|
海石榴は朱に染まる
願わくは、彼の花のように―――。
はらり、と視界の隅で白いものが舞った。ふわりと軽く、暗く濁った灰色の空から落ちる白いそれを、少年はぼんやりとした目で見つめた。頬に落ちたそれが、一瞬の冷たさの後にじわりと溶けていくのが分かる。
あぁ、雪だ…雪が降っている…。
自らの頬に、髪に、身体に舞い落ち、降り積もっていく白いものが雪であることに、少年はようやく気が付いた。寒さのためか、すでに手足の感覚はない。
こんな場所で、俺は死ぬのか…。
雪に埋もれながら、彼の脳裏をそんな思いがちらついた。思えば、こんな雪の日に、たった一人で村を出たのが間違いだったのだ。普段は通りなれた小道も、雪に埋もれたこんな日は大人でも迷いかねない場所に変わる。道に迷った彼は、山道をさ迷い歩くうちに険路に迷いこみ、雪に足を取られて谷の底に落ちたのだ。幸い、谷は深くなく、落ちた彼の体は高く積もった雪と、海石榴の木が受け止めた。だが、気を失っていた僅かの間にも、真冬の寒さは容赦なく少年の体温を奪っていたのである。
ぽろり…と少年の両眼から、熱い雫が滴り落ちた。このまま、自分はここで死ぬかもしれない、そして、村へ帰ることは出来ないかもしれない…。そんな死の恐怖と、村で戻って来ない自分のことを心配しているだろう家族の顔を思い出して、思わず零した涙だった。苦い苦い涙を流す彼の頬に、冷たい雪が降り注ぐ。じんじんと痛む耳元を、雪風が音を立てながら吹き抜けていった。
「人の子か…」
冷たい風に入り混じるように、低く呟かれた言の葉が、少年の耳に静かに落ちる。そっと目を開けると、いつの間にか、彼の目の前に草鞋を履いた白い足があった。男だ。冬場にしては薄い小紋の小袖を着た男。無造作に束ねられた黒髪が、地表を吹く風に弄ばれ、その背で揺れ動いている。更に上に視線を上げた少年の目は、目の前の男の目とぶつかった。銀色の、真冬の月を思わせるような一対のそれが、男の整った顔の中で異彩を放っている。
妖しだ…。
少年は、霞がかった頭でそう認識した。こんな瞳は見たことがない。人ではない、何の感情も移さない鏡面のような目。そこに、地面に倒れ付す自分の姿を見つけて、彼はうめき声を上げた。白い雪の上に、無様に倒れた自分。血の気のない腕や足は、まるで蝋のようだ。
死にたくない…!
そんな思いが、少年の中を駆け巡り、彼は凍えた体を動かそうともがいた。起き上がろうと手を雪上につくが力は入らず、足は見苦しく雪煙を上げるばかり。一度は止まった涙が、少年の頬を熱く濡らした。
「生きたいか…?」
検分するように、少年の様子を隅々まで凝視していた妖しが、まるで独り言のような言葉を呟く。その言葉に刺激されたように、凍った少年の胸に熱い思いがこみ上げた。
生きたい、生きたい…死にたくない…!
ぽろぽろと涙を零す彼の前で、ふっと妖しの頬が緩んだような気がした。伸ばされた白い手が少年の体をつかむ。そして、訪れる一瞬の浮遊感。
「お前は、もう死ぬ。だから、一度きり、特別だ。」
どうせ喰っても足しにもならん。
体温などないかのような冷たい肩の上で、そんな言葉を聞きながら、少年は静かに目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、一対の氷月と雪の中に咲き誇る赤い海石榴の花。揺られ、何処かへ運ばれながら、少年は何時しか意識を手放していた。
「おい、起きろ。こんな所で、うたた寝などしては風邪を引く。」
頭の上から、誰かの声が響いている。耳触りのよい低音。しかし、気持ちのよいまどろみを邪魔されて、彼は煩そうに寝返りを打った。その途端、声の主だろうか、誰かが困ったように溜息をつく。と同時に、些か乱暴に己の体を揺すられて、男は薄っすらと目を開けた。
眩しいほどの光と共に目に飛び込んできたのは、鮮やかな紅。どこまでも青く澄みわたった空に、高く伸ばされた枝に、綺麗に色づいた紅葉の赤だった。その向こうには、黄色く色づいた木が、そのまた向こうには橙の葉が、まるで錦を織り成すように重なり合っている。目の前に広がる光景は、秋のものだった。
目をしょぼしょぼさせながら、大きく欠伸を一つして、男は柔らかな陽射しの差し込む縁側に起き上がる。日の光は、夏場ほどの激しさは既になく、柔らかく彼の体を優しく浸していく。
ここは、あの雪深い谷底ではない。人里離れた友人の庵だ…。
やっと、その事を認識し、白く寒い、冬の夢の残滓を追い払うように、男は大きく一つ息を吐き出した。安堵の入り混じった、大きな大きな溜息を。
「目は覚めたか。」
「あぁ、すっかり寝入ってしまった…。」
部屋の中からかけられた声に、男は背を向けたままで応じた。声の主が、この庵の主であり、彼の友人でもある、有働祇紀のものだと分かったからだ。
「そうだな、随分、深く眠っていた。起こすのも忍びなかったのだが…何分、この辺は、冷え込むのが早いのでな。」
密やかな笑い声を含んだ声音に、あぁ、と軽く返事を返して、男は些か乱れた衣を直す。彼が纏うのは、仏僧達が旅にでる際に着る装束だ。衣を直す男の腕では、紫檀の小さな数珠が触れ合って、小さな音を立てている。傍らに立てかけられた錫杖。縁側には、古びた傘が投げ出されている。男は、旅の途中の僧であるらしかった。
「茶でも、どうかね?」
外の景色に見惚れているらしい僧の背に、部屋の中から、有働が声をかける。囲炉裏にくべた薪がはぜ、しゅん…と鉄瓶が湯気を噴いた音がした。日々の暮らしの中で聞きなれた、どこか心休まる音を聞きながら、僧はゆっくりと口を開く。
「いや、白湯を一杯貰えれば、それで良いよ。」
それから、また男は何かを考える風情で口を閉ざした。白湯を注ぐ椀を用意しながら、その様子に有働は、違和感を覚えた。元々、友人である僧は、それほど口数の多いほうではない。しかし、少ない方ともいえない。普通ならば…と、静かに白湯を注ぎながら、有働は思う。
普段ならば、旅の土産話の一つや二つ、始めそうなものを…。
そんな有働の胸中を雰囲気から読んだものか、僧は、外を見ながら、もう一度口を開いた。
「なぁ、有働…」
「どうした。」
白湯を注いだ椀を持って縁側に姿を見せた有働の淡い金の髪の上で陽光が踊る。きらきらと光り輝く陽光に、触発されたのか、さぁっと吹き込んだ涼風が、彼の長い髪を戯れるようにして揺らした。僧は、異端の容姿の持ち主に眩しそうな目を向けただけ。出会った頃から、己の容姿にも出自にも一切、口を出さない、この男のこういう所を、有働は好ましく思っていた。黙ったまま、有働は僧の横に椀を置くと、その場に座り、目線を外へと向けた。
「なぁ…次は、何時会えるだろうな…。」
「いつでも、気が向いた時に来れば良いではないか。」
何を今更、と言いたげな声音で、そう言われ、僧は手の中で白湯の入った椀を回しながら、苦笑いを浮かべた。
「うむ、それはそうなのだが…。」
「なんだ、来られなくなりそうな事情でも出来たか?」
友の様子に不可解な物を感じ取って、有働はそう問いかけたが、僧はちらりと複雑な顔を浮かべただけで、その問いには答えず、代わりに庵の広いとは言えない庭の片隅に目を向ける。そこには、堂々と枝を茂らせた、大きな椿の老木あった。
「…あの海石榴が咲く頃に、会えるといいがな。何時も気になってはいたのだが、まだ、花は見た事がない。」
「お前は、冬場には訪ねて来ぬからな。人里離れてはいるが、それほど雪深いと言う訳でもない。左程、大変な道という訳でもないのだが、はて…。」
考え込む風情の有働の横顔を、傾きかけた日が紅葉の赤を移したかのような朱色に染め上げる。その横顔をちらりと眺めて、僧は手の中の椀に目を落とした。いつの間に落ちたのか。椀の中には、一片の紅葉が所在無げに漂っている。その椀を大事そうに抱えたまま、僧はポツリと呟いた。
「…雪道には、ちと嫌な思い出があってな。出来れば、通りたくはないのだ。だが…海石榴は好きだ。あの花の散り方に『首が落ちる』のをかけて、縁起の悪い花だと世間では言われているが、俺は寧ろ、潔いとすら思う。」
ぐいっと僧は、椀の白湯を紅葉ごと、飲み干した。そのまま、空ろな目を空へと向ける。
「……己が死ぬる時は、あの様にありたいものだ。」
「縁起でもない事を言うな。」
眉間に皺を寄せて、有働は、彼を睨み付けた。冗談なら性質が悪い。冗談でないのなら、尚更だ。
「怒ったか、有働…。」
そんな彼の様子に、困ったような顔を向けた後、僧は虚空に向かって、ふっと小さく笑った。困っているだけではない、どこか寂しげで、何か思い悩んでいるような、それ。ほんの一瞬で消え去ったそれが、有働の琴線を刺激する。嫌な予感が、じわりと彼の脳裏をよぎったが、それを意図的に有働は頭の中から閉め出すことで、払拭した。一瞬でも、友の顔に死相が見えたなど、あってはならない…。
有働が己の思考の淵に沈んでいる間に、僧は元の様子に戻っていた。
「悪かった。怒らせるつもりはなかったのだ。…しかし、どうにもいかんなぁ…。仕事の前は、要らん事を考えすぎる。」
「仕事だと?」
僧の言葉を聞きとがめた有働が、言葉を返す。
「おう。」
「また、退魔の仕事を請けたのか。」
「勘違いするな、お鉢が回ってきたのだ。好んで受けた訳ではない。」
刺すような、非難を含んだ視線を向けられて、僧は軽く肩を竦めてみせた。僧は、人の世の影で蠢く妖しを人知れず退治する、退魔集団に所属している。それゆえに、このような仕事が回ってくる事は仕方ないのかもしれないのだが、しかし。
「相手は誰だ?」
「…どうした、有働。今日は、やけに、気にするのだな。」
何時もとは違う有働の様子に気が付いたのか、僧が不振そうな目を向ける。だが、有働はその問いに答えることができなかった。
「まぁ、いいか。今回は中々、厄介な相手とやり合わねばならん。長い間、同士どもが追い掛け回して捕まらなかった相手でな。こっちの犠牲者だけが増える一方。暫く、なりを潜めていたんだが…最近、また動き出したらしい。」
「その相手をお前が、か…。」
「あぁ…。」
そう呟くように答えた後、僧は暫し、逡巡した後、唸るような声で付け足した。
「黒髪に銀の目をした男の妖し…。長の占いによれば、人の手で意図的に生み出された付喪神…であるらしい。」
付喪神という言葉に、有働の眉が跳ね上がる。何故なら、彼自身も古い剣が意思を持ち、姿を得た付喪神であったから。持ち主が幸せであれば、道具もまた幸せであり、人なくして、道具の幸せは有得ない、そう思っている有働にとって、人に危害を加える付喪神の存在を放って置くことなど、できはしなかった。
「気になるか?」
「む…。」
ピタリと胸中を当てられて、有働は些かムっとした顔になり、口を噤んでしまう。その様子とは対照的に、僧は愉快なものを見たといった風情で、笑みを零した。
「隠しても無駄だぞ。興味がある、とお前の顔に書いてある。」
ひとしきり笑った後、僧は至極真面目な顔を、むっとしたままの有働に向けた。
「…危険な追跡行だ。次は何時帰れるか分からん。それでもいいなら、共に来るか…?」
「同行させて貰おうか。」
友の中に見た死の影。付喪神の存在。気になるものを二つも見つけて放置しておく気にはなれず、有働は、その言葉に深く頷いた。
はらりと、深く被った編み笠の上に、色づいた落ち葉が雨のように落ち掛ける。さくりさくりと、地面に敷かれた落ち葉の錦を踏んで、二人は秋色に染まった庵を後にした。
雪が雪原を凪いだ。
舞い上がった雪片は、陽の光の射さない暗い天下に、ぱっと儚く散り、そのまま、風に任せて押寄せる白い波になった。吹き降ろしの風に乗って、荒れ狂う白が、全てを飲み込もうと暴れだす。
山も。谷も。湖も。村も。
全てが冬色の空の下、白く染められ、埋もれて深い眠りへと落ちる。漂うのは、時間さえも止まってしまったかのような、凍えるような冷たい静寂。
それだけが、白い世界の中に、流れ続けていた。
深い深い山の奥。谷の間に、風神の目から、ひっそりと隠れるように作られた小さな集落で、異変は始まった。地吹雪の吹き荒れる最中、村の外れに、その男はひっそりと現れた。背中で束ねた長い黒髪を風の弄るにまかせ、真冬に旅をする者にしては薄過ぎる縞の着物に身を包む。異様な雰囲気を纏った彼は、まるで影か幻の如く、ふらりと村に入りこんできたのだ。
吹雪の中の来訪者。村人にとって不幸だったのは、それが、ただの人ではなかった事。男は人型をしていながら、人でないもの。山中に奥深く、人の目から逃れるように地に潜み、呪を吐出し続けた『鬼』達が、己の命と引き換えに生み出した呪物だった。
血、鉄、呪言、涙、憎しみ、怒り、妬み…あらゆる負の要素が、山神の懐で混ざり合い、溶け合った末に、一つの形を現した。即ち、鋭い小柄に意志と呪いを宿し、人身に変わる術を得た付喪神としての姿を。
それも今となっては、昔々の物語。人の世に生まれ出た付喪神は、己の出自が物語に変わるほどの長い間を、ひたすらに力を蓄えることに費やした。否、壊し、食らうは、刃としての彼の本性の成せる技だったのかもしれない。だが、長い年月の間、そうして力を蓄えた付喪神は、危険過ぎる化物として、今や退魔士どもの目の仇にされていた。人でありながら、人を超えた力を持つ退魔士は、確かに旨い。だが、それも度を越えれば煩わしさの方が先に立つ。それゆえに、彼は人目を避けるように山中に篭り、数ヶ月ぶりに、この村を見つけたのだ。彼にとっては、格好の餌場となり得る、この場所を。
だが、村人は、誰一人として村に訪れた災厄の足音に気が付かなかった。
腹が減った―――。
久々に人間の生活の匂いを感じ取った付喪神の本能が、彼の身体の奥で叫び声を上げる。食いたい、食いたいという叫びのままに、付喪神は村の中へと足を進めた。真冬の山村、しかも吹雪の中ということもあり、村の中に人影はない。だが、何軒もの粗末な小屋の中に、求めるものの気配を感じて、彼はペロリと上唇を舐め上げた。だが、付喪神は足を止めず、村の中を歩き回る。小屋の中に隠れる餌を追い立て、狩るのは最後の楽しみに取っておこうと決めたのだ。そして、小さな山村の一番奥、山を背負った小屋の前で、彼は求めていたものを見つけた。
暖を取る為の薪が足りなくなったのか、両腕に薪を抱えた老人が、家の前に立っている。ふと、人の気配を感じたのか、老人は、地吹雪の吹きつける中で目を凝らし、自分に向かってくる人影に気が付いた。何時の間に現れたのか、一人の男が自分の方へと近づいてくる。その姿に声を掛けようとした老人の首筋に、付喪神の手が伸ばされた。
おぉう…美味い、美味い。久々の甘露ぞ…。
付喪神の中で、暗く赤い炎が歓喜の声を上げる。同時に、生気を奪われ枯れ木のようになった老人の腕から、ボトリと薪が雪の中へと落ちた。その音を聞きつけたのか、小屋から老人の妻らしい老婆が顔を覗かせる。彼女は、突如、目の前にさらされた夫の無惨な姿に、絹を裂くような悲鳴をあげた。
山中の雪は深く、見渡す限り、辺りは白一色に染められている。その中を、旅装束に身を包んだ二人の人物が、深雪を掻き分けながら進んでいた。一人は錫杖をつき、一人は編み傘から零れた金の髪を背中へ払いながら、何かを探すように山中に分け入っていく。秋口に妖しの追跡行を開始した僧と有働だった。先日、僧の同志である術者から、この山中に件の妖しが逃げこんだことを聞き、その後を追い掛けて来たのだ。
「やれやれ。こう雪深いと足跡を辿るのも容易ではないな。」
編み傘を上げ、額の汗を拭いながら、僧がぼやく。その隣で、神経と研ぎ澄ませ、何かを探っていた有働が、静かにするよう、身振りで僧の動きを制した。ぴんっと張り詰めた寒気の中に、微かだが妖気の匂いがする。有働が何か言おうと口を開けた、その時。
山中に漂う透明な静けさを引き裂いて、悲鳴が天へと木霊した。
先に動いたのは、有働だった。躊躇いもなく、彼は雪の積もった山の傾斜を駆け下りる。雪煙を上げながら滑るに任せ、谷まで降りようという彼の後を、一呼吸遅れて、僧が追いかける。収まっていた風が、二人の行く手を阻むように唸りをあげ、木々に積もった雪を次々と頭上から落としていったが、二人はその足を止めることはなかった。走り、滑り、雪を掻き分け、とにかく前へ…。
やがて、視界が開けた時、彼らは追っていたものと遭遇した。
村の中の開けた場所に、それはいた。薄い衣に身を包み、人外の気を纏った異形の男。その手には、枯れ木と見紛うような、人の手らしきものがにぎられている。更に、その足元、薄らと雪の積もった地面の上にも、同じような状態の遺骸が数体、転がされていた。
「また、五月蝿いのが来たか。」
心底、煩わしそうに呟いた付喪神の手から、枯れ果てた細腕が雪の中に、どさりと落ちる。その重みで舞い上がった粉雪が、風に煽られて、一瞬、追う者と追われる者の間に白い隔壁を作り出した。
その隔壁の向こうから、冷たい月明かりを宿したような一対の目が、じっと二人の様子を伺っている。銀月のような目の色を見た僧は、有働の横で僅かに顔色を変えた。
あの銀色は…あの時の…。
僧の様子に、怪訝そうな顔を少しの間、浮かべた有働だったが、すぐに、その目を目の前に立つ付喪神へと向け、一歩足を踏み出した。
「…この村の住民を食ったのか…。」
「それが、どうした…。」
「何が目的だ。どうして、人間を食らう?」
「目的…?そんなものはない。食わねば死ぬ。生きるためには、食うしかない。それだけだ。」
銀と鋼。二対の刃の如き瞳が、真っ向からぶつかった。人を食う意味を問いただそうとする有働と、生きるための本能だと口にする付喪神の間に、何時切れてもおかしくない糸のような、緊張感が漂う。
一触即発。
人の姿をした二振りの剣が、今、まさに刃を交えようとしている。だが、付喪神の隙を伺っていた有働は、僧に肩を掴まれて、その機会を失した。
「何をする!?」
突然の出来事に、有働は思わず、僧の方を振りかえり声を上げた。目を向けた先にある何かを決意したような僧の目が、彼の顔を真っ直ぐに見返す。
「すまんな、有働。ここは、譲ってもらおうか。こいつだけは、俺がやらねば…。」
僧と目の前の妖しの力の差は、歴然としていた。妖しの男は、間違いなく強い。少なくとも、人間が勝てる相手ではないだろう。戦えば、僧が不利なのは、有働も十分に分かっていた。分かっていたはずなのに、彼は僧を止めなかった。否、止めることができなかった。それは、彼の覚悟を見てしまったからだったのかもしれない。友を止める術を持たぬ己に対し、苦い思いに駆られながら、有働は一歩後ろへ退いた。代りに、僧が付喪神の方へと、その身を向ける。
「十数年ぶりか…。あの時の恩を仇で返すことになるとはな…。」
小さく呟きながら、彼は被っていた編み傘を無造作に投げ捨て、蓑を肩から滑り落とす。雪風に消えてしまいそうな程の呟きは、しかしながら、目の前の付喪神の耳に届いていた。
「十数年前だと…?何の話だ…。」
「覚えていないなら、それで構わん。ただ、遣り合う前に礼を言おうと思ったまで。」
途惑ったような様子で口を開いた付喪神に、僧は錫杖を付きつけながらも、言葉を紡ぐ。その言葉を、ふんっと付喪神は鼻で笑い飛ばした。
「礼を言われる筋合いなどない。」
煩わしい術士風情が。
言外に、そう吐き捨てられた事を感じとって、僧は思わず苦笑いを浮かべた。この男にとって、自分を助けたことなど、ただの気まぐれでしかなかったに違いない。以前から、漠然と感じていた思いが、彼の中で確信に変わった。
だが。例え、それが気まぐれだったとしても……。
苦笑いを納め、僧はしっかと錫杖を握り締める。その顔は、退魔士のものとなっていた。
「さぁて、お相手願おうか。」
妖しと術者。決して合い入れぬ二人が、同時に雪面を蹴り上げる。先に仕掛けたのは、付喪神の方だった。雪ほどに白い、彼の腕が刃となって唸りを上げる。それは、僧の胴を狙って繰り出された斬撃だったが、すんでの所で僧の錫杖が受け止めた。ガツンと鈍い音を立てて、触れ合った刃と杖が剣花を散らす。一度、身を離し体勢を整えた付喪神が、再び刃を繰り出した。腕、髪、指先。あらゆる部分が、僧を狙う剣となって、その身体に襲いかかる。幾つかをその身に受けながらも、僧は付喪神の刃を斬撃の勢いもそのままに弾き返し、その勢いに一瞬、隙を見せた妖しの身体に、容赦なく術を叩き込む。
白い雪原に朱を散らし、塵埃を巻き上げながら、二つの旋風が攻めぎあい、ぶつかり合う。その光景を有働は、黙って見守っていた。今、戦いに介入すれば、前を向いたままの妖しを倒す事はたやすい。だが、そうすれば、友は自分を怒るだろう。
助力したくなる気持ちを押さえ、有働は、ただなす術もなく戦いの行方を見守った。普段は穏やかな友が、鬼の形相で咆えている。刃を穿たれ、血を流し、それでも地に臥すことを良しとしない僧の姿に、何故…という思いが、彼の内から込上げた。
何故、そこまでして戦おうとするのか。戦わねばならないのか。
その理由は、恐らく、友の過去に起因するのだろう。それが、どんなものであるか、有働は知らない。友と自分との間に、過去など、関係ないものであったからだ。だが、こうなるならば、少しは過去も聞いておくべきだったか、と有働は僅かながら後悔し、目を伏せる。
彼の目の前にいるのは、有働の友である彼では、なかった…。
風が、渦を巻いている。
その中心で、付喪神はガクリと雪上に膝を折った。満身創痍のその体には、先程、食った命の欠片など、もう一片すら残ってはいない。体の中で、喰いたい、殺したいと暴れる赤黒い狂火が、己の体を蝕み始めたのが分かる。
生まれて初めて遭遇した難敵に、付喪神は明らかに動揺していた。口の中が異様なまでに乾いている。
お前は誰だ。
そう問おうにも、口の中からは、ただ息が零れるばかり。付喪神は、己の身に言葉を紡ぐ力もないのを自覚した途端、諦めたように目を伏せて動きを止めた。そんな付喪神に、ひどく優しい目を向けて、僧もまた錫杖を引く。雌雄は決した。それを見届けて、有働は二人の方へ、ゆっくりと歩み寄っていった。
「…止めは刺さぬのか」
「あぁ。こいつがやってきた事は、確かに許しがたい事ではあるが、御仏にも慈悲はある。」
僧は、静かに言葉を紡ぐと、両手を合わせ目を閉じる。荒々しい気を抑えるように、ゆっくりと息を吐き出した、その顔は何時もの僧の顔だった。鬼から人間へ。友人が、見なれた顔に戻ったことに有働が安堵の息をついた、その刹那。
突如、伸ばされた白い腕が、僧の体を深々と刺し貫いたのは―――。
にまりと、白い腕を朱に染めて、付喪神の唇が半月に歪む。愉悦の中に一抹の苦さが漂う笑みを貼り付けた付喪神の顔に、僧は朱色をした命の源を零しながら、笑った。場違いなほどに、愉快そうに笑いながら、彼は左手でしっかと己の体を貫く腕を捕まえる。
「あの時、あんたは俺の命を助けた。気紛れだったにしても、な。俺の命は、あんたのものだ。」
僧の右手が、印を結ぶ。
「『一度きり、特別だ。』」
かつて、目の前の付喪神が彼に向かって呟いた言葉を口にして、僧は低く呪を唱え始める。低く、そして高らかに。和音の響きを持って、それは緩やかに寒気の中に刻まれ、付喪神の体を取り巻いていく。
駆け寄ろうにも足が動かぬ時間が過ぎる。その時間は、長かったのか、短かったのか。有働には、それすら分からなかった。
ゆっくりと、僧が呪を結び、口を閉じる。それと同時に、その体がぐらりと傾いだ。すでに、妖しの姿はない。あるのは、僧の体に刺さった一振りの小柄のみ。その刀身を引き抜いて、僧は雪原へと落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
雪原に倒れ、朱を吐く僧を駆け寄った有働が、慌てて抱き起こす。付喪神に貫かれた友の体に、素早く目を走らせて、有働は思わず眉根を寄せた。僧の傷は、思ったよりも深い。刻一刻と、その体から生気が失せていくのが、彼には分かった。
「すぐに、山を降りて薬師の所に連れて行ってやる。だから、もう少しの辛抱…」
「…そんなものは…必要、ない。俺は、ここまでだ。」
「そんな事を言うな!!」
有働の言葉を遮って、呟くように漏らされた言葉に。血を吐くような叫びが重なる。普段からは、想像もつかない声音に、ふっと僧は困ったような笑みを浮かべた。
「決めていたことだ、気にするな…。それより、有働…。」
「なんだ?」
「こいつを…守ってやってくれんか…。封じたとはいえ限度がある。こいつは、眠っているに過ぎん。これから、恐らく退魔士どもが、こいつを壊そうと動き出す…。なぁ、有働、頼まれてはくれんかなぁ…?」
差し出されたのは、一振りの小柄。あの、付喪神の本体だという、それ。有働は、それを受け取る事ができなかった。
「嫌だ。何故、そうまでする必要がある?お前を殺そうとした相手だ、それを…」
「…ずぅっと昔になぁ…雪の中で、死に掛けていた俺を…こいつは、助けてくれた…。その恩は、返さねばならん…。」
僧の言葉を聴きながらも、有働は嫌だというように、何度も首を横に振り続ける。その間にも、抱え上げた友の体は、冷たく、固くなっていった。
「なぁ、有働。最期の、我侭だ…。」
何度、そう言われたかは分からない。だが、最期と、そう言われて、彼は小柄を僧の固まりかけた手から受け取った。手から無くなった小柄の重さに、口の端から朱を零しながら、僧は安堵の息をついた。そして、空を見上げる。見上げた空は、陽光のささない、重苦しいほどの曇り空。
そうだ。こんな雪の日だった。あの時も、灰色の空から白い雪が落ちていた…。
「……巡り巡って、元に戻っただけか…。」
次第に狭くなっていく雪空を見ながら、僧は笑った。未練もなにもない。それは、清々しいほどの笑みだった。
「…そ、いや…けっきょ、く……見、れなか…たな……、お前の所、の…海…石榴…。」
青白く染まった頬に、睫が落ちる。ほう、と大きく息を吐き出して、僧の両目は固く閉じられた。その二度と開かない瞼の上に、白い綿毛のような雪が、ふわりと舞い降りる。
冷え切った友の体を抱き締めたまま、一人残された男の涙泣き慟哭が、灰色の重き天を揺るがした。
雪が降っている。
白く…白く、全てを染め替えようとするかの如くに、雪が降っている。
さくりさくり、と柔らかい雪を踏みしめて、男は数ヶ月前、友と共に発った己の家へと戻ってきた。傍らに友の姿はない。代わりに、友を殺した刀を携えて、彼は庵の前に立った。
腕の中の小柄を、男は無言で眺めやる。椿の透かし彫りを施された見事な小柄。長い時の間、多くの人を喰らってきた呪物。そして、友を殺した刃。
その刀身を見る度に、壊してしまえ…という暗い声が、男の胸中に木霊する。だが。
「約束したのだ…。」
壊さぬと、見守ると。
その果て。何時か、この刃が、もう一度、人型を成すようになった時。自分は、どうするのだろうか。
何度も自問し続けた答えのない問いを頭から追い出して、男はゆっくり建てつけの悪くなった庵の扉を開けた。
雪が降る。風が、激しく梢の上を駆け抜ける。カタリと閉じられた庵の扉の向こう、雪に埋もれた庭の片隅で、見事に咲き誇った朱色の海石榴が一花、ぽとりと白い雪の中に落ちた。
■終■
|
|
|