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命の蒼
彼女が見たのは、一枚の写真だ。
一見、何の変哲もない壷が写っているようだった。
だが、その写真を見つめている碇麗香のまなざしがあまりにも強く、鬼気さえ迫っているようだった。おかげで彼女は、被写体が単なる壷ではないらしいことを悟ることが出来たのだ。
「何て云う壷だい、それは」
麗香から借りていた資料をばさりとデスクに置いて、彼女は笑み混じりに尋ねる。
彼女――そう、彼女。
はっと我に返った麗香が見上げたのは、長身痩躯の男であった。だがその、ショッキングピンクの髪の男は、男にしか見えない女性なのである。その外見とハスキーヴォイスから、彼女が『彼女』であることを知る者は少なかった。
「ああ、羽柴……戒那さんのほうね」
「何だ、ヘンな呼びかけ方だなあ。確かに双子だけど、似てないだろ?」
「雰囲気が似てるのよ。私は人間を見分けるのに外見なんかあてにしていないものだから。――それに、最近、妹さんに会ったの。会って、仕事を頼んだのよ」
麗香は淡々と言葉を並べ、おしまいに、へらへらと手にしていた写真を振ってみせた。戒那には双子の妹がいて、写真を撮ることを生業にしている。妹が手がけた仕事の証を、戒那はひょいと手に取った。
「それは、『吸』という壷よ」
「きれいだな」
「ええ。作者も製作時期も不明なの。でも、どうやら同じ系統の壷が他にもあるらしいのよ」
「……」
「戒那さん、エライ人の知り合いが多いのよね? 壷好きの……ほら、何とかって会社の社長……」
「ああ、いるね。今流行りのベンチャー企業のさ。若いのに、渋いものばっかり集めてる。……似たような壷、持ってたような気がするよ」
「曰くつきらしいわ」
「だろうな」
くすりと笑って、戒那は麗香に目を移した。彼女は何も言ってはいなかったが――
「OK、近いうち会うから、話を聞いとくよ」
「ありがとう。お礼はするわ。……レポートにまとめてくれたら、弾むわよ」
「単純な話だったらまとめとくさ」
笑顔のまま、戒那は碇麗香のデスクを背にした。
ちかり、とまたたくような事実を、すでに戒那は『見た』気がしていた。
覚えにくいカタカナの名前の会社がある。
記憶力がいい戒那でも、最近は客の勤め先の名前を完璧に覚えるのが難しくなってきていた。戒那は名刺とアドレス長を照らし合わせて、今流行りのベンチャー企業を抱える男に会いに行く。
彼女の仕事のひとつに、『おエライさん』のカウンセリングというものがあった。
上に立つ人間も下で働かされる人間も、等しくストレスを抱えているものだ。ことに、この国は、不景気になってから急に人間の精神面が脆くなってきたようでもある。戒那が求める報酬は高額だったが、カウンセリングの依頼はあとを絶たなかった。
――まあ、いいさ。忙しいのは苦じゃないし、たまにめずらしい体験も出来る。
病める心は、人間だけがもたらすものではないのだ。
戒那はまれに、この世の知られざる闇を見ることがある――
男は、奇妙な風体であった。戒那は、彼と過去に一度だけ会っていたが、男の様相はだいぶ変わってしまっていた。自分はベストを尽くしたつもりだったが、この男のこころは自分の力も及ばないほどに痛めつけられていたのだろうかと、戒那は一瞬寂しさのようなものを感じた。
男は暖房が入った室内にいるというのに、襟を立てて首を隠し、手袋をはめていたのだ。顔は土気色で、目は充血し、髪には脂がのっていた。
他愛もない話から切り出すのが、戒那のやり方だった。その四方山話から、徐々にこころの奥底へと話をつなげていく――
戒那はこの日もそのつもりで、何気なく、新しい球団が出来たことや、季節外れの台風についての話をしていた。
ただ話をしている最中、ずっと彼女につきまとって離れなかったのは、奇妙な違和感だった。
何か大切なものが置き去りにされている……。
ふと気づくと、戒那の目の前で、患者は震えていた。まだ、本命の『壷』の話もしていないのに。
「すいません、ちょっと、し、失礼します……」
そう言って、男は慌てたように立ち上がった。男の土気色の顔はさらに青褪め、死人の様相を通り越して、まったく別の次元の生物のようになってしまっていた。戒那の瞳は、一瞬を逃さなかった。手袋と袖の間が、垣間見えたのだ。
いえ、お構いなく――とは言ったものの、戒那はそっと男の後を追う。
黒檀のように黒ずんだ手首を見たあとでは、とても、見ぬ振りは出来なかったのだ。
書斎の中で、男は、震える手で桐の箱を取り出していた。
慎重だが手馴れた風で、箱を開けていく。
箱から現れたのは、美しすぎる壷だった。
博識な戒那だが、骨董品にはさほども明るくない。100年前の価値ある壷と、工場で量産された壷をぱっと見分けられる自信はない。しかし――そんな戒那が見ても、その壷は美しく、また異形であった。艶やかでひびのひとつもない肌は、しっとりと湿っているようにも見えた。
男は手袋を外した。その手は、炭化したかのように黒かった。最も肌の色素が濃いというガーナ人でさえも、その肌の色にはかなうまい。まったく、真の漆黒であった。
彼は戒那の視線には気づかず、壷の中にその黒い手を差し込んだ。次いで引き上げた手は、黒くねっとりとした、ハリウッド映画でありがちな粘液のようなものをすくい取っていた。
触れずとも、見えてしまう。
怨嗟と嘆きが!
はアはアと息を荒げつつ、男はすくった漆黒を口に運んだ。戒那が書斎に入ったことにも気づかず、がつがつと漆黒をむさぼる。
「いい壷だ」
戒那がぽつりと呟くと、ようやく男は振り返った。口の端からこぼれる黒い粘液は、ぐぶぐぶと泡立っていた。
「……あんまり身体に良さそうなものじゃないな」
良薬口に苦しとは言う。そして、良薬の見た目というのは、ぱっとしないものだ。
男が口にしている薬は、見た目にも刺激が強そうだった。
苦笑する戒那に、病んだ男は言う――
夜の夢の中で、この壷が、喰えと言ったのだと。今では、喰わなければ息さえもままならなくなるほど、この漆黒の味に病みつきになってしまったのだと。
――大方、富でも名誉でもくれてやると付け足したんだろう。
男は、喰いながら、助けてほしいと言っていた。
戒那はなおも笑いつつ、壷に歩み寄り、手に取る。青磁は手に吸い付くようだった。ひかる薄青の表面が、戒那すらも喰おうとしている。戒那の瞳に映るのは、壷が見てきたもの、溜め込んできたもの。恐ろしい真実と戻らない過去。
「!」
この壷が、見ていたわけではないだろう――
戒那の妹が、この壷によく似た壷を叩き割る、この瞬間を。
戒那には見えた。
これは、過去なのだ……。
「安心しろ。弁償してやるよ!」
静かに笑って、戒那はその細い腕に力をこめ、壷を床に叩きつけた。
壷は壷ではなかったのだ。叩き割られたその瞬間、虜になっていた男とともに悲鳴を上げた。壷はこの男を誘惑し、『不浄』の種を撒いていた。種は芽吹き、男の周囲に――ともすれば、戒那にも――更なる『不浄』を実らせていた。黒の不浄は飛び散り、べしゃあと書斎じゅうを汚したが、まばたきのうちに消え失せていた。
黒を浴びずに立っていたのは、戒那ただひとりだけだ。
彼女が浮かべる笑みはあでやかだった。
――俺とあの子は、つながってる。確かに、いつだって、一緒だ。つらい顔を隠したって、俺には見えるのさ。
泣きながら壷のかけらを拾い集める男に、戒那は目もくれなかった。手遅れでなければ、この男はきっと回復するだろう。あとのことは、本人に任せることにした。人外の、この世の闇がもたらす世界を、戒那は垣間見るだけだ。深入りするつもりは毛頭ない――もう、こりごりだ。
そうして患者の邸宅を出たあとで、彼女は、壷についていた曰くについて、何も聞いていなかったことを思い出したのである。
<了>
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