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□ I wish bressing, under the sky □
広がる青空の下、そこに吹く風は祝福に満ちていた。
燦々と草木を照らす光には、力強さを感じる。
教会から中庭へと通じる扉を押し明け、夜木・幸はその姿を太陽の下へとあらわした。
暖かな風が幸の真っ黒で長い髪を撫でる。
少しくすぐったいような様子を浮かべ、髪を押さえながら目の前を覆う目隠しを少しだけ巻くし上げた。
眩しい射光に目を細め、昼下がりの中庭を見つめながら、彼女はひとつため息をつく。
…今日はミサがある。
人の出入りも多く、忙しい。
お世辞にもあまり大きいとはいえないこの教会でも、それなりに多くの人々が典礼の為に訪れる。
その僅かな休憩時間の合間を見つけては、幸はこうして中庭を見つめるためにだけやってきた。
自然を感じる事、そんな些細な事で感じる幸せ。
閉じられた小さな世界で、しかし彼女にとってはそれが世界の全てだった。
この自分が立つ世界の外は一体どんなものなのだろう。
この世界に生きる人々と同じ自然と時間を共有しているという時間に、彼女は憧れを抱いていた。
―――とある日。
いつものように休憩の合間を見ては窓の外の景色を伺っていた。
そんな幸を見て、一人の牧師が声をかけた。
不意に聞こえた人の声に、幸は一瞬固まってしまうが、それはいつも聞きなれている牧師の声だった。
いつも外を眺めていた事を、牧師は知っていたのだろうか。
物憂げに外を見つめる幸に対し、『外へ散歩にでも行って来い』と勧めた。
突然の事に少し戸惑う幸だったが、彼女にとっては願っても無い事であり、大きく首を縦に振る。
真意の程は窺い知れないが、その言葉に彼女の顔はぱっと明るさを取り戻す。
嬉しさのあまり足も軽く拘束具が付いている事も忘れ思い切り駆け出したものの、足を取られ勢いよく転倒してしまう。
顔面から思いっきり突っ込んだのか、鼻の頭を赤く腫らし、
「あぅあ〜…」
などと鼻声で唸りながら、もはや馬の様に前だけをみて鼻の頭を抑え外へと駆け出していった。
頭上に輝く太陽の下、あたりの景色をキョロキョロと伺いながら。伺いながらとは言え、その姿と行動ゆえ、周りの人から注目を集めるのは当然の事。
周りの背景に気をとられ、注意が疎かになり、そこでまたひとつ転倒してしまう。
当然の事ながら受身などとる余裕はなく、また顔面から思い切り突っ込み、更に鼻の頭が真っ赤になってしまった。
歩道の傍らに規則的に並んだ並木…約10メートルほどの間隔で並んでいるその並木を3本横切る間に、既に4回も転倒を繰り返している。
人の目がまったく気になっていないのか、はたまた気づいていないだけか、目隠しの所為なのか…。
コケた痛みも、起き上がったその瞬間には、次のものへと目を奪われ、痛みさえも忘れてすぐに駆け寄っていく。
そうしてまた……先ほどの様に、気がついたら地べたと一体化、というわけだ。
それほどまでに、幸の気持ちは高ぶっていた。
たかが散歩…それだけの事なのに、彼女にとっては全てが新鮮だった。
終始そんな調子で、しばらく並木道を進む。
人々の注目を集めながら、しかし彼女はまったくそんなことは一向にお構いなしといった感じで、いろいろなものに目移りしては転倒して…を繰り返していた。
そろそろ耐え切れなくなったのだろうか。
赤くなった鼻の頭を撫でながら、近くのベンチへと腰を下ろした。
「あぅ……さ、さすがに…い、痛い」
ポツリと呟いた言葉から察するに、先ほどから転倒して撃ち続けた鼻の痛みは相当のものだったらしい。
一つ大きく深呼吸をして、街にあふれる空気を胸いっぱいに吸い込む。
大分落ち着いてきたのか、幸はゆっくりと辺りを見回した。
先ほどとは違い落ち着いた感じで周囲を見渡す。
(か、買出しとかいつも出てるのに…気づかないものなんだぁ…)
改めてあたりを観察してみると、普段は気づかないようなものが目に付いた。
並木の根元からひっそりと生えた草、木々に止まる鳥たち。
見上げた青空を流れる雲一つとっても、流れ流れ形を変え、やがて一つに交わってゆく。
風が草木を撫でる音。喧噪に飲み込まれ、気づかない鳥の声。
どれ一つとっても、この風景は成り立たない。
気づかないからこそ、幸はそれを感じ取っていた。
(こうして、俺の周りの世界があって、こそ…はじめて、俺が俺である証明、なのかな)
流れる雲を追う様に天を仰ぐ。
(違う…お、俺の周りの世界じゃなくて……自分自身が、世界の一部なんだ)
気兼ねなく世界と触れるということは、それはこの世界で生きていくうえで極自然な事。
憧れていた世界は、こんなにも感嘆に触れる事が出来たんだ。そう幸は感じると、もう一度大きく深呼吸をする。
木々の香り、人の香り、日光の暖かな香り…たこ焼きのおいしそうな香り。
(…いい、香りが…)
おいしそうな香り。不意に感じたその香りに、幸ははっと我に返る。
この香り…小麦粉の焼けた香りと、かつお節の柔らかな香り。
どれをとっても、食欲を沸き立たせるには十分な要素。
そういえば朝食べてから何も口にしていない。
嫌でも食欲をそそられるその香りの先に、幸は一つの小さな屋台を見つけた。
小さな店構えに屈強なオヤジ。絵になるとはまさにこういう事なのだろうか。
客足が途切れたその隙に、幸はその屋台の前へと躍り出た。
保温用のガラスケースの脇に、1箱300円と書かれた値札がある。
1箱8玉入り。決して小さくもなく、大きすぎないそのたこ焼きから、1箱300円はとてもお買い得な値段である。
手際よくたこ焼きを作るの店主の手さばきに、幸はしばし見入っていた。
1玉ごとに区切られた鉄板に、すこし少なめに生地を流し込む。鉄板一杯に敷き詰められた生地に、今度は大きめに切り分けたタコを混入してゆく。一通りタコを入れ終わると、今度はまたその上から少量の生地を、決して隣同士まざらぬよう綺麗にを流し込む。
さっと手首を小刻みに動かしながら、狐色に焼けたたこ焼きを千枚通しを使い返してゆく。
コロコロと針の先で転がし、綺麗な色に焼きあがった玉を箱に並べ、たこ焼きの出来上がり。
一通り作り上げたところで、店の前に立つ幸に気づいた店主は顔をあげ、愛想たっぷりの笑顔で呼び込む。
「へい、らっしゃ……」
その幸の異様な風貌に、店主は凍りつく。
当然、目隠しをして両手を錠で縛られた人間が目の前に立っていたら、それは誰でも固まると言うものだ。
しかし、一向にそんなお構い無しに、幸は目の前に広がる美味しそうな香りに魅入られていた。
「お、美味しそうです、ね…」
たどたどしい口調で、しかし声は明るく、店主に語りかけた。
聞かれた店主はピクリと身体を震わせ、果たして見えてるのか見えてないのか判らない彼女に話を合わせた。
「お、お嬢ちゃんはたこ焼き好きかい?」
そう尋ねる店主の声に、小さく二度、こくこくと頷いた。
「お、俺…実際にたこ焼き作ってるの、初めて、見て…ちょ、ちょっと感動、です」
「俺…? あれ、お嬢ちゃん、じゃなかった…かな?」
特徴的な口調と風貌に圧倒されながらも、店主は言葉を交わす。
また小さくこくこくと頷くと、幸はまた手元のたこ焼きをじっと見詰めた。
「じ、自分でつくるのと、は…やっぱり、全然違うから…」
楽しそうに口元を緩め、微笑みかけるが、目隠しの所為でその表情は硬く見える。楽しそうなのは伝わってくるが、風貌ゆえ、どうにもぎこちなさが拭えない。
「ぼ、牧師様に…買っていったら、よ、喜ぶかな…?」
ぽつりと呟いて、再びじっとそれを見つめる。
美味しそうにたこ焼きを食べる牧師様の姿を思い出した。
いつだったか、確か牧師様が食べたいと言っていたのを聞いて、自分なりに作って食べさせた事があった。
自分は人が思うほど器量もない。よく足を取られ転ぶし、ドジだというのは判っている。
それは自分でもよくわかっていた。だからこそ、自分なりにやれる事は精一杯したい。
常日頃心がけていても、やはり失敗してしまう。
それを受け止めて、いつも笑い飛ばしてくれる牧師の存在は、幸にとってかけがえの無いものであり、支えでもあった。
その姿をみてこそ、今の自分がある。人間に憧れ、人として、この世界に生きていたい。
「で、買ってくかい?」
たこ焼きを目の前にして、店主の声で我に返る。
「あ、あ…は、はい。一つ、ください」
買う意思を見せ、店主は頷いて箱を一つ袋に詰める。その姿を見て幸はあわてて財布を捜す、が…右、左と探るが妙に軽い。
少しばかり血の気が引いていくのが判る。右、左、胸元、左脇、足元。どこを探しても財布は見当たらない。
そういえば、今日はただの散歩だ。いつもの買出しとは違い、牧師様から財布など渡されていなかった。
「あうっ、うぅ…」
なんてことだ。浮かれていてまったく気づいていなかったが、こんなところでまたやらかしてしまうとは。
自虐の念に駆られ、口元を歪ませ今にも泣き出しそうな様子で、店主を見つめた。
「い、いやぁそんな顔されても、おじさん困っちゃうよ」
返答に困り、複雑そうな表情を浮かべる店主。これではまるで自分が虐めてるようにしか見えない。
困り果てた店主は不憫に思ったのか、袋詰めされたたこ焼きをそっと幸に差し出した。
「ほら、やるから…あんまり落ち込んだ顔すんなって」
店主の意図するところがわからず、幸は困惑した表情を浮かべる。そして差し出されたそれを、意味も判らず受けとったところで、その意味をようやく理解した。
「え、あれ? で、でも…お、俺お金…もって、ないし…」
「いいっていいって! 牧師様から金なんざ取ったら罰があたっちまう」
「その、牧師様に食わせてやりたいんだろ? 冷めないうちに、早く行ってやんな」
笑顔で答える店主に言いくるめられ、すこし戸惑いながらも、彼女は頷いた。
「あ、ありがとう、ございますっ!」
風を切る音がブンブンと聞こえるほど深々と何度も頭を下げる。
あまり深く頭を下げるものだから、手前のカウンターにがつんと大きな声を立てて額をぶつける始末。
それでも痛む額を押さえながら、また何度も頭を下げ……されている店主の気持ちを考えると、はっきり言ってしまうと少々しつこい感が否めない。
「いいから、早く行きなって。折角の焼き立てが冷めちまうさ」
「は、はい…あ、あの、本当にありがとう、ございましたっ」
と、最後にもう一度深々と一礼すると、幸はその場を立ち去った。
息せき切って走り、大事そうに両手で袋を抱えながら両肩を大きく振るわせ、走る。
ただ牧師様にこれを届けたい、その一心で教会への帰り道を急いだ。
何度も何度も袋の中身を確かめるかのように、両手に伝わってくるたこ焼きの暖かさを確認する。大丈夫、まだ冷めてはいない。
最後の曲がり角を曲がり、教会まで後数メートル…が、安心して気が緩んだのか、足枷の鎖がぐるりと足首を捕まえ開いた足を押さえつけ、それに足元を掬われ転倒してしまった。
勢いが付いていたものだから、彼女の身体が大きく宙を舞う。
ぐちゃ。
「ぐ、ぐちゃ…?」
今確かにそう聞こえた。柔らかいものが潰れるような音。そして何かお腹の辺りに暖かい感触が伝わってくる。
転んだ痛みに気を取られている余裕すらなく、嫌な予感が幸の頭をよぎった。
素早く身体を起こし、自分のお腹からすぅっと目を向けると…妙な形に変形したそれが目に付いた。
柔らかくて暖かいそれ。両手で抱えていたものは、両手にはない。とすると…。
「あ、あぁ…せ、せっかく、もらったのに…」
それはまさしく、綺麗に焼きあがっていたはずのたこ焼き。
牧師様に食べさせたい一心でここまで運んできたのに、あと少しというところで全てを台無しにしてしまった。
急いで中身を確認してみると、半分ほど潰れて中身がはみ出している。元はたこ焼きでしたと言っても、タコが無ければ誰も信じてはくれないような、そんな有様だった。
幸い箱、袋と二重に包装されていたためか、地面にぶちまけて台無しにしてしまうという事は免れたが…。
「うぅ…せっかく、冷めないうちにって、思ったのにぃ…」
その凄惨な状況をみて、熱いものが込み上げてくる。なんでこうなってしまうんだろう、どうして大事なところで、自分は失敗ばかりしてしまうんだろう。
そのとき、教会の扉が開き、そこから一人の牧師姿が現れた。
幸が転倒したときに物凄い音を立てて転んだものだから、大方何事かと思い出てきたのだろう。
幸は顔をあげ牧師を見つめると、また自分の不甲斐なさに泣きそうになる。それは目の前にいる牧師様にこそ、このたこ焼きを届けたかったからだ。
牧師はその状況をみて、全てを悟ったのか。
幸の傍に駆け寄り、彼女の頭を軽く撫でた。
教会内へ戻ると、牧師は幸を座らせた。
彼女のもらってきたたこ焼きを広げると、原型をとどめていないたこ焼きと、そうでないたこ焼きとを綺麗に分ける。
牧師はもったいないという理由で潰れたたこ焼きを綺麗に平らげてしまい、恵みは大切にしろ、という牧師の言葉に、幸は感心したように頷いてた。
残った綺麗なままのたこ焼きを、幸へと差し出す。
その意図が良くわからず牧師の顔を見たまま呆然をしていたが、食べないのかと言われ我に返った。
「こ、これはあの…ぼ、牧師様のためのもの、だから…」
慌てて両手と首を横に振るが、牧師はそれを制止し、半ば強引に幸へと薦める。
彼女はそれが、牧師の優しさなのだと悟ると、少し恥ずかしそうに、たこ焼きへと手をつけた。
綺麗にたこ焼きを平らげたあと、その幸の姿を見守っていた牧師の目をじっと見つめた。
「あ、あの…牧師様…。
お、俺がこうして、世界の一部でいたいと願うのは…わ、わがまま、ですか?」
牧師は微笑むと、彼女を優しく撫でる。
―――世界に生きる全ての人々は、望んで生を受けた。
この世界で生きていくという事は、そういうことだ。
その言葉に幸は笑みを浮かべ、憧れた太陽の下、目を閉じた。
言葉をかみ締め、その様を自分自身と照らし合わせながら。
誰しもが平和でありたいと願うことが我がままなのか。
人らしく、世界と一つでありたいと願う事は我がままなのか。
その我がままで救われる生命があるのならば、誰がそれを責める事が出来ようか。
もし、この世界に神様がいるのならば―――この空の下へ、全ての者たちへ祝福を。
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