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瀬崎耀司と、蛇について
僕の身には、蛇が宿っているのだ――
誰に向かって話していいものか、僕にもわからないが、いまこそこの闇の中で語るとしよう。僕が呑んでしまった呪いと、僕が掌握した呪いについての噺だ。
くだらない噺だと、哂ってくれてもかまわんのだよ。
――いったい、誰が?
おそらく、僕自身がだ。
は、は。
僕は38の今になっても、砂漠の真ん中の墓城や、密林の中にたたずむ石造りの廃墟、消えては現れる移動湖の足跡にのこる街、そういった世界の古に触れる旅を続けている。
あの鞭を持った帽子のアメリカ人と、同じ生業であるわけだ。べつに彼に影響されてこの職業を選んだわけではないが、……彼は、好きだ。
もちろん僕は彼とちがい、岩に追いかけられたり、ナチスに追われたりしたことはない。
だが、彼のような体験はしているつもりだ。
重ね重ね言うが、僕はその興奮を求めてこの人生を選んだわけではない……ただ、この呪いが導くままに、歩んできただけなのだ。僕は何も選びはしなかったし、何も望んではいなかった……はずだった。
そして今日も僕は、忘れられかけた「人間の足跡」にいる。
幼い頃、両親の深夜の密談を耳にした。
瀬崎家の血をひくものは、総じて短命であるという話だった。確かに、僕は父方の祖父母を知らずに育った。写真もろくに遺さないうちに、祖父母は亡くなっていた。
僕は、20代半ばまで生きられたら御の字だという、絶望的な密談を聞いてしまったのだ。
だがこうして僕は、38になっている。
20代半ばまでに、僕は色々な苦労をし、経験をした。
いまの僕がこうして人間の足跡に立っているのは、僕が生きた証であり、僕が導かれてきた証でもある。大いなる矛盾だ――僕の人生には、かたちがない。
僕の身には、蛇が宿っているのだ。
ヒトよりも古い歴史を持つであろう、最も古き竜の化身か。
名も知らぬ、声もわからぬ、おそらくは姿さえヒトには見えない、神の一柱だ。神というのは、生物のことわりを凌駕した存在をいう――その力の方向が正であれ負であれ、とりあえず、『強ければその存在は神』なのだ。
この蛇は、強い。
ヒトにすぎない僕は、かれを踏みしだくことは出来なかった。ただ、僕が無力ではないということを認めさせ、何とか対等に扱わせることに成功しただけだ。運がよかっただけなのかもしれないが、僕は、自分の努力が実ったのだと信じたい。
僕に宿る神は言葉ならざる言の葉で僕に語りかけ、僕のこころを時折恐ろしい方向へと駆り立てる。脆弱な僕は、それを完全にねじ伏せることが出来ない。
蛇はいう。
血、
骨、
はらわた、
魂を喰わせろと。
あの男たちの腕を引き抜き、肋骨を開き、脈打つ心臓をひと呑みにしたい。
流れ落ちる血を一滴残らず啜り上げ、臓腑を齧りたい。
骨をしゃぶり、脳髄を掻き混ぜ、頭蓋の呪杯で飲み干してやりたい。
もちろん僕は人間で、人間を喰って生きているわけでもないし、血の味が旨いとは思わない。だが、確かに、その衝動が僕を駆り立てることがある。視界が真っ赤に染まり、意識が混濁し、飢餓感だけがこころの空白を埋めていく――そんなときがある。
気がついたときには、きまって、僕の手は真っ赤に染まっているのだ。
人々が忘れ去った歴史の足跡の中、きまって僕は血塗れで立ち尽くす。
はじめは、俗に言う『暴走』に過ぎず―― 『暴走』だからこそ、自分では制御できない、いつ爆発するかもわからない爆弾なのだと、己を恐れた時期もあった。
それが、いつ頃だったか、気がついたのだ。
血と肉を求める衝動は、ある状況下においての僕の怒りが呼び起こしているということに。
「――をひとつにつき……ドルで買い取るという、話だ……」
「――な話なのか? しかし蚊が多いな――」
「……は有名な物好きなんだそうだ――」
「その1500ドルっていうのは、米ドルなんだろうな――」
継ぎ目には剃刀の刃すら入らないといわれる石畳と石壁に、影と橙の灯が落ちる。僕は単独で、その日はこの遺跡の調査をしていた。無遠慮に石畳を踏み鳴らす音と、細々と聞こえてくる粗野な会話から、この灯をともす者たちが、ろくな輩ではないことは明白だ。僕は、壁の石に刻まれた絵文字のようなものを観察していた。僕はすぐに灯かりを消すと、曲がり角の暗闇に身を潜めた。
男たちが、金の話をしながら、僕の横を通り過ぎていった。
この遺跡は、コロンビアの密林に眠る墓なのだ。僕をはじめとした考古学者がつい最近見つけだしたもので、ティワナコよりも以前のものである可能性があった。非常に、貴重な遺跡だ。
南米の遺跡といえば、ジパングよりもよほど、黄金のイメージがあるだろう。
盗掘はあとを絶たず、近代の科学の目が入ったときにはすでに大方荒らされたあとだというのは当たり前になっている。
この遺跡は、まだ、そこまで確認できていない。もしかすると、映画ばりに壁がひっくり返り、目もくらむほどの黄金がつまった部屋が現れるかもしれない。ゾンビやミイラが襲ってくるかもしれない。岩が転がってくるような罠があるかもしれない。
しかし金の前では、そんな子供じみた危惧は意味を成さないのだ。男たちは、先へと進んでいく。まだ調査も入っていない深部へと。
僕は怒りを覚え、
衝動に、駆られた。
彼奴らの血、骨、はらわた、魂を喰わせろ。
彼奴らをひと呑みにし、我があぎとの奥にて、許しを乞わせてやる。
彼奴らのどす黒いはらわた、腐りきった血、穢れた脳髄は、さぞかし不味かろう。
だが、彼奴らを、喰ってくれる。
我が腑の内におさまったときに初めて、彼奴らは何かの役に立つといえよう。
そう――我が餓えを満たす、その役目を担うのだ。
やめろ……やめろ。
やめろ、ヒトなど、喰いたくはない……。
僕の左目はおそらく、戦慄の輝きを帯びているだろう。その力を超えられないものたちが、見れば、軒並み恐怖する輝きだ。
僕の呼気は蛇の咆哮であり、僕の両手からは神の力がほとばしる。
僕がこの闇に居たことを、呪うがいい――
つまりは、己の不運を呪うがいい。
そうして僕は、神の代わりに、鉄槌を下す。
血の臭いは、好きではないが、もう慣れた。
僕は血と臓物の臭いの中で、灯かりを頼りに、石に刻まれた絵文字を読み解く。南米の多くの文明は、文字を持たなかった。だがこの遺跡では、文字じみた絵が、明らかに何らかの法則を持って並んでいるところをよく見かけるのだ。実に興味深い遺跡だった。
僕がかざした光の中、焔を吐く蛇の絵が浮かび上がる。石に刻まれた蛇は、生き生きとしていた。焔は数人の人間とみられる『記号』を炙っていた。記号の人間は、両手を上げ、許しを乞い、倒れ、ばらばらになっている。人間たちの周りには、金貨や彫像と見受けられるものが散らばっている。
「やはり、そうか」
頬に血をつけたまま、僕は思わず声を漏らし、笑顔で頷く。
王の眠りを妨げるもの、死の翼に触れるべし
これは、王家の谷に刻まれた名文句だが――
この蛇と男を刻んだ絵画は、まさに、それと同じことを訴えかけているというわけだ。僕が思っていた通り、これは警告文だった。
僕は、この墓のものたちの眠りを妨げるつもりはない。
だが、結果的に、妨げてしまったのだろう。
墓はざわめき、蛇を恐れている――僕を恐れている。
は、は。
心配するな、取って喰いはしないから。
きみらが、僕の怒りを呼び起こさない限り。
だから僕の噺は、ひとまずここで終わりにするよ。
<了>
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