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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


竜虎の決戦【草間興信所編】



<-- prologue -->

 地震雷火事親父。

 草間・武彦がその中で最も恐怖しているのが『雷』である。
 勿論、怪奇探偵なのにチキン探偵というかなりどうしようもない異名を持つ武彦であるから、雷に限らずそのどれもが怖いのだというのは言うまでもない事実である。
 ただその中でも特に彼は『雷』が苦手なのである。と、そういう話だ。

 地を這うような音。突如光りわたる雷光。ややあって重く激しい音で響く落雷音。
 それだけでも充分脅威であるのに加え、雷光の後直ぐに大きな雷鳴が聞こえてきたりするともう武彦にとっては生命に関わる危機に感じられる。あまりの恐怖で自分が自分でなくなりそうな気さえしてしまう。
 まあそれはある意味、武彦がチキンからハードボイルドに脱却(転生?)するチャンスと捉えることもできるので、傍から見ればオールオッケーなのかもしれない。

 さていよいよ、雷光と雷鳴の間隔が近くなってきた。
 そのことが示すのは、雷雲がだいぶ興信所の近くに来ているということ。
 そしてまた、いつこの安普請の興信所に強大な落雷が起こってもおかしくないということを示唆している。

 そんなわけで武彦は台所から持ってきた鍋を頭に被り、鍋ふたを楯にして武装、俺はいつでもやってやるぜという心意気をアピールしてみている。何をやってやるぜなのかはよくわからない。
 草間・零はそんな義兄のことは完全放置して、テーブルの上に無造作に置いてあった雑誌を手に取りパラパラ捲っていた。武彦が頭に被っている鍋を鉄兜のひさしを持ち上げるかのように指で押し上げ、彼女が眺めている雑誌を覗き込んでみると、それはいわゆる『にゃんにゃん♪』系のグラビア雑誌であった。武彦の顔が一気に青褪める。
 武彦は「うーん、これは零にはちょっと早いかもなあ?」などと言いながら引きつった笑みを浮かべ、零からそれを奪い取り、棚に積んであった本の間に挟みこんで隠蔽した。零が不服そうな表情で彼を見上げる。

 ちくしょう。誰が置いていったんだあんなもの。
 その武彦の舌打ちは、突如として発生したとてつもない轟音と振動によって打ち消された。
「うぉぉぉぉ!」
 そして恐怖の叫びへと変わる。
「何だ何だ!? 何が起こった!?」
「お兄さん、わたし、お外見てきます」
 零は素早く立ち上がると、興信所のドアを開け踊り場に出た。そして辺りをきょろきょろと見回し、視線を上に向ける。瞬間、彼女の表情が驚きのそれに変わった。
「お兄さん、上空で、大きな竜さんと虎さんが戦ってます!」
「はぁぁぁぁ!?」
 武彦は鉄兜と楯(鍋とふた)を投げ捨てると、興信所を駆け出し、零と同じようにして上空を見上げた。

 東京ドーム二十個ぶんはあるであろう体躯の竜と虎が、睨み合い、火花を散らしている。
 両者は低い唸り声を響かせながら牽制し合い、そして鋭い一撃を見舞う機会を伺っている。
 そう。武彦が雷鳴だと思っていたそれは彼らの喉の奥から発せられている唸り声であり、雷光だと思っていたそれは睨み合う彼らからバチバチと発せられている火花の煌きだったのである。
 武彦はそれらの原因が雷ではなかったことにほっとしつつ、しかしこの状態はもしかして雷よりも厄介なのではなかろうかと考え、戦慄した。



<-- scene 1 -->

 事務所スペースからガランゴロンという金属音に続き、騒ぎ声が聞こえてきた。
 シュライン・エマは一旦昼食の支度の手を止め、そちらの様子を見に行くことにした。魚は一旦火を止めておくとして、調理中の肉じゃがのほうは煮込みの段階に入っているところなので、少しくらい放っておいても問題なかろう。さっと手を洗い、シンクの下の取っ手に掛けてあるタオルで手を拭う。
 シュラインが事務所へと足を踏み入れた途端、パンプスのつま先がカツンと何かを蹴る音が響いた。
 何かしらと足元を見遣ると、そこにはアルミ鍋とそのふたが捨て置かれている。少し前に草間・武彦が「鍋とふた、鍋とふた」と喚きながら台所に駆け込んできて、理由を問う間も与えず棚から引っ張り出していったものだ。先程耳に入ってきた金属音は、この鍋とふたが床に落ちたときに発せられたものなのだろう。
 シュラインはそれらを拾いあげ、落下の衝撃でへこんでしまった部分を発見し顔をしかめた。鍋を「よしよし」とさすってあげながら、視線を前へと戻す。
 興信所のドアは開け放たれたままで、踊り場には草間兄妹が立っている。そして彼らの視線は真上へと向けられている。シュラインは何事かと思いながら、彼らのところへと歩いていった。
 そして彼らに倣い、上空を見上げる。
「……何かしら、これは」
 飛び込んできた光景に、シュラインが目をしばたいた。隣から、草間・武彦がごくりと唾を飲む音が聞こえる。

 上空で、それはそれは大きな竜と虎が対峙している。どちらの体躯も空を埋め尽くしてしまうのではないかという程に巨大であった。
 竜は青く細長い胴体に緑のたてがみ、枝分かれした角と長い髭を持っている、いわゆる東洋系のドラゴンであった。某有名ロールプレイングゲームのボスキャラタイプではなく、某有名少年マンガに出てくる龍神タイプである、と言えばわかりやすいだろうか。
 一方の虎は、虎は虎でも白い虎である。曇り空の色が映って全体的に灰色がかって見えるが、おそらく白い。
 言うなれば、それは。
「『青龍(セイリュウ)』と『白虎(ビャッコ)』の戦い……なのかしら」
 シュラインがぽつりと呟くと、武彦が顔を下ろして彼女に尋ねた。
「なんだそれ」
 シュラインは武彦へと視線を移し、腕組みの代わりに持っていた鍋を両手で抱えながら言った。
「どちらも中国に伝わる『四神』のひとつと言われてるの。陰陽思想や五行説、天文学、風水……色々なところでその名前が出てきているんだけど、私もよくは知らないのよね」
「……よくわからんな」
「とにかく、四つの神さまのうちの二つなの。今ここにいる竜虎がその青龍と白虎なのかどうかはわからないけれど。見た目の印象を言葉で表すとそうなっちゃうのよね」
 シュラインは少し眉根を寄せて、再び上空へと視線を戻――そうとして、はたと思い出した。
「ねえ武彦さん。このお鍋、何に使うつもりだったの?」
「鍋?」
「これ」
 シュラインが両手鍋を掲げて見せると、武彦は「あぁ」と思い出したような顔をして言った。
「武装だよ、武装」
「武装?」
「さっきあまりに凄い音がしたものでな。てっきり雷かと思ったんだ。だから武装せねばと思って持ち出したんだ」
「ええと。それって、雷から身を守るために持ち出したってこと?」
「それ以外に何があるって言うんだ」
 シュラインは人差し指を顎に当て、うーんと考えこむ仕草をしていたが、やがてぽつりと言った。
「ねえ武彦さん。雷相手に金属鍋で武装してたら、落ちたときお肌焼けちゃわないかしら」
「え、反射するんじゃないのか!?」
「これは伝説のお鍋じゃなくて普通のお鍋だから、反射はしないと思うわよ。むしろ吸収ね」
「そうだったのか……」
 三十路にして初めて知った事実――それが「落雷対策に金属製品はタブーであること」なのか「興信所秘蔵の伝説の鍋と信じていたものが実は普通の鍋だったということ」なのかは定かではない――にショックを隠し切れない様子の武彦は、虚ろな目をしながらふらふら屋内へと戻って行った。その足取りはいまいちおぼつかない。
 シュラインは彼の横に駆けて行くと、その肩を支えながら、なるべくショックを与えないように与えないようにと移動させ、そっとソファに座らせた。
 それから踊り場に立ったままの草間・零に声をかける。
「零ちゃんも一旦中に入ったらどう?」
 すると彼女は上空を見据える視線はそのままに、首をふるふると振った。
「いえ、わたしは竜さんと虎さんを見ています」
「そう。もし何かあったらすぐに声かけてね」
 シュラインがそう言うと、零は「わかりました」と言ってこくりと頷き、扉を閉めた。
 その姿を見届けたあと、シュラインは屋内へと視線を戻した。
 武彦がソファに沈んでいる。いや、ソファで沈んでいる。
 シュラインは武彦の横に腰掛けると、彼を慰めつつ、とりあえず自分が知っている範囲の落雷対策方法を彼へ伝授してみることにした。



<-- scene 2 -->

 日本語には「腹の虫が鳴く」という表現がある。
 おなかが空いたときに腹の底から発せられる「ぐぎゅるるるるるぅ」という音(これは人によって様々であろう)を、虫の鳴き声になぞらえて表現しているらしい。初めてそう説明されたとき、なるほど面白いものだと思った。
 つい最近、それとは別に「腹の虫がおさまらない」とか「腹の虫の居所が悪い」とかいう表現もあるということも知った。これらは怒りがおさえきれないとか機嫌が悪いとか、そういうときに使うものらしい。いずれにせよ腹に住んでいる虫というのは、感情を包み隠さず出すタイプなのだなと妙に感心した。
 そんなことを思ったのは、日本にやってきた最初の頃、日本人がひじょうに捉えどころのない曖昧な話し方をすることに随分戸惑った経験があるからだ。ただでさえ難しい日本語を、彼らは話の本筋を一言でずばっと表すことは殆どせず、こねくり回して結局何が言いたいのかわからない台詞にしてしまう。一度気紛れで日本の国会の様子をテレビで眺めていたことがあったのだが、あれは凄かった。討論の半分以上が曖昧な言葉と揚げ足取りの応酬でまるっきり理解不能だったのだから。
 日本人も腹の虫のようにもっと素直になればいいのに、と思ったものである。

 さて。フレイ・アストラスが散歩中にどうしてふとそんなことを思い出したかというと、今まさに彼のその腹の虫が「ぐぅぅぅぅぅぅぅ」と彼に空腹を訴えかけたところだったからである。
「おや、腹の虫くんが鳴いていますねえ」
 フレイはのんびりとした口調でそう言いながら自らの腹を撫でた。するとまた「くぅぅぅぅぅ」と鳴き声。
「……相当空いているみたいです」
 他人事のように呟いてみる。しかしこれは、彼にとって実はなかなかに忌々しき事態なのであった。
 その理由として、彼の財政事情が挙げられる。フレイはヨーロッパから日本へと見聞を広めるためにやってきた。最初は文化の違いや話し方などに戸惑ったものだが、慣れてみるとなかなか居心地が良く面白い。いつしかフレイはすっかり東京に居着いてしまっていた。
 そこで問題になるのが滞在費の捻出である。フレイはいわゆる「退魔士」という肩書きの職業を持っているが、これは需要と供給のバランスが悪く、なかなか依頼を獲得するのが難しい。
 そこで彼は短期アルバイトに目をつけた。短期の場合自給面で恵まれているものが多く、中には即金のものまである。それに拘束期間が短いことから本業との折り合いもつけやすいし、何より様々な職種を経験することは自分の糧になる。まさに一石二鳥。いや三鳥、四鳥か。ときに「一石二鳥」という言葉にはどういう由来があるのだろうか。

 思考が別方向に飛んでいきそうになったとき、思い出したかのように腹の虫が鳴いた。
 一気に現実へと引き戻されたフレイは、腹をさすりながら懺悔した。
「すみません腹の虫くん。あなたのことを忘れるところでした」
 いや。実際忘れていたのである。
「しかし。どうすればお食事にありつけますかねえ」
 フレイはため息をつくと、しょぼんと項垂れた。
 そう。短期アルバイトには重大な欠点も存在するのである。それは仕事がないときはない、ということ。仕事がないということはつまり、収入を得ることができないということなのである。そして現在フレイは仕事を持っていない。
 彼の財布は軽い。しかしその軽さはずっしりとした重さでもって彼の心にのしかかる。
 フレイはしばらく思案していたが、やがて脳裏にひとつの閃きが浮かんだ。
「そうだ腹の虫くん。『でぱちか』味めぐりの旅に出ましょう」
 ポンと握りこぶしで掌を打つ。これは名案だ。
 でぱちか――惣菜や食材の販売を主としている、デパートの地下売場。そこは魅惑のエリアである。なにせ様々な食べ物や飲み物が「試食」という名目で少量ずつではあるが無料で提供されているのだから。でぱちかを一周すれば腹の虫くんは確実に満足するであろう。
 フレイは自らの思いつきに深い満足感を味わいながら、惣菜の味に思いを馳せた。



<-- scene 3-->

 『明日の天気予報は一日中晴れ、降水確率ゼロパーセント』
 その予報通り、今日の東京は柔らかな日差しが心地良い朝の目覚めを迎えた。
 しかし昼を過ぎた今、その空は一面の雲に覆われてしまっている。

 セレスティ・カーニンガムは黒塗りのいかめしい面構えの車中から窓の外へと視線を向けた。
 淡く弱い光が車窓から入り込み、彼の瞳をそっと刺激する。
 セレスティは手に触れていたスイッチを慣れた手つきで操作した。パワーウィンドウが少し開かれた途端、埃混じりの風が車内に飛び込んでくる。彼は目を閉じ、身体の力を抜き、その風が運んできた空気を全身で感じとった。
 ――うす曇りの空が広がっている風景が、脳裏へと浮かんでくる。
 セレスティはウィンドウを閉じると、運転席の彼に声をかけた。
「天気予報は外れたようですね」
「ええ。今にも降り出しそうですよ。お屋敷に到着するまで保てば良いのですが」
「私は雨でも構いませんが」
 セレスティが何気なく口にした言葉に、その彼ははやれやれといった風にため息をついた。
「傘を出すのが億劫なのですよ」
 彼のその返答に、セレスティはくすりと満足気な微笑を浮かべた。
 先述の彼の台詞に「主人の身体に障るから」といった野暮なニュアンスがまるで含まれていないことを確認できたからである。

 セレスティはたまに、こうして彼を試さずにはいられなくなることがある。
 彼を試すための台詞を何気なさを装いつつ口にすると、聡い彼はすぐに察し、まず最初にため息をつく。そしてため息をつきながらも律儀に、自分の望んでいた返答を紡ぐのだ。
 そう。最初から彼の返答などわかっている。だから試す必要があるかと問われれば、全くないのだろう。
 しかしその儀式ともいえる一連のやりとりが自分にとってあまりに心地良いものだから、また彼を試さずにはいられなくなる。それだけの話だ。
 彼と自分がこの世に在る長い長い時間の中、もう何度こういう儀式が行われたかわからない。しかしそれがもたらす安堵感はいつだって新鮮で、自分の心を満たして止まない。

 だからついついこんな言葉まで口にしてしまうのである。
「それはつまり、私のことを心配してくれていない、ということですね」
 セレスティはバックミラーへと寂しげな視線を移した。その瞳は車中のぼんやりとした光を捉えるのみで、バックミラーに映っているものが何なのかを確認することはできない。
 しかし今、そこに碧色の双眸が映し出されていることをセレスティは確信していた。だからミラーに視線を遣った。そうすれば、彼がミラーを通して自分の瞳をとらえることができるから。
 やがて前方から、彼の大きな大きなため息が聞こえてきた。そして返答が、紡がれる。
「当たり前です。私としては、どちらかというと庭園のほうが心配ですね」
 彼が根負けしたというような調子で吐いた投げやりな台詞。それはセレスティにより一層の心地良さを提供した。まさにセレスティが望んでいた返答だったのだから。
 しかしセレスティは追随の手を緩めない。ここまで来ると悪乗りと言ってもいいかもしれないが、とにかくまだ足りなかった。セレスティはいたずらな笑みを浮かべながら、彼に言った。
「仮にも主人に対して、随分な言い草ですね。私はあなたにとってその程度の存在なのですか」
 セレスティの視線はバックミラーへと注がれたままだ。

 車中を支配する静寂を打ち破ったのは、彼の口から紡がれた、いつもの言葉だった。
「あなたのことは、心配ではなく信頼しています……これでよろしいですか」
 ため息とともに、呆れ口調で吐き出されたその台詞。それはもう何度口にさせたかわからない台詞。そしてどんな言葉よりも自分の心を満たす台詞。
 セレスティは彼が今どんな表情をしているのかと想像するとたまらなく可笑しくて、くつくつと笑い出した。そして、
「ええ、結構です」
 笑いを堪えながらなんとかそれだけ言うと、ウィンドウをまた少しだけ開けた。



<-- scene 4 -->

 フレイ・アストラスは結局『でぱちか』には行かなかった。
 何故なら、道中で美味しそうなにおいが漂ってきたのでふらりと身を任せてみたところ、草間興信所という何でも屋のドアを潜っていたからである。
 所長らしき男に「こちらは何でも屋さんですか?」と尋ねてみたところ激しい否定の言葉が返ってきたものの、ドアを開ける前に階段の踊り場に立っていた少女へ同じ問いをしたときは肯定されていたので気にしないことにした。

 何でも屋の草間興信所は、フレイが「腹の虫くんを助けてください」と依頼する必要がない程に気の利いた場所であった。テーブルには既に、彼を歓迎するかの如くずらりと和食が並べられていたのだから。
 フレイはソファに腰掛けると、両手を合わせて「いただきます」と一礼した。
「いや、ちょっと待て!」
 所長の言うことはあまり気にしないことに決めていたので、躊躇わず箸と茶碗を手に取った。
 まず御飯を一口。それから味噌汁をすすり、でぱちかでもよく見かける『肉じゃが』なる煮物を口に運んだ。
 その肉じゃがは、どのデパートで試食したものよりも絶品であった。あまりの美味しさに腹の虫くんも沈黙してしまうほどである。
「いや、だからちょっと待てって!」
 所長に肩を掴まれ揺すられたが、気にせず食べる。焼き魚も美味しかった。何という魚なのかはわからないが、とにかく美味い。そもそも、魚の名を表す日本語は煩雑すぎる。稚魚と成魚で名前が違うものまであるのだから。成長していようがいまいが美味しいものは美味しい、それでいいと思うのだが。
 そんなことをつらつら考えているうちに、フレイは全ての料理を食べ終わっていた。
 箸を置き、両手を合わせて「ごちそうさま」と一礼する。
「それでは失礼します」
 フレイは立ち上がると、所長に軽く手を上げて見せてから興信所を立ち去ろうとした。すると呆然としていた所長が、我に返ったような顔になりがばっと前に立ちふさがった。
「いやいやいやいや!」
 所長が声を荒げる。
「ええと。何か御用ですか?」
「そりゃあこっちの台詞だ! 俺の昼飯! 俺の昼飯だったんだぞあれは!」
 所長はテーブルの上に並んだ空の食器をずびしっと指差した。
「おや、それはそれは」
 フレイが哀れみを込めた口調で言うと、間髪入れず所長が怒鳴り返してきた。
「食ったのはお前だろうが!」
「いやあ、てっきり僕のために用意されていたものかと」
「そんなわけあるか!」
 所長が頭を抱える。

 そのとき、隣のスペースとの間に掛けられた和風カーテン――のれん、という名前だったように思う――をくぐって、女性が入ってきた。黒髪だが、顔立ちや瞳の色から察するに、日本女性ではないらしい。
 彼女はフレイを見ると、所長に向かって言った。
「お客様?」
「違う。窃盗犯だ」
 女性の発言を、所長が即否定する。
「窃盗犯ですって?」
 彼女は怪訝そうな表情でフレイを見た。今度は所長の発言をフレイが即否定する番であった。
「違います、窃盗犯じゃありません。僕はフレイ・アストラス。退魔士をしています」
 フレイがそう言うとその女性はにこりと微笑んだ。そして所長のほうへと顔を向ける。
「退魔士さんですって。武彦さん、今後いろいろ御世話になるかもしれないわね」
「おいシュライン、うちは退魔士が必要な仕事なんざ受けてないぞ」
「毎日退魔士さんの御世話になってるようなものじゃない」
 シュラインと呼ばれた女性が苦笑した。所長らしき男、武彦は何か言い返そうとしたのか息をすうと吸ったが、それは叶わなかった。先に彼女が話題を変えてしまったからである。
「フレイさん、竜虎の戦いはもう見たかしら」
「リョウコ? はあ。どちらの女性の名前でしょうか」
 フレイがぽかんと呟くと、シュラインは慌てて訂正した。
「ごめんなさい。竜と虎、ドラゴンとホワイトタイガーが上空で戦闘中なのだけど……ご存知なかったかしら」
「それは全然知りませんでした」
「そう……いえね、あまりに大きな竜と虎なものだから、幻覚か何かなのかしらと思って聞いてみたのだけれど」
 シュラインはそう言うと、窓を開けて少し身を乗り出し、空を見上げた。
「まだ戦ってるわね」
 彼女がそう言ったので、フレイも彼女に倣って上空を見てみることにした。
 すると彼女の言ったとおり、エッフェル塔もお子様に思えてくるほど巨大なドラゴンとホワイトタイガーがはるか上空で火花を散らしながら睨み合っているではないか。
「おやおや。戦ってますねえ」
「雷が来たのかと思ったら、そうじゃない。全部こいつらの所為だったんだよ」
 武彦がそう言い終えるかどうかというタイミングで、上空に稲妻が走った。武彦がびくりと身を竦める。ややあって落雷音が響き渡り、武彦はいよいよ身体をぶるぶると震わせはじめた。
「おい何だよ。雷じゃないんじゃなかったのか、くそっ」
 武彦は誰にともなくそう文句を垂れると、先程シュラインが出てきたスペースへと消えていった。



<-- scene 5 -->

 鼓膜を、異音が震わせている。それがただの異音であればそのまま通り過ぎたのだが、その音にはどこかで聞き覚えがあった。確かそれを聞いたのは、とても昔のことだったように思う。そして、何かとても懐かしい感じがする。
 セレスティ・カーニンガムは車のウィンドウをさらに大きく開けた。
 身体の力を抜き、飛び込んでくる光、音、空気、全ての事象に感覚をあずける。
 ――うす曇りだった空は本格的な雨雲に覆われつつある。しかもそれはただの雨雲、雷雲ではない。おそらく何か大きな力を持ったエネルギー体が上空に存在しているのだろう。時折聞こえてくる雷鳴や落雷に似た音は、そのエネルギー体のあまりの強大さに空中に漏れたものが発しているものと思われる。
 そして、それらが発している何者をも凌駕する圧倒的なオーラとも言うべき雰囲気に、セレスティは覚えがある。

 セレスティは顔を前方へと戻すと、運転席の彼に声をかけた。
「ここは草間興信所の付近ですね。降ろしていただけますか」
「それはまたいきなりな話で」
 彼は苦笑気味にそう言いながらも、車のスピードをすっと下げた。
「何か、急用でも思い出しましたか」
「急用といえば急用かもしれません。『彼ら』が現れたものですから、もしかすると『彼』とも会えるのではないかと思いまして……ほら、あなたにはあの雲が見えるでしょう」
 セレスティが車の外を指差すと、運転席の彼の束ねた髪がその肩をかすめる音が聞こえた。セレスティが示す方向へと顔を向けたのであろう。運転席のドアのウィンドウが開けられる音が聞こえてくる。
 ややあって、車は完全に止まった。彼は運転席から出ると暫くその場で立ち止まって、おそらくは空を見ていたようだったが、やがて後部座席の窓からセレスティに声をかけた。
「成る程。本当なら私も一度はそのお姿を拝んでみたいところですが、水を差すのも気が進みませんのでね。屋敷へ戻っておりましょう」
「ええ、頼みます」
 彼はトランクから傘を取り出すと、無駄のない動きで後部座席の前へと回り、そのドアを開けた。
 そして傘を開き、セレスティに差し出す。
「話くらいは聞かせてくださいよ。本当は私も見てみたいのですからね」
「わかっています。今度のティータイムにでも、お話しましょう」
 セレスティはステッキをついて表へ出ながら、微笑みでもってその傘を受け取った。
「楽しみにしています」
 彼は恭しく一礼すると、後部座席のドアを閉め、運転席へと戻って行った。



<-- scene 6 -->

「おい退魔士、これだこれ」
 草間・武彦は台所から戻ってくるなり、フレイ・アストラスにその手に持っているものを差し出した。彼の手に握られているのはシリコン製のへらである。それは鍋を傷つける心配もなくソースをこそげ取るにも便利、且つ高熱にも耐え得るという調理の便利アイテムであった。フレイは武彦に言われるままにそれを受け取った。
「ええと。お食事の支度をしろと仰るのでしょうか」
「違う。へそを守れと言っているんだ」
「へそ?」
 きょとんとした顔でフレイが聞き返すと、武彦はうんうん頷いた。
「あのな、日本の雷はへそを狙ってくるんだ。だから武装せねばならない。しかし金属製の鍋やふたなんかで武装していたら落雷したときに焼け焦げてしまう。そこでこのシリコンべらが役に立つというわけだ。これなら焼け焦げずにすむからな」
「なるほど。所長さん冴えてますねえ。事前にアイテムを用意しておくだなんて、さすがは便利屋さんです」
「ふふふ、そうだろう。なに、このハードボイルド探偵草間・武彦にかかればこんなものは朝飯前なのさ」
 フレイに煽てられ、武彦はすっかり悦に入っていた。便利屋と称されたことに気付かぬほどに。

 しかしシュライン・エマは知っている。彼が持ってきたシリコンべらは、先日彼女がその機能性に惹かれて購入してきたもので、武彦が語ったマメ知識――日本の雷はへそを狙う説は除く――も全て彼女の受け売りだということを。
 シュラインは苦笑しつつ窓から乗り出していた身体を室内へと戻すと、古テレビの前に立ち、チャンネルをガチャガチャ回しはじめた。
 三流芸能人の色恋騒動。二時間ドラマ再放送。二十四時間生放送の通販番組。辛口ファッションチェック。チャンネルを回す度に目に飛び込んでくる映像は、どれも普段通りの午後の番組たちだ。
「おかしいわね。どの局でも特番が行われていないなんて」
 シュラインが首を傾げる。
「あれだけ派手にやらかしてるのに、どこでも報道しないだなんてありえないわ」
「ああ、竜虎の戦いか」
 武彦の呟きに、シュラインが「ええ」と頷く。
 フレイは窓のほうを見ながら何やら考え込んでいたが、やがてポンと手を打つと、シュラインのほうへと向き直った。
「わかりました。あれはきっと、古き良き東京の風物詩なんですよ」
「は?」
「確かに驚かれるのも無理ないこととは思いますが、なにせあんなに立派なリョウコさんですよ? 風物詩として崇め奉られていても全く不思議はありません。いやはや、東京とは実に趣深いところですねえ」
 笑顔でひとり納得するフレイ。
 彼は趣という言葉の意味を、風物詩という言葉の意味を本当に知っているのか。百歩譲って風物詩だとしてもそれは東京のではなく中国のではないのか。それ以前に、竜虎――彼の言うところのリョウコ、読みだけなら間違いではない――が竜と虎をさす言葉だというのを彼は理解してくれているのだろうか。
 シュラインは激しい疑念とほんの少しの絶望を抱きつつも、とりあえず当り障りのない返事をしておくことにした。
「そうね。確かにあれだけ大きな竜虎は滅多には現れないと思うわ」
「その通りです。まさかこんなところで『神獣』を拝むことができるとは私も思っていませんでしたよ」
「本当に。縁起が良いっていうかなんていうか――えっ?」
 彼があまりにスムーズに会話に参加してきたのでうっかりスルーしそうになったが、よくよく考えてみると彼は先ほどまではこの場に居なかった筈だ。
 ゆっくりと、声の主を振り返る。
「お久しぶりです。こんにちは、皆さん」
 仕立ての良さがひと目でわかる上品なスーツを身に纏った男性が一礼した。その手に握られたアンティーク調のステッキが彼の身体を支えている。そしていつもゆったりとした微笑をたたえた彼は、何度出会っても形容の言葉が見つからないほどに、全てが美しい。
「セレスティさん」
 シュラインがその名を呼ぶ。
 彼女の前には、巨大財閥リンスターの総帥、セレスティ・カーニンガムの姿があった。



<-- scene 7 -->

「どうしてこちらへ?」
 予期せぬ訪問者に驚きを隠せない様子のシュライン・エマに、その訪問者――セレスティ・カーニンガムは柔らかな微笑みを返した。
「車での移動中に通りかかりまして。近くで降ろしてもらったんです。少し確かめたいことがありましたから」
「『竜虎の決戦』のことですか」
 シュラインが言うと、セレスティはゆっくりと頷き、そして彼の知る真相について語り始めた。
「お気づきかもしれませんが、あの竜虎の戦いは極めて狭い範囲からしか可視できない現象です。今回の場合、その可視化の範囲はこの草間興信所及び周辺のわずかな場所に限られているようです。それ以外の場所から上空を見上げても、あれはただの雷雲にしか見えないでしょう」
「成る程ね。道理でおかしいと思ったのよ。だって、あんなに巨大な竜と虎が現れたんですもの。町中大騒ぎになって、もしかしたらひっきりなしに依頼の電話が来るかもしれないとも思っていたの。それなのにうちはいつもと同じ閑古鳥状態で……それに、マスコミによる報道も全く行われていないみたいで。だからおかしいなって思っていたの」
「報道といえば、アトラスの三下君が走り回っている姿を見かけましたが」
「あら。上手いこと情報入手できたのね。それは良かったわ。たまにはスクープも取らないとね、彼も」
「まったくです。クビになってしまっては遊ぶこともできませんからね」
 セレスティがくすりと微笑んだ。ちなみにセレスティの台詞に出てきた「遊ぶ」という言葉は、「三下君で遊ぶ」を省略したものである。

「ところであなたは、先程とは違う服装をしているようですが、どうかしましたか」
 セレスティがふと目線を遠くへやった。その先には、草間・武彦がいる。
 武彦はいつの間にそんなことをしていたのか、麻雀で使われるゴム製マットを胴に巻きつけ、ぴちぴちの水泳帽を被っていた。そして手には、お菓子作りの必需品ゴムべらが握られている。
「ん? ああ。ちょっとな」
 武彦がそう言って話題を流そうとすると、すかさずフレイ・アストラスがお節介を挟んできた。
「所長さんは雷が怖いので、ゴム製品で武装なさっているんです」
「おい、誰が雷が怖いなんて言った」
「あなたの態度がさっきからずっとそう言ってますが」
「お前、タダメシ食らいの分際で生意気もいいところだぞ……とりゃ!」
 突如、武彦がフレイにゴムべらを振るった。しかしフレイはすかさずシリコンべらでブロックする。たった一太刀が、両者の間に漂う雰囲気を一気に緊迫したものとした。両者が睨み合う。
 上空の竜虎の戦いと比べるとあまりにスケールの小さい戦いが、興信所内にて展開されようとしている。

 シュラインは二人を止めるわけでもなく、武彦をしげしげと眺めていた。
 あんな格好をすることで彼が落ち着いていられるならそれでいいと思うが、逆にあんなものを身に付けていたら歩くのもままならず却って危険なのではないかとも思う。
「ねえ武彦さん、その鎧……随分動き辛そうだけど、大丈夫?」
「平気さ。鎧っていうのはどうしても動きに制限がかかるものなんだ。中世ヨーロッパの鎧なんてそりゃあ凄いもんだったんだぞ。重いし熱いし動き辛いしでな、ファンタジーゲームに出てくる防具とはまるで違うんだ」
「へえ、そうなの」
 武彦の口から飛び出してきた薀蓄らしきものに、シュラインは内心苦笑していた。それが中世ヨーロッパを舞台としたテレビゲームの解説書の受け売りだということを知っているからだ。
 シュラインはそれ以上彼の発言を掘り下げようとはしなかったが、しかしフレイが反応した。彼は武彦のゴムべらを白刃取りするや否や、お互いが持っていた武器をソファに放り投げ、輝きに満ちた瞳を武彦へと向けたのである。
「ど、どうした?」
 武彦がぎょっとして一歩後退すると、フレイは一歩前進して彼の手を取った。そして両手で固く握りしめる。
「感激です。所長さんが中世ヨーロッパ事情にお詳しい方だったなんて。いやあ、僕もその頃の歴史検証にはなかなかのこだわりを持ってましてね。どうです、今度語り合いませんか」
「え。あ。お。おう。そうだな」
 しどろもどろになりながらも後には引けず同意する武彦を見て、シュラインは微妙な気分になりつつも、どうやってフォローしようかと思考を巡らせた。武彦が知っているのは中世ヨーロッパ事情ではなく、それを舞台にしたテレビゲーム事情(のほんの一部)だけなのだから。フレイにとってもそれは良くない。
 しかし幸運なことに、フォローする必要はなくなった。フレイがさくっと話題を切り替えたからである。

 フレイは武彦の手をぱっと離すと、セレスティの方へと顔を向けた。
「そういえば。あなたはどうしてそんなに東京の風物詩にお詳しいのですか?」
 おずおずと尋ねるフレイの言葉に、セレスティが少しきょとんとした顔をした。おそらく『東京の風物詩』という言葉が引っかかったのであろう。しかしセレスティはその表情をすぐ微笑みへと戻す。
「知り合いなんです」
「え?」
 セレスティの何気ない一言に、その場の全員が言葉を失った。



<-- scene 8 -->

「知り合いって」
 彼の発言の真意を確かめようと、シュライン・エマが切り出した。
「まさかセレスティさん、『四神』の知り合いだって仰るんですか?」
 シュラインはセレスティ・カーニンガムを見た。彼の表情は相変わらず微笑みのままだ。
 たしかに、この総帥ならばありえない話ではないだろう。しかし何といっても今回の相手は伝承上の神なのだ。その知り合いだなんて、一体どこでどうやって神と知り合えるというのか。

 そのとき突然、「たいへんです、たいへんです」という声とともに、興信所の扉が勢いよく開かれた。
 全員の視線が出入り口へと集中する。そこには、真剣な顔をした草間・零が立っていた。
「どうした、零」
 草間・武彦が問いかけると、零は両手を広げて大声をあげた。
「上空に、大きな鳥さんが現れました!」
「鳥さん?」
「はい。とても大きくて、真っ赤な鳥さんなんです」
 零が一層大きく両手を広げて見せる。するとセレスティ・カーニンガムがにこりと微笑んだ。
「それは『朱雀(スザク)』ですね。上空で戦っている白虎と青龍のお仲間ですよ」
「お仲間さん。じゃあ、悪い鳥さんではないんですね」
「ええ。良い鳥さんですよ」
 セレスティの言葉に、零の表情がぱっと明るくなる。

 零が嬉々とした様子で興信所から出て行く後姿を見送りながら、シュライン・エマはぽつりと呟いた。
「悪い鳥さんだったらどうするつもりだったのかしら」
 彼女としてはただの独り言のつもりであったその言葉。
 それを聞き逃さず考えそして解答を提示した者がいた。フレイ・アストラスである。
 彼はポンと手を叩くと、シュラインへと満面の笑みを向けた。
「わかりました。きっと『飛ぶ鳥を落とす勢い』という言葉、あれに違いありません」
「はい?」
「あれ、『飛ぶ鳥お茶を濁さず』でしたっけ」
 フレイは腕を組んでああでもない、こうでもないとうんうん唸っている。
 シュラインが彼に正しい知識を伝授しようか放っておこうかと考えていると、
「屋上へ出てみましょうか」
 そう、セレスティがステッキで扉を示したので、シュラインはフレイの誤認識のことは一旦置いておくことにして、興信所の扉を開けて表へ出た。

 こうして、興信所事務所スペースには、二人の男性が取り残された。
「所長さん、ところで、先ほどのお話なのですが」
 フレイがまたしても瞳を輝かせながら武彦へと向き直った。武彦がびくりと身体を竦める。
「え。あ。お。おう。なんだ、やる気か」
 武彦は意味不明なファイティングポーズを取リ始めたが、フレイはそれを全く気に留めずに言った。
「何をやる気なのかよくわかりませんが。ええと、その。おへその話です」
 そしてソファに投げ出してあったシリコンべらを手にとって掲げてみせる。
「あ。ああ。そっちの話か」
 武彦がふうと息をついたのは気にせず、フレイは本題を切り出した。
「ええとですね。おへそが狙われては、腹の虫くんもおちおち昼寝もしていられないと思うんです」
「成る程。それは一理あるな。腹の虫がうるさくてはたまらない」
「でしょう。だからおへそは最優先で守る必要があります。それにはたしかに武装も大事だと思うのですが、やはり僕は『飛ぶ鳥を落とす勢い』だと思うんですよ」
「どういうことだ」
「ええと。つまり、防御だけではなく攻撃に転じるのもまた一興なのではないかと」
 その発言自体には特に文句はないのだが。
「それと『飛ぶ鳥を落とす勢い』にはどんな関係があるんだ」
 武彦が一番意味のわからないところをずばっと突くと、フレイははっとして自分の頭をぺちっと叩いた。
「そうか。『飛ぶ鳥お茶を濁さず』のほうでしたね。失礼しました」
 ますます意味がわからない。武彦はがっくり項垂れたが、気力を振り絞って顔を上げると、逆にフレイに向かってそれまでの不満をぶつけ出した。
「あのな。お前は意味不明すぎる。全てが間違っている。そもそも俺の昼飯を食ったところからして間違っている」
「あれは僕のために用意してくださっていたはずでは」
「だからそれが間違っているというに」
「とにかく僕が言いたいのは」
 フレイは熱くなっている武彦が一気に凍えて砕け散ってしまいそうなほどに彼の発言を思いっきりスルーしてまとめに入った。彼は辺りをきょろきょろと見回していたが、やがてテーブルの上にあったあまり趣味のよろしくない湯飲みを手に取ると、それを「じゃじゃじゃじゃーん」と掲げた。
「所長さん。僕はおへそを守るためには『飛ぶ鳥を落とす勢いでお茶を濁さず』作戦に転じるべきだと思うんです」
「だから……それはどういうことなんだ」
「見ていればわかりますよ」
 フレイの双眸がきらりと光る。



<-- scene 9 -->

 瞳にほんのわずか飛び込んできたのは、もやの中鮮やかに浮かぶ、強く朱い灯火のような光。
 ――『朱雀』が、七色に輝く長い尾をはためかせながら、相変わらず睨みあったままの青龍と白虎の周辺を大きな軌跡を描きながら旋回している姿が彼の脳裏に映されている。

 青龍・白虎・朱雀。四神のうちの三神が、この興信所の上空へと集っている。
 あと一神。自分の知る『彼』はどこにいるのだろうか。
 セレスティ・カーニンガムは強風に煽られてしまわないように、手に持つステッキをやや強く握った。

 シュライン・エマは思ったより屋上に吹き込む風が強いことに気付き、横に立つセレスティに声をかけた。
「風が強くなってきているみたいですが、大丈夫ですか?」
「ええ。このくらいの風ならば心地良いくらいですよ」
 とぼけた口調で返された台詞に、シュラインは安堵の笑みを浮かべた。
「しかし、彼はまた随分と子供ですねえ」
「え?」
 きょとんとした顔でセレスティを見ると、彼はにこにこと微笑んでいる。
「彼ですよ」
 その瞳に少しだけいたずらな輝きが混じっているのに気付き、シュラインは「ああ」と苦笑した。
「彼ね。本当、子供だわあの人は。何だか最近、前にも増してそうなってる気がするの」
 シュラインは少しだけ困った顔でため息をついてみせた。するとセレスティはふふ、と笑いながら言った。
「前にも増してとなると、おそらくその要因はあなたでしょうね」
 彼が何気なく言ったその台詞に、シュラインは言葉を失った。その顔が一気に青褪める。

 沈黙が場を支配する。

 突然、セレスティがクスクスと笑い出した。シュラインは目を見開いて彼を凝視する。
「あの。あなたは何か誤解なさっているようですが」
 セレスティは笑いを落ち着けると、シュラインの瞳に優しく視線を送りながら話しだした。
「私が言いたかったのは。男性は一緒に居て心から安心できると思う相手、信頼している相手の前では子供に還る傾向があるものだ、ということです。仮にその子供ぶりがエスカレートしているとすれば、それだけその相手への信頼が深まっているということ。だからあなたを責めたわけではなく、寧ろ喜ばしく思っているのですよ」
 そう言った彼の表情は限りなく優しい微笑みに彩られていた。それはシュラインの心を支配していた不安感を一気に拭い去る力を持つかのような、とても不思議な微笑み。
 シュラインはゆっくりとそれまでの彼の言葉を反芻していたが、やがて重い口をようやく開いた。
「彼は……私と居ることで安心してくれている。私を信頼してくれている。私はそう自惚れてもいいのかしら」
「自惚れなどではなく、真実でしょう。より一層の安堵と落ち着きを得られる存在の前でこそ、より子供へと還ることができるのですから」
「でも彼は、私の前でだけじゃなくてどこでだって子供だと思うけれど」
 シュラインが自嘲気味にそう言うと、セレスティはゆっくりと首を横に振った。
「私の言う『子供』というのは、わかりやすい幼児性だけではありません。やたら見栄を張ってみたり、駄々をこねてみたり、わざと困らせるようなことをしてみたり。それら全てが『子供』のすることだというのです。思い当たる節はありませんか?」
 シュラインは武彦のことをあれこれ思い出して考えていたが、やがて吹き出した。
「凄い、本当だわ。思い当たることばかりよ」
 シュラインはクスクス笑い出した。
「何だか胸のつかえが取れた気分……実はね、最近少し不安だったの。もしかして彼は私のことを信頼してくれてなどいないんじゃないか、って」
「そんなことは、天地がひっくり返っても起こりえないと断言しましょう」
 セレスティの冗談めかした台詞に、シュラインは少し照れたように笑った。
「ありがとう、セレスティさん」
 セレスティは優しい微笑みのまま、頷きでもってそれに答えた。
 そのとき。ふと、シュラインの脳裏を、大きな赤い瞳に銀色の長い髪、いつも可愛らしい洋服を身に纏ったそばかすの愛らしい女性の顔が過ぎっていった。
 その女性は、セレスティが誰よりも愛情を注ぐ大切なひと。
 彼女の前でなら彼でさえもそう、子供に還るのだろうか。彼女にだけ見せる表情はどんなに美しいのだろうか。

 シュラインは晴れやかな気持ちで大きく息を吸うと、再び上空を見上げた。
 刹那。
「えっ?」
 彼女の目が大きく見開かれた。
 その瞳に飛び込んできたのは、みるみるうちに大きくなっていく朱い色。

 ――朱雀が、猛烈なスピードで滑空してくる。



<-- scene 10 -->

「き、来たああああああああああ!」
 草間・武彦が絶叫した。
 転がるように窓辺から逃げ出した彼は、やはり落雷対策という名目で身に付けたゴム武装の機動性がまずかったのだろう、見事にテーブルに蹴躓き、棚へとダイブした。床にくず折れる彼の上に、たくさんの本やファイル、誰が置いていったかわからないようながらくたなどが次々と大きな音を立てながら降り注ぐ。
「おやおや、大丈夫ですか?」
 フレイ・アストラスはいかにも他人事といった風情で、彼にそう声をかけた。返事の代わりに聞こえてきたのは、興信所の安普請のドアがキイと開く音。
 草間・零が少しだけ開いた扉の隙間から、室内を覗きこんでいる。その目が瞬時に大きく見開かれた。
「……お部屋がこんなに散らかっているなんて!」
 零はぐいと扉を開けて中へ駆け込んでくるなり倒れたテーブルを起こし、辺りに散乱したものを拾い出した。
「れ、零……助けに来てくれたのか」
 がらくたの瓦礫の下から武彦のよぼよぼとした声が響いてくる。
「何言ってるんです。こんなにお部屋を散らかすなんて、お兄さんひどいです」
 零が武彦の発言を一蹴した。今の彼女にとっては、武彦の安否よりも部屋の惨状のほうが問題であるらしい。
 フレイは窓から顔を出すと、上空に視線を遣った。そこにこの惨状を引き起こした元凶の姿があるはずだったからだ。
 しかしフレイが予想していたものは見当たらない。飛び込んできたのは白虎と青龍の睨み合いだけだ。
「おかしいですねえ」
 フレイが首を傾げた。そしてもう一度、空へと視線を向ける。
 すると興信所の屋上の縁から、ほんの少しだけ虹色の光が漏れているのが目に入った。
 元凶は今、屋上にいる。



<-- scene 11 -->

 その鳥冠は無垢の白色。翼は炎の朱色。胴は生命の紅色。瞳は陽光の黄金色。
 長く伸びる七本の尾羽は赤、橙、黄、緑、青、藍、菫の虹の色。
 鮮やかな色彩にしなやかな姿態。目の前に音もなく降り立った華麗なる神獣――『朱雀』のあまりに豪奢で艶やかな姿に、シュライン・エマは目を奪われて立ち尽くしていた。
「はじめまして、炎帝殿」
 セレスティ・カーニンガムが一礼すると、朱雀は羽をばさりと広げてそれに応える仕草をした。白虎や青龍に比べるとはるかに小さい体躯のように見えるが、それでもその身体は神獣の名に相応しい大きなものだ。朱い翼から生まれた風圧が、二人の髪を大きくなびかせる。
 朱雀は羽をたたむと、細い首をもたげてセレスティへと向けた。その金色の瞳が大きく見開かれる。
『あら。あなた、爺さんが言ってた『海神の子』じゃない。こんな所で出会えるだなんて思わなかったわ』
 それは直接脳に響いてきた。男性とも女性とも一人とも複数ともつかぬ不可思議な響きの声であった。
 しかしシュラインは、自分が神獣の声を聞いたということの認識よりも先に、その台詞があまりにざっくばらんだったことに呆気に取られてしまった。
 『爺さん』とは何なのか。口調からすると朱雀は雌なのか。それともオネエなのか。いや、性別を持っていないと考えるのが一番建設的かもしれない。なにせ相手は神なのだ。
 シュラインがそんなことをつらつらと考えていると、セレスティが苦笑しながら言った。
「海神の子とはまた、随分大袈裟に伝えられたものです」
 そのとき、背後の階段を足音が上ってくるのが聞こえてきた。振り向くと同時に屋上の扉が開く。入ってきたのはフレイ・アストラスだった。
 途端。
『ああっこの男!』
 朱雀が羽をばたつかせながら声を荒げたので、シュラインはびくりと身を竦めた。
「いやあ、綺麗な鳥さんですねえ。フェニックスですか」
 フレイは何食わぬ顔をしてにこにこ微笑んでいる。
『不死鳥ですって? あんな紛い物と一緒にしないでくれる!?』
 朱雀はぷんすか怒り出した。不死鳥は紛い物なのか。いやそれより、フレイは一体何をやらかしたのか。
 シュラインがどちらかに尋ねようとすると、朱雀が羽をばさばさ言わせながら口を開いた。
『聞いてよ! この男ったら、あたしにこんな物ぶつけてくれたのよ』
 こんな物。その台詞に朱雀を振り返ると、彼――と呼ぶことにしてみた――は、足元に片羽を向けていた。それを認めた途端、シュラインの目が点になった。そこに転がっていたのは、武彦愛用のピンク色の湯飲み茶碗だったのだ。
「ぶ、ぶつけたですって?」
 シュラインが呆然と呟くと、フレイは得意気に言った。
「いやあ。実は僕、投擲得意なんですよ」
『意味がわからないわ! あんた、仮にも神のあたしにこんなちゃちい物ぶつけるなんて失礼極まりないったらありゃしないわ! 一体どうやって責任取ってくれるのよ!』
「婿入りでもしましょうか」
『あんたみたいな婿なんていらないわよ!』
 フレイのとぼけた言葉に、朱雀はぷいと横を向いてしまった。
 何だか頭がくらくらする。
 シュラインがそっと額を押さえると、フレイは「おやおや」と言いながら駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか」
「フレイさん、あなた一体何したの」
「えっへん。名付けて『飛ぶ鳥を落とす勢いでお茶を濁さず』大作戦です」
「意味がわからないわ」
 思わず呟く。何となく、朱雀とわかりあえたような気がした瞬間であった。

「ときに。『玄武(ゲンブ)』殿はお元気でしょうか」
 セレスティがそう言うと、朱雀はぱっと彼に首を向けた。
『そりゃもう嫌なくらいピンピンしてるわよ。今日はね、海に行くとか言ってたわ。バカンスのつもりかしら』
「それは達者で何よりです」
 肩の代わりに羽を竦めて見せる朱雀に、セレスティがにっこり微笑む。そのやりとりを聞いているうちに、シュラインはあることを思い出して、セレスティに言った。
「さっき知り合いって仰っていたのは」
「玄武殿です。もう何年前の話になるか覚えていませんが、北欧の海で出会いましてね」
「北欧」
 シュラインが呟く。四神と欧州というのがいまいち結びつかない気がしたのだ。
「胴は亀、頭と尾は蛇。厳格な神気とは裏腹になかなか話せる御仁でしてね。そのときも付近で青龍殿と白虎殿の戦いが行われていたのですが――私には残念ながら可視できませんでしたが――玄武殿が様々と解説をしてくださって。楽しかったものです」
 そのときのことを思い出しているのか、セレスティは懐かしそうな顔をしている。
『薀蓄好きさえなければ我慢できるんだけどね、あの爺さん』
「おや。その薀蓄が楽しいのではないですか」
『あらやだ。だからあなた爺さんのお気に入りなんだわ』
 にこにこと微笑むセレスティに、朱雀が少し呆れたような仕草を見せた、そのとき。

 空をつんざく轟音が、ビルを大きく揺るがせた。

 転倒しそうになったセレスティに近くに居たフレイが慌てて駆け寄り、間一髪でその身を支えた。シュラインはその場に手と膝をついて何とか揺れを凌いでいる。
『いやだわ。あいつらの仕業よ』
 朱雀は少しだけ身体を空中に浮かせて上空を見上げている。彼の視線の先にいるのは青龍と白虎だが、両者の雰囲気はそれまでとまるで違っていた。

 ただでさえ巨大に見えていた体躯が、さらにひと回りもふた回りも大きく感じられる。空を埋め尽くすのはおろか、地上までもを蹂躙してしまうのではないかというほどに、彼らの放つ威圧感は圧倒的であった。
 その上空を両者から発生したエネルギーにより形成された雷雲が渦巻き、稲妻を散らしている。
 地上全ての空気が、彼らの生み出す波動によって波打つように震えている。
 地面が揺らぐ。地響きが止まらない。

 雲を切り裂く強烈な稲妻が号令となった。



<-- scene 12 -->
 
 青龍が、顎を天地に大きく開いたかと思うと、口中から炎を吐き出した。対する大きく身を翻す白虎の牙と牙の間から漏れているのは絶対零度の冷気である。白虎は牙を剥き出して、咆哮した。
 上空で、火炎と冷気が真正面から衝突する。
 その勢いはまるで互角。冷気が霧散し、火炎は大きく四散する。
 その一片が、地上へと方向を変えた。それは火勢を徐々に大きくしながら、まさに興信所のビルを襲わんばかりのスピードで向かってくる。見る見るうちにその距離が詰まる。
 直撃が近いことを全員が確信した、その瞬間。
 何かの力によって火片の勢いが一気に弱まった。それは弱まってもなおくすぶりながらビルにその火の手を伸ばさんとしていたが、横から吹いてきた強風によって完全に消失した。
 そう。セレスティ・カーニンガムがその能力でもって瞬時に空気中の水分から水を形成、上空にそれによる水膜を形成し、一方の炎帝・朱雀は大きく息を吸いながら飛び上がり、火片をその神獣の力で吹き消したのである。

 朱雀は当面の危機が去ったことを認めると、再びビルに降り立ち、セレスティに首を向けた。
『爺さんが認めただけあるわね。見事な機転だったわ。あたしの出番ないかと思っちゃったじゃない』
「水は得意分野ですから……おっと」
 セレスティと朱雀の会話はビルを襲う強風により一旦打ち切られることとなった。上空でまた何かが起こったのであろう。再び朱雀は大きな翼をしならせると、朱の翼の羽ばたきでもって強風を打ち消した。
 朱雀がセレスティへと向き直る。
『あなた、もう一度水張れるかしら? いつ何のとばっちりがこっちに来るかわからないし、一応供えておいたほうがいいと思うわよ』
「そうですね。幸い湿度がだいぶ高いようですから、少しあればまた形成可能でしょう……ただし」
 セレスティは両腕を広げると、再び空気中の水の分子たちを集めだした。
「……いつまで保つかわかりませんが」
 その通りであった。このペースで次々炎やら風やらに襲われていては身が保たない。最悪の場合、ビルが崩壊してしまうことだって起こりうるであろう。

「するとやはり、『飛ぶ鳥を落とす勢いでお茶を濁さず』大作戦の出番でしょうか」
 突然、セレスティの身体をしっかりと支えてフォローに徹していたフレイ・アストラスが素っ頓狂な台詞を吐いた。
 その途端、屋上付近を小さく旋回していた朱雀の瞳が剣呑な光を帯びる。
『あんたねえ……さっきはたまたま当たったのがあたしだったから良かったものの、それがもし上の奴らだったら、今頃ここの全員が消し炭になってたわよ』
「消し炭って……青龍神と白虎神は、そんなに気性の激しい方々なのですか」
 シュライン・エマが朱雀に問うと、彼は長い首をふるふると振った。
『違うのよ。奴らは単なる戦闘マニア。顔を合わせればまず決闘なわけ。そんでもって、何よりもその決闘に水を差されることを嫌うのよ。このあたしですらそこに介入なんてできないんだから。やっぱり漢と漢の闘いだしね。だから、もしあんなちゃちい湯飲みなんかで水差された日には、そりゃもう凄いことになってたと思うわよ』
「ということは、彼らの決戦を止める手立てはない、ということですね」
『そうね……たまたま今回奴らが可視化に選んだポイントがこのビルだったってところがあなたたちの不幸の始まりだったってことかしら』
「それはどういうことですか?」
『本来ならね、地上に影響が及ぶような神獣同士の戦いなんてタブーなのよ。だからやるとしたら可視化なんてもってのほか、あんな身体ばかでかくして地上まで飛び火するような戦闘するなんて言語道断なの。ところがね……困ったことに奴ら、どっちも目立ちたがりなのよ……だから、あんなばかでかい気を纏って、極めて小さい範囲とはいえ可視までできるようにしちゃってるわけ。そうすれば今回みたいに誰かが目に留めてくれるでしょ?』
「それはまた、なんというか……」
 子供。
 シュラインはその言葉を飲み込んだが、
『ガキなのよ。イイ歳してるくせに困ったもんよ全く』
 朱雀がずびしっと代弁した。

 そういえば。草間・武彦が屋上に来ない。少し前に、何やら叫び声をあげていたのが聞こえた気がするのだが。
「フレイさん、武彦さんはどうしたの?」
 シュラインが訊くと、フレイはにっこり微笑んだ。
「先程、妹さんに説教されていたみたいです。今もご一緒なのではないでしょうか」
「そう。零ちゃんが一緒なら大丈夫ね」
 シュラインが安堵の表情を見せると、フレイは「ええ、大丈夫ですよ」とにこにこ頷いた。
 しかしシュラインは知らない。今、武彦が散乱したがらくたの下でもがいていることを。雷の轟音に怯えていることを。頼みの綱の零はがらくたの中から発掘した『きれいなお姉さんがいっぱい載っている御本』を眺めるのに夢中で武彦のことは完全にスルーしていることを。そもそもその惨状を引き起こした元凶は朱雀の突然の襲来ではなく、その原因を作ったフレイ・アストラスであるということを。
 彼女がそれを知ることになるのは、もう少し先の話である。

 旋回していた朱雀が戻ってきた。身体の大きさを微塵も感じさせない軽やかさで屋上へ降り立つ。
『でも、そろそろタイムリミットだと思うのよね』
「タイムリミット?」
 シュラインが何のことかと考えていると、朱雀が語りだした。
『奴らの決戦のルールって毎回決まってるの。戦いの開始時刻は日本で言うところの午の刻、そして終了時刻は酉の刻ってね。もうそろそろじゃない?』
 シュラインは腕時計を確認した。酉の刻は今で言う午後六時にあたる。
 そして現在の時刻は……五時五十七分過ぎだ。タイムリミットまであと三分である。
「つまり、三分凌げばいいってことね」
 それならばこの朱雀の力とセレスティの水の能力があれば、何とかなりそうだ。
 シュラインは上空を仰ぎ見た。



<-- scene 13 -->

 白虎が大きく身体をしならせて、前足で空気を割いた。
 それは烈風を生み出しながら巨大な真空の刃となり、青龍の胴体を真っ二つに切断した。青龍の身体がもやとなり、やがて消える。それにより、白虎の勝利の雄叫びが辺り一面にこだまするかと思われた。
 しかし。白虎の背後をうねるようにゆらめく影があった。朧だった姿が徐々にくっきりと象られていく。白虎も既に気付いているようであった。勝利の雄叫びの代わりに彼が空に轟かせたのは、気合いを新たにするための咆哮。
 そう、真空刃が切り裂いたのは青龍の残像であったのだ。

 青龍が完全に実体化した。彼は首をもたげてひとつ大きく吼えると、上空へと高く飛び上がり、白虎目掛けて急降下してきた。青龍の身体は巨大な剣のように真っ直ぐに伸ばされている。ゆえに空気の抵抗が極めて少ない。
 しかし白虎はそれを失念していた。反応がほんの僅か、遅れる。
 青龍はその隙を逃さず速度を増して一気に白虎の背後へと到達し、その自在に動く胴を白虎の身体に巻きつけた。青龍がその身体全体に力を込める。

 身動きの取れない状態にさすがの白虎も辛そうな様子を見せている。
 しかし白虎はまだ負けじと、絡みつく青龍の胴に噛み付いた。しかし青龍の締め付けは緩まない。
 その太い腕で青龍の胴を引き剥がそうとするも、その身体はうねりながら形成を変え、再び白虎の身体を締め付けた。とどめとばかりのその協力な締めに、白虎の牙と牙の間から、冷気の変わりに苦悶の吐息が漏れる。

 竜虎の決戦の終末が訪れようとしていた。



<-- scene 14-->

 時計の針が、午後六時を回った。

 それと同時に、神獣のエネルギーによって発生していた全ての現象――今までビルを震わせていた地響きも、上空で渦巻いていた雷雲も、ずっと空を覆っていたうす曇の空も、全てがすっと消えた。
 西の空には天気予報の通り、美しい夕焼けが広がっている。

 それまで上空を埋め尽くすような巨大な体躯だった青龍と白虎は、すっかり小さくなっていた。別に彼らが遠くにいるから小さく見えるわけではない。その体躯自体が小さくなったのだ。
 彼らの体躯は元来朱雀とそう変わりがない。それが上空を覆い尽くすほどに巨大に見えたのは、ひとえに彼らが決戦時に発する威圧感によるものなのだ。威圧感がオーラとなり、彼らを何倍もの大きさに見せていたのである。
 朱雀は『要は奴らは、睨み合いながらどっちが強い威圧感を持っているかを競っているうちにあんなにでかくなっちゃったわけ。単なる見栄っ張りなのよ』と言って、笑い声のような高らかな鳴き声を響かせた。

 そして先程まで真剣勝負を繰り広げていた青龍と白虎は、肩を組みながら――青龍の肩がどこなのかはよくわからないが――語り合っているようである。今日の決戦の話をしているのだろうか。
 両者の間にはもはや敵対心などは皆無。そこにあるのは好敵手としてお互いを認め合う心だけだった。

 朱雀は屋上付近を小さく旋回していたが、やがて屋上へふわっと降り立ち、そして言った。
『さて。下界もとりあえずは無事にすんだわけだし。あたしもそろそろ行こうかしらね』
 朱雀は三人に向けて羽を大きく広げると、お辞儀するかのように羽を胸の前で合わせた。
「ありがとうございました、炎帝殿。玄武殿にも宜しくお伝えください」
 セレスティ・カーニンガムが深々と礼をして、感謝の意を表す。
「お会いできて光栄でしたわ」
 シュライン・エマは朱雀神に不思議な親近感を持ち始めていた。また会ってみたいと、そんなことを思う。
「あのう。さっきの話ですが、仮にも神様のくせに湯飲み茶碗ひとつ避けられないのがおかし――痛っ」
 フレイ・アストラスは台詞を最後まで言うことができなかった。シュラインのパンプスに足を踏まれたからである。
 朱雀は三者をそれぞれ見ていたが、やがて羽をばさりと広げ、とんと屋上の床を蹴った。そして屋上の近くを旋回する。羽を休めている姿も既に美しい彼だが、飛翔する姿はまるで別の存在であるかのように、どこまでも華麗で、どこまでも優雅で、そしてどこまでも美しかった。羽が夕焼けに照らされて、虹色に輝いている。
『それじゃ、また会える日を楽しみにしてるわ。またね』
 朱雀は一際高い声でひとつ鳴くと、上空へ――白虎と青龍がいる方角へと、飛んでいった。



<-- epilogue -->

「おや?」
 フレイ・アストラスがふと顔を上に向けた。ぽつりぽつりと小さく揺らめく色がある。
 朱い色だ。
 朱い色をしたそれが、三人のもとへひらひらと舞い降りてくる。
 それはゆっくりと漂いながら、それぞれの手へと収まった。
 三人が一様に手を開く。そこにあったのは、ちいさな朱い羽根。
「……きれいね」
 シュライン・エマがそれを夕日にかざしてみせる。すると虹色の輝きがちいさな羽根を彩った。
「炎帝殿の贈り物でしょうか」
 セレスティ・カーニンガムがくすりと微笑む。やがて三人は、ゆっくりと空を見上げた。

 

<-- end -->






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号:PC名/性別/年齢/職業】

【0086:シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1883:セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4443:フレイ・アストラス(ふれい・あすとらす)/男性/20歳/フリーター兼退魔士】



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■         ライター通信          ■
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はじめまして&お世話になっております、こんにちは。
執筆を担当させていただきました、祥野名生(よしの・なお)と申します。
ウェブゲーム 草間興信所『竜虎の決戦』にご参加いただきまして、ありがとうございます。

今回はドタバタの予定でしたが、どちらかというと日常ごった煮という感じのお話になりました。
表題の『竜虎の決戦』をもっと迫力満点に描ければ良かったのですが、筆力不足で…(涙)
また今回はアトラス編集部の同名依頼と軽く連動したものになっておりまして、アトラス側では別のPC様が朱雀神にインタビューを試みていたり、様々なエピソードについて考察したりと、各種設定を補完する傾向の内容になっています。ご興味を持たれましたら覗いてみてくださいませ。

なお、アイテムシステムという新システムがつい先日実装されましたので、早速ですがささやかな贈り物をさせていただきました。ご確認くださいませ。

ともあれ、皆様にとって、いっときの楽しみになれば、幸いです。

もしご意見、ご感想などございましたら、お気軽にお寄せくださいませ。
また、誤字や誤表現などを発見なさいました場合は遠慮無くリテイクをお申し付けくださいませ。
オフィシャルからの指示があり次第、即時修正対応させていただきます。
それではまたの機会がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します(ぺこ)



皆様にとって、来年も良いお年でありますよう願いをこめて。

2004.12.28 祥野名生