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合わせ鏡の怪
………………『深夜零時に学校の大鏡を使って合わせ鏡を作ると、その向こうから怪物が現れる』。
ありふれた学校の怪談話。
誰も本気で信じていないような、何処にでもあるちょっとした都市伝説の類。
けれど。
そこに潜む一片の真実――らしきものに触れてしまったのかもしれない、と恐れ、助けを求める投稿が件のゴーストネットOFFに為されたのはつい先頃。
偶然か必然か、その投稿はネットを介し、銀髪の美丈夫――セレスティ・カーニンガムの目に留まっていた。
■
「沢妙子さん…ですか」
問題の、『鏡から出てきた怪物に襲われていると思しき、助けてと言う悲鳴を電話口に残して、存在ごと消えてしまった』と言う君の御友人は。
「…はい」
ゴーストネットOFFに助けを求めた当の彼女――矢野美幸は、セレスティの問いに消え入るような声で答えている。長い黒髪が目を引く、大人しそうな雰囲気の少女。弱々しい印象があるのは怯えている故か。ひどく憔悴しているようにも見て取れる。ゴーストネットOFFに助けを求めるまでに、余程考え込んだのだろう。
…周囲の誰もが、美幸の友人だと言う沢妙子、彼女の存在を知らないと言う。
美幸自身の持つアルバムにさえも、彼女の写真は一枚も無いと言う。
だからこそ。
あの晩の出来事はいったい何だったのか。
沢妙子と言う彼女は本当に居たのだろうか。
…おかしくなっているのは周囲では無く自分では無いか、と。
ただ、怯えるしかなくなっている。
周囲の誰にも相談できない。
藁にも縋る思いで見付けた相談出来そうなところ、それがゴーストネットOFFで。
幸運にも、本当に相談に乗ってくれる人が現れた。
それだけでも、美幸にすればどれだけ心強くなったかわからない。
「…携帯電話の着信履歴は、残っていないのでしょうか?」
その問いに、美幸はぶんぶんと首を振る。
「番号だけなら…残っているんですが、それを確かめても、妙子の小父さんも小母さんも、そんな番号は知らないって…」
それに、私の携帯電話なので妙子の番号は短縮メモリに登録してある筈なんです。なのに、事件の後に探しても、消した憶えなんか無いのに、メモリ自体が無くなっています。…「その番号が妙子の携帯電話のものである」って、私の携帯電話にも表示されなくなっているんです。
「それどころか小父さんも小母さんも…妙子なんて娘は始めから居ない、と言うんです」
私の記憶している妙子の小父さんと小母さん当人なのに、妙子の事だけは知らないと。
「妙子嬢が存在していた形…証拠…自室の家具等は、確認出来ませんでしたか?」
個々人の記憶や電子的な記録だけならすぐにどうとでもなるかもしれませんが、そう言ったものは…簡単には片付け切れないものでしょう?
セレスティのその問いに、美幸はやはり同様に首を振り否定する。
が。
「家具は…確かにありました。でも…」
言葉は肯定。
けれど、彼女のその態度とセレスティが聴き取った語感は…明らかに否定で。
「?」
「…無理に頼み込んで家に上がらせてもらったんです。階段を上って右側、二番目の部屋、そこが妙子の部屋だった筈なんです。何度も遊びに行った事がある筈なんです。なのに…」
その部屋は、空き部屋で。…見覚えのある妙子の机やベッドみたいな大きな家具は確かにありました。ですが――それだけで。まるで、物置みたいな、もう何年も人が入っていないような、人気が全然無い部屋になっていて。絶対に長い間誰も使っていない、置かれている家具からもそんな印象を受けました。
家具はあったとしても、そんな空気こそ――絶対に誤魔化せない筈のものだから。
…きっと、小父さんにも小母さんにもおかしい子だと思われたと思います。
でも、確認せずには居られなかった…。
消え入るような声で叫ぶように言いつつ、美幸は唇を噛む。
セレスティは静かに頷いた。
「当然だと思いますよ。私が君の立場だったとしても、誰に何と思われようと確認せずには居られないと思いますからね」
それに…それが妙子嬢の物だと確認出来なかったにしても、携帯電話の番号が残っている時点で、その時に君に電話が掛かってきた事だけは――間違いが無い訳なんですからね。
ではひとまず、その番号の契約主を電話会社に照会してみましょうか。
セレスティは美幸を元気付けるように微笑みつつ、その番号、お教え頂けますか、と静かに促す。促されるまま美幸が伝えると、セレスティは自分の後方――少し離れた場所に佇んでいた黒服の部下を当然のように呼び付ける。そして、その黒服に番号を伝え、何事か託すと黒服は目礼しセレスティの前から下がった。
美幸はその姿を何処か茫然と見ている。確かに、目の前で起きているとは言え別世界の出来事だろう。自分の正面に居るセレスティ・カーニンガムはアイルランドに本拠を置く、長い歴史を誇るリンスター財閥の総帥である。…それが無くとも、ただ、その美貌だけでも圧倒される物があると言うのに。
そのまま美幸は暫し茫然とセレスティを見ていたが、程無く。
つい先程セレスティに何事か託されたと思しき黒服が戻って来た。美幸も我に帰り黒服の話に聞き入る。が。
伝えられた結果は――この番号の契約者は、存在しないと言い切られた、らしい。
「…着信が残っているのに、そう来ましたか」
「はい。…有り得ないとのお話で。何かの間違いではないかと」
黒服の言葉に、セレスティはふむ、と考える。
「どうも、実際に『同じ事』をやってみない事には…どうしようもなさそうですね?」
妙子嬢がしたと言う、合わせ鏡を。
「…え?」
言った途端の怯えた美幸の声に、セレスティは安心させるように頷いて見せる。
「大丈夫ですよ。私が付いてますから」
■
…真夜中の学校は何も無くとも居心地の良い場所とは言い難い。
その上に、今は。
寒そうに震える姿――冷たい夜気のみが理由では無いだろう――の美幸と、ステッキを突いた姿のセレスティ。セレスティはそこに部下が同席する事を許さず、結果この場――美幸の在籍する学校の、件の大鏡が掛けてある階段の踊り場――にはふたりだけがいる。依頼主である美幸は外せない。が、万全を期するなら自分ひとりで来るべきだったとは思う。この気配は――確実に何かある。セレスティの鋭い感覚はその場に来た――否、この学校に来た時点でそう言っていた。…それは現実的な事柄ならば人を、部下を、数を頼んだ方が余程安全な事も多い。けれど事が『こちらの世界』に関るのであるならば――何かがあったなら、自分だけの方がいい場合もある。
自分の部下や、自分を頼ってきた者を、危険に晒すつもりは無い。
「噂になっているのは、この鏡…ですね」
そ、と鏡面に触れつつ、セレスティは瞼を下ろし黙り込む。
「…あ、あの」
鏡に触れて黙り込むセレスティに不安を感じたか、美幸がおっかなびっくり声を掛ける。声が震えている。恐怖。それは誰の感じているものか。美幸の? 妙子の? …それとも。
「ああ、申し訳ありません。大丈夫ですよ。それに…粗方わかりました」
「え…?」
「美幸嬢、妙子嬢は、やはり居たのでしょうね。…残念ながら、諦めるしかないようですが」
セレスティの唐突な言葉に、美幸は弾かれたようにその顔を見上げる。
「ひとつ、お伺いします。君はもし…妙子嬢を――妙子嬢の存在を根底から消してしまった当の『怪物』が目の前に現れたとしたら、どうしたいですか?」
「ど、どうしたいって」
「私はその沢妙子と言うお嬢さんを知りません。ですから…それは君が決める事なんですよ」
…私であるならば、友人を殺した相手を絶対に赦しはしませんが。
君は、どうですか?
その科白に美幸は息を呑む。
「――殺したって」
「厳密には殺した…とは言えませんか。今の私たちが知る限り、妙子嬢の存在自体が初めから無い事になってしまっているのですからね」
殺すと言うのなら、殺される前までの記憶や記録は残るものですから。
…けれど、大差無いでしょう。
大切な人が、不条理に奪われる、と言う意味では。
「でも、そんな、殺したなんて…そんな怪物が本当に…っ」
ここに、居た…?
大鏡の前、階段の踊り場で。
深夜零時、同じ条件で、合わせ鏡をしたなら?
今、ここで。
顔面を蒼白にし、美幸はぶるりと震える。
「ええ。妙子嬢が仰ったと言う『怪物』は、居ますよ」
ここで深夜零時に作った合わせ鏡を入口として、現れます。
どうしますか?
恐ろしいと言うのなら、止めますか。
ですが、何も解決はしませんよ。
今、合わせ鏡をせずにこのまま帰って、二度とここに近付かない――そう決めたとしても、生涯、君の恐怖は、消えないでしょう。
…どうしますか?
「わ、私…は」
「君が恐ろしいのは『何』ですか? 妙子嬢が消えてしまった事が? 彼女の悲鳴? 『怪物』の存在が? 次は自分が襲われるのではと思うから? それとも、自分だけがおかしくなっていると言う不安?」
重ねられ、美幸は言葉に詰まる。
そんな姿を見、セレスティは何処か寂しげに微笑んだ。
「『君だけ』が怖いのだとお思いですか?」
生き物が他者を襲う理由には、何があると思いますか?
――訳も無くいきなり他者を襲う者など、人間程度しか居ませんよ。
「…え?」
「始めましょう」
言い切り、セレスティは持っていた手鏡を開く。それだけで美幸は声にならない悲鳴を上げた。が、セレスティは止めない。何が現れても、君を傷付けさせはしませんよ、そう告げ、大鏡の鏡面に、手鏡の鏡面を照らし合わせた。
途端。
ずるり。
ぬめる黒い何かの先端が、大鏡の鏡面から重そうに突き出された。尖った先端――爪。続く足。人型とは程遠い――得体の知れぬ鱗めいた肌。次いで現れる頭。まるで、巨大な蜥蜴のような――。
その蜥蜴めいた怪物は、セレスティと美幸の姿を認めると、予想も付かない足の速さで歩み寄り、ふたりを齧り付こうとでもするようにかっと口を開いた。その口腔には鋭い牙がびっしりと生えており、凄まじい速度でその牙が降って来る。そんな形。牙が達する。食われる。美幸が恐怖に目を見開く。動けない。
が。
セレスティは常から、視覚では無く、その他の鋭い感覚で動いている。
その感覚を持ってすれば、反応は――美幸は勿論、蜥蜴めいたその怪物より余程速かった。
今にも食われる、そう美幸が思った刹那の間に、怪物の動きの方が――凍り付いている。
………………申し訳ありませんが、私は――私たちは、君の餌食になるつもりはありませんよ。
「…先程伺った事を覚えていますね。…君が、『どうしたいか』決めて下さい」
怪物が凍り付いたそこで、セレスティの静かな声が美幸の耳に届く。
決めて下さい。
妙子を奪った怪物。
牙を剥いて今にも襲って来ようと言う姿。
どうして、この人はこれ程落ち着いているんだろう。
怪物は動かない。
どうして?
複眼のような目が、美幸とセレスティを見つめている。
引きつるような震えが、蜥蜴のような怪物の四肢に起きている。動こうとしているが動けないような。何かに必死で抵抗している?
けれど、動かない。
セレスティは、美幸の肩を押さえ、庇うようにしたまま、ただ――黙っている。
美幸からの答えを待っている。
…そのままで、どのくらい時間が経っただろうか。
震える怪物の身体から、力が抜ける。
刹那。
――――――帰リタイ
爆発するような思念が飛び込んでくる。帰還への渇望。元の世界へ。自分はここに居るべき者じゃない。だから。そこに居る証。『在る』証。食べなければ消えてしまう。イヤダ。怖イ。助ケテ。
タスケテ。
カエリタイ。
カエリタイ。
そんな、強烈な意志を遺して。
その、『怪物』は。
爆発するように粉々に、砕けた。
黒い粉が降って来る。が、その粉は――床に落ちたと思ったら、消滅し。
…やがて、怪物が居た証は、その場の何処にも無くなってしまった。
美幸は、そのまま立っていられずへたり込む。
何が起きたのかわからない。弱々しい、血を吐くような、叫ぶような、酷く辛い、そんな感覚が唐突に訪れる。これは今の怪物のもの? 否、ただの『怪物』がこんな意志を遺すのか?
そんな、茫然としたまま動かない美幸を見、セレスティは静かに呟いた。
「あの『怪物』も、被害者なんですよ」
心無い人の悪戯…恐らくは未熟なオカルト知識での肝試しか何かで召喚してしまったものなのでしょうが、それによってこの大鏡と言う場に縛り付けられた――『元居た世界に帰れなくなった、異界の存在』なんですよ。
ですが、妙子嬢の命を…『存在』を奪ったのもあの『怪物』ですから。
私ならば、友人を奪った相手である以上赦しませんし、生かしておくつもりもありませんが、あの『怪物』の立場に立つならば…それは必要な糧でもあった訳ですからね。
そして君ならばどうするかは――会って、少し話を聞いたばかりの私では判断が付けられません。
「…じゃあ」
貴方は、初めから――。
「ええ。大鏡の記憶を拝読した時点で。…ですから、予め伺ったんですよ」
君がもし、友人を奪ったあの『怪物』を赦すと言うのならば、あの『怪物』の運命を曲げて元の世界へ還して差し上げても、私は良かったのですよ?
赦さないと言うのなら、君があの『怪物』を倒すお手伝いをして差し上げてもよかった。
ですが、君は何も決断せずに、ただ怯えているだけだった。怖い、ただそれだけ。…それもまた仕方無いかとは思いますが、そうなると、放っておくしかないでしょう?
殺す気も無い。けれど赦す気も無い。
だからただ、あの『怪物』の体液の流れを止めて――時間稼ぎだけをした。
私は、あの『怪物』の餌食になるつもりはありませんし、君を餌食にさせる気もありませんからね。
元々、引きずり出したまま一定時間放っておけば消滅してしまう存在だったようなので、それでも結局、妙子嬢の仇は取れた事にはなりますが。
そう告げ、セレスティはぱたんと手鏡を閉じる。
「少なくとも、もう今の『怪物』が、この合わせ鏡で現れる事はないでしょう」
合わせ鏡の向こうから現れた怪物が、君を襲う事もありません。
もう、大丈夫ですよ。
大丈夫。そのセレスティの言葉に、美幸は漸く安堵する。言葉の効果。大丈夫。そう言ってもらえただけで、今度こそ本当に緊張が解けた。
解けるなり、ぽろりと涙が流れる。
「…あ」
助かったから?
否、それだけでは無い。
もっと、他にも理由がある。
けれど認めてはいけないような。
正体がわからない涙。
それでも、その涙は止まらなくて。
まるで。
…『タスケテ』。
自分を含め――そう願った者の思いがすべて、今の美幸の中にあるようで。
【了】
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