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<東京怪談ノベル(シングル)>


飛翔、


 おまえにひとつ噺をさずけよう、と父はいう。
 言葉ならざる言の葉により語られるのは、山岡風太が知らぬ世界の未来であった。ある夢想家の弟子が、その未来を垣間見て、小説というかたちに留めた記録を遺した。
 その未来において、人間は、地球上から滅び去っていたのだ。それも、20世紀末に。
 それまで地球を支配していたヒトというものを滅ぼし、時すら殺したのは、水の精であった。父と風太が憎みぬく、水棲のものである。思い描くだけで臓腑が煮えくり返りそうになるその神は、はじめ、ヒトの姿で目を覚ました。ヒトの姿をした神は、おのれの生い立ちも知らず、何も知らず、無知のまま、神に還ったのだ。
 おまえと同じなのだ、と父はいう。
 おまえもいつか目覚め、あの次元のあの神のように、この地球を新たな主に明け渡すことができるだろう。おまえは、わたしとなって、ハリの湖から飛び立つだろう。
 いや、目覚めずとも、飛ぶことならば容易いことだ。
 さあ、その翼と黄衣をひろげてみせるがいい。おまえはわたしであるのだから。

 ちちよ! ……ちちよ!

 吹き荒ぶ乾いた風の中で、彼はぼろぼろの黄衣をひろげる。
 そのとき、時は止まり、死は死に絶えた。


 風邪を引いたのかもしれない。
 身体がだるいのだ。
 目覚まし時計は鳴っていたはずだが、眠りの中で自分が止めてしまったらしい。時計を引き寄せた風太は思わず唸り声を上げた。これまでにないほどのひどい寝過ごしぶりだった。一校目は終わっているし、二校目ももう終わりかけている。今から大急ぎで支度をして大学に向かっても、三校目の講義すら落ち着いて受けられないだろう。
 それに、まるで持久走をこなしたあとのように、疲労感と倦怠感がひどかった。風太は再び唸り声を上げると、目覚ましを定位置に戻すのもそこそこに、布団の中にもぐりこんだ。今日は夕方からアトラス編集部でバイトの予定も入っている。単純な仕事だろうが、この体調では辛そうだ。この疲れは、奇妙なほど長引く。眠っただけではとれそうもないのだ。
 昨晩は確かに少しベッドに入るのが遅かったが、さほど疲れていたわけでもない。寝る直前に見た天気予報の内容は、よく覚えていない。
 だが、ともかく――風太は、眠りにつく前よりも疲れていたのだった。
 夢のせいにちがいなかった。

 その夢は、風太にとっても、おそらく多くの人間にとっても、不愉快なものではなかった。夢らしい不条理さもあったし、だいいち、気持ちのいい夢だといえた。風太は、夢の中で空を飛んでいたのだ。
 身体の骨が全てなくなったときの感覚は、不思議なものだった。健康そのもので、怪我ひとつ負っていないいまの風太は、全身の骨がなくなったときの感覚など体験できるはずもないのだが、夢の中ではその感覚をひどく自然に受け止めることが出来るのだった。びよびよと風に揺れるおのれの腕が、風を従えているのだった。
 声帯を超えた器官から飛び出した歓喜の歌は、風にのまれて消えていく。コンクリートの塔の屋上から飛び立ち、乾いた風とともに東京を見下ろすのだ。
 風太は幼い頃からその夢を見てきた。もっとも、見た端から忘れていたのだが。
 彼が成長するにつれ、曖昧だったその夢は次第にはっきりとしたものになり、21になった今では、記憶に留まるほどに鮮明になっていた。いまや彼は夢の中で何を見たか、目覚めた朝に反芻することが出来る。
 だから彼は、最近ときどきすばらしい夢を見るようになったと、思い始めているのだった。
 大学付属図書館で、ふと思い立って、夢占いの本を手に取ったのも、つい最近のことだった。空を飛ぶ夢は、その爽快感と開放感の通りに、良い夢であるらしかった。

 しかし、不安になることもある――。
 いまこの朝(もう真昼に近いが)のように、身体の調子が悪くなることもあるのだった。風邪を引いたわけでもなく、前日に重労働をしたわけでもない――それなのに、まるで夜の間ずっと空を飛び回っていたかのような、ひどい疲労感が彼を襲うのだ。その変調はきまってあの夢のあとに訪れた。
 風太は少しも気づいていなかった。
 疲れていて、身体の調子は悪いのに、彼は汗をひとつもかいていないのだ。


 大型の低気圧が関東にせまる夜、山岡風太はまたしても大いなる父の声を聞いた。
 空気を震わせることのない声は、殷々たるもの。
 東京タワーを揺るがす風は畏れ、息を潜める。
 黄衣の王が飛び立ったのだ。
 名状し難きその姿、
 あああ、
 山吹の干物、
 木乃伊の香を炊いたは誰か。
 風は唸る、唸る、吠え立てる、駆り立てる、

 イア! イア! ハスタア! クフアヤク ブルグトム!

 いまは声を立てて呼ばずとも、屍とも蜂とも鳥ともつかぬ従者どもは、黄の風に乗りて馳せ参ず。あぁアアア、青の海の孤島の片隅、東京なる都の姿なぞ、風の爪先の陰に隠れる。
 彼は海を憎み、風を起こす。生臭い東京湾の波が、ざざざと退いて、どどどと裏返る。東京湾の底にしがみついていたものどもは、あえなく乾き、腐り果てた。骨は溶け、流れていった。怒り狂う海の主の夢が震える。
 はァ!
 哂って、彼は眼を返す。
 ヒヤデスの恒星の如くに輝く瞳は、青白い少女の姿をとらえる。殺してしまいたいほどに想い焦がれている彼女は、風を見つめて微笑んだ。
 おいでよ、一緒に飛んでみようよ。風がホラ、すごく気持ちいいからさ。
 伸ばした両手が彼女をとらえ、たちまちばさばさに乾かし尽くす。少女は悲鳴も上げずに壊れていく。彼女は風に向かって手を伸ばしてはいなかったか。
 今日はすごくいい日だ。風がすごくいい感じだよ。だから風に乗ればいいんだ。
 少女のかけらが、風にさらわれ、腐って溶けて消えていく。ヒヤデスへ流れていってしまう。従者たちが貪り、しゃぶり尽くす。
 狂える風に狂った鴉が、ばしい、と黄衣にぶつかった。翼は砕け、舞い散る羽根が黄衣にこびりつき、やはりかさかさと崩れていく。
 アアアイイイ、何も残りはしない。風はすべてを蹂躙す。
 ちちよ! ちちよ!

 がたがたと窓が揺れている――サッシが外れ飛びそうだ。


 ほら、すごくいい夢だろ?


 ……やはり、風邪を引いたのかもしれない。
 身体はひどくだるかった。
 だが、やはり、風邪ではないのかもしれない。きっと、ただ疲れているだけなのだ。喉に痛みもなければ、鼻がつまっているわけでもないのだから。
 風太は目覚ましを何とか定位置に戻して、のろのろとベッドから這い出た。一校目が始まっている時間だったが、今日は幸い、講義が入っているのは二校目からだ。
 一昨日も夢を見て、寝坊し、大学を丸一日休んだのだ。結局、アトラス編集部のバイトまで休んでいた。
 今日はさすがに、そうもいかない。レポートの提出日であるし(幸い数日前に仕上げていた)、アトラス編集部で一昨日休んだ埋め合わせをする約束をしている。それに一昨日よりは体調もいいはずだ――風太は、そう踏んだ。
 もしかすると、身体は夢に慣れてきているのかもしれない。
 悪い夢ではないのだから、早く身体が完全に夢に馴染んでしまえばいいのにと、風太は心中でぼやいた。
 やはり寝汗はかいておらず、風太はよろよろと洗面台に向かって、顔を洗った。
 そのとき初めて、彼はパジャマのほころびと汚れに気がついたのだ。いつの間に、袖口をこんなにも引き裂いてしまっていたのだろう――
 いつの間に、自分はいきものを殺したのだろう。
「……」
 風太は無言で、乾いた血がこびりついたパジャマを脱ぎ、燃えないゴミの袋に突っ込んだ。
「今日から、Tシャツで寝るしかないか……」
 溜息混じりに、彼は呟いた。
 その声は確かに声帯から発せられ、空気を震わせていたのだった。




<了>