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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


思春期の悩み。



<-- prologue -->

 紺色のブレザーに赤いリボンが特徴の制服姿の少女は、ソファに腰掛けるなり、言った。
「髪を切りたいんです」
 草間・武彦は一瞬何のことかと眉を寄せたが、すぐに「ああ」と納得した。こういうパターンは珍しくないからだ。
 要は道に迷って、或いはこの興信所を美容室と勘違いして――と言ってもその確率は極めて低いとは思うが――ここを尋ねてきたというわけだ。この少女は。

 ここは草間興信所という。
 所長を務めるのは『怪奇探偵』という極めて不本意な異名を持つ、ハードボイルド(に憧れている)探偵、草間・武彦。
 その異名だけでも充分過ぎるほどおなかいっぱいだというのに、最近はそれを通り越してただの何でも屋と思われている節があるような気がしてならない。
 ハードボイルドな俺様を貫きたい武彦としては、その事態はきわめて遺憾である。一刻も早くその悪い流れを断ち切らねばならないと日々思っている。
 その対策を考え、実践しているかどうかと問われればぐうの音も出ないが……。
 
 と、その問題はひとまず置いといて。まずはこの依頼の解決が先決だ。
 というわけで武彦は、
「あー、そこの信号を左折して少し行ったところに美容室があるから」
 と、やや投げやりな口調で言いながら窓の外を指差して見せた。少女はきょとんとした顔で武彦が示した方向に目を向けている。
 よし、依頼解決。武彦は既に胸元から煙草を一本取り出していた。
 依頼が解決した後は、何を差し置いてもまず一服。そう決めているからだ。

 煙草を咥えてふと前を見る。
 その少女はまだ窓の外をぽかんと見ていたが、やがて武彦のほうに向き直った。黒く艶やかな長い髪がさらりと翻る。
 彼女は武彦に視線を合わせると、やがてふるふると不満気な顔で首を横に振った。
 武彦は煙草に火を点けようとしていた手を止めて、少し眉根を寄せた。
「あの美容室じゃ不満か?」
「いえ、そうじゃなくて。わたし。髪が切れなくて困っているんです」
 少女の顔が悲しげに歪み、悲痛な色の瞳が武彦のそれを捕らえた。
 ――何か、わけがあるということか。
 武彦は手に持っていた煙草を、そっと胸ポケットに戻した。



<-- scene 1 -->

 所長の草間・武彦が依頼人の少女に話を聞くことに決めたようだったので、シュライン・エマは彼のぶんのコーヒーと、少女のための冷たいお茶を用意して、テーブルに運んだ。
「どうぞ」
 シュラインがお茶を少女の側に置くと、少女は小さく会釈をして、グラスを手に取った。
 武彦はシュラインがテーブルに置いたコーヒーを一口啜ると、カップをソーサーに無造作に戻し、そして胸ポケットに手をやった。そこから取り出されたのは、煙草。
「武彦さん」
 シュラインが咎めるような口調で武彦を見ると、彼は少しバツの悪そうな顔をしながら「考え事だよ」と言って、煙草を軽く咥えた。そして同じく胸ポケットから出した百円ライターを使ってそれに火を点ける。
 シュラインは武彦には気付かれないように、そっとため息をついた。まだ依頼人の少女からは何の情報も聞いていないというのに、何を考えるというのか。もちろん考えるべきことなど何もあるわけがない。
 つまり武彦は、何だかんだと理屈をこねて煙草を吸いたいだけなのだ。彼の理屈は「仕事を終えた後の一服は格別でな」「考え事に集中したいときはこれに限るんだ」「世話になったじいちゃんの命日なんだよ」「雨音が気になってな」「哀愁だろう」「君があまりにも魅力的だからさ」「そういえばまだ飯を食ってなかった」云々と、じつにその大半が屁理屈である。
 シュラインとしては、別に彼が煙草を吸うのは構わないし、ましてや止めさせようなどとは思わない。ただ、いつも苦し紛れに出てくる言い訳のような理屈が少しばかり引っかかるだけだ。

 武彦がソファにもたれ、ゆっくりと息を吐き出した。狭い事務所内に煙が充満する。満足気な武彦を見て、それから依頼人の少女へと目を移すと、彼女は煙に包まれて顔を顰めていた。この調子だとそのうち咳き込んでしまいそうだ。
 ここでシュラインは、彼が煙草を吸うことについて思うことがもう一つあったのを思い出した。状況をわきまえてさえいてくれればそれでいい、ということである。しかし今、この状況で、中学生と思しき少女の前で一切の遠慮もなく煙草を吸うのは、どう考えても無しだろう。
 シュラインは無言で武彦の口から千切るように煙草を奪うと、近くにあったステンレス製の灰皿に押し付けた。煙草の先に点っていた火が消え、煙も止まる。武彦は一瞬何が起こったのかと目を白黒させていたが、やがて灰皿を両手で抱えて「ああ、まだ吸ったばかりなのにぃぃぃ」と、消された煙草の長さを思ったのだろう、悲痛な面持ちでそれを見つめた。その貧乏性を惜しみなく打ち出した言動がまた、シュラインのため息の種になる。
 武彦はあまりの仕打ちに一言物申そうと思ったのか、意を決した表情でシュラインのほうへと向き直ったのだが、シュラインはそんな彼を冷たい視線で一瞥すると、テーブルの上に置かれたコーヒーカップを指差した。
「ソレで我慢してください」
 シュラインの有無を言わせぬ迫力に、武彦は「ハイ」と小さく返事をし、それからしぶしぶといった様子でカップを口元に運び、ずずずと音を立てて啜った。



<-- scene 2 -->

 馬渡・日和はコンビニで買ったお菓子を抱えながら、興信所のドアへと続く階段を昇っていた。
 草間興信所は怪奇事件ばかりが集まってくる場所として一部の人々の間では有名で、調査員もごく普通の青年から謎の生命体まで幅広い。好奇心旺盛な日和にとってはまさに暇つぶしに最適の場所といえる。
 ただ、赤貧事務所ゆえお菓子の在庫があったりなかったりなのが日和的にはかなりいただけない。やっぱりいろんな人とおしゃべりするときには、お菓子が必要なのだ。話題に詰まったなと思ったら、とりあえず何か浮かぶまでお菓子を齧って人の話に頷いていればいいし、大体、甘くて美味しいお菓子を食べている人々はみんな笑顔だ。そういう法則があるように思う。
 だから最近は、予め自分でお菓子を用意して差し入れすることにしている。すると事務員さんや依頼人さん、調査員さんたちがそれを喜んでくれるので、日和の気分も楽しくなる。
 その、筈だったのだが。

(おーいおい、またそんなに買い込みやがってよ。だから太るんだぜオマエ)
 突如として日和の脳内に響いた、少年の声。
 その言葉の、特に最後が激しく引っかかったので、日和の顔がかっと赤みを帯びた。
「もう、うるさいわね! 別にあたし太ってなんてないわよっ」
 日和の視線の焦点はどこともつかない虚空に向けられている。
(太ってないってぇ〜? だってオマエ、この前ハラ肉つまんでため息ついてたじゃん)
 また響いてきた少年のニヤついた声に、日和は図星を突かれたとばかりに「うっ」と腰のあたりを両腕で守るように抱えた。そう、実はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、前より太ったような気はしていたのだ。
 だから今日、学校の友達に「あたし太ったかなぁ」と尋ねてみたのだが、「えー、全然気にならないよぉ」と暢気な返事が返ってきたので、別に気にしないことにしようと思った。
 だがしかし、ずばっと指摘されると――しかもそれを指摘してきた相手が、自分のもうひとつの側面となると――話は変わってくる。やはり、気にせざるを得ない。というか、悔しいが認めざるを得ない。
 日和は敗北感にがっくり項垂れた。

 日和のもうひとつの側面である少年。彼は『日向』と名乗っている。日向は日和の中に住む別人格。というよりも、日向と日和のそれぞれの人格が、ひとつの身体を共有しているというのが正しい。
 普段は神聖都学園の女子生徒として生活しているので、表には日和が出ていることが多いが、たまに日向の意識が日和のそれを凌駕することがある。
 そうなると、今度は日向が表へと出てくる。その場合、意識だけでなく、姿も少年のそれに変化する。しかしながら、元々が愛らしい姿の日和と共有している身体だけあって、少年になったところでどうしても少女らしさは抜けない。よって日向は、よく女の子と間違われては憤慨し、失礼な相手に鉄拳制裁を下しているのであった。鉄拳制裁を食らった相手としてはたまったものではないだろうけれど。

 敗北感に打ちひしがれたまま、階段で立ち止まっていた日和の耳に、興信所のドアが開けられる重々しい音が響いてきた。日和が顔を上げる。ドアからこちらを覗いているのは興信所の事務員シュライン・エマであった。
「誰かと思ったら、日和ちゃんじゃないの。こんにちは」
 シュラインが微笑む。耳の良い彼女のこと。きっと、日和の声を聞いて、様子を見に出てきてくれたのだろう。
「あ、こんにちは、シュラインさん!」
 日和はまだ日向に完敗したショックからこそ抜けきれていなかったが、そこは愛嬌でカバー。シュラインにニコリと笑いかけてぺこっと一礼し、それから軽快な足取りで階段を昇って、持っていたコンビニの袋を彼女に手渡した。
「これ、差し入れでーす!」
「あら、ありがとう」
 シュラインが袋を受け取りながら微笑む。と、その表情がやや曇りを帯びた。
「何ていうか、その、いつもいつもごめんなさいね、本当に。うちの所長がアレなものだから」
 シュラインは大きなため息をついた。おそらく、興信所の財政状況(と所長のアレっぷり)を愁いてと思われる。そのシュラインの言葉に、日和はぶんぶんと首を振って、それから満面の笑みを浮かべた。
「いいんです! だってお菓子ってみんなで食べたほうが楽しいし」
(みんなに食ってもらったほうがこれ以上ブクブク太んねえで済むしな)
「日向っ」
 頭の中で茶々を入れられ、つい日和は相方の名を呼んでいた。しかしその相手は自分の中に居る存在。よって、思い切り罵倒することは難しい。それどころか、事情を知らない人間からすれば一人で何か叫んでいる日和が変人扱いされてしまう。何とやるせないことだろうか。
 シュラインは日和の様子を不思議そうに見ていたが、それには何も触れず、
「まぁ、ずっと外で立ち話というのも何だし、中に入りましょうか」
 と、日和に向かって促した。日和は「はーい!」と元気な返事をしながらシュラインの後をついて、興信所の中に入った。



<-- scene 3 -->

 海原・みなもは家族のことをよく考える。敬愛する姉のことになるとその思考は一層ヒートアップする。みなもは姉をとても尊敬しており、憧れている。それはまるで恋心のよう。
 姉は年齢より性格も身体つきも大人びている。それに加え、見つめられたら目を逸らすことができなくなるような、思わず魅了されてしまいそうな妖艶さをも備えており、さらにその根底には女性特有の、母のような暖かさが漂っている。女性としての魅力を余すことなく備え、年齢など関係なく真の意味で大人の女性と称するに相応しいひと。それがみなもの姉なのだ。
 だからみなもは彼女に憧れる。姉のような素敵な女性に、自分もなりたい。

 ある夜のこと。みなもは姉の深淵を思わせるようなどこまでも黒く、長く、たっぷりとした髪を見て、そっと触れた。そして彼女に言った。いや、言葉が自然と漏れていた。
「お姉様は、なんて美しい髪をしているのでしょう」
「ふふふ。ありがとう、みなも。でもみなもの髪だって、すごく綺麗ですわよ」
 クスリと微笑む姉。しかしその言葉は、みなもの耳には入っていなかった。
「髪だけじゃないわ。お姉様はとても綺麗。姿も、心も」
 みなもはじっと姉を見つめて、言った。
「あたしはお姉様のようになりたいです」
 姉は少し黙ったままみなもを見つめていたが、やがてニコリと微笑んだ。
「わたくしはわたくし、みなもはみなも、ですよ」
 そう言うと、姉はみなもへとそっと腕を伸ばし、その頬を掌で覆った。
「わたくしは、みなもが、今のみなもが、たまらなくいとおしいのです」
 姉の掌が、みなもの頬を包み、優しく撫でる。
「尊敬や憧れというのは素敵な感情ですわ。そのお相手が素敵なかたでしたら、尚更。近づきたい、そうなりたい、という気持ちが膨らむのは当然のことですわね」
 みなもは、姉の手が頬を撫でるその優しさに身を任せながら、姉の話に耳を傾けている。
「でもみなも、憧れだけを追っていてはいけません。そうしてばかりでは、本来のみなもが失われ、みなもがみなもではなくなってしまいます」
 姉の手が止まり、視線が合った。その瞳の色も、髪と同じ深淵。みなもは姉の瞳に吸い込まれるように、ただそれを見つめていた。
「わたくしはみなもが大好き。だからずっとあなたには、みなもであってほしいのです」
 姉が優しく微笑む。その優しさに、みなもの表情にも笑みが浮かんだ。
「わかっていただけましたか、みなも」
「はい、ありがとうございます、お姉様」
 みなもは姉にお辞儀をし、そして顔を上げ、姉に微笑みかけた。
「あたしはみなもですから。いつかもっと素敵なみなもになれるように、がんばります」
 そのみなもの言葉に、姉は限りなく優しい微笑みを返しながら、ゆっくり頷いた。

 それ以来。みなもはずっと髪を伸ばしつづけている。
 もちろん姉の言ったこと、自分は自分だということは忘れていない。
 それでも姉は素敵だから。憧れだけにとらわれることはしたくないけれど、憧れの気持ちを止めることなどできはしないから。彼女を敬愛する気持ちは変わらないから。
 だからみなもは、髪を伸ばしつづけている。

 そんなことを考えながら歩いていると、草間興信所が見えてきた。
 みなもは暇があればよくこの興信所を訪れる。ここには日々、悩みや問題をかかえた人々が尋ねてくる。そんな人々の力に少しでもなれればいいと思うから、ついつい足を運んでしまうのだ。
 今日は何か、あたしにできることはあるかしら。
 みなもは興信所のドアへと続く鉄階段を昇り始めた。
 途端、興信所の中から少年のものとも少女のものともつかぬ大声が聞こえた。みなもは顔を上げた。駆け足で階段を上がる。何か、中で起こっているのかもしれない。
 ようやく踊り場に着いた。みなもは息を整えることもせず、興信所の重い扉のノブを掴み、力任せに開いた。

 みなもの目に飛び込んできた光景は、彼女を激情させるのに充分だった。
 制服姿の少年――どうして彼は女子制服を着ているのだろうか――彼が、ソファに腰掛けている少女の長い髪を掴んでいる。少女は身を竦めている。少年の片手に握られているのは、ハサミ。
 そのハサミが、まさに少女の長く美しい髪にかかろうとしているところだったのだから。

「だめですううううううううううううううう!!!!!」
 
 みなもが絶叫する。
 パシャン、と、水が撥ねた。



<-- scene 4 -->

 依頼人:橘・亜佐美
 年齢:十五歳
 職業:○○区立○○中学三年生
 住所:○○区○○×−××−××

 シュライン・エマは依頼人の情報をデスク上のパソコンに打ち込んでいる。依頼人の少女、亜佐美は相変わらずソファに腰掛けたままで、飲み物や菓子にもあまり手をつけないが、その表情は最初より明るい。自分と同じ年頃の少女がふたりもこの場所を訪れてきたことで、緊張が解れたのかもしれない。
 草間・武彦は亜佐美の向かい側に座り、コーヒーを啜っている。コーヒーは既に二杯目に突入しており、それも間もなく空になりそうだ。シュラインは、三杯目はインスタントでいいかしら、などとぼんやり考えつつパソコンのキーを叩いていた。

「えっと、亜佐美ちゃんはどうして髪を――ひ、ひっ」
 くしゅん。
 質問を言い終えないうちに、馬渡・日和が小さなくしゃみをした。それを見た海原・みなもが申し訳無さそうな顔で頭を下げる。
「ごめんなさい、日和さん」
 すると日和はものすごい勢いで首を横に振った。
「いいのいいの!」
「でも」
「だって、もしあのときみなもちゃんが止めてくれてなかったら、たいへんなことになってたかもしれないんだもの。あたしは全然大丈夫だからねっ」
 日和はそう言いながら、テーブル上に広げられたチョコレート菓子に手を伸ばした。数個まとめて口の中に放り込む。
「みなもちゃんも、亜佐美ちゃんも食べて! コレ、季節限定なんだからねっ」
「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
 にっこり微笑む日和にぺこりと頭を下げてから、みなもはチョコレート菓子をひとつ手にとり、口に運んだ。亜佐美もそれにつられてテーブルに手を伸ばす。
(っておい、ダイジョウブダカラネッ、じゃねえよ! 水ぶっかけられたの俺なんだからな!)
 にこにこ顔でお菓子を頬張る日和に、日向が不平たらたらといった感じで文句を垂れた。日和は完全シカトを決め込んでいる。大体、元はといえば全て日向が悪いのだ。

 あのとき。
 シュラインの後について興信所に足を踏み入れると、所長の武彦のほかにもう一人、見知らぬ少女がいた。真っ直ぐな黒い髪と清楚な雰囲気の顔立ちが印象的なその少女は、どうにも浮かない顔をしてソファに座っていた。
 日和は挨拶をしてから少女の隣に腰掛けて、何かあったの、と尋ねてみた。すると「髪を切りたいのに切れないんです」という答えが返ってきたのだ。
「わかるわかる! わかるわその気持ち!」
 大きく頷きながら日和は少女の手を両手で握りしめた。
「だって髪は乙女の命だもんね! 悩んで当たり前よね!」
 日和はひとり納得したかのように満足気に目を閉じて、うんうん頷いた。少女はその妙な迫力に気圧されたのか、こくりと小さく頷いた。
 その途端、日向の声が響いてきた。
(おい日和、オマエのソレ、脅迫じゃねーの脅迫。なんか、むりやり頷かせてんじゃん)
 その言葉に日和がむっとする。そんなことないわ、と心の中で呟く。
 しかしその後少女が発した台詞は、日向の発言を後押しするような内容であった。
「でもわたし、切れるものなら切りたいんです。本当に」
 切実な表情で少女が言った。それにプチショックを受ける日和。そして拍手喝采の日向。
(ほらみろ! 髪なんて邪魔くせえんだっつーの。だいたい俺だって切りてえっていつも思ってんだからな。コレのせいですぐ女扱いされるし……よっしゃ、ここは俺様が一肌脱いでやるかぁ!)
 日向の意識がぐんと大きくなるのがわかった。

 しまった、と思ったときにはもう遅い。
 日和の姿は日向へと変貌を遂げていた。といっても、ぱっと見はその違いはあまりわからないのだが。
「よっしゃ、あんたのその望み、俺が叶えてやるぜ!」
 日向は、そう高らかに宣言すると、きょろきょろと辺りを見回し、そして目的のものを見つけた。すぐさまそれを取りに行く。日和の言動がそれまでとあまりに違うからか、少女は驚いて呆気にとられているようだ。シュラインは日和のぶんの飲み物を用意しにキッチンに出ていてここには居ない。武彦はぽかんと口を開け、間抜けな顔をして日向に変化した日和を見ている。
 日向はあっという間に少女のもとへと戻ってきた。そしてその後ろに立つと、無造作に彼女の髪を束にして掴んだ。彼の手に握られているのは、ハサミ。
(あーっ、日向だめーっ!!)
 日向の頭の中で日和が絶叫する。
「うるせえな日和! だめじゃねーの! オマエは暫く黙ってろっての!」
 日和の抗議など気にも止めない様子の日向。少女は突然のことに身を竦めている。
 日向は上機嫌で、ハサミを持つ手に力を込めた。

 その結果、ちょうど興信所を訪れたみなもの能力によって、日向は顔面に冷たいお茶を浴びる羽目になったというわけだ。間一髪、といったところか。日向が呆気に取られている隙に日和が身体を取り戻したため、その後は平穏な状態が続いている。
(だいたいな、そいつ、髪切りてえって言ってんじゃん!)
 日向の抗議は続いている。たしかに、そのあたりはもっと確認してみる必要があるだろう。だから日和はそれを尋ねようと思ったのだ。突然のくしゃみに邪魔されてしまったけれど。
「そうそう。亜佐美ちゃんは、どうして髪を切りたくなったの?」
 今度はちゃんと聞くことができた。
「えっと、特に深い意味はないんですけど……気分転換、ですね」
「じゃあ、たとえば失恋だとか、そういう深い事情があるわけではないんですね」
 みなもが尋ねると、亜佐美はこくんと頷いた。
「ほんと、ただの気分転換のつもりで。だから、今は別に切らなくてもいいといえば、いいんです。でも……いずれ切りたくなったとき、またあんなふうに切れなかったらと思うと、怖くて」
「あんなふうにって?」
「この前わたし、髪を切ろうって決意して、美容室に行ったんです。それで、美容師さんとどんな髪型にするかお話して、シャンプーしてもらって、席について……そこまでは、覚えているんです」
「ということは、その後のことを覚えていない、ということですか」
「そうなんです。美容師さんがわたしの髪を持って、ハサミを持って……で、気がついたら、美容室の外にいました。髪の長さはそのままで」
「んっと、髪を切る直前と、美容室から出たあと……その間の記憶が抜けちゃったってことなのよね?」
「そうなんです」
「他の美容室には、行ってみたんですか?」
「はい。でもやっぱり同じで……自分で切ろうとしたこともあるんです。でも、やっぱり同じようなタイミングで記憶が飛んで……気付いたときには、持っていたはずのハサミも元の場所にしまってあって……どうしても、切れないんです」
「それで、この興信所を尋ねてきた、というわけですね」
「はい。お友達に相談したら、もしかして何か霊とかのしわざなんじゃないの? って言われて。それで、この興信所のことを教えてもらったんです」
 亜佐美の発言の「霊とかの仕業」のくだりで、渋い表情で話を聞いていた武彦の眉間の皺が深さを増した。また怪奇事件か、とでも思ったのだろう。

「髪を触らせてもらっても良いかしら?」
 それまで黙っていたシュラインが、ふいに亜佐美に尋ねた。先程の武彦の態度に突っ込みたい気持ちもあるが、まずは依頼人の問題のほうが先だ。
「あ、はい」
 亜佐美が頷く。シュラインは立ち上がると、亜佐美の背後に向かい、その髪を手に取った。艶やかでこしのある健康な髪をしている。長さは背中の真ん中くらい。ぱさつきもなく綺麗にまとまった髪は、洗髪用品のコマーシャルに出てくる女性たちを思わせた。
 そして、少なくとも触っただけでは特に異常は感じられない。
 シュラインは髪を束にして分けてそっと持ち上げ、今度は頭部を確認してみた。霊障が現れている可能性もあると思ったからだ。しかし、そこにも特に心配したようなものは見当たらなかった。内心ほっとする。
「特におかしい点はないわね……うーん。亜佐美ちゃん、髪を一本だけ、抜いてもらっても良いかしら?」
 亜佐美の髪をそっと下ろしてから、シュラインが言うと、亜佐美は「はい」と頷いて、髪を一本だけ手に取り、力を込めて引き抜――こうとした。

 その、瞬間。
 何の異常も感じられなかった筈の亜佐美の髪が、ざわり、と動いた。

「えっ」
 シュラインの身体が強張る。亜佐美の髪は意思を持ったかのようにうねり、数本の束を形成する。
 危険。
 シュラインは咄嗟にその場に伏せた。

「ちょっ、何――」
(下がってろ!)
 突然の出来事に目を丸くしている日和の意識を押しやって、日向が表へと出てきた。護身用に持ち歩いている鉄扇を懐から出し、さっと顔の前に翳す。

 みなもは亜佐美に何か異変が起こったことに気付き、咄嗟に手近にあった水の入ったコップに手を突っ込んだ。コップがカタンと音を立てて倒れ、転がり、床に落ちる。一緒に零れ落ちる筈の水が、みなもの手を伝い宙に浮き、彼女の前に防護壁を形成する。

 その瞬間、亜佐美の瞳が灰色の光を発した。

 その鈍い色をした光は、日向の鉄扇とみなもの水によるバリアによって反射し、方向を変えた。
 そして、たまたまそこに居た人物――大口を開けて欠伸をしていた武彦にヒットした。
「ふわ〜……あ?」
 武彦の身体が灰色の鈍い光に包まれる。

「武彦さん!」
 シュラインが目を見開く。
 そこには、欠伸をした武彦の石像があった。武彦が、石化したのだ。
 亜佐美の――いや、彼女に憑いている何かの、力によって。



<-- scene 5 -->

 非常事態だと思った。たしかに非常事態なのだ。
 しかし何か暢気というか、間抜けな感じがする。
 シュライン・エマは身体を伏せたまま、その緊迫感を薄れさせた原因である、草間・武彦をまじまじと見つめた。
 武彦が石化している。それは言うまでもなく忌々しき事態だ。しかし、その問題を解決する前に、まず自分はしなければならないことがある。
 シュラインは、一部始終から判断し、この事態を引き起こした元凶である橘・亜佐美の姿を視界に入れないように細心の注意を払いながら辺りを見回した。そして手近に脱ぎ捨ててあった武彦のジャケットを手に取り、石化した彼に投げかけてやる。パサリと乾いた音がして、武彦の顔がジャケットで覆われた。
 いくらなんでも、あの顔はいたたまれない。そう思ったからだ。
 武彦は運悪く欠伸の途中で石化してしまったらしく――いや、調査員たちに亜佐美のことを任せて所長のくせにぼけっとしていたのが悪い。今回の石化は自業自得である――とにかく彼は、百年の恋も冷めるかといった風情の絶妙な表情で固まっていた。
 残念ながら、シュラインの彼への想いはそのあたりで障害が起きるであろう段階は既に通り越していたので、今更彼の珍奇な顔を見てもどうということはない。
 かといってそんな顔の武彦を野ざらしにして日和やみなもに微妙な気分をさせてしまうのも気が引けたので、とりあえず何かで隠しておくことにしてみた。武彦だってそんなアホ面の自分を若い少女たちに見られたいとは思うまい。

 シュラインが暗躍している間に、亜佐美に憑いていた何かは完全に表に出てきていた。先程までのおどおどした彼女とは雰囲気がまるで違う。何より、その長く真っ直ぐだった筈の髪が、束をいくつも形成して、躍るようにうねっている。
 あれではまるで。
「メデューサ……」
 みなもが、水のバリアは維持したままに、呟いた。
「メデュ? なんだよソレ」
 同じく、鉄扇で顔を覆ったまま警戒は解いていない様子の日向がみなもに尋ねる。
「メデューサです。頭部から無数の蛇が生えている姿をした女性で、その顔を見たものは石になってしまうという伝説のある、モンスターです」
「え、じゃああの子、見たらヤバイ?」
「そうですね。伝承ではそう言われていますけど……ただ、今回の場合、瞳から発せられた光線が石化の原因のようですから、伝承とはまた違うものかもしれません。いずれにせよ、安全かどうかがはっきりするまでは見ないほうがいいと思いますけど」
「了解」
 ふたりが『メデューサ』についての情報確認をしていたところ、ふいに亜佐美が――いや、亜佐美に憑いたままのメデューサが大声をあげた。
「ちょっちょっちょっ! ちょっと何なのよあんた達! このアタクシの石化ビームを跳ね返すだなんてナマイキじゃない!? ちょっちょっちょっ! ちょっと! ねぇ、もっかいやってみてもイイ?」
 亜佐美とは明らかに違う口調。それだけではなく、メデューサという伝承上のモンスターから発せられたとは到底思えない妙なノリ。その何とも言えない微妙な迫力に気圧され、みなもはふるふると首を振るのが精一杯だった。

 そんなみなもの代わりに日向が声を荒げる。
「アホかあんた! 好き好んで石化させられてえ奴なんざどっかのアホかそこの所長くらいだぜ! 俺は絶対イヤだからな。あとこの子も」
 と、隣に立っていたみなもを示し、それから今度は視線を遠くにやった。
「それから、あっちのオネーサンもダメだ、ダメ」
 日向の視線の向こうにはシュラインが屈んでいる。みなもがこっそりとシュラインに、自分たちのほうへと来るように促した。シュラインが頷き、屈んだまま移動を開始する。
 日向の話というか一方的なダメ出しを黙って聞いていたメデューサであったが、暫くするとまたもや声を荒げた。
「ちょっちょっちょっ! そんなこと言ったら誰にもできないじゃないのよ! なかなかこういうコトする機会なくって、すっかり鬱憤たまってんのよね。もう、誰のせい!? わかんないけど、自分のせいじゃないのだけは確かだけど。とにかく誰か責任取ってよ! てゆーかさっきからアタクシに文句ばっかり言ってるお嬢ちゃんでもイイのよ別に!」
 メデューサはそう言うと、日向を人差し指でビシっと示した。
 というか。責任もないのにどうやって責任を取ればいいのか。できることならご教授願いたいと思うくらいである。いや、それより『お嬢ちゃん』とはどういうことか。日向は完全に憤慨していた。いつもなら即鉄拳制裁といくところだが、もう彼女の相手をするのも億劫になってきた。
「だーかーら。そこのおっちゃんだったらいいっつってんだろーが。つーかもう見事に石化してるし」
 日向は、未だ石化が解けない武彦を指さしてやり、それからソファに大きく寝転んだ。
「日和、交代」
 日向はすっかり飽きたのであろう、投げやりな声で自分の中の日和を呼んだ。日和の呆れた声の返事が返ってくる。
(もう、ほんと気分屋なんだから)
「気分屋でも何でもいい。疲れた。交代」
 日和は、しょうがないわねっ、と意識を集中させて、日和としての身体を取り戻した。
 
 メデューサは日向に既に石化に引っかかった人物が居ることを聞かされ、意気揚揚と辺りを見回した。調査員たちは目を合わせないように、合わせないようにと即座に彼女から視線を外す。
「あら」
 メデューサの声のトーンが上がった。目的の石像『ハードボイルド』が見つかったのだろう。
「なぁんだがっちり固まってるやつもいたじゃなーい? イザベル満足」
「イザベル?」
 みなもがきょとんとした顔で呟く。
「アタクシの名前よ、イザベル。二度とは言わないわ。ちゃんと覚えておくのよアナタタチ!」
 メデューサ――もとい、イザベルは、三人を指差し、そして高らかに笑い声を上げた。
 それを見ていた三人は微妙な気分になり、何となく彼女から目を逸らした。紺色のブレザーに赤いリボンという地味な制服を纏った少女の姿と、この本人曰くイザベルという名前のメデューサの言動とのギャップが大きすぎて戸惑ってしまうからだ。

 このイザベルとやらから話を聞き出し、そして最良の結果を引き出すということ。それはかなり骨の折れる作業になるのではなかろうか。
 シュラインはこれからのことを思い、この日何度目かわからないため息をついた。



<-- scene 6 -->

「彼女の美しい髪に、アタクシは恋に落ちたの。それで彼女に憑くことに決めたのよ」
 メデューサ・イザベルはそう言うと、無数の蛇を思わせるような彼女の髪に――正確に言えば橘・亜佐美の髪に――愛おしさを滲ませる表情でもってそっと触れた。
 その彼女の表情に、海原・みなもにはどこか見覚えがあった。もちろんイザベルと出会うのは初めてだから、彼女のものではない。誰だったろうと考える。
 ふと、浮かんできたのは、微笑む姉の顔だった。
 みなもは思い出した。あの夜、姉が自分の頬を優しく包んで、その指を頬に滑らせ、優しく撫でてくれたこと。その行為から、彼女から自分への限りないいとおしさが溢れているのを感じたことを。
 イザベルのさっきの表情は、不思議と姉のことを思わせた。顔は全然似ていないのに。
 きっと彼女は、亜佐美が、そしてその髪が本当にいとおしくていとおしくてたまらないのだろうと、みなもは思った。

「彼女はね、髪が綺麗なだけじゃなく、優しくて可愛い子。そして、髪のお手入れだって毎朝毎晩欠かさずちゃんとしてくれるの」
 亜佐美はたしかに、ちょっとオドオドしたところはあるけれど、可愛い子だ。馬渡・日和もそれには同意する。こくんと頷いた。
(オマエみてえにブクブク太ってねぇし、な!)
 また日向が茶々を入れてきたが、今は相手をしている場合ではないと思ったので、日和はそれをさらりとスルーした。
(おい、オマエ、何かむっかつく! あとで覚えとけよ!?)
 うるさいうるさい。日和はスルーを決め込むことにして、イザベルに言った。
「あのね、あなたが亜佐美ちゃんや髪の毛を大事にしてるの、すごくわかったわ。でも、どうしてそんなにこだわるのかなぁ」
「こだわるとはどういうコト?」
「んっと、あのね、たしかに亜佐美ちゃんは可愛いし、髪もキレイで言うことナシ! なんだけど、でも世の中いろいろ見回してみたら、他にもそういう人いるかもしれないじゃない? でね、もしその人が一生髪なんて切らないわって誓ってたりしたら、イザベル的にも言うことナシなんじゃないかなあって、あたしは思うの。だから、亜佐美ちゃんだけにこだわらなくてもいいんじゃないかなあって」
 日和のもっともな提案に、イザベルは少し顔を曇らせた。
「どうしたの?」
「アタクシもね、他の誰かを探そうとしたこともあったのよ。アサミが髪を切りたがっているっていうのも知っていたし。でもアタクシはそんなの絶対許せないから、その前に誰か探さなくてはって、探し回ったこともあったの。でも、アサミほど髪を大事にしてくれる人なんていなかったわ」
「そうなんだ……」
「最初に憑いたロン毛のギタリストなんて、髪は伸ばしてるだけで手入れどころかシャンプーもしない男で。ガマンできなくてすぐに離れたわよ。それから、ショウケースに入っていたマネキン? アレだったら髪を切るなんてこともないかもって思って、憑いてみたの。でも、肝心のお手入れをしてくれない。だからダメ。やっぱりアサミしかいないわって、戻ってきたの」
「そうだったんだ。苦労したんだね、イザベル。うんうん、辛かったのよね!」
 日和はイザベルを元気付けるように彼女の方を叩きながら、テーブルの上に残っていた季節限定のチョコレート菓子をひとつ頬張り、そしてイザベルにも渡した。

「えっと、イザベルさんは、どうしてそこまで『髪』に固執なさるのですか」
 みなもが問い掛けると、イザベルは即答した。
「髪はメデューサの、いえ、女の命だからよ!」
 途端、日和とみなもは目をきらきら輝かせながらうんうんと頷いた。
「わかる! わかるわその気持ち! 髪は乙女の命だものね!」
「ええ、ええ、そうです。だって、髪が美しい女性は心も綺麗なんです。だから大切にしたいの、あたしわかります」
 みなもの脳裏にはゆったり微笑む姉の姿が映し出されている。
「それにあたしの髪なんかじゃなく、お姉様の髪こそ、あたしの命なんです。だってあんなに素敵なんですもの」
 みなもはまた姉を思い出したので、その心がヒートアップしていた。というより、トリップしている。そしてイザベルもまた、わかりあえた感動からか一気にテンションが上がっていた。
「まあ、アタクシの気持ちをわかってくれるなんて! なんて嬉しいの!? イザベル感動」
 みなも、日和、イザベルは一瞬でわかりあったのか、三者でぎゅっと握手をした。それから髪の悩みやオススメのお手入れ方法などをああだこうだと話し出す。どこそこの美容室のヘアパックはありえないくらい効果テキメンだとか、市販のシャンプーの香りについて討論したりとか、トリートメント時の裏技があるだとか。三人が中学生(イザベルをその分類に含めていいのか謎だが)ということもあり、すっかり雰囲気はお昼休みの教室といった感じである。

 シュライン・エマは三人の中学生がきゃっきゃと盛り上がっている姿を見ながら、つい先程の日和とイザベルのやりとりを思い出していた。
 たしかイザベルは、他の人に憑くことも考えようとしたが、いい人が見つからなかったと言っていた。それで亜佐美のところへ戻ってきたと。
 しかしここでシュラインは思った。イザベルの、次のターゲットの探し方に明らかに問題があったのではないか、と。なにせ、ロン毛のギタリストやマネキンでは彼女の望むものが得られる筈がない。つまりそこから間違っていたということだ。
 そして、今までの流れからして、イザベルを説得して髪を切らせるのは不可能、とシュラインは判断している。だから、適切な誰かを探してそちらに憑いてもらうのがいちばん手っ取り早い。そしてその場合の問題は、ちゃんと彼女を満足させられる相手を見つけることができるか、というところになってくる。
 絶対に髪を切らず、尚且つそれを大事にする人間。そんな人間がいるだろうか。

 そういえば。シュラインはふと武彦の様子が気になって、彼の近くへと寄ってみた。身体を触ってみるも、相変わらず石のように硬い。石像になってしまっているのだから当然なのだが。しかしこれはいつになったら解けるのだろう。
 シュラインはイザベルの方へと向き直り、彼女に石化能力について尋ねようとした。しかし、あまりにも三人の会話が弾んでいたので、口を挟むのも憚られる。
 どうしようかと考えていたシュラインの頭に、名案が降りてきた。
 
 そうだ! 今なら思う存分換気ができる!

 依頼とも石化問題とも全然関係無いではないか、という突っ込みは禁句である。それくらい、事務所の換気はシュラインにとっては重要な問題なのだ。何せ所長が所長だけあって、煙が絶えない日がない。しかもその所長は暑がりだったり寒がりだったり何かとワガママなので、どの季節でも窓を開け放つのを嫌がる。そういうところは特に子供だと思う。
 しかし今、その所長は石化していて何もすることができない。だからチャンスなのだ。シュラインは窓辺に立ち、久しぶりに窓を全開に開け放った。ついでに深呼吸しながら、窓の外を眺める。
 もう夕方にさしかかっている時間帯なので、人通りがいつもよりやや多い。学生と買い物の主婦が半分を占めているだろうか。それから犬の散歩をしている人も何人かいる。
 あら。
 シュラインはそのうちの一匹に着目した。毛が長い種類の犬で、耳のあたりには可愛らしいリボンが結ばれている。遠くから見ても毛並みの良さがすぐわかるような犬だ。きっと飼主も、毎日可愛がってブラッシングやらシャンプーやらしてあげているのだろう。

 ん?

「ブラッシングにシャンプー?」

 これはもしかすると、もしかするかもしれない。
 シュラインは突如として脳裏に浮かんできた案を、どういうタイミングで伝えようかと、相変わらず和気藹々の三人を見て苦笑した。



<-- scene 7 -->

 そこはある意味、夢の世界だった。

「すごい、すごいわ! イザベル驚愕」
 メデューサ・イザベルがガラス窓から店内を伺い見て目を丸くしている。
「あたし、こういうところを見るのは初めてですけど……すごいですね」
 海原・みなもは上手い言葉が見つからないのか、それだけ言うと口を噤んだ。
「なんか、お犬様、お猫様って感じよねぇ」
 馬渡・日和はところどころに視線を移しながら、ぽつりと呟いた。普段ならここぞとばかりに突っ込みまくるはずの日向に至っては、呆れてものも言えないらしい。無言である。

 シュライン・エマが三人を連れて訪れたのは、都内最大の規模を誇るペットサロン。つまり、ペットのための美容室であった。
 中では、たくさんのトリマーたちが様々な種類の犬や猫たちの世話をしていた。シャンプーにブラッシング、カット、果ては着付けまで。その殆どが血統書付きと思われる犬猫たちはみんな輝いて見える。そんじょそこらの人間より余程待遇が良いのだから当然か。
「すごいわ! 愛よ、愛! 愛なのね!」
 イザベルは目を輝かせながら、感嘆の言葉を漏らした。
 たしかにペットという存在は、飼主にとってはもはや家族、ときとしてそれ以上の位置を占めることがある。この光景は、そういった飼主たちの愛情の結晶といえなくもない。
(つーか、金持ちの道楽だろー……)
 ボソリと、日和の頭の中に日向の声が響いたが、日和はそれについては言及せず、興奮で髪をうねらせるイザベルに向かってとりあえず大きく頷いてみた。

 イザベルが表に出たままだとどうしても髪型がメデューサスタイルになってしまうので、できれば一度引っ込んでもらって、亜佐美の姿で連れてきたかったのだが。
 しかし、イザベルはどうしても自分が一緒に行きたいと言ってきかなかった。
 まあ、百歩譲ってドレッドヘアに見えなくないこともないのでそのままにしておくことにした。このご時世、ドレッドヘアの女子中学生というのも珍しくはないだろう。といっても、もし亜佐美の知り合いが見たなら驚いて十歩は後退することは必至であるが。
 そんなわけでシュラインは、このサロンに到着するまで少女たちに色々と奢る羽目になってしまった。屋台のクレープやらホットドッグやら飲み物やら。イザベルが、アレも食べたいコレも食べたいと言ってお店の前から動かなくなってしまったからである。
 普通の事務所なら経費で落としてもいいだろうが、残念ながら彼女が働いているのは赤貧草間興信所。とてもじゃないがそんな余裕はない。よって本日の出費は、全部シュラインのポケットマネーであった。
「ごめんなさい、シュラインさん。あたしのぶんまで」
 みなもが申し訳無さそうな顔でシュラインを見つめる。
「いいのいいの。ほら、イザベルさんも喜んでくれてるみたいだし、ね」
 シュラインは、後ろでイザベルと日和が買い込んだお菓子を交換しているのを見て、苦笑とも微笑みともつかない表情で、笑った。
 みなももそんなシュラインを見て、笑顔を見せる。
「ところでシュラインさん、こちらにイザベルさんをお連れしたということは」
「ええ。例えばだけど、ペルシャやヒマラヤンみたいな長毛種の猫に憑いてもらえれば、カットされる心配もないし毎日ブラッシングもしてもらえるし、こういうところでケアもしてもらえるし、満足してもらえるんじゃないかと思って」
 シュラインはみなもにそう笑いかけて、それからくるりと踵を返し、イザベルのほうを見た。
「どうかしら、イザベルさん。もしかして聞こえてなかったかしら。それならもう一度お話しますけど」
 するとイザベルはふるふると首を横に振った。聞こえていた、ということらしい。
「イザベルさん、ここでなら、イザベルさんが望むすべてのことが得られると思うんです。ご主人様たちもすごく愛情を注いでくださると思うし、だから、イザベルさんもきっと満たされると、あたしは思うんですけど」
 みなもが真面目な顔つきで、シュラインの発言の後押しをする。

 イザベルは三人の顔をしばらくくるくると見ていたが、やがて顔を大きく歪ませた。
「どうしたの?」
 日和が心配そうにイザベルを見る。
 イザベルはそれには答えず、やがて両手で顔を覆って、大声をあげながら泣き始めた。
「え、え、イザベルさん!?」
 シュラインが動揺する。
「ええと、その、ごめんなさい、やっぱり、人間じゃないとダメかしら?」
 そう言いながらイザベルの肩に触れる。その肩はわなわなと震えている。落ち着かせないと。シュラインは彼女の肩をそっと抱きしめた。
 イザベルは自分の肩を抱きしめるシュラインの手を握り、そして大きく大きく首を横に振った。
「違うの、違うの。イザベル……嬉しくて、嬉しくて……」
 嗚咽が、漏れる。
「……嬉しくて……」
 イザベルは声にならない声でやっとそう言うと、やがて涙声でぽつりぽつりと語り始めた。

 自分は存在してからずっと独りぼっちだったのだと。
 メデューサの魔力のせいで自分に近づく者は全て石になってしまうから。
 死して霊となって亜佐美の身体に憑いてからもその魔力は残ったままで。
 無意識のうちにどうしても石化能力が抑えられず出てきてしまう。
 そしてみんな石になる。
 だから誰とも触れ合うなどできなかったのだと。

「……でも、アナタタチは違った。アタクシの魔力を跳ね返して……そして、アタクシの話を聞いてくれて。そして、アタクシの気持ちをわかってくれて……アタクシのためにいろいろ考えてくれて……」
 イザベルの瞳から、涙がとめどなく溢れてくる。
「アタクシは生まれて初めて、独りぼっちじゃない時間を過ごすことができた。だから、嬉しいの」
 みなもがポケットからハンカチを取り出して、イザベルの瞳から零れ落ちる涙を拭った。みなもの頬も涙に濡れているのに。日和はそんな二人を見て、ただひたすら頷きながら大粒の涙を流している。

 思春期の少女たちが、肩を寄せ合って、ぽろぽろと涙を零している。
 シュラインは、そんな少女たちを、もの言わず、そっと、見守っていた。



<-- scene 8 -->

 メデューサ・イザベルは空のひとになった。
 今まで見せなかったとびっきりの笑顔で「もう満足」と言って。

 夕暮れの空へと昇る直前、彼女は泣き顔のような笑顔で呟いた。
「ありがとう……シアワセになってね、アサミ」
 それが彼女の遺した最期の言葉だった。

 そして、メデューサ・イザベルは空のひとになった。



<-- epilogue -->

 橘・亜佐美が目を開けると、そこは夕暮れの街角だった。
 さっきまで、怪奇探偵の事務所にいたはずなのに。どうしてだろう。
 きょろきょろと辺りを見回す。
「亜佐美ちゃん!?」
 自分の名を呼んだ聞き覚えのある声に目を向けると、興信所で一緒だった元気な黒い髪の少女がこちらを見ていた。彼女の目は赤く、瞼は腫れている。
「良かった、いつ目覚めるのかなって心配してたんです。本当に良かったです」
 隣から、別の少女の声がしたのでそちらを見ると、青いきれいな髪をした少女が涙目で微笑んでいた。
 これは、どういうことだろう。
「あの、わたしは――」
「依頼は解決したわよ、亜佐美ちゃん」
 自分を抱きかかえる暖かな感触に気付いて顔を上げると、事務員をしていると言っていた理知的な女性が、優しい色の瞳でこちらを見ていた。
 その表情がふっと驚きのそれに変わる。
「亜佐美ちゃん、どうかしたかしら」
「え?」
「涙が」
 言われて頬に触れると、指先が濡れた。
 目を閉じてみる。
 目尻に溜まっていた涙が、ぽろりと零れ落ちるのがわかった。
「泣いてるの……? わたし」
 どうしていま、自分は泣いているのだろう。どうして涙が出るのだろう。どうして……
 胸の奥から滲み出てくるこの感覚は、寂しさなのか、悲しさなのか、それとも愛しさなのか。
 亜佐美は、自分でもわからないその感覚に身を任せながら、とめどなく溢れてくる涙をおさえることもせず、ただひたすらに、夕暮れの空を、見上げていた。



<-- end -->






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号:PC名/性別/年齢/職業】

【0086:シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252:海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13歳/中学生】
【2021:馬渡・日和(まわたり・ひより)/女性/15歳/神聖都学園中等部三年(淫魔)】



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■         ライター通信          ■
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はじめまして、こんにちは。
執筆を担当させていただきました、祥野名生(よしの・なお)と申します。
ウェブゲーム 草間興信所『思春期の悩み。』にご参加いただきまして、ありがとうございます。

ええと…コメディ、の予定だったのですが。
なぜでしょう。書いているうちに方向性が変わってきてしまい、結果、完全シリアスでもなく、かといってコメディでもないという、何ともいえない位置付けの物語になってしまいました(汗)
また、文章量も多くなってしまいまして…それゆえどうにもまとまりのない印象が拭えません(ぱた)
と、色々反省点もありますが、とりあえず今の自分なりにいろいろと、頑張ってみたつもりです。

なお、亜佐美はその後、髪をどうしたのか? 武彦の石化はいつ解けたのか?(笑) など語られていない部分もいくつかありますが、そちらについては皆様の想像にお任せいたします。

ともあれ、皆様にとって、いっときの楽しみになれば、幸いです。

もしご意見、ご感想などございましたら、お気軽にお寄せくださいませ。
またの機会がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します(ぺこ)



2004.11.30 祥野名生