コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【ホテル・ラビリンス】灰色紳士の旧友

 ロビーはうす暗く、不気味なほど静かだった。
 灰の髪、灰の瞳をもち、灰色のスーツを着たひとりの紳士が、旅行鞄片手にフロントのカウンターに歩みよる。その後を、黒いフードつきの服を着込んだ少女が続いた。
 水を注したグラスにクロッカスの花が飾られているのを横目に、紳士は、フロントのベルを鳴らす。それに応えて、奥から、ひとりの青年があらわれて、にこりとかれらを出迎えるのだった。

「ようこそ。ホテル・ラビリンスへ――」

   † † †

 一週間ほど前のことである。
 幻想怪奇小説家リチャード・レイが、「おや」と小さな声をあげた。彼がなかば、日本における自室のごとくに使用しているアトラス編集部の応接室でのことである。
「どうかしましたか?」
 助手である蔵木みさとが、頼まれ仕事の、新聞のスクラップから顔を上げて訊ねた。
「いえ。懐かしい名前を見たものですから。……古い友人からなのです」
 レイは一通のエアメイルの封筒に、ペーパーナイフを入れていた。
「米国の、ニューイングランドに住んでいる作家仲間で……オカルトの研究家でもあるのです。不定期に文通をしていたのですが、最近はすっかり、ご無沙汰になっていました。…………」
 その手紙を読むうちに、レイの表情がひきしまり、同時に、訝しげなものに変わってゆく。みさとは、レイとはせいぜい一年ほどの付き合いだったけれども、そのあいだの経験から、また、何かが起ころうとしているのを悟っていた。いつもこんなふうに、この応接室から、事件は始まるのだ。混沌と、狂気が待ち受ける冒険へと。

  親愛なるリチャード
  突然の手紙で驚かせたかもしれない。
  実は君に折り入って相談したいことがある。
  はっきり言おう、私の身に危険が迫っているのだ。
  詳しいことは会って話したいが、
  それでは君を危険に巻き込んでしまう。
  そこで、ある場所で会うことにしたい。
  そこは『ホテル・ラビリンス』という場所だ。
  あそこなら、やつらも手出しができるまい。
  行き方については別紙を参照してくれ。
  奇妙なところだが……いいホテルには違いない。
  それでは再会を楽しみにしているよ。
  ――君の友人 アルバート・グッドマン

■チェック・イン

 手紙に指示されたとおりの場所に、そのホテルは確かに在った。だが、その住所にホテルなど在るはずがないがないのも事実だった。異界の狭間にあるという、『ホテル・ラビリンス』。旧友との再会の場所として指定された、その不思議なホテルの門を、リチャード・レイは、蔵木みさとともに通り抜ける。かれらに続いて、アトラス編集部を通じてこの会見に立会うことになったものたちも、その敷地に足を踏み入れた。
「こちらにお名前をお願いできますか?」
 美貌のボーイに促されて、宿帳に6人分の名前が並んだ。

  リチャード・レイ
  蔵木みさと
  光月羽澄
  藍原和馬
  夏目怜司
  羅火

 全員に、シングルの部屋がひとつずつあてがわれることになり、キーが配られる。
「本当に……お代はいいんですか?」
 羽澄が不思議そうに訊ねるのへ、
「ええ。当ホテルでは、金銭による宿泊代は頂戴いたしませんので」
 と、制服のボーイ――ロミオ・チェンという名だった――は応えた。
「かわりに何を取られるのかね」
 小声で呟く和馬にちらりと一瞥をくれてから、羽澄はキーを受取り、コンパクトにまとめた自分の旅行鞄を持ち上げた。彼女は旅馴れた風の、パンツスーツだった。和馬は、云わずもがなの、いつもの黒ずくめで、荷物らしい荷物もない。
「ではお世話になります。素敵なホテルですね」
「ありがとうございます」
 そんなやりとりを、すこし離れて見守っていた羅火が、ふん、と鼻を鳴らした。彼もまた、泊りという風情ではなかった。
「ぬお」
 ふいに、その羅火が小さく声を挙げたので、傍に居た夏目怜司が振り返った。
「どうかしましたか」
「携帯が圏外ではないか」
「ああ……。どうも、そうらしいですね。ここは外界から隔絶されているって――」
「聞いておらんぞ!」
「……なにか、電話でも待っておられたんですか?」
 怜司のなにげない一言は、今の羅火には禁句だった。たしかにもう2ヵ月も切実に待っている電話があって……そんな鬱々とした日々の気晴らしに、着いてきてやったというのに、この得体の知れない案件にかかわっていたせいで電話を取り逃したのでは元も子もないではないか!
「知るか。ええい、いまいましい。…………ぬ?」
 そんな羅火の金の瞳が、今度は、うす暗いロビーの片隅で、ソファーから立ち上がった人影があるのに気づく。
「レイさん。みなさんもお揃いで」
「あ……?」
 レイは、予想外の――いや、本当はなんとなく予想はしていた――人物を前に目をしばたいた。
「もう傷のほうはよろしいのですか? 《猫》に噛まれた傷のほうは」
「……ご心配には及びませんよ。今日は休暇ですか。――ホシマさん」
「麗香さんにうかがったのです。ご友人がお困りだとか」
 星間信人は、にやりと、笑いながら、眼鏡の位置を正した。

「……羽澄さん。それに、藍原さんも?」
 見知った者たちが、客室への廊下へ消える後ろ姿を見送って、セレスティ・カーニンガムは声をあげた。
「お知り合いですか? 奇遇ですね」
「ええ。ですが……ここはどうも、そういう不思議なことが起こりやすい場所のような――そんな気がしますね」
 セレスティは、カフェの窓から、回廊をゆく一行の姿をみとめたのだった。彼と相席に坐っているのは……三十代と見える、羽織の男だった。ふたりは今日、ホテルのロビーで会ったばかりだ。ふたりとも、偶然のように、この建物に行き当たり、飛び込みで部屋を取ったのである。そんな旺盛な好奇心を示すところは、ふたりの共通点と云えたかもしれない。
 だが、洋装で、繊細な美貌のセレスティに対して、和装の男は、端正な顔立ちではあったけれども、どこかしら昏い陰影のようなものがつきまとっているように感じられた。男は名を、瀬崎耀司と名乗った。

 そしてレイたち一行がチェックインを終えたロビーに――
 新たに、ひとりの女が、スーツケースを転がして足を踏み入れてきた。
「参ったわね。なにがどうなってるの」
 女は黒澤早百合だった。
 早百合は今日、自身が社長をつとめる会社を休み、「彼氏と紅葉を見に行く」と言い残して、伊勢志摩のリゾートホテルへと発ったはずだった。 
 彼氏云々は、最初から見栄を張っただけの大嘘であったからともかくとして、伊勢志摩のホテルは本当に行くつもりだったのだが。
「ようこそ、『ホテル・ラビリンス』へ」
 そんな闖入者に対しても、ロミオは平等だった。
「まあ、いいわ。ボーイもなかなかハンサムだし。ちょっと趣味のいいホテルじゃない?」

 こうして、その日、『ホテル・ラビリンス』には都合、十名の男女がチェック・インしたことになる。


■クロッカスの花言葉

 あなたを信じていますが、心配です


■暗い部屋の会見

 アルバート・グッドマンからの伝言がフロントに預けられていた。
 それにしたがい、リチャード・レイは、部屋に荷物を置くと、指示された部屋番号の記されたドアを目指す。
「先生、あそこですよ。廊下の奥」
 みさとが指さしたドアの番号をメモと見比べ、レイはその扉をノックする。
「……はい?」
 ややあって、低い声の返事。
「わたしです。リチャードです」
「ああ、リチャード。待っていたんだ。入ってくれ。鍵は開いている」
「わたしの助手と――、日本で私の仕事をお手伝いしてくださる皆さんが一緒なのです。こういったことの相談には、居ていただいたほうがいいかと思って、私がお呼びしました。同席していただいても?」
「もちろん。だが…………いや、まあいい、中で話そう」
 一同は部屋に入った。一同といっても、あまり大勢で押し掛けるのも何だと、和馬と羅火、そして怜司は席を外すことにしていた。つまり、部屋に入ったのはレイとみさとの他は羽澄と――星間信人が、彼は本来この“一同”には含まれていなかったはずだが、なぜか、さも当然のように、その中に加わっていた。
「アル……」
 レイが、愛称で呼び掛ける。部屋はスイートルームで、広かった。だが、窓はカーテンが閉じられて、最低限の灯りしかなく、暗かった。そして、何より――
(寒い……)
 羽澄は、決して薄着ではなかったが、それでも、部屋の中が異様な冷気に充たされているのに気づく。
「すまないが、こんななりで失礼するよ。体調がすぐれないんだ」
「大丈夫なのですか。声が嗄れていますよ」
 部屋の主――アルバート・グッドマンは、部屋の隅で椅子に深く身体を預け、部屋着の上にひざかけとショールをまとっていた。白人の壮年の男性と見えたが、彼のいる位置はちょうど部屋の家具類がつくる影の、いちばん濃いところであった。
「いや大事はない。ここに滞在したのも、養生のためなのだしね。会えて嬉しいが、リチャード、握手やハグは許してくれないか。あまり動くことができないんだ。……坐ってくれ。みなさんも」
 一同は、どことなく不穏なものを感じながら、ソファーに腰を下ろし、アルバートとの会見にのぞんだ。
 だが。
 口を切った、怪奇小説家の旧友の言葉は、意外なものだったのだ。
「……え? それはどういうことです。危険は去った――、と?」
「そうなのだよ、リチャード」
 一同は顔を見合わせる。
「どうか怒らないでいただきたい、日本の友人のみなさん。……実際、最初から危険はなかったのだとも言える。わたしはかれらのことを――誤解していたのだよ」
「ミスター・グッドマン」
 発言したのは信人だった。
「あなたはニューイングランドのほうにお住まいとうかがいました。……あのあたりはいいところです」
「ご存じなのですか」
「もちろんよく存じ上げておりますとも。古い歴史のある地方だ。かのアーカムに、キングスポート、そして忌むべきインスマスにダンウィッチ……」
「ホシマさん」
 不吉な地名が挙げられるのを、レイが遮るように言ったが、信人は続けた。
「あなたはどんなご研究をなさっていたのです。それに関係することなのでしょう?」
「左様。わたしはあの地方の山々にときおり見られる柱状列石について、調べていました」
「柱状列石!」
 信人は叫ぶように言った。
「すなわちそれは……ヨグ――」
「ホシマさん!」
「……おっと、失礼しました。レイさん。かの名は禁句でしたね。“うっかり”発言してしまって、聞き咎められでもしたら……」
 悪びれもせぬ謎めいた司書の顔からは、含みのある笑みが去らない。

「どうか、なさったのですか?」
 怜司に声を掛けてきたのは、瀬崎耀司である。ヨーロッパのクラシックホテルのスタイルである『ホテル・ラビリンス』を背景に、和装の男の姿は目立った。
「あ、いや……」
 なんと答えるべきか、怜司は迷う。彼は羽澄から預かった鈴を、ホテルのあちこちに仕掛けて回っていたのである。結界の役を果たす、力がこめられた鈴である。万一、何者かがこの結界を突破すれば、鈴の共鳴がそれを報せてくれるという手筈なのだ。
「なにかお困りのことがあるのではないのですか。よろしければお手伝いさせてください。僕は瀬崎耀司と云います。考古学をやっているものですが。……リチャード・レイさんのお連れの方でしょう?」
「レイさんのことを?」
「私がお教えしたのです。もっとも、私も面識はないのですが」
 杖をついてあらわれたのはセレスティだった。
「アトラスの碇さんからお噂はかねがね。今まで機会はありませんでしたが、なにかのときはよろしくと、碇さんにも云われていたのです。いわく『いいネタを提供してくれるのだけど、素行が少々――』……いや、この先はよしましょう。予断になりますね」
「あー……」
 レイの評判がどういうものか、だいたい想像がついて、怜司は苦笑をもらした。
 そんな三人の男たちを、ロビーのソファーから眺めているのは早百合である。
「あらあら、趣の違う殿方が三人も。なかなかいい景色じゃない? ふふ……気に入ったわ、ここ。……ロミオ?」
 まるで自分の召し使いを呼ぶように、彼女はボーイを呼んだ。
「ご用でしょうか」
「ここはスパとかエステとかはないの?」
「あいにく、スパはないのですが……お部屋にバスソルトかアロマオイルでしたらご用意できます」
「それでいいわ。それと、あとで食事の時にでも他のお客を紹介して頂戴よ」
「……申し訳ございませんが、当ホテルにご宿泊のお客様は、みなさま、『秘密』をお持ちですので」
「皆、ワケありと云うわけ?」
「あるいは」
 ふうん、と、頷きながら、早百合はうす暗いロビーをもういちど見回した。動いていない柱時計の存在が、まさに時から置き忘れられたようなこの場所を象徴するように、そこに沈黙していた。

 ホテルはなにもかもがクラシカルでレトロなものだったが、よく手入れされており、清潔だった。そのわりにはかれらを出迎えたボーイの他は従業員の姿を見かけないのだが。
「妙なところだの」
 羅火が、鼻を鳴らした。
「背筋がむずむずするぞ」
「野性のカン、かい」
 和馬が、からかうように言った。和馬と羅火が連れ立って歩いているのは、片側の窓から中庭が望める廊下だった。窓のないほうの壁には絵が飾られている。和馬はそのひとつに目を止めた。人でも獣でもない異形のものが、人間の幼児らしきものを頭から噛み砕いている絵だった。
「趣味がいいんだか悪いんだからわからねェな。……奴さんがいうには、ここは“避難所”なんだろ」
「ふん。それが面白くないのだ」
「あいかわらず血の気が多いなァ」
「お気に召しましたか」
 ――いつのまにか。ロミオがそこに立っていた。
「『食事する食屍鬼』。R・A・ピックマンの傑作です」
「え? ……ああ、絵か。いや、そりゃまあ……。それより、ここ、セキュリティはどうなってんの?」
「――と、申しますと?」
「いやだからさ。ここの宿泊客に、なにか、危害を加えようとしているものがいたとして……」
「お言葉ですが」
 決然と、ボーイは言った。
「当ホテルには、ご宿泊の方以外が、無断で、またはひそかに侵入することは決してできません」
「そうか。それならいいがね」
 和馬が愛想笑いを浮かべ、羅火は不機嫌そうにそっぽを向いていた。ロミオは、軽く頭を下げると、去っていこうとした…………、が、ふと振り返ると、
「――ですが、それがお客様なら話は別です」
 と、付け加えた。
「お客様としてお迎えした以上は、お泊めいたしますよ。それがどなたで、どのような目的をお持ちでも」

■見知らぬ客

「あら、夏目さんってお医者さまなの?」
「ええ、まあ……」
 ボーイがあてにできないと知るや、早百合はカフェにいた怜司を目ざとく見つけ、「ここよろしいかしら?」と相席を確保していた。
「素敵ですわ。それもご自分で開業なさってる?」
「しがない町医者です」
「でも若いのにおえらいですわ。わたくしも、ちょっとした会社をやってるんですけれど、経営の苦労はよくわかりますもの」
 婉然たる笑み。怜司は、この美しいがどこか凄みを秘めた女に、なんとなく不穏なものを感じているのだった。
「息子とふたりで食べていくのがやっとですよ」
「ま」
 早百合が目を丸くした。
「お子さんがいらっしゃる? いやだわ、わたしったら独身だとばかり――」
「いや、独身は独身なんですが」
 と、言わなくてもいいことを言ってしまう怜司。
「まあ、ひとりでお子さんを! 大変でしょうね。……でも、お子さんには母親が必要かもしれないとお考えになることはなくって?」
「……え。どういう意味でしょう……」
 話題がいよいよ危険な領域に踏み込んできたとき、和馬と羅火が連れ立ってカフェにあらわれた。
「おい、このホテルやばいぞ。気をつけないとこいつぁ――。お」
「あら」
 和馬が、怜司の隣の席にかけながら、早百合に微笑みかけた。
「『ギフト』の一件のときに会ったよな。八島のニイさんのところでさ」
「そうでしたかしら」
「お知り合いだったんですか?」
「この姐さんは、こう見えても凄いぜ。なんせあの鬼鮫とやりあうくらい――ぬご!」
 テーブルの下で早百合のヒールの爪先が、和馬の向こう脛を真直ぐに蹴り上げた。
「和馬」
「……ぁにしやが……あん?」
 羅火が、あごをしゃくった。
 カフェダイニングの片隅にあるテーブルに、四人の客の姿があるのを、かれらはみとめた。一様に目深に帽子をかぶり、コートの襟を立てた一団であった。
「……まだ他にも客がいたのか」
「いいえ。おかしいですよ、藍原さん」
 怜司が鋭く囁く。
「俺はロビーであの場所の《過去》も《未来》も視たんだ。あんなやつらはいなかった」
「さきほどのボーイの言葉を覚えておるか、和馬」
 羅火がそう言って、唇の端を吊り上げる。獲物を見つけた獣の笑みだった。
 それを察知したのかどうか――
 あやしい客たちは、ふいに席を立つと、ぞろぞろと、中庭のほうへ抜けてゆく。
「行くぞ」
「おう」
「あ、ちょ、ちょっと、藍原さん」
「あら何のお話? ねえ……」
 素早く動き出す羅火と和馬。その後を、怜司と早百合(なぜか)が追った。

「弾けるんですか?」
 みさとの問いかけに、にこりと微笑みを返すと、羽澄は、遊戯室に置かれていた古いピアノの鍵盤を叩きはじめた。かろやかなメロディが流れ出す。
「そうですか。それはなんといいますか――拍子抜けですね」
 セレスティが言った。彼と耀司が、レイから事情を聞き出したところであった。
「ですが、ひとまず、ご友人は危機から脱せられたということでしょう?」
「ええ、まあ、そういうわけなのですが……」
「『やつら』というのは」
 静かに話を聞いていた耀司が口を開いた。
「どういう存在なのでしょう」
「どうご説明すればいいか……われわれとは異なる次元の存在です。しかし、そうはいっても、非常に多岐に渡りますから、アルバートが具体的に、何を敵と考えていたかは、今となっては私にもわからないのですよ」
「少なくとも人類を凌駕するもの、と考えてもいいのですね」
 言いながら、耀司の左右の色の違う瞳に、昏い炎のような光が灯る。
「レイさん」
 信人だった。
「さきほどのグッドマン氏の部屋ですが。ずいぶん冷えていたと思いませんか。この冬場に、体調がすぐれないと言いながら、暖房もつけておられなかった」
「なにを仰りたいのです、ホシマさん」
「いえね、ただ、ある小説を思い出していただけですよ。レイさんもご存じなはずです。冷房の効いた部屋でないと暮らせない、ある老医師の話です」
 レイが目をしばたかせた。
「どんなお話なのですか。うかがいたいですね」
 あくまでもやさしげな微笑で、セレスティが問うた。隣で耀司も頷く。
「その老医師はいつも特製の冷却装置で部屋を低温に保っていた。それは……実は彼の肉体はとう死亡していて、それを呪術的な処置で生かしておいたに過ぎなかった。そしてその死した肉体の維持のためには部屋が低温である必要があったのです」
「…………」
「星間さん。それじゃあ、まるで」
 ピアノを弾く手をとめて、羽澄がなにか言いかけ……そして言い淀んだ。
「そんな――ことは……」
 レイの声には、しかし、力がなかった。
「それで」
 耀司が引き継ぐ。
「その小説の結末は」
「夏の日に停電が起こります。老医師は街中の氷をかき集めますが、及ばずに……死んでしまうのですよ。どろどろの黒い腐汁と化して」
 その信人の言葉が、不吉な予言ででもあったかのように――
 灯りが消えた。

「あっ、せ、先生――!」
「みさとちゃん、ダメ! レイさんも待って!」
 レイが駆け出していったらしい。暗闇の中で、みさとと羽澄の声が重なった。そして――
 ……ィィン
「鈴の音……?」
「いけない」
 羽澄が息を呑んだ。
「何かいるわ」
「何かとは何です?」
 耀司が息を弾ませて言った。
「わからないけど……レイさんを一人にしちゃいけないと思う。セレスさん、みさとちゃんをお願いします」
「わかりました」
「僕もご一緒させてください」
 まだ闇に目が慣れないので、ほとんど手探り状態で、羽澄と耀司がレイの後を追う。
「日本に帰ってきて早々……こんな事件に遭遇するとは」
「瀬崎さん――でしたっけ……これはすごく危険な……」
「ええ。それが嬉しいのです。……いつだって、僕はこの力を試せる場が欲しくてたまらないのだからね」

「セレスティさん、あたし、やっぱり……」
「大丈夫。羽澄さんたちにお任せしましょう。藍原さんたちもいらしているのでしょう? 心配ありませんよ」
 セレスティが、みさとをなだめた。
「でも先生……こういうときは、かならず失敗するから」
 そのみさとの言葉が、あまりにも身も蓋もなかったので、緊張した場面にもかかわらず、セレスティは吹き出してしまった。
「ところで――」
 闇の中へ、目をこらす。
「星間さんもいらっしゃらないようですね。……そして……やれやれ、招かれざる客が大勢いるようです」
「えっ」
「私から離れないで」
 みさとの視力は闇に対して鋭敏だった。だから、セレスティが手を振ると、彼とみさとを守るように、水の雫の輪がふたりをとりかこんで出現したのを見ることができた。そして、遊戯室の戸口をくぐって、わらわらと、そのあやしい異形の影がなだれこんでくるのも。

■闇に囁く

「建物の灯りが消えた……、様子がおかしい、なにかあったのかもしれません!」
 怜司が叫んだが、それが仲間の耳に入ったかどうか――
 『ホテル・ラビリンス』の中庭は、木々のあいだを迷路状に小経が行き交う、見通しの悪いところだった。先のほうから、羅火の怒号が聞こえてきた。
「待てい! なぜ逃げる! ぬしら、なにかやましいことでもあるのか!」
 自分だけでもいったん戻るか――、そう思って、きびすを返した怜司だったが、
「くそ……どっちだ……」
 中庭は、広いと言っても知れている。まして、建物はすぐそこなのだ。しかし、樹木にさえぎられて、どの路が建物に続いているのかわからない。
「夏目さんったら……こんな暗いところに連れ出したりして……意外と大胆な方なのね」
 後ろから着いてきていたらしい早百合が、のんきにそんなことを呟いたとき――
 歩道脇の茂みの中から、それが飛び出してきた!
「……!」
 例の、帽子にコートの客だった。怜司がとっさに、身をかわしたとき、相手の帽子が落ちた。同時に、ばさり、と、コートも脱ぎ捨てられる。その下からあらわれたものを見て、怜司は息は呑んだ。
 それを、何と形容すればよかったか……。人間ほどの大きさのある、エビかカニ……あるいは昆虫か。なるほど、節のある細い手足、細かい棘の生えた甲殻に覆われた身体、ふるえる羽…………だがその頭部とおぼしき部分は、目も鼻も口もなく、ただ触覚と、あとは人間の脳に酷似した皺だらけの組織が露出しているだけだ。
 不気味な剥き出しの脳髄のような顔――そう、それがその生物の顔なのだろう――の模様というか色合いというかをぐるぐると変化させながら、そいつは怜司に襲い掛かってきたのだ。
「なんだ――これは」
 その生物は、手に棍棒のような武器を携えていた(なので、知的生物であると知れた)。その一撃をかわし、怜司は左手で生物の細い腕を掴んだ。刹那、彼の瞳が赤く輝き、生物の腕から半身にかけてが塵状に分解して吹き飛んだ。それは思わぬ反撃に遭い、あたふたと逃げようと動いたが、悲鳴などはなかった。声というものを持たない種族なのだろうか。
「なんじゃ、歯ごえたえのない!!」
 咆哮。
 植え込みを蹴散らして、別の、その生物が、手足がちぎれかかった無惨な姿で吹き飛んできた。そのあとで、羅火がのしのしと、肉食恐竜よろしくあらわれる。
「数がいるぞ。油断するな」
 和馬が、別の方向の茂みからひょっこりと顔を出した。戦利品のように、生物の死骸をひきずっていた。
 怜司は空を見上げる。星ひとつない、漆黒とも灰色ともつかぬ空を背景に――黒い異形の影がいくつも飛び交っているのが見えた。
「あ……あんなに」
「なにが『当ホテルには、ご宿泊の方以外が、無断で、またはひそかに侵入することは決してできません』だよ」
 爆撃機の空襲のように、空を飛び交う何匹かの生物が、旋回して、急降下してくるのが見えた。男たちが身構える。だが、それより早く――
 稲妻が、空気を焼き、敵を撃った。
「せっかくいいムードだったのに。いやねぇ」
 バチバチと紫電をまとわせながら、黒い剣を携えた早百合が、不機嫌な面持ちで言った。その前に、蚊とり線香にまかれた蚊のように、謎の生物の黒焦げの屍体が落下してきた。
 それが本格的な開戦の合図であったか。
 次々と飛来する敵。羅火はバングルに嵌っていた赤い石――彼の肉体から生まれたファイヤオパールに似た石だ――を、放った。時ならぬ花火のようにそれは弾け、敵を焼きながら中庭を真昼のように照らし出した。
「やりすぎんなよ! 損害賠償請求される」
 数は多いが、敵の一体一体の力はさほどでもないようだった。和馬は急降下してきた一体に飛びかかり、抑えこむと、その羽を力まかせにむしりとった。
「夏目さん、お怪我はありません?」
 電撃を放つ剣をふるいながら早百合が尋ねた。
「え、ええ……」
 応えながら、ふいに、怜司は頭を抱えた。
(あ――……)
 視えた、のだ。
 たった今、早百合の剣になぎはらわれた生物の一体が、数時間前に何を為したか、が。
(そんな……それじゃ、レイさんたちが会ったっていうアルバート氏は――)

「レイさん!」
 羽澄が、その部屋に駆け込んだとき、灰色の髪の紳士は危機一髪、窓から連れ出されようとしているところだった。
 鈴の音が響き――鞭が空を切った。
「大丈夫!?」
 床に転がったレイを助け起こす。すばやく窓の外を確認するが、羽澄の鞭の一撃を喰らった存在は、ひとまずは飛び去ったようだった。
「今のは……」
「ユゴスよりの――もの……」
「え?」
「冥王星から来たものたちです。アルバートは、かれらと接触を持っていたのです。うかつでした」
「このホテルにいれば安全じゃなかったの」
 レイはかぶりを振った。
「ホテルにいればね」
「それはどういう――」
「アルバートはすでに……」
 レイはふるえる手で部屋の隅を指差した。そこは……先の会見のおり、アルバート・グッドマンが椅子にかけていた暗がりだった。そこに、脱ぎ捨てられた衣服があった。羽澄はそれが、アルバートが着ていたものだと記憶している。そして、それにくるまれるようにして、椅子の上に置いてあるもの――
「!」
 十八歳にして、さまざまな裏世界の事情にかかわる羽澄である。たいていの出来事には動じないつもりであった。だがそれでも、そこにあったものを目にして、その意味を悟った瞬間には、たじろがずにはいられなかったのである。
 ……そして、突然、部屋の電話が鳴った。

 羽澄が部屋にかけこむのを見届けると、耀司はくるりと振り返って、暗いを廊下の向こうを見据えた。
「さあ、来るがいい」
 甲殻類とも昆虫とも猿人ともつかぬ不気味なシルエットが大挙して押し寄せるのが見えた。先頭の一体は、銃のような棒きれのような何かの道具を携えている。それを耀司に向けると、そこからなにかが発射される。
「……」
 耀司は避けもしなかった。射出されたのは、得体の知れないピンク色のねばねばしたものだった。敵を拘束するとりもちのようなものだったのだろうか。それは耀司の身体の上を、生あるもののように這い回り、絡み付いていったが――
「ふん。ぬるい」
 彼は鼻で笑った。赤と黒――左右の色の違う瞳がすっと細められる。その輝きは、研ぎすまされた刃物の光だ。
 ぱん、と、渇いた音を立てて、耀司を絡めとっていた粘液が四散した。瞬時に、そしてそれは、彼の手の中に球状にまとまって収まってゆき――まるで最初から、それが耀司自身の力であったかのように――気合い一閃、突き出されたてのひらから、青白い燐光をまとったエネルギーの弾丸として打ち出される。
 それは少なくとも5体ばかりの、敵の身体を貫通した。
 体液が飛び散って、返り血のように、耀司の頬を汚す。
「こんなものではないぞ」
 彼は悠然と、その汚れをぬぐった。手の中で、ぬめぬめしたその液体が、ぱきぱきと音を立てて凍りつき、砕け散ってゆく。……だがそれよりも、耀司がそのとき浮かべた笑みのほうが、はるかに冷たく、凍りついたようなものだった。
 


 リチャード・レイは失念していたのだ。
 他のことに気をとられるあまり、そのことをよく考えてみようとはしなかった。異界の狭間に建つというこの特殊なホテルに、なぜ星間信人が先回りができたのか。そして、アルバート・グッドマンの手紙にはあったはずだ。このホテルに宿泊するものは皆、なんらかの『秘密』を持っているのだということを。
 それはつまり、星間の上着のポケットの中で、文字通り握りつぶされた一通の国際電報である。アトラスの編集者は信人を疑いはしなかった。「レイさん宛ですね。私が応接室に持っていきますよ」と、穏やかな調子で言われた時に。

  約束はキャンセル やつらに知られた
  あのホテルには近付くな
  私にもかかわるな やつらが私を
  星の世界へ連れ去ろうとしている

 図書室の奥の暗がりで、そのものはそっと、星間信人に約束の品を手渡した。含み笑いを押し殺して、彼はそれを受取る。
「ありがとうございます。……『無名祭祀書』のデュッセルドルフ版。なかなか手に入らなかったのですよ。セラエノかユゴスにならばあるだろうと思っていましたが……」
 相手がなにごとかを囁いた。
「ええ、これで充分です。あとのことはご随意に。私はたまたまこのホテルに居合わせたに過ぎないのですし」
 そして一礼すると、きびすを返した。
「星間さん」
 ふいに呼び掛けられて――さすがにこれには信人もびくりとした。
「セレスティさん……」
「危険ですよ。こんなところに一人でいらしては」
「平気です」
 本を後ろ手に隠しながら、彼は応えた。
「行きましょう。みなさんお集りです。レイさんもご無事な様子ですし」
「ほう。そうですか。相変わらず……運のいいお方だ」 

■彼方より

 電話は鳴り続けていた。
 リチャード・レイは、よろよろと立ち上がると、受話器に手を伸ばし……、それを取り上げた。
「はい……?」
 壊れたラジオのような雑音。
 そして、くぐもった声が告げた。

「バカめ。グッドマンは死んだわ」


■ミステリアス・ステイ

 気がつくと、潮が退くように、敵の姿は消えていた。
 そしてようやく、灯りがともった。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
 ていねいだが、どこか悪びれない風で、ボーイは言った。まるで、何事も起こらなかったとでもいわんばかりである。いや……実際、何も問題は起こらなかったのかもしれない。何も破壊されず、誰も死ななかった。ただ、停電のあいだに、
「お発ちになったお客様がいらっしゃいます。今は、当ホテルにおられるのは皆様だけですよ。間違いなく」
 ――と、いうことだった。
 リチャード・レイは旧友を救うことはできなかったかもしれないが、逆に、星から来たあの存在も、レイをとらえることはできないまま、兵を退いたのである。
 アルバート・グッドマンの末路のことを思って、一時、座は沈んだが、レイ自身が比較的落ち着いていたこともあって、食事も終える頃には、皆、表面的には平時に戻り、思い思いにホテルの一夜を楽しもうということになった。
 一人の、不幸な男にまつわる今日の出来事もまた、このホテルが蓄積する『秘密』のひとつになったのだろうか。

 和馬は、遊戯室の壁の一画に、セピア色の写真が入った額の群れをみとめた。
 このホテルを、過去に訪れた客たちの写真なのだろうか。
 だとすると――、写っている男女の中には、服装からしてかなり古い時代のものと察せられるものもあるのだ。いったい、このホテルは人類の歴史に照らし合わせてみるならば、いつから、その扉を、あの世界に向けて開いていたのだろう。そしてそこを、いったい幾人の、どんな人間たちがくぐって、ここに宿泊したのだろうか。
 見るともなく、なんとなく写真を眺めていた和馬だったが……
「……!?」
 ふいに、その目がらんらんと輝きを増し、額のひとつを注視する。
「おいおい。ちょっと待て。これぁまさか……」
「藍原さん!」
 ちょうどそのとき、みさとが部屋に駆け込んできた。
「よかった、ちょっと来て下さい」
「あに?」
「あのぅ……申し訳ないんですけど、先生がお風呂のお湯、出しっ放しにしちゃって。……和馬さんの部屋、先生の部屋の真下でしょ。下の階に水漏れしたかもしれないっていうから、チェンさんに部屋を開けてもらおうとしてるところ」
「なんだと!」
 和馬は牙を剥いた。
「そんなどうでもいいところで、うっかりネタか! 呪われろ! もう呪われてるが!」
 悪態をつきながら、駆けてゆく。
 翌朝。
 チェックアウト前に、和馬はもういちどそこへ来て、昨夜見たはずの写真を探したが、見つけることはできなかった。
「畜生。『秘密』がお代たぁ、このことか」
 忌々しげに呟く。
 探し物は、一人の女の写真である。
 琥珀色に色褪せた写真であったが、もしもカラーであったなら、女の瞳が翠であることが、わかったはずだ――。
 そんなものが存在するはずのない、写真であった。

(了)

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【0377/星間・信人/男/32歳/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1282/光月・羽澄/女/18歳/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920歳/フリーター(何でも屋)】
【1538/人造六面王・羅火/男/428歳/何でも屋兼用心棒】
【1553/夏目・怜司/男/27歳/開業医】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2098/黒澤・早百合/女/29歳/暗殺組織の首領】
【4487/瀬崎・耀司/男/38歳/考古学者】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

お待たせしました。『【ホテル・ラビリンス】灰色紳士の旧友』をお届けします。
これは異界『ホテル・ラビリンス』シリーズの第一弾となるシナリオだったのですが、お迎えしたゲストがゲストだけに……完全に不条理ホラーになってしまいました……。バッドエンドっぽいのですが、PCさまがこのホテルにいらした時点ですでに決していたことということで……「失敗」ということではありませんので、どうぞお気になさらず。
ミステリアスな雰囲気にしたかったので、ぼかしたままのところが多くあります。文字通りの「異界」テイストが出せていればうれしいのですが。
ラストの一節のみ、個別になっています。

>藍原・和馬さま
『ホテル・ラビリンス』へようこそ。
意外と、レイ氏がうっかりしなかったので、ラストの和馬さんの個別部分でうっかりネタを盛り込んでみました(どうでもいい)。
なかなか食わせ者なホテルのようです。またご宿泊いただける機会を、お待ちしておりますので……。

第一弾からして、ちょっとディープなものになってしまいましたが、この異界はお見えになるお客様しだいでいかようにもその性質を変えます。ゲストが違えばまったく違ったトーンのシナリオになると思いますので、今後も『ホテル・ラビリンス』にご注目いただければさいわいです。

またのお越しを、お待ち申し上げております。