コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【アイスは舐める時代です】

------<オープニング>--------------------------------------

「アイスは舐める時代です」

 そう書かれた小さなチラシを大事にテーブルの上に置き、木下春雄は携帯電話のボタンを押した。ぴ、ぽ、ぱ。
 暑い暑い夜である。春雄がこのチラシに気づいたのは一週間ほど前だ。携帯電話のゲームコンテンツを開発するプログラマである春雄は、月末になると自宅へ帰れなくなる。
 仕事が一段落ついたと思って家へ帰ってきたら、部屋の中は油虫さえ熱中症で死にそうな暑さだった。篭もった空気を外へ出し、エアコンを入れても部屋は一向涼しくならない。外気自体が三十度近くある。超熱帯夜だった。
 すっかりやる気を失った春雄は、生ぬるい床に転がった。そして。
 テーブルの下に落ちていたこのチラシを見つけたのだ。
 ピンクとブルーの可愛らしいデザインである。画像の質を高める為、つるつるの薄い光沢紙が使われている。描かれているのはいわゆる「萌えキャラ」−−春雄の大好物である。愛くるしさの塊のような存在だ。そしてその後ろに、萌えキャラと並んでもそれなりに見れる女性の写真が写りこんでいる。衣装はピンク色のメイド服。
 色々なサービスをしてくれる女の子をデリバリーしてくれるサービスのチラシだった。
【暑い夜、可愛い女の子を舐めて、涼しくて素敵な時間に変えましょう】
 丸ゴシックでそう書いてある。時間もあるしとにかく暑い。春雄は少しばかり照れながら、ご厄介になることに決めた。
 電話が繋がる。春雄は意気揚揚と女性の派遣をお願いする。
 
 一時間ほどで、一人の少女がやってきた。
 ぱっちりと開いた目は奥二重ですっきりとしている。ぽってりとした下唇が可愛い少女で、どう見積もっても二十歳そこそこに見える。
 真っ黒な髪を長く伸ばし、どこで着替えたのかピンク色のメイド服を着ている。頭にはレースのヘッドドレス。
 可憐だった。
 春雄は喜んで少女を部屋に招きいれる。二の腕に触れると、どういう仕掛けかぞくっとするほど冷たく、滑らかで硬い。
 人形のような、氷のような冷たさだった。
「しっかり涼んで下さいね」
 少女は不思議な響きの声で言う。バカラクリスタルのグラスに氷を落としたときの美しい音色を、春雄は連想する。
 少女が春雄を屈ませる。スカートの中に春雄をいざなう。
 潜り込むと、そこはエアコンの真下のように冷えていた。頬に一気に鳥肌が立つ。
「骨の髄まで、冷やしてあげます」
 少女の太腿が春雄の顔を挟み込んだ。
 
 × × ×
 
 仕事から戻った雪代は、男の部屋から持ってきた財布をポケットから出した。
 ワンルームマンションの一室を借りた事務所には、背の高いラックに収まったパソコンが一台とベッド、そして机があるだけだ。机の上には雪代にはよくわからない紙切れと、四台の携帯電話が置いてある。仕事の電話を受けるものが一台、残りの三台は雪代たちに渡される。
 ベッドの上には、雪代と同じ雪女の少女が二人座っている。あと二人いるのだが、仕事に行っているようだ。
 雪代はパソコンに向かっている男に、小さく「戻りました」と声を掛けた。
「現金、そんなにありませんでした。でもカードが何枚も」
「財布を」
 男が手を出す。真っ白い手袋に包まれた手に、雪代は財布を渡す。男の名はルと言った。雪代は「ルさん」と呼んでいる。
 ルは財布の中身を確かめ、雪代の頭を撫でてくれた。
 雪代は雪女ばかりの郷里を飛び出してきていた。夏は雪女の命を縮める季節だ。北海道の片隅、万年雪の底に埋もれて、雪女は小さな氷の粒として夏をやり過ごす。
 ひっそりとした生活が嫌になって飛び出してきた雪代は、この酷暑ですぐに死にそうになった。その時雪代を拾ってくれたのがルだ。
 一緒にいる二人の雪女の少女も同様の境遇だし、今姿が見えない妖怪の娘二人も同じような状況らしい。
 雪代はルに飼われている。ルは優しいし、雪代たちの欲しがるものを与えてくれる。
 でも、ルに命じられる仕事は時折嫌になった。
 一度、仕事中に余りに気温が上がり、雪代は死にかけた。そして、相手の男の生命エネルギーを奪って凍らせてしまった。雪代たちが夏を過ごすには、他者の生命力が要る。
 ルは雪代が泣いて助けを求めたら、すぐに飛んできてくれた。男の死体をどこかへ持ち去り、男の所持品を全て奪った。
 以降、ルは雪代に殺しを命じるようになった。雪代は生命エネルギーと財布を得て、帰ってくる。
 何かが間違っている気がしたが、ルの手は優しくて、外は暑くて。
 雪代は近頃、余り物を考えられない。
 
 × × ×

 ポストの中に、薄いチラシが入っていた。
 新聞の隙間にはさみこまれていたチラシが、ひらりと事務所の床に落ちる。草間武彦が屈むより先に、床にクイックルワイパーをかけていた零がそれを拾った。
 裏返しのまま、草間に渡してくる。
 よくあるピンクチラシだった。事務所に入れても注文が取れるとは思わないが、最近入るようになった。
 草間はその小さいチラシを摘んで眺める。
【暑い夜、可愛い女の子を舐めて、涼しくて素敵な時間に変えましょう】
 そう、丸っこい字で書いてあった。
 
 
 

 早朝から気温の高い日だった。今年の夏は猛暑を通り越した酷暑で、お盆も間近になると身体のほうが高温に慣れてくる。七月頭から始まった真夏日は、一日も休まず記録を更新中で、夜も「超熱帯夜」ばかりが続いている。
 本来涼しくなる行為ではないが、爽やかな美少女の写真があると爽やかで気持ちのいい時間を過ごせそうな気がしてくるところがマジックか。
 草間はそれをひらひらさせ、捨てようと手を下ろす。
 その腕が、途中で捕まった。
「おはよう、武彦さん」
 背筋が冷やっとするような声が響いた。
 草間興信所の事務員をしてくれている、シュライン・エマだ。長い髪を綺麗にひっつめ、朝からきちんと化粧をしている。
 草間がチラシを眺めている間に事務所に入ってきたようだ。
「お、おう。おはようさん」
 草間はばつの悪い思いでそう言う。シュラインが腕を掴んだまま、にっこり微笑んだ。
 目が笑っていない。
「これ、何かしら。見てもいい?」
 声だけは無邪気にそう言ってくる。しかし、その冷ややかな瞳がチラシの内容などお見通しだと伝えてくる。
「い、いや。ゴミだ、ゴミ」
 草間は慌ててそう言う。尻のポケットにチラシをねじ込んだ。
 中身が割れているとはいえ、見せてしまっては軽蔑して下さいと言っているようなものだ。
「ゴミをそんなにじっくり見る必要ないんじゃない? 面白いなら、私も見たいわ」
 甘ったるく語尾を延ばしてシュラインが言う。しかし、徐々に腕がねじ上げられている。
 零がきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「珍しいじゃない? 武彦さんが私より早く来るなんて。いつもは朝刊なんて無視して上って来ちゃうのに、珍しいことづくしね」
 ふふふ、とシュラインがわざとらしく笑った。
「そんなに見たかったのかしら、チラシ」
「誤解だ! そんなモンのためにわざわざ早くなんて来るかッ! 今日は朝っぱらから来客があるから来たんだよ。仕事もないからたまには優雅に新聞でも、ってな」
「ふうん」
 草間の言葉を聞き流し、シュラインがさっと尻ポケットからチラシを抜き取った。
 小さなチラシを眺め、ぴくりと片方だけ眉を上げる。
「ゴミならすぐに捨てればいいじゃない? いやらしいんだから!」
 ぎりりと草間の頬を抓りあげた。
「あの、それ」
 零が助け船を出そうと口を開く。
−−たった今、新聞から落っこちたんです−−
 という零の助け船をかき消すように、威勢良くドアが開いた。
「おはよう!」
 早朝から元気のいい声が響く。草間の待っていた来客、だ。
 シュラインが草間の頬を抓ったまま、後ろを振り返る。
「徹夜明けはテンション高いね。おはよう草間、シュライン」
 茶色い髪の、美しい白い肌をした青年が入り口に立っていた。ボロボロの草間の徹夜明けとは違い、夜の元気の延長のように健康的だ。
 これが若さというヤツだろうか。
 龍ヶ崎常澄。草間興信所に出入りしているうちの一人だ。
 昨夜遅くに電話を掛けてきて、なんとかという文書の謎解きが進まず、素人目で何かヒントが出ないだろうかと言ってきたのだ。まさにベッドに潜り込んだところだった草間は、すぐ来るという常澄の要求を何とか押し止め、朝一番で草間興信所に来て貰うことにしたのだ。
「あら、おはよう」
 シュラインが草間の頬をつねる手に力を込めたまま微笑みかける。笑うなら手を離してくれてもいいではないか。
「お客さんって龍ヶ崎くんなのね?」
「ほうは」
 頬を思い切り抓られたまま、草間は口を動かす。頷くと爪が食い込む。
「何やってるの?」
 常澄が首を傾げる。小脇に、相棒の妖怪を抱えている。
「なんでもない!」
 草間はようやくシュラインのつねり攻撃から解放され、頬をさすった。
「朝から下らない話題だぜ」
 シュラインの手からピンクチラシを取り上げる。
 それを、横から常澄がかっさらった。
「これが原因? うわ」
 あからさまなピンクチラシを見て、常澄が眉根を寄せる。
「まさに電話しようとしてたとか?」
「未遂なのよ。まだ大丈夫だったの」
 シュラインが軽い調子で言う。
「何のチラシか見てただけだろうが。呼ぶ気なんてさらさらないぞ」
「三十路の男ってこんなのに鼻の下伸ばすわけ? 寂しいなぁ」
 常澄が小脇の妖怪を撫でながら言う。
「こんなに日が高いウチから、エロイったらないよね」
「本当よね。零ちゃんもいるのに、堂々とこんなもの見るなんて」
 シュラインが頬に手を当て、さも大事に遭遇したように溜息を吐く。
 草間は不愉快になって、二人に背を向けた。
 大股で所長のデスクまで歩いていき、乱暴に腰を掛ける。
「仕事しろ! 常澄も用事済ませろよ。オレは多忙な男なんだぜ」
「昼前にならないと出てこない所長がよく言うわ。ね」
 シュラインは常澄と零に微笑みかけ、肩に引っかけた鞄を置きに奥へ入っていった。
「掃除、終わりました。龍ヶ崎さんにお茶をお入れしますね」
「コーヒーがいいな。エスプレッソ飲みたい気分なんだけど、ある?」
「近所にエクセルシオール・カフェがありますから、買ってきます」
「ありがとう。はいこれ、おつりいらないから」
 常澄は零の掌に五百円玉を載せ、とことこと草間のデスクの前にやって来た。
 胸ポケットから、古びた紙を引っ張り出す。隅が変色しており、相当古い物に見えた。
 常澄が説明を始めようとした瞬間、零が「お客様です」と声を上げた。
 入り口のところに、スーツをきちんと着こなした青年が二人、立っていた。
 見覚えのある顔である。草間は腰を上げた。
「朝早くから済まないな。先客があるなら待つ」
 肩のあたりでびしりと髪を切り揃えた青年が言う。草間は常澄を見た。
「あ、いいよ。実はこっちに来る電車の中で、解けちゃったんだ」
「じゃあ連絡しろよ。寝直したのに」
 草間は憮然として言う。奥から、シュラインが顔を覗かせた。
「零、常澄のエスプレッソ買ってきてやれ。シュラインはオレたちの分」
 草間は常澄の横を通り抜け、応接セットに二人を招き入れる。
 警視庁特別編纂室所属、相澤という刑事だ。後ろに控えているのは、同僚の伊出という。草間興信所の得意客の一人だ。
 特別編纂室は警視庁の本部と新宿署の二つに拠点を持つ。草間が扱うような、通常の事件とは一線を画した事件を担当しているらしい。警察が動くまでに発展してしまった魔物の事件などは、この特別編纂室に持ち込まれる。
 そしてその一部が、草間のトコロまで流れてくるというわけだ。
 シュラインがコーヒーを運んでくる。四人の前にカップを置くと、草間の横に座り込んだ。
「この蒸し暑さだが、内容は涼しい」
「報酬が涼しいんじゃなければ、何でも」
 草間はコーヒーを啜ってそう言った。
「本題から入ろう。今月に入ってから都内だけで十五件ばかり、凍死事件が起こっている」
 そりゃ涼しい。草間はそう思った。
「この暑さなのに、凍死事件はどれも個人の部屋で起こっている。何をしたのか判らないが、人間が氷柱になってるんだ。異様に頑固な氷で、常温に置いておいても丸三日は溶けない。
 被害者は全て、アパートもしくはマンションに一人住まい。自宅で亡くなっている。数も多いし、ちょっと人間業とは思えない」
「それって」
 不意に常澄が声を上げる。
 テーブルの上に、先ほどのピンクチラシを置いた。
「ここにも入ってたか」
 相澤が腕組みをする。隣の伊出が、クリアファイルに入った同じチラシをテーブルに置いた。
「何人かの部屋からこれが見つかっている。こっちで何度か掛けてみたが、何故か全部門前払いでな。これの調査を頼みたい。ただの風俗なら、担当部署に回す。そうでなければ」
「ご連絡しますよ。その後に何かすることがあれば、継続料金で」
 草間は相澤と手早く金額交渉をする。とびきりオイシイ仕事というわけではないが、継続的に入ってくる仕事は草間興信所の運営を楽にしてくれる。
 相澤と伊出を送り出し、草間は二人を振り返った。
「チラシ見といて、正解だったろ?」
「どうかしらねぇ」
 シュラインが肩を竦める。零が戻ってきた。
「新しい仕事入ったぞ。誰を選ぶか、だな」
「僕やろうか」
 すいっと常澄が手を挙げた。
「折角ここにいるし。早い方がいいよね」
「そんなに大変そうじゃないから、龍ヶ崎君と私で何とかなるんじゃないかしら」
「そうだな」
 草間はうんうんと頷き、テーブルの上のチラシを取り上げた。
「それじゃ、電話してみるか」
「どこに呼ぶの」
「ここ」
 草間は足下を指差す。
「部屋は、上の階のアパートってことにしよう。絶対この前を通るだろうから、ふん捕まえる」
「ふーん」
 常澄とシュラインが同時に冷ややかな声を出す。
「何だよ」
「ちょっと鼻の下が伸びてるわね」
「嬉しそうな顔してるなあって、思ってさ」
「してない」
 草間は鼻の下を擦り上げ、歯を剥きだして見せる。
「オラウータンみたい」
「うるせえ!」
 常澄の執拗な言葉攻めにうんざりしながら、自分の携帯電話から電話を掛ける。
 数回の呼び出し音の後、甘ったるい少女の声が聞こえてきた。
 チラシに書いてある名前を名乗り、どちらまで行きましょうかと問うてくる。質問の後に「ご主人様」という言葉がついている。
 草間はしどろもどろのフリをしながら、興信所の上階の住所を告げる。丁度真上にある山下さんのお宅には申し訳ないが、捜査協力だと思って貰おう。
「かしこまりました、ご主人様。すぐお伺いしますので、お待ち下さいね」
 
 × × ×
 
「仕事だ」
 揺り起こされ、雪代は目を開いた。
 ゆっくりと起き上がる。部屋には雪代と電話応対の係の雪娘しかおらず、残りは出払っていた。
 まだ朝だというのに。
 雪代は目を擦り、ベッドから降りた。熱帯夜が続き、身体がだるい。ルは皆を気遣って室温をかなり低く保ってくれているが、窓辺や出入り口の側はやはり暑くて辛かった。
「行っておいで。電車に乗るが、大丈夫かな」
 ベッドの脇に立ったルが、雪代の髪を撫でながら言う。雪代は帰りが最も暑い正午あたりになると思って哀しい気持ちになった。
 だが、一晩の仕事に出た少女達が帰ってきていない。行くのは雪代しかいなかった。電話番の少女は、昨日真っ昼間の短時間仕事に出て溶けかけて帰ってきたため、今日は外に出られない。
「大丈夫です。氷、持っていっても?」
「袋に入れてあげよう。顔を洗って支度をするんだ」
 雪代は起きあがり、キャミソールとミニスカートに着替える。衣装は氷の膜で作るため、部屋の前で裸にならなければならない。脱ぎやすい服は肌の露出が多く、炎天下では直接雪女の肌を焼かれてしまう。
 小さなハンドバッグの中にぎっしりと氷を詰め、日傘を持って外へ出た。
 目眩がするほど、東京の夏は暑い。
 生命エネルギーが欲しい。溶けてしまう。
 外に出ると、一瞬だけ故郷の涼しさを思い出した。家族達は氷の粒になって眠っているだろう。退屈な、退屈すぎるぐらい安全なあの場所で。
 戻りたいのか、戻りたくないのか。雪代は迷う。ルの側や東京にはいたいと思った。だが、人を殺すのは辛いのだ。最近、そう思う。
 東京は何故こんなに暑いのだろう。
 
 × × ×
 
 高いヒールの足音が、階段を上ってくる。
 入り口のトコロに屈み込んで足音を伺った常澄は、表を見下ろしていたシュラインに合図を送る。
 シュラインが歩いてきて、多分間違いないと頷いた。
「ちょっと遠いから判りにくいけど、人間じゃないみたい」
「そんな感じはするんだよね。冷たい気配」
 常澄は足音の気配を探りながら言う。人間の匂いが全身を覆っているため、非常に判りにくい。人間を食った魔物は徐々に人に近づいていく。気配が濁り、狩りがしやすくなる場合もあれば内部崩壊を起こす場合もある。
 あまりいい状態では無さそうだった。
 上階の山下さんの部屋の前では、草間武彦が張っている筈だ。「いかにも女に飢えた野獣のような三十路男を演じきってみせる」と意気揚々と上がっていった。その言葉に裏には「オレはそうじゃないぞ」という訴えが見え隠れしていたが、二人は無視した。
「こちら常澄。ターゲットが接近中」
 常澄は草間の携帯電話にかけてそう告げる。「おう。まかせろ」と草間の声が答えた。
「武彦さん、喧嘩とかからきしなのに大丈夫かしら」
「一応三十路の男だし、大丈夫じゃない?」
「でも、三十路って体力落ち始めるじゃない。ちょっと心配だわ、雪女とかだったら」
 シュラインが呟く。足音が更に上の階へと上っていく。
「追いかけようか」
 常澄は提案する。シュラインが首を傾げ、それから頷いた。
「新しい氷柱作るわけにいかないものね」
 ドアを開く。
 すんなりと伸びた真っ白い足が、上階へ上って行くのがちらりと見えた。
 足音を殺して、抜き足差し足二人揃って階段を上る。
 半分まで上った時、少女の悲鳴が聞こえた。
「当たり!」
 常澄が指を鳴らす。階段を駆け上った。
 足下を、いつも連れている饕餮が走っていく。シュラインも階段を駆け上がった。
 廊下の隅で、少女が草間に腕をねじり上げられていた。
「大丈夫、武彦さん!?」
「ああ。凍ってない」
 草間が少女を押さえ込んだまま頷く。飛びついた饕餮が少女の足に食らいつきそうになったのを、常澄が回収した。
「何なの、あなたたちっ。離して!」
 草間に腕をねじり上げられたまま、少女が言う。肌が透けるように白く、華奢だ。愛くるしい顔立ちをしている。
「ちょっとお話を聞きたいの。約束のお金は武彦さんがちゃんと払うから、下の事務所まで来てくれないかしら?」
 シュラインは身を屈め、まだ年若く見える少女に声を掛けた。アクセントを「武彦さんが」に付けることも忘れない。
「話すことなんて、何もないわ」
「あなた、雪女だろう」
 常澄がぴしゃりと言う。少女の顔が強張った。
「下まで来て貰おうか。何、悪いようにはしないよ。雪女じゃ、風俗での検挙はできないからな」
 草間がそう言う。
 少女は観念したように、身体の力を抜いた。
 
 × × ×
 
 少女が草間の腕から逃げ出したのは、階段を下りようとして一瞬気が逸れた時だった。
 三人の注意が階段に向いたその一瞬を見逃さず、少女は草間の腕から逃れる。
 階段を飛び降り、手すりを蹴る。
 踊り場に穿たれた窓から、通りへと飛び降りた。
「めけめけさん!」
 常澄が声を上げる。饕餮が少女の後を追って窓から外へと飛び出した。
「追いましょう」
 シュラインが階段を駆け下りる。草間と常澄も後を追った。
 通りに出ると、少女が人混みを避けながら走っていくのが見えた。すぐに角を曲がって見えなくなる。
 街に人が増え始めていた。気温が上がっている。
 少し走ると、汗が出てきた。
 少女は大通りへ出て、駅へ向かって走っていく。その後を、饕餮が追いすがる。
 駅まであと少しというところになって、突然少女がつんのめった。
 思い切り前へと倒れ込む。饕餮が少女に食らいつく。
「食べちゃダメだ!」
 常澄が叱咤する。饕餮は少女に馬乗りになって、足をじたばたさせる。
 少女の身体から、水のようなものがしみ出していく。
 駆けつけると、少女の身体が溶け始めているのが判った。
「暑い……暑い……」
 少女が倒れ伏したまま呟く。シュラインが少女の身体を抱き上げた。
 このあたりは日当たりが良く、アスファルトが溶けかけるぐらい暑くなっている。横になっているのは危ない。
「お姉さん、私、死ぬの?」
 目を閉じ、息も絶え絶えに少女が言う。その声には全く力がない。
「冷たいところに連れて行かないと」
 常澄が言う。草間が頭を掻いた。
「このあたりにデカイ冷蔵庫なんてないぞ。店だって全部締まってるし、この先は日本最大のオフィス街だ、そんなもんあるはずが」
「あやかし荘はどうかしら」
 閃いて、シュラインが言う。少女を抱え上げたまま、手を挙げてタクシーを止めた。
「あそこなら霊気が集まってるし、消耗しないわ」
 少女を抱えて車に乗り込む。常澄が、少女がぶら下げていたハンドバックを持ってきた。
「中に氷入ってる。直接服に入れると楽かもしれない」
 シュラインは氷を掴みだし、少女の胸元に押し込んでやる。
「急病人でね、飛ばしてもらいたい」
 助手席に乗り込んだ草間が、運転手にあやかし荘の住所を告げる。
 車が発進した衝撃で、少女のミニスカートのポケットから携帯電話が転がり落ちた。
「助けて……ル……さ……」
 少女が譫言のように呟く。そろそろと指を伸ばし、携帯電話を掴もうとする。
 そこで、気を失った。
「当たらずとも遠からず、よね」
 少女の肌に直接触れぬように、シュラインは羽織っていたカーディガンを脱いで少女の肩にかけてやる。人肌の熱も、今の状況では辛かろう。
 足下で、常澄の饕餮が少女の足を舐めている。常澄が慌てて饕餮を膝に抱き上げた。
「雪女が、こんな真夏に出歩くなんて自殺行為だよ」
「しかも熱い思いをする仕事だろ」
 草間がうんうんと頷く。
「下品」
 シュラインがぴしゃりと叱った。
「それじゃ、緊急連絡先を拝見」
 草間が後部座席に手を伸ばしてくる。常澄がそれを広い、渡した。
 アドレス帳を見ている間に、タクシーは都心を抜け、住宅地へと入り込む。鬱蒼と茂った木々の間を貫く道を進むと、あやかし荘が見えてきた。
「ダメだな。全部普通の個人名が入ってる。仕事やそれに関するモノはこれじゃわからん」
 草間が携帯電話をポケットに没収する。
 タクシーが止まった。
 常澄と草間が少女を抱き上げる。シュラインは一足先にあやかし荘へ入り込んだ。
 管理人の因幡恵美に、雪女を上げても大丈夫な部屋を貸して貰い、そのまま駆け込む。
 貸して貰った部屋は、一歩入るだけで真冬の気分が味わえる部屋だった。
 廊下と部屋を区切る障子の向こうに、雪が散っている。小さな火鉢が細々と燃えているが、寒々しさを強めるぐらいの効果しかなさそうだ。
 少女を畳の上に寝かしてやると、恵実が綿入り半纏を三枚持って来てくれた。
「本当に、冷えますから。ここ」
 渡された半纏を着込んでいると、ようやく少女が目を覚ました。
 飛び起き、当たりを見回す。
「雪が……」
 呟いた。
「大丈夫?」
 シュラインが半纏の前を掻き合わせて問う。少女はおどおどと頷き、それからきちんと正座をして頭を下げた。
「逃げ出したのに、こんな涼しいところに連れてきて頂いて。ありがとうございます」
「いいんだ。目的は話を聞くことだからな」
 草間が手を振る。常澄が懐に饕餮を抱き込んだ。
「私に聞きたいことというのは、やはり……殺しのこと、ですよね」
 少女は正座したまま小声で呟く。草間は内心で、拍手した。こんなにトントン拍子に話が進むとは。
 少女は暫く考えるそぶりを見せた後、ゆっくりと話し出した。雪代という名の年若い雪女であること、上京して死にかけたこと、ルという男性のこと、仕事のこと。
「それさ」
 辛抱しきれなくなったのか、途中で常澄が口を挟んだ。
「いいように使われてるんじゃないかな、そのルってヤツにさ」
「そうよ。助けて貰った恩は判るけど、強要するのは」
 シュラインもそう言う。雪代は困ったように表情を曇らせた。
「でも、ルさんの側を離れたら、私に何が残るのでしょう。氷の粒のような、私に」
「あなたはあなたじゃないかしら。逆に、そのルという男に依存して居るままでは、あなたは彼の道具でしかないわ」
 シュラインはそこまで言ってから、「キツイ言い方になってしまうけれど」と優しく付け加えた。
「違う世界が見たいっていう気持ちは判るし、生きるのに必要なのも判るけど。でも、もっと頭を使えばエネルギーを奪ったりする必要のない選択肢だってあると思う」
 常澄が言う。雪代は申し訳なさそうに俯いた。
「私、バカなので」
「バカじゃないよ。考える面倒を避けてるだけだ」
 常澄がきっぱりと言う。雪代が顔を上げた。
「こっちに来てから、落ち着いて考える余裕なんて無かったんだろう。だから、もう一回考えて欲しいんだ。オレたちは君の敵じゃない。だが、被害者を増やすことは望んでいない。君も人の命を奪うのは嫌だと言った。オレたちはその商売を止めたい。君も止めたい。君に必要なモノがあるなら、それは協力しよう。だから、ルを止める手助けをして欲しい」
 草間が丁寧に言葉を重ね、言い含める。雪代が混乱して困り果てているように見えて、シュラインは助け船を出した。
「あなたは、彼の側にいたいの? それとも、ここにいたいの? 彼の側だと仕事があるわね。でも、彼から離れたら、私たちはあなたに新しい仕事と環境を与えられる」
「私は……ルさんに……」
 雪代は唇を噛んで黙り込んでしまう。
 その時、草間の胸ポケットで携帯電話が鳴った。軽快なJ-popのメロディだ。
 雪代が持っていた携帯電話だった。
 表示には「鈴木」と書いてある。草間が差し出すと、雪代が慌てて電話に出た。
「雪代です」
 雪代は、手振りでルからの電話だと伝えてくる。草間が携帯電話の反対側に耳を付けた。
 若い男性の声が聞こえてくる。雪代が仕事に手間取っているのかどうかを聞いている。雪代はしどろもどろになって説明が出来ずにいた。
「ごめんね」
 シュラインが小声で呟き、携帯電話を取り上げる。
「ごめんなさい、手間取りましたけど、終わりました。今から帰ります」
 雪代そっくりの声でそう答えて電話を切った。
「時間がないみたい。雪代ちゃん、彼のところまで案内してくれるかしら。他にも仕事をしている子がいるなら、今この間も、彼女たちが手を汚している可能性があるわ」
 常澄が、雪代の顔を覗き込んだ。
「そんなの、嫌だろう?」
「はい」
 雪代が静かに頷く。
「考えます、私」

 × × ×
 
 あやかし荘で沢山の氷を貰い、雪代の後に従って一同はアジトへ向かった。
 最寄り駅はあやかし荘と同じ場所だったが、駅の反対側だった。都心に近い住宅街の片隅に、雪女の少女達が捕らわれた部屋がある。
 気持ちが盛り上がらない話だ、と草間は思った。
 道を歩いていると、日陰に一人の少女が座り込んでいた。雪代は少女に気づくと、駆け寄っていく。雪女の少女だろうか。
「大丈夫? どうしたの?」
 数メートル離れている草間たちのところからでは、少女の声は聞こえない。雪代は深刻そうな顔で頷き、ハンドバックの中の氷を半分ほど彼女に与えた。
 少女は氷を服の中に放り込み、幾つかを口に入れてかみ砕く。
「せめて冬に働かせればいいのに」
「冬では商品価値が下がるのでね」
 呟いたシュラインの言葉に、背後から声が掛けられた。
 一番後ろを歩いていたシュラインの頭に、硬い物が触れる。
 草間と常澄が身構える。腕の中の饕餮が吠えた。
 自分の背後に、誰かいる。恐らくは、ルという男が。
 シュラインは迂闊だったと唇を噛んだ。三人いて、男の接近に気づかないとは。
「特別編纂室の奴らが動き出したので、マズイとは思ったのだが。荒稼ぎしすぎたようだ」
 男の声は歌うように滑らかで、女の心をとろけさせるような甘さがある。
「お前がルだな」
 草間が言った。
「ええ」
 ルはあっさりと肯定する。
「お嬢さん、両手を挙げて。掌を開いてだ。特別編纂室が関わっているような人間は、何をするか判らないものでね」
 シュラインはルの言うとおりにする。相手が人間なのかそうでないのか、気配だけでは全く判らない。
「取引をしましょう。編纂室には私のことは言わない。今回の事件は、雪女の娘達しか捕まえられなかった、と」
「オレは口が軽いのが自慢でね」
 草間がうっすらと汗を掻きながら言う。
「そんな約束は、出来ない!」
 常澄の手元から、饕餮が飛び出した。シュラインの肩を蹴り、背後の男に飛びかかる。
 饕餮が飛んだ瞬間に、シュラインはしゃがみ込んでいた。変わった銃声が響く。
 草間がシュラインの元に駆けつける。常澄が銃を構え、男に向けていた。
 跳ね飛ばされた饕餮がシュラインたちの横に転がる。
 シュラインは草間に抱かれたまま、男を見た。
 真っ白い丈の長い服を着ている。長い金髪がうねり、肩にかかる。顔以外に肌は全く出ておらず、潔癖さを感じさせる。
 前髪を長く伸ばし、鼻の当たりまでを隠していた。
 常澄が立て続けに三度、発砲した。男が手を翳す。
 縦断が肉に食い込み、次の瞬間には吐き出された。
「私を殺すことは出来ない」
 ルがそう呟く。
「潮時だな」
 さっと手を振り上げる。
 無数の雹が降り注いだ。
「きゃああっ!」
 シュラインは耳を押さえて悲鳴を上げる。むき出しの手足を雹が襲う。鋭い痛みが走った。
 草間に抱きかかえられるようにして、雹の嵐を耐える。
 雹が止んだ後、ルの姿はどこにもなかった。
 顔を上げると、よろよろと雪代と少女が歩いてくるのが見えた。
 彼女たちが一歩歩くたび、足下につもった雹が吸い込まれるように消えてゆく。
「私たち、捨てられちゃったんですね」
 雪代が静かに呟いた。
 ゆっくりと空を仰ぐ。
 その目に、一瞬涙が光ったように見えた。
 
 × × ×
 
 雪代の新しい就職先は、あやかし荘に決定した。
 酷暑に耐えかねていたあやかし荘の住人達に安眠を届けるのが彼女の新しい仕事だった。昼間は霊気を吸って眠り、夜は寝室を適度に冷やして回る。
 彼女の作った氷で作るかき氷は、絶品だという話だった。
「そう、それは良かったわ」
 シュラインは微笑みながら、報告の電話を受けていた。
 正午。一日のうちで最も熱い時間帯はこれから始まる。
 雪代は丁度眠っている時間で、連絡は面倒を見てくれている嬉璃から入った。他の雪女達は故郷に帰る者が殆どで、東京には雪代ともう一人だけが残った。
 もう一人の雪女は、氷彫刻家の男に気に入られ、身請けされていったのだ。
「かき氷か」
 だらしなくシャツのボタンを外した草間が、デスクの上に足を投げ出したまま呟く。
「食いたいな」
「夕方になったら行きましょうか。様子見に」
 シュラインはそう言ってみる。草間は面倒くさそうに「持ってきてくれたら最高だな」と言った。
 特別編纂室への報告の中には、きちんとルの事が書いてあった。ルという男に騙されていた雪娘達は、全員が故郷へ帰ったことになっている。
 草間が吐いた嘘は一つきりだった。
 口が軽いのが自慢と言っていたが、この嘘だけは守り通すだろう。
 シュラインは手で顔を仰ぎながら、エアコンの温度をもう一度だけ下げた。
 
 
 
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【4017 / 龍ヶ崎・常澄 / 男性 / 21歳 / 悪魔召喚士、悪魔の館館長】
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 草間興信所の事務員】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

ご参加ありがとうございました!
担当ライターの和泉更紗です。

寒さ厳しくなる時期に、真夏のウェブゲームに御参加ありがとうございました。
あやかし荘のプレイングがございましたので、避難所として使ってみました。
お気に召しましたら幸いです。

最後の1セクション、エンディング部分のみ個別バージョンになっております。
ご興味ありましたら、もうお一方の部分も読んでみて下さい。
ご感想・ツッコミなどありましたらお送り下さいませ。
ありがとうございました。