった。苦くて飲めないというよりは、単にお茶のほうが好きらしい。一方は茶葉、一方は豆なんだから、お茶が好きでコーヒーが嫌いでも別におかしくはないと思う。
おかしいのは、と愛用の湯飲みに緑茶を注ぎつつ考える北斗。……飲みもしないコーヒーを、わざわざ買ってくることだよな。しかもお徳用。誰がそんなに飲むんだよ。
熱い緑茶をずずっと一口。美味い。
啓斗はおもむろに立ち上がると、コーヒーの瓶を片手に台所へ向かった。
北斗はその様子を目で追う。
戸棚からマグカップを取り出し、ポットからお湯を注ぎ、生真面目な表情で粉末の分量を量る。で、がばがば熱湯にぶち込む。兄貴、それ、入れすぎ。
濃くて飲めたもんじゃなさそうなコーヒーを片手に戻ってくると、啓斗は定位置に正座した。真っ黒な液体に口をつけてみて、思いっきり不味そうに顔をしかめる。北斗がはじめてコーヒーを飲んだときのように。
「……いまいちだな」
いまいちっていうか。なんだこの泥水は、って顔しなかったか?
北斗は苦笑を浮かべ、
「インスタントってそもそも美味いもんじゃないし……飲むなら自分でドリップすれば? そしたら多少はマシな味になると思うけど」
「勿体無いじゃないか」
「確かに、兄貴に飲まれるんじゃ勿体無いかも――」
「作り直す」
啓斗は不機嫌そうに立ち上がった。
再び、北斗は兄貴の動向を観察する。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋で温め……、なるほど、カフェオレにしようという魂胆か? でもあれじゃコーヒーの味がしないんじゃあ?
啓斗は、カフェオレ、もとい、牛乳コーヒーに再挑戦。再挑戦――、したは良いのだが、どうも飲み切るのは無理がある様子だ。ちびちび飲みはするのが、マグカップの底は一向に見えてこない。やっぱり飲めないんじゃないか。
「……不味い」
挙句、そんなことをつぶやく始末。
「……生クリームでも入れてみたら?」
無駄だと思いつつも提案してみた。啓斗は、とんでもない、という表情になり、
「そんな吐き気がしそうなもの、飲めるわけないだろう」
とかなんとか答える。
四センチほど残ったカフェオレはまだ温かく、やんわりと湯気が立ち昇っていた。美味そうな香りが立ち昇る。
「……これ、貰っていい?」
「好きにしろ」
啓斗は、ふん、と顔を背けた。
飲みかけのカフェオレを啜りつつ、北斗は横目で兄の仏頂面を伺った。再々度挑戦する気にはなれないのか、面白くなさそうな顔で緑茶を淹れ直している。
恐る恐る、北斗は訊いてみた。
「そのコーヒー、兄貴が買ってきたんだよ、な……?」
「そうだが」
「……なんで、飲めないのに買うわけ?」
ぎっ、と睨まれてしまった。……しまった。
「人の勝手だろう!」
きーん。
啓斗の怒鳴り声が響き渡り、湯飲みが卓袱台の上でぽんと跳ねた。
訊くんじゃなかった。北斗は肩を竦める。
啓斗はすっかり不機嫌になって、黙り込んでしまった。
(ったく、どういう心境の変化だよ……)
なんとも居心地の悪い気分でカフェオレ(というより、牛乳コーヒー)を飲みながら、北斗は、啓斗が敢えて嫌いなコーヒーに挑もうとした理由を考えてみることにする。
一、何かの罰ゲーム
二、ふと冒険心が湧いた
三、誰かの影響
一は……ないよな。一人で罰ゲームをやったって、意味ないし。だいたい負けるとわかっている勝負事に兄貴が臨むとも思えない。
二は……二もなんだかなぁ。俺じゃあるまいし? 堅実な兄貴が好奇心でコーヒーなんか試すか?
三……やっぱり三が妥当?
むむむ、と北斗は眉間に皺を寄せる。基本の容姿が同じため、啓斗とまったく同じ顔つきになってしまった。
(兄貴にコーヒーを勧めそうな奴って、誰だろ?)
んー、と思案する。
コーヒー中毒の奴。啓斗が嫌がるのをわかっていて(かつ、啓斗が嫌がるのを面白がって)、コーヒーを勧めそうな人物。
脳裏に浮かぶのは、啓斗がライバル心を燃やしているある男だ。
北斗からすれば、何を考えているかわかんない奴。むしろろくなことは考えていなさそうな。黒髪メガネ、筋金入りの性悪。――思いつくだけの特徴を挙げてみれば、見事なくらいに悪口ばかりという、あの……、
「まさか……なぁ」
北斗は苦笑いを浮かべる。なんだ、と啓斗がこちらを向いた。
「さっきから難しい顔をしているな」
「それは兄貴だろ? 飲みもしねーコーヒーなんか淹れちゃってさ、こえー顔してんだもん。どういう風の吹き回し?」
「だからそんなものは人の勝手だと……」
「別に兄貴が何を飲もうが知ったこっちゃないけどさ」
「なら放っておいてくれ」
って、言われてもなぁ? 実際気になるぜ?
思えば、根は頑固な啓斗が、他人に勧められたくらいで嗜好を曲げるってのも妙な話で。誰かの影響を受けて己の行動を決めるなど、啓斗にしては極めて珍しいことだ。
見栄とか意地とか、そういうものなんだろうか。
あるいは背伸び?
幼い頃、北斗が大人のフリをしようとしてブラックコーヒーを飲み切った、みたいな。
一概に、コーヒーが飲めない=味覚が子供、とは言えないだろうけれど、そういう風潮があるのも確かな話だ。
無理して嫌いなものを飲むというのは、言い換えれば、ライバル視している奴と同じ位置に立とうとする行為だ。
傍から見れば微笑ましいの一言に尽きるが、本人はおそらく必死。苦手を一つ克服するというだけの、小さな行為でも、だ。
(なんか、複雑ー……)
自分が誰よりも兄のことを知っているつもりだったのに、兄の人生に影響を与え得るのは自分ではないのか、と、何かもやもやした気持ちになる北斗である。
ふと、なんかそれって、女のつまんねぇヤキモチみたいじゃねぇ? とか考えて、北斗は一人肩を落とした。不本意だ。なんか、色々と。
それならば、いっそのこと。
「……よし!」
北斗はぽんと膝を叩いて立ち上がった。
いっそのこと――とことんからかい倒してやったらいい。
「なんだ?」
啓斗は胡乱げな視線を送ってくる。
「コーヒー飲み比べ大会やろうぜ!」
「……はぁ?」
「兄貴のコーヒー嫌い克服大作戦!」
北斗は満面の笑顔で宣言した。で、お徳用インスタントコーヒーの瓶をつかむと、勇み足で台所へ向かう。
「ちょっ……待てよ!」
啓斗が立ち上がって、追いかけてきた。
「ほら、嫌いなピーマンも百回噛めば食えるようになるって言うだろ?」
「言わない。だいたいなんで百回なんだ!」
「同じ理屈で、コーヒーもお徳用を全部飲み切ればばっちり!」
「それは理屈じゃないだろう。って、全部飲み切るのはいくら何でも無理だ! おまえじゃあるまいし、腹を壊す……!」
「兄貴、十七にもなってコーヒーが飲めないなんてガキみたいだぜー? 誰かさんに、馬鹿にされるんじゃねぇの?」
「なっ……」啓斗は顔を赤くした。「誰かさんって、誰の話だ! そもそも俺はコーヒーが飲めないんじゃなくて、嫌いなだけで――」
「だから、百杯も飲めば好きになるよ。なっ」
北斗は二人分のコーヒーを作り終えると、マグカップの片方をほい、と啓斗に手渡した。啓斗はカップを受け取り、む、と眉根に皺を寄せる。香りからして好きではないらしい。
「苦くて飲めないなら、砂糖でも入れれば?」
北斗はにやにや笑いを浮かべる。
「……飲めばいいんだろうっ、飲めば!」
啓斗はマグカップの液体を口へ運び、次の瞬間、
「熱ッ……!」
普段の彼らしくもなく、慌てふためいたりして。
「ははっ、兄貴マヌケー」
その様子を見て、北斗は笑いこける。
「おまえが飲めと……!」
言ったんだろう、おまえが!
啓斗はマグカップを置くと、物凄い勢いで飛びかかってきた。
コーヒー克服大作戦は一時中止。
後ろから羽交い絞めにされ、ギブ、ギブ! と腕をばたばたさせる北斗。
「わーるかったって、兄貴! 窒息死するから!」
「一度死んでこい!」
コーヒーが冷めて、ちょうどいい温度になるまで、しばらくは、
――こんな風にじゃれあうってのも、悪くないんじゃね?
コーヒーに纏わる思い出エトセトラ。
ビター・テイスト・コーヒーが兄貴の味覚に合うようになるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
fin.
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