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<東京怪談ノベル(シングル)>


インペリアル・グリーン

 たった一人の美しい女の眸の中に。
 この世界一切の真実が隠されているのだと。
 その瞬きを間近で見つめたときに、思い知らされた。

************** **

 ご存知ですか、と。
 中性的な容貌の店主は眼鏡の弦をくいと押し上げるや、大仰な手振りで以って話し始めた。
「古来より、この石を最も愛したのは大陸の国でありました。隣の、近くて遠い国ですね。輝石の王である金剛石は第二夫人に、最も貴い第一婦人にはこの石を贈っていたそうです。ほら、東洋の美人を思わせるぬらぬらと光沢に満ちた石でしょう? 油で一枚膜を張ったかのように、艶を含んだ滑らかさ。触れようとしても、紅い唇の端を吊り上げひょいと身をかわしてしまう…そんな蠱惑的な嫣然たる美を備えた女を、この石は連想させるのです」
「はあ……」
「この世の緑の中で最も美しい翠。インペリアル・グリーン、宝石の皇帝。この石を賞賛し称える言葉は枚挙に暇がありません。貴方もこの石に魅入られ足を止めた一人なのですから、お分かりになりますよね、この品位ある美しさ! この得も言われぬ媚態! ああ、貴方は幸運な方です。今日と言うこの佳き日にこうしてこの石を巡り会うこと叶いました。この奇跡を逃してはいけないのだとご承知置きください。今ならこの石をなんとにじゅうま……」
「はいはい待てよ。そこまでだ」
 段々と熱と悦の入ってきた店主の口上を、それまで生返事で聞き流していた藍原和馬はそこで容赦なく遮断した。わざわざ自分を奥まったカウンターの椅子に座らせコーヒーまで出して、何を始めるかと思ったらバナナの叩き売りならぬ輝石の大セール。目の前に置かれた翠色の石をちらと一瞥し、和馬は「あのなあ」と片肘を付いて店主に視線を戻す。
「悪ィけど、俺ってそんなド素人じゃないんだよな。これがあんたの言う通り極上のジェードか、それともガキの小遣いでも買える程度の石か……まあわかっちまったってことで、いいか?」
 呆れ顔で嘆息して見せれば、店主は一瞬にして愛想笑いを引っ込め「何だ、目の利かれる方でしたか」とつまらなさそうに唇を尖らせる。どうやら自分の見立ては当たったらしい。骨董品屋の手伝いがこんな所で知識として生かされるとは、世の中何が役立つのだか分かったものじゃないない、と和馬は思った。
「貴方も人が悪い。分かっているならそうだと初めに仰ってくれれば良いものを。これじゃあ私、話し損じゃないですか」
「法外な値段で石ころ売りつけようとしてたイカサマ店主にはァ、言われたくないセリフだぜ」
 ハン、と双方鼻で相手に悪態をつく。詐欺を働くクソ野郎には一切お情け無用。モットーを噛み締めながら和馬は香りさえない薄い珈琲を一口啜る。ああこんな不味いのじゃ費やした時間の元さえ取れやしねえっての、とは顔にでかでかと書いてやって。
 そもそも、こんないかがわしいアンティークショップに立ち寄るつもりは毛頭無かったのだ。
 一日毎にぐんと寒さを増していく冬の日の夕暮れ。街頭でのティッシュ配りという甚だしみったれた本日の「社会勉強」を終え、暗転していく宵闇に追い立てられるようにして和馬は帰途を急いでいた。真正面から寒風が吹きつけ、鬣のような髪をばさばさと煽り弄ぶ。身を切るような冷え込みに、ああもう年末か歳末ジャンボ宝くじか、なんて襟元を掻き合わせながら踵でアスファルトを蹴り上げる。
 そんな中途に偶々、とある横道に足を踏み入れたのだ。
 今月に入って以来聖誕祭一色に染まり出した表通りとは対照的な、薄暗く、細い裏道。先刻まで眩いイルミネーションを目に映していただけに、街灯が点滅を繰り返しているそこは酷く寒々しく思われた。実際、人通りなど皆無であったし。
 こんな道あったんだな、近道になるかもしんねえ。気紛れという名の勘を頼りに、片手をポケットに突っ込んだ和馬は一度身震いしてから道を進んだ。そして、没する陽の残光も消え辺りがすっかり無彩色で覆われた頃、この店先で歩みを止めたのだ。看板さえ掛かっていない胡散臭い店のショーウインドウの中に、翠色の石が横たわっているのを見つけて。
「久々におカモ様がいらっしゃったのだと、そりゃあ私は喜びましたよ。だってディスプレイしてあったとは言え高くはない石を、あんな凝っと見詰めていらしたんですから」
 既に本音を隠しもしない店主が、いっそ鷹揚な様で腕と脚とを同時に組む。
「故に不思議ですね。何故ですか、然程価値のない石だと解っていたのに」
「いいだろそんなの。ヒトノカッテ」
「ま、それはそうなんですけど」
 白湯と大差ない珈琲を和馬は呷る。不味ィ、と殊更顔を顰めてやったら。
「まるで貴方、初恋の女性と再会でもしたような目の色をしてらっしゃいましたよ?」
 胃に流し込むはずだった液体が喉の奥で引っかかる。暫しの逡巡、巡り巡った思考の渦。

 ────翠、翠、翠、翠。

 たっぷり数秒かけて珈琲を嚥下すると、和馬はぽりぽりと頭を掻いた上で店主に言ってやった。
「そのナリで愛読書はハーレクインか何かか?」
「失礼な。ゴシップ満載女性週刊誌ですよ」
「威張るこっちゃないだろ悪趣味」
 クダラナイ応酬を早々に切り上げ、今一度、件の翠の石を注視する。
 正方形の木枠の寝台に漆黒の繻子を敷いて横たわっているその、涙形の石。深い樹海の中から切り取ってきたかのような鮮やかで濡れたみどり色は、まるで森が一滴恵みに与えた翠露のようだ。確かに貴婦人が身に着けるには安い石かもしれないが、その色は見るものを、少なくとも和馬の瞳を吸い寄せるには十分な濃厚さと麗しさを泉のように湛えていた。
(ああ、そうか)
 黒い細身のドレス、鴉の濡羽色の髪。囀る紅い唇はまるで花。芳しい香を零すかのように歌を、うたっていた。
 こんな風にうら寂しく、心さえ寒々と凍えさせる路地裏で。彼女は──絶世の、長き生の間で巡り会った唯一の歌姫は。
(だから俺は、足を止めたのか)

************** **

 たった一人の美しい女の眸の中に。
 この世界一切の真実が隠されているのだと。
 その瞬きを間近で見つめたときに、思い知らされる。

 長きの逢瀬ではなかった。それこそ、花が散るような刹那の間。
 しかし故に彼女と過ごした時間は、面影は、未だこの胸に咲き誇り止まない。
 傍らに気紛れな猫のような仕草で寄り添ってくれた彼女の眸の色。
 ふと会話が途切れた折、彼女がまたたいたその、瞼が閉じ、再び開かれた数瞬の内に。
 ちらと横目で、わざと視界の端でその様を見ていた自分は思った。
 ああ、ここに美しい世界がある。
 翠為す美しい星が、世界が、この女の瞳の中に包み込まれているのだと。

 ────なあに?

 視線に気付いた彼女が淡い笑顔を向ける。
 唇が綻び、声がまろび出て、蜜が耳朶に注がれる。

 ────どうしたの?

 何でもない、と答えてグラスに口をつける。
 全然、何でもなくはない。
 でも、何でもないとも言える。
 ただあんたを見ていただけだ。あんたを綺麗だと思っただけだ。
 俺は長く生きていてとてもたくさんのものを見てきたけれど。
 それでもわからないことが有り余るこの世界の。
 その奥底に秘められているだろう真実なんて。
 実は、もしかしたら、そんな単純なことなのかもしれないな。
 ただ、あんたを見ていたと思っただけだ。
 あんたの声を、歌を聴いていたいと思っただけだ。
 それだけなんだ。────それだけだったんだ。

************** **

「……ま、もっとも」
 店主の声に和馬ははたと我に返った。身動ぎもせず呼吸さえ潜めて見入っていたのは翠の石。多少の気まずさを誤魔化すように「何がだよ」と店主へ視線を向け直せば、彼も組んだ脚を解きこちらを真正面から見据えてくる。
「別に、正当な値段でも……いえ、むしろ格安でお譲りしてもいいんですけどね。私としては」
 店主が石に連なる白金色の鎖を摘み上げた。女性用のネックレスが店の灰明かりに照らされて、和馬の目の前でゆらゆらと揺れる。店主の面持ちが、先程とはやや雰囲気を変えたように見えるのは気のせいだろうか。
「私は、本当は、手放したい。この石を。いつまでもこの店に居座って、私を、こんな風に捉えるこの石を」
「……何言ってんだ?」
「手放したい。手放させてほしい。石が、石を」
 和馬の鼻先がひくりと動く。今、何かが臭った。鋭敏な嗅覚を刺激するこれは……なんだ?
「この石には……だって、眠っている。憑いている」

 けものが。

 突然店主が立ち上がる。喉を天に晒しびくびくっと四肢を震わす。
 今度は確実に嗅ぎ取れたその腐臭。血と肉とが腐敗したような不快さが鼻を突く。
 そして禍々しい咆哮。口が大きく裂け、異様に長い舌がそこからだらりとはみ出る。
 異様な形相。人の顔ではない。鋭い爪。変じた店主が腕を伸ばす。数馬の首を一直線に狙う。
「……獣、か」
 しかし和馬は動じることなく椅子にかけたまま呟いて。
「ただの野良犬風情じゃねえか」
 にやりと余裕の笑みを浮かべた唇の端で、人のものではない牙を剥き出した。


「……ていうわけで」
 床に落ちていたペンダントを拾い上げながら和馬は言った。足元ですっかり伸びてしまっている店主を助け起こす気はさらさら無く、一瞥すらくれてやらずに石を元の木箱に戻す。”憑いていた”らしいものは力ずくで昇天させたので、ここに眠るのは最早ただの翠色の石に他ならない。
「それこそ犬に噛まれでもしたんだと納得しろよ。こいつは、俺が買っていってやるからさ」
 財布に収まっていた本日の日当から適正と思われる紙幣を抜き、カウンターに置く。(一応珈琲代の色はつけておいたんだから感謝してほしいものだ) それから蓋を閉めた箱を抱えると、気絶している店主を大股で跨ぎ越して店を出た。
 既に辺りは夜の闇。一層のそこ冷えに思わず肩を竦める。足早に行けば表通りはすぐに見えてきて、その温かで賑わしい光の洪水が和馬の両目を射た。赤に白に黄色に橙、ずっと昔に死んだ誰かの誕生を未だ祝い続ける祭りの色は確かにどれも美しいけれど。
 ああ、吐いた息の白さにばかり心奪われるのは何故なのか。
「……たださァ、思い出しただけなんだよ」
 真紅の花を咲かせて散った命の花を。
 この腕の中の石と同じ色の瞳を持つ美しい、逝ってしまった女の面影を。

 ────そしてこの命溢れる色に最も相応しい、今共に生を歩んでいる女の眼差しを。

「ま、元々プレゼントは買うつもりだったし……予定が早まったって思えばいいか」
 相棒は果たしてこの贈り物を喜んでくれるだろうか。聖誕祭の夜にでも会う約束を取り付けて、「これやるよ」なんて差し出したら、彼女はあのインペリアル・グリーンの眸を細めて快く受け取ってくれるだろうか。ほんの少しでも、嬉しそうな微笑を零してくれるだろうか。
「……そうだなァ」

 そして、この手でその首に飾らせてほしい。
 きっとこの石は、彼女の白い胸元に映えるだろうから。
 鼓動を刻む温かな胸にこそ、似合うだろうから。
 その様を見せてくれよ、なァ相棒。

 っくしょんっ、と盛大なクシャミが出て身体を折る。寒いな、と鼻を啜り上げれば眼前をふよふよと落ちていく白い六華。
 冬の街の暗い空から舞い降り始めた粉雪に、和馬は帰途を行く足を急がせた。


 了