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羨望、嫉妬、やがて愛憎
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じっと、自らの前に開いた教科書を凝視している。
紙面に穴が開いてしまうのではないかと云うほどの強い眼差しで、記された行をなぞる素振りをしながら藍――藍銀華は教室内の気配をじっと探り続けている。
「……ですから、サインとコサインの関係は、タンジェントの――…‥・」
床よりも一段高く作られた教壇の上では、教師がこちらに背を向けたまま何やら呪文めいた文字と図形をせかせかと黒板に記している。
みな一様の制服をまとい、一様に教師の背中を見上げながら生徒たちはそれぞれの思いを胸に共有の時間を過ごしている。
――これが、学校の、授業というものなのだ。
これが、数学という授業の風景なのだ。
ちらりと眼差しのみで、藍は己の傍らを盗み見る。
ふわふわとした柔らかそうな髪で肩を覆っている美しい少女は、他の生徒たちと同じように教師の声に耳を傾け、右手でノートにやはり呪文めいたメモを取り続けている。
彼女を何らかの組織の手から守り続けることが、今回の藍の任務である。
着任してから幾日も立たぬ間に、既に刺客の存在は確認できているので、たとえひと時でも気が抜けぬというのが現状だ。
だが。
「――あの先生、他の皆さまに『ゲバラ様』って呼ばれていらっしゃるの」
周囲の生徒や教師に聞こえぬほどの囁きで、令嬢が藍に耳打ちをする。「お風呂にもろくに入られないし、お召し物もよれよれでしょう?」
ゲバラとは、チェ・ゲバラと呼ばれたマルクス主義の革命家のことであろう。学校教育を受けていない藍は、その名を聞いたことがない。
「ご本人も私たちがそうお呼びしていることはご存知なのだけれど、ご自分がゲバラのようにワイルドでクールな男の人だからそう呼ばれていると思い込んでいらっしゃる」
すぐ近くで、生徒の咳払いが聞こえた。込み上げた笑いを押し隠すためのものだったのだろう。
そんな他愛もない――女生徒たちの会話や素振りが、藍を任務のみに集中させることを妨げる。
これが、学校だ。
これが、自分と同じ年ほどの女の子たちの生活だ。
藍は改めて、教科書をまじまじと見やる。
己の中にも込み上げて来つつあった、理由の知れぬ可笑しみを堪えるために。
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昼は、生徒が食堂で自由な食事を摂れることになっている。
メニューは味付けの淡泊な、それでいてしっかりと栄養計算のなされたものばかりである。
包みを用意して食堂の職員に頼めば、景色の良い校内のどこででも昼食を愉しむことができた。
「サンドイッチやおにぎりをお願いするのが裏技なのよ。お昼に食べきれなかったら、包んで寮に持ち帰ることができるでしょう」
この学園の生徒たちは、あまり大きな声で話しをしない。
傍らや、集団の輪の中のみに聞こえるほどの嗜みある小声で会話をし、ときおりくすくすとした笑い声が周囲に漏れ響くのみである。
陰険さや醜悪を滲ませる所作ではなく、あくまで嗜みとしての範囲内のことだ。
サンドイッチやマフィン、それに醒めても充分愉しめる茶の類い。
それらを持ちだして2人、中庭で昼食をすることが日課となりつつあった。
いざ刺客に襲われた際に、級友を巻き込みたくないという令嬢の思いと、人目のない方が存分に力を行使できるという藍の思いが合致した結果であった。
「ねえ、銀華さんのお父様って、どんな方ですの?」
人肌よりはわずかに温かい、と云った程度のアールグレイを口に運びながら、令嬢は藍に問う。
彼女は2人きりになると、しきりに藍の家族について訪ねたがるのだ。
全寮制の女子校に通う、自分とは全く住む世界の違う女の子――藍は令嬢のことを、今もそういう認識で捉えている。
他人の家庭の事とは云え、家族の繋がりというものに興味を持ってもおかしくはないだろう。
最初は不器用にも会話をはぐらかしていた藍であったが、レタスと薄い生ハムを挟み込んだマフィンを指先で弄りながらとうとう重い口を開いた。
「――父は、私の教師であり、教育者であり…‥・私という存在を形作った唯一の人だ」
令嬢の瞳がきらりと、輝く。
藍がそれに気付く風はない。
未だかつて経験したことのなかった『学生生活』は、本来の彼女の存在理由を彼女自身の中で不鮮明にしてしまったのかもしれなかった。
傍らの少女の眼差しの変化にすら、気付くことができなくなっている。
「父は、…厳格者だ。幼いころから私に、銃器の扱いや工作の技術を与えた。小さな子供が、自分の2倍の丈を持つライフルをそつなく扱う姿を想像してみて欲しい。私は完璧だった。――父も私を褒めた。父のくれる合格点と、その時の満足した笑い顔だけが、私の全てだった」
藍は淡々と語る。
彼女の眼差しには今、あの日狙いを定めた400メートル先の人型の模造紙が映っている。
その中心、心臓の位置に幾個も開いた完全装甲弾の跡を見つめている。
「私は、おそらく父を愛していた。父も私を愛しているに違いないと、思っていた」
藍は笑う。
疲弊を帯びた、自嘲の笑みで。
令嬢はそんな藍の眼差しを追う。
上目に藍を伺う令嬢の眼差しは藍のそれとはうらはらに、どこか鋭利で冷たい何かを放っている。
藍は気付けない。
フラッシュバック。
父親の笑みが歪んで、自分は阿片窟で鎖に縛りつけられている。
湿り澱んだ空気と、蝋燭の灯に照らされて陰影を濃くした男の視線が藍を見下している。
――ああ。
ああ、腕が、痛む。
軋むような力で左右に押し広げられた内股が痛む。
熱い口唇が施した鎖骨の噛み傷が痛む。
尻に強く掻きつけられた爪痕の、うっすらと残った傷が痛む。
私は父の、所有物だ。
父は私の、所有者だ。
ああ。
「――華さん? 銀華さん?」
心配げに自分の顔を覗き込む、美しい少女の眼差しが藍を現実に引き戻す。
「・‥…ああ」
平気だ、と云わないばかりに藍は笑む。
薄い口唇をわずかに引き上げて。
少女の裸体には、傷痕ひとつ刻まれていないに違いない。
真っ白な乳色の肌からは常に薔薇の香りが立ち上り、掻き跡も、刺青も、重い銃を携帯するためにできる腰の痣すら、彼女の肌には見当たらないに違いない。
「……そろそろ、午後の授業が始まる時間だろう。行こう」
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夜。
明日の準備を早々に済ませてしまってから、令嬢は静かにシーツの中へと滑り込む。
自分を送り届けたあとで藍がどこで夜を過ごすのか、令嬢は知らない。
おそらくは適当に、どこか小さくて目立たぬ部屋でも宛てがわれているのだろう。
「・‥…――」
すっぽりと鼻の先まで引き上げた毛布の中で、令嬢はくっと親指の爪を噛む。
鎮まらないのだ。
昼に抱いた、嫉妬と憎悪が。
藍の父親を、令嬢は知っている。
知っている、という言葉は適当ではないのかもしれない。
彼女は、藍の父親の数ある『愛人』候補の、1人である。
まだ年端も行かぬころに初めて見かけたあの男の、冷酷で残虐なカリスマに惹かれた。
彼女の小さな右手を取り、押し付けられた男の口唇の熱さが忘れられぬ。
薄い唇が――そうだ、どう云うわけなのか藍の笑みは『彼』の笑みとそっくりに引き上げられるのだ――自分に向けて、慇懃な速度でゆっくりと引き上げられる瞬間を少女は狂おしく愛す。
『彼』の為に、穢れのない自分を捧げようと誓った。
教養、知性、美貌、全てにおいて、彼の周囲の女を凌ごうと心に決めた。
齢、16。
『彼』は少女の年若さを理由に、いまだ彼女を「所有」することを了承してくれずにいる。
「………銀華――」
潤った、ふっくらとした口唇が形のみでそう呟く。
憎悪。
そうだ、これは憎悪だ。
自ら目指した通りに、教養も、知性も、美貌でも――自分は全てにおいて『あの女』に勝っている。年齢も変わらない。
なのに、なのにどうして、『あの女』は『彼』に唯一無二の存在として愛され、所有され――自分は未だに、『彼』に傅くことを許されないのだ?
ある女を監視して欲しい――『彼』自らがそう願い出てくれたとき、少女は小さな心臓をはちきらせんばかりに狂喜した。
とうとう、『彼』が私を、必要としてくれる日が来たのだ。
誰よりも聡明で賢くて、『彼』の傍らにあるにふさわしい美貌を持った自分が、とうとう。
だが、実際に訪れた日々はそんな期待を脆くも破壊させる失望の日々だった。
藍銀華は、『彼』に必要とされているのだ――私以上に。
前歯の先で、クッ、と鈍い音がする。
薄く伸ばしかけていた親指の爪に、皴が入ったのだ。
――ちっ。
少女は小さな舌打ちを漏らし、眠れぬ夜を1人、過ごす。
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時を同じくして、藍は藍で眠れぬ夜を過ごしている。
明日の授業に必要となるであろう教科書やノートが、きちんと鞄の中にしまわれているかどうかを何度も確認した。
それに加えて、いざ刺客が現れたときの武具の準備にも怠りはない。
――女学生の、振りをしている。
明日の学園生活への淡い期待は、16年間かけて己の身に染みつけてきた戦闘への自覚が軽々と凌駕してしまう。
今この瞬間の、誰の意図も藍は知れない。
父が何を思い、自分を令嬢の護衛に付けたのか。
少女たちは何を思い、日々の学園生活を過ごしているのだろうか。
令嬢はなぜ、あそこまで落ち着き払った様子で彼女自身の現実を見つめていられるのだろうか。
判らない。
判らない。
判らない。
窓枠にもたれたままで、浅い眠りにつく。
ベッドには触れない。脳と身体を完全に休めることも大切ではあるが、有事の際にいかに素早く行動することができるかを考えればシーツをめくる気にすらなれない。
――判らない。何もかもが。
目を閉じると、令嬢の眼差しが脳裏に浮かぶ。
何かがおかしいことは、藍にも感じ取れている。
が、今の藍には自分自身の胸の内ですらが、計り知れぬままにある。
(了)
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