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<東京怪談ノベル(シングル)>


笑顔

 母の正確な病名を、細雪白はいまだに知らない。実際には長じてから知る機会は何度かあったのだが、今さら知ったところでどうなるものでもないし、見習いである彼女にはその前に学ぶべきことが山ほどあるので、あえて誰に尋ねることもしなかった。ただ、血液の病気であったということだけは聞いていた。かなりの難病だったらしい。
 もともとがあまり身体の丈夫なほうではなかったそうだ。子供のころの記憶の中で、母はいつもベッドの上にいる。検査に次ぐ検査であちこちの病院を転々とし、何度も入退院を繰り返しては、ごくたまに家へ帰ってきてもほとんど臥せっている。そうして長くても一週間もすればまた病院へ逆戻り……そういう生活がずいぶん続いていて、誰にも言えはしなかったけれど白はひそかに不満だった。私、もっとお母さんと一緒にいたいのに。
 だから母が病院からまた家に帰ってくるなり、もう入院はなしよと言ったときは飛び上がるくらい嬉しかった。
「本当? 本当にもう病院行かない?」
「うん、病院にはもう行かない。やっぱりご飯とかは作れないんだけど……ごめんね」
「ううん、いいよ。おうちにいてくれるだけで充分」
「そう?」
 ごめんね、ともう一度言うと、母は白の頭をなでた。ほとんど外に出ない母の手は青白く痩せていた。娘の髪に触れながら、いつのまにかずいぶん髪が長くなったのねえ、と優しく笑う。
「お母さん。おうちのことは、私がやるから大丈夫だよ」
「あら」
「お母さんのことも、ぜんぶ私がしてあげる。水飲ませてあげようか? 何か食べたいものある?」
「あらあら。じゃあ、うちでは白が看護婦さんね」
 笑いながらの母の科白は言われてみれば確かにそのとおりで、白はそれが気に入った。
 たびたび見舞いに訪れた病院のあちこちを行き来する看護婦(当時はまだそう呼ばれていたのだ)のきびきびとした動作や、患者に呼びかけるやさしい声音、それに皺のない白衣は、幼心にも「格好いい」と感じられるもので、白はなんだかちょっと胸が熱くなった。わたし、看護婦さんなんだ。
「そうだよ。私が、今日からお母さんの看護婦さんだよ」
「よろしくお願いします、看護婦さん」
 にっこりと笑顔を見せられて、こちらこそ、と白も笑う。
「それじゃあ看護婦さん、お薬飲むから、お水持ってきてくれますか?」
「うん!」



 今考えると、あまり大したことはできていなかったなと思う。子供だったから仕方がないのだけれど。
 白がしたことといえば、母の寝床に食事を運んだり水をコップに注いであげたり、学校での出来事を話してあげたり、その程度のことだった。料理を作ってあげようにもガスの火を使うのは厳しく止められていたし、子供の力では、母が起き上がるのを手伝うだけでもちょっとした苦労だったのだ。
 それでも母は、白がなにかするたびに微笑んだ。ありがとうと告げることも決して忘れなかった。相変わらずベッドからはあまり出ることのない生活だったが、白が学校に行く前には、毎朝かならず娘をベッドのそばに呼び寄せて起き上がり髪を編んでくれた。
「看護婦さんなんだから、邪魔にならないように編まなくちゃね」
 細く白く長い指はいつも器用に動いて、あっという間に可愛い編みこみの形を作るものだった。一度体育の時間にほどけてしまって、見よう見まねで自分で作り直してみたがどうもうまくいかなかった。その日帰宅して一番に編み方を教えてほしいとねだったら、駄目よ、と笑いながら断られた。
「お母さんの朝の楽しみなんだもの。白がひとりで勝手に編んじゃったら、お母さん寂しいわ」
 しかしそんな生活の間にも母はだんだんやつれ、ベッドから出ることもますます少なくなった。横になって白と話していてもいつのまにか眠ってしまうことが多くなり、子供心にももしかして母はあまり病状が良くないのではと思い始めた頃、街には冬が訪れていた。

「お母さん」
 そっと呼びかけると、母は目を開いて白を見た。
「ああ……お帰りなさい。早かったのね」
「ごめんね、寝てた?」
「ううん、いいのよ。うとうとしてただけだから……あら」
 そっと手を伸ばされて、髪に落ちたそれを指先がすくいあげる。
「雪ね。道理で冷えると思ったわ」
「うん、お昼から降ってきたの。すごいよ、大きいのがたくさん降ってるの。積もるかもしれない。まっしろいのがふわふわって、頭の上からたくさんどんどんおりてきてね」
 どうしてもっと上手く伝えられないのだろう。お母さんはベッドから出られないのに。ならせめて自分が、降る雪の白さも空気の澄んだ冷たさも吐く息の靄がやわらかく流れるさまも、なにもかも話してあげなければと思うのに、言葉ばかりが上滑りしてちっともうまく話せない。もっとたくさんの言葉を知っていればよかった。もっともっといろいろなことを伝えられたらよかった。お母さんの役に立つことができたらよかった。
 自分がほんとうの看護婦さんならよかった。
「見てみたいわ」
「そのうち見られるよ、きっと」
「ううん、今、見たいの」
 起こしてくれる? そう乞われて、白は母が起き上がるのに手を貸した。娘をはらはらさせたまま母はベッドから降りて、見慣れた寝巻きの上にカーディガンを一枚羽織ってからりと戸を開ける。
「ベランダに出れば見られるかな」
「うん」
 カーテンを開けて窓を開ける。ベランダは凍えそうなほど寒かった。なにか上着をと思って振り返った白の手を、母はそっと取った。安心させるように笑んで、だいじょうぶ、と告げる。
「今日は調子がいいの。こうしていれば暖かいし」
「本当?」
 うん、と頷いて、母はベランダへと視線を移した。
 ちらり、ちらり。灰色の雲からはがれ落ちるように、空から無数の白いかけらが落ちてくる。建物に道に木々に人にすべてのものの頭上にゆっくりと雪が降りそそぐ様子は、さながら桜の花が散るさまを思わせた。口元から洩れる吐息は雪と同じ色をしていた。いつのまにか塀や木の上に、うっすらと白い色が積もり始めている。夜になるまでにきっと町中が純白に染まるだろう。
「おかしな子ね。どうして泣いてるの?」
 苦笑するように言われて、白は自分の頬を熱い雫が伝っているのにはじめて気がついた。
「笑って、白。笑っていれば、いつかいいことがあるのよ」
「いいこと?」
「白が笑っていれば、お母さん嬉しいわ。いつも笑っていれば、白はとっても幸せなんだってわかってお母さんも幸せだわ。そしてもっともっと白を幸せにしたくなる。何かしてあげたくなる。白を好きな人、みんながそうなのよ」
 幸福って、そんなふうにみんなで分け合うものなのよ。
 母の言葉は白にはよくわからない。でも、言いたいことはわかった。わかった気がした。だってそれは、白が母に笑ってほしくて喜んでほしくて幸せになってほしくて、いつもいつも何かしてあげられないか必死で考えていたその気持ちと、同じものだから。
 白は涙を拭った。
「やっぱりここ、寒いよ。まだ雪が見たいなら、上着取ってきてあげる」
「ありがとう。クローゼットにダッフルコートがあるから、それをお願いね」
 頷いて、母を残してベランダから室内へ入った。母は祈るように空を見上げている。クローゼットのある母の部屋の戸を開けようとしたそのとき、何かが倒れる音が耳に届いた。振り返ると、窓にもたれるようにして母が倒れていた。
「お母さん!?」



 その日の夜、母は静かに息を引き取った。
 いつそうなってもおかしくなかったのだと、家族は誰も白を責めはしなかったが、白は涙が涸れるくらいひとりで泣いて泣いて泣きまくった。自分のせいだと思った。泣き疲れて眠って起きて、ぼんやりした頭で母のことを考えるとまた涙が出た。葬式が終わってもたびたび泣いて瞼が腫れ、ついでに熱を出して学校を休んだ。
 熱に朦朧としている間はさすがに泣かず、二日ほど布団の中で過ごして具合が良くなった頃、ふと母の言葉を思い出した。
 ――笑って、白。
 布団から起き上がって母の寝床だった部屋に向かい、鏡台の三面鏡を開けて試しに笑ってみた。
 ひきつった笑顔みっつがこちらを見返していて、少しだけ気持ちが軽くなった。
 深く深く深呼吸して、母のことを思い出す。
 交わした言葉、綺麗な長い髪。器用に動く指、寝床の中から見せるあの笑顔、そして、決して白には見せることのなかった、病気の苦しさのことも。
 また涙の衝動がこみあげてきたが、今度はちゃんとこらえることができた。
 よし、と小さく呟いて、白は三面鏡の前に座ると、ひとまず編みこみの練習から始めることにした。