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音の降る夜に
雑居ビルの地下にあるライブハウス。世間から取り残されたようなこの場所には、いつも音楽が流れている。小さな箱の中で行われるスタンディングライブに季節はない。
(何で俺、ここにいるんだっけ――)
愛用のベースを抱えた瞬間、紫弦はふと考えた。
目の前には観客がいる。鞄どころか上着までロッカーに預けてしまって、冬だと言うのに彼らは半袖だった。
先程確認した室温は五度。暖房をつけてあるが、それ以上に自分たちの演奏で彼らは身体を温めるだろう。
紫弦がここにいるのは、バンドのボーカルにサポートを頼まれたからだった。
彼に持ちかけられた助っ人話は三つ。全て同じ日。どれを受けてどれを断るか考えあぐねた彼は、とりあえず内容だけ聞くことにしていた。
『自分らがどんな音楽をやっているのか、どういうライブにしたいのか』
他のバンドが熱く語る中、このバンドのボーカルの女は一言しか説明しなかった。
「一面の雪の上で、オモチャ箱をひっくり返したい」
どんなライブをやりたいかという問いの答えがそれだった。
「ふーん」
奢ってもらったコーヒーに口をつけ、紫弦は相槌を打った。
――雪の上で、オモチャ箱をひっくり返す……なぁ。
(何だ、それ)
「ダメ?」
「うーん、そうだな……」
数秒間、宙を眺める。
意味はわからないが、自分らのバンドのことを熱く語られるよりはマシだった。真正面から「俺らは真剣にやっているから!(だから他のバンドよりもウチに出てくれ)」と言われるのは紫弦の好むところではない。
(それに面白そうだし)
「いいんじゃない。俺も一緒にひっくり返そうかな」
「何を?」
「だから、オモチャ箱――」
「……ありがと」
女は御礼を言ったあと、フッと息を吐いて――笑った。
今なら、ボーカルの言う“雪とオモチャ箱”の意味も何となく理解できる。クリスマスの近い時期、このビル周辺にはすっかり人がいなくなってしまう。なのに、ライブハウスの中だけは別の次元にあるように騒々しい。
(寂しさと騒々しさ、か――)
こういうとき普通は静かな曲をやるものだが、このバンドは違う。
ボーカル曰く「ファンキーなのをやる」。
(そうは言っても)
実際、このボーカルの女の言葉遣いは無茶苦茶で、彼女のお気に入りはみんな“ファンキー”だった。彼女の家の近所に住むブチ猫は“ファンキーな猫”だったし、樹の匂いがする新築の家は“ファンキーな家”だった。
曲はというと、まとまりのないものが多かった。メロディーは盛り上がってくると立ち止まり、消え、爆音となって戻って来、落ちる。小さな少女がはしゃいでいるようなテンポだ。
けれど、何故か哀しげだった。
ベースを弾いて、ボーカルの音程を支える。そんなとき、紫弦は音の流れからひどく抽象的な寂しさを汲み取っていた。それはメロディーよりも深いところから、染み込んで来る。
想像するなら――何もない場所にポツンとある、オモチャ箱。
(案外、当っているのかもな)
サウンドエフェクトが流れ始めて歓声が上がる頃、ボーカルが観客に見えないようにして一人の女を指差した。青い服を着て大人しそうな表情をしている女の首元には、清廉なイメージに似合わず、小さな青色の薔薇のタトゥーが刻まれている。
「ファンキーよね」
それが、客の前に出る合図となった。
ゆっくりと息を吸い込んで――長く吐く。
演奏の始まりだ。
ボーカルが紫弦を見る。彼のベースの腕に頼りきった目だ。
紫弦は淀みのない動作でピックを弦に当てる。客は息を飲んでそれを眺めていた。
静寂に包まれた地下の箱はくるくると無音で回り、やがて大きな音を響かせ始める。
――ライブ前、紫弦はボーカルに訊ねていた。
「俺はどう動けばいい? 何かあればそうするし、なければ自由にやるけど」
「そうね」
ボーカルの女は少し考えて、
「静かに暴れてみて。あとは自由よ」
やはり抽象的なことを返した。
「わかりにくい?」
「そうでもない」
紫弦は微かな笑いをかみ殺した――「慣れたからさ」
――音が、揺れだす。
ベースの音に耳を澄ませ、女は歌いだした。
メロディーが、押し流されて、客の方へ客の方へと崩れていく。
音は捩じれる、空回る、女は構わず歌う、
演奏が糸を千切るように止まる、女は上を向き、声をより張り上げて歌いだす、
空中に上げられた声が、床へと落ちてくる、
声が降る、床に転がっているのは音たち、消える音たちだ。
――紫弦はピックから指を離した。
(ピックはいらないな)
親指と人差し指で弦を弾く。
丁度メロディーが途切れ途切れになるところだった。そこは間奏部分であり、女は水を飲んでいた。その中に混じって、低く弾けるような音が流れ出る。今のベースはまるで打楽器のようだった。
膝がリズムを打ち始め、心の中に音が雪崩れ込んでくる。久々のスラップは心地良かった。
――あれ――
客の中で一人浮いている少女を見つけたのは、このときだった。
視線を飲み込む程に人を惹きつける、白い肌。大きめの白いセーターは、撫で肩をより目立たせていた。
小さな両手を胸のあたりに寄せ、左手の薬指には高価そうだがサイズの合わない指輪をつけている。
そして、何よりもその表情が紫弦の視線を奪った。
――泣いていたのだ。
少女はまっすぐこちらを見ている。つぶらな瞳からは涙が零れていた。
恥ずかしそうではない。だが、寂しそうだった。助けを求めている――紫弦は直感でそう感じた。
――ステージに座り込んだボーカルが、身体を猫のように反らせている。
天井から落ちてきたのは、感情を裂くような歌声だった。
「――やっぱりな」
打ち上げを終えてライブハウスに戻ると、そこに少女はいた。
(まだいるってことは、客じゃないよな)
「お嬢ちゃん、どうしたんだ?」
ステージ上で泣いていた少女は顔を上げた。同じところに立って背の高い紫弦を見上げるのは難しいらしい――少女の足元がグラグラと揺れている。
紫弦は座って話を聞くことにした。
「お母さんがいないの……」
少女は涙声で呟く。
「どこにも……いなくて」
「どの辺ではぐれたか、わかる?」
「ううん……」
「そっか」
(でもこの辺りなのは間違いないよな)
子供の足で移動出来る距離など、たかが知れている。
「ちょっと待ってて。外見てくるから」
そう言って少女の頭を撫でた。
(何だ?)
驚く程冷たい。まるで雪でも触っているような――。
視線を落とすと、少女の足元に爪程の小さな氷が転がっているのが見えた。
「――……とにかく、探してくるから」
ベースは置いたまま、ステージから離れた。
ビルが並んだ通り――あたりは閑散としていた。ここにはコンビニがあるくらいで、他に店もホテルもない。交差点まで歩いたが、通り過ぎていく人びとの中にそれらしい人物は見当たらなかった。
「いないな……」
白い息が零れる。
――と。
歌声が聞こえた。
交差点の向こうにあるオーロラビジョン。そこに映されていたのは、アスファルトに雪が落ちる映像だった。
そして、この声。
歌っているのは正体の明かされていないアーティストだ。透き通る声から女性だということ以外、何もわかっていない。
(新曲か……)
やがて一人の少女が映る。子役のモデルである。
(そうだ)
「あの子の母親を探さないと――」
「あの子ってわたしのこと?」
残してきた筈の少女は、今紫弦の服を掴んで立っていた。
「ついてきたのに、ちっとも気付いてくれないの」
「ごめん」
涙の残る瞳で文句を言う少女を、紫弦は抱き上げた。
「ここにいると風邪引くからさ。お母さんもいないみたいだし、一旦戻ろう」
少女が怖がらないように、ゆっくりと引き返す。
その間も後ろから、静寂を溶かす歌声が聞こえていた。
(どうするかな)
悩んではいるが、顔には出せない。
「今はもう夜遅いから、明日の朝探しに行こうな。そしたらすぐ見つかるさ」
そう言って慰めるが、少女の唇は震え、涙を噛んでいる。
紫弦は少女の涙を指で拭った。
「泣かなくても平気だよ。――その指輪は、お母さんの?」
「うん」
薬指にはめられた大人物の指輪を少女は握り締めた。
「お守りなの」
「じゃあ、すぐ見つかるさ」
明るく言って、少女の頬を軽くつついた。
「朝まで何をしようか。ここにベースがあるけど、弾いてみる?」
「うん」
ピックを握り、少女は強張った表情で弦を弾いた。頼りない音がステージ上に零れる。
「……出来ないの」
不満げに呟く少女。紫弦はフッと笑った。
「最初はみんなそんなもんだよ」
「おにーさんも?」
「そっ。もしかしたらお嬢ちゃんよりひどかったかもな。最初の内は、小指なんてこんなんだったし」
言葉に合わせて小指をわざと硬くする。全然動かなかった、という意味で。
「プロだって、難しい曲になったら山のところでベースライン口ずさんだりするんだ。まー何事も練習って訳」
「へぇー! じゃあおにーさんも、楽譜もらってから一杯練習して……それで弾けるようになるんだ」
「いや、初見でも結構弾けるよ。覚えるの早いし」
「え〜!?」
少しの間、二人は笑った。
「ねー歌おうよ」
「いいよ。何がいい?」
「さっきのがいい。交差点で聞いたの」
「歌えるの?」
少女はコクリと頷いた。
「覚えたの」
数秒の無音。
それから二人は歌いだした。
この新曲は静かな歌で、ピアノが耳に残る。幻想的な曲だった。
(ここにピアノがあったら)
弾いて歌っていただろう。夜から朝まで、それが無理ならこの子が眠るまででも。
紫弦の手の甲に、冷たい感触が走った。
――雪だ。
(一体どこから――)
花びらのような雪が、ステージへと落ちていく。
ひらひらと舞って、薄い雪の層を重ねていく。
――少女は歌っている。
か細い声は、どんどんと大きくしっかりしたものになり、木々のように伸びていく。
宙へ宙へ。声は上がり、メロディーが揺れる。
やがて紫弦の元へ降りてくる。
声と。
――吹雪。
少女を抱きかかえようとした紫弦に、大人の声が被さって来た。
「――見つけたわ」
腰まで垂らした長い髪。銀色に輝くそれは、雪で作られているようにも見えた。
「お母さん!」
少女は母親に抱きついた。小さな足跡が雪に残る。
母親は微笑んで、愛しげに少女を抱きしめた。
「…………バイバイ」
親子が見えなくなってもまだ、紫弦はドアを眺めていた。
「――何やってるの?」
「何って――」
紫弦は言い淀んだ。
目の前には、いつの間にか現れた幼馴染がいる。青を浮かべた銀色の髪を揺らし、彼を覗き込んでいた。
「それはお互い様」
「私は夜食に呼んであげようと思って来たのよ」
「……マジで?」
そういえば、打ち上げでは喋ってばかりで殆ど食べ物を口にしていない。
「食べに来る?」
「勿論。育ち盛りだからさ」
幼馴染は紫弦を見上げて苦笑した。
「これ以上大きくなったら、また身体が痛いって言いそうね」
話しながらステージを降り――紫弦は気付いた。
「あれ?」
ステージのどこにも雪は見られなかった。それどころか、濡れてすらいない。
「どうしたの?」
先を歩いていた幼馴染が振り返る。緑色の瞳が不思議そうにこちらを眺めていた。
「――……。いや、ベースを忘れるところだったから」
紫弦はそう言って、口をつぐんだ。
幼馴染の料理は好物だった。
温かい湯気が頬をくすぐり、紫弦は喜んで料理を口に運んだ。
「ライブはどうだった?」
「そーだな。良かったよ」
食べ終えてから、紫弦は食器を片付けたテーブルに突っ伏した。
「眠いの?」
「それもあるけど」
いつもなら眠くない時間なのに、今日はやけに眠たかった。
耳の奥で、静かなメロディーが流れ始めている。
紫弦は幼馴染の前で、口ずさんでみせた。
「この曲、歌える? 今CM流れてるやつ」
「――……………………」
何となしに訊ねた質問だったが、答えが返ってくるまで間があった。
「――残念だけど最近忙しくて、テレビを観ている余裕がなかったの。テストもあったしね」
「そっか。それならいいや」
耳に残っていた音がどんどんと大きくなる。ピアノのメロディーに、優しい声が重なって――。
紫弦はゆっくりと眼を閉じた。
終。
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