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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢の夢こそあはれなれ

” 我ら鎮めを生業とするが、其の逆しまの所業とは何であろう ”
” 其れは其れ、鎮めと対を為すのは無論荒れ乱れるに相違ない ”
” 然様であろうか鎮めとは、荒れぬ事乱れぬ事を言うのであろうか ”
” 疑うとは何の故。 では其の方の、考えの内では何と答える ”

 鎮める事とは、果たして何だと────。

************** **


 夕日の紅色が眸を射た。
 赤い残像すら瞼の裏に焦がし付けて、本日の陽が地平の彼方へ伏していく。
 眩い。一切が紅く煌いている。樹に一片残る木葉の際も、碁盤の目を持つ石畳も、目に映る何もかもが。
 何故あの日は、然うも燃えるのか。尽きる為にか。ではあれは、今日ひと日だけの命の火を、明日生まれ来る同志の為に自ら灰燼に帰そうとしている姿なのか。
 其の様はいっそ健気か、寧ろ哀れか。名付く情感多々在れど己が心に芽吹く気持ちは石の花。柔らかにさえ円やかにさえ言葉を掛けて遣りはせぬ。
 だがせめて、せめても一言嗚呼とだけ胸の感慨口にせば、其れはあの陽は。
「……本望だろう」
 ────ほう、と。
 岸頭紫暁は我知らず詰めていた息を吐き出し、詮無い事を、と打消す様に呟いた。
 彼の眼前に広がるは寂然たる寺の夕暮れである。居候として厄介になっている寺の境内は然程広くは無く、此の刻限では既に人影ひとつ見当たらない。
 なので紫暁は独りきり、本堂の階に座し、短き冬の日の終えを何とはなしに眺めていた。
 常に添うている愛猫は今も傍らに蹲り、少し遅めの午睡を存分に貪っているようだ。そろそろ冷える頃合だろうに。紫暁がちらと一瞥するのも気付くこともなく、艶やかな毛並みの猫は唯に未だに夢の中。金を孕んだ灯の色が、其の射干玉の上で煌と光る。
 ──── ゴ オ オ オ オ オ … 。
 と、厳かなる梵鐘の音が鐘楼より響き渡った。紫暁は柱に背を預け、暫し目を閉じ聴き浸る。当寺は高台にある故此の鐘声は街の隅々にまで流れて行くのです。知人である寺の住職が然う言っていたのをふと思い出す。本来流浪すべき己が身を世話し留め置いて呉れる此の寺の鐘。成る程、静かに耳にも心にも染む好い音だと思う。同心円を描いて広がる様はまるで水面の波紋。くろがねを打ち込むのは一瞬の乱れとして立つ波、そして、漸う消え逝く音は鎮まりとしての紋。
 ──── … オ オ オ オ オ ン 。
 一つ目の余韻が徐々に霧散し、釣られ上げかけた瞼を紫暁は重く感じた。はて現よりも夢を好む猫に感化されたかと、珍しくも込み上げる欠伸を噛み殺す。吹き初めた宵の寒風は夜闇の匂いを孕んでいるが、残照に染められた此処を包む空気は未だ人肌程の温み。嗚呼何の故か気怠い。紫暁は首を打ち振る、併し眸はとろりと霞む。
「………ん」
 身体が後ろへと傾ぎ、胸元に流れていた漆黒の髪がさらりと零れる。半眼となった視界を領するは矢張り紅。夕焼けの空。嗚呼二つ目の鐘の音。西は眠りの方角、東は目覚めの方角。其処より夜が来る。昏きの手前、群青の境、あれは────。

『 紫暁、おまえの名をした雲があるぞ 』

 何かが刹那閃いた感触。
 其れを掴む間も無く、紫暁の首がかくりと折れた。


************** **

 ──── 此れは、夢、か ?

 俺の名? 然う訊き返した紫暁は、”彼”が指した中空を見据えて得心がいった。
 夕暮れ時の境の空。東から昇り来る夜闇の濃い紺色が、西に眠り逝く紅と橙とを淡く染めた其の色。横に棚引く薄雲は、嗚呼確かに鮮やかな紫色をしているようだ。
 紫暁は苦笑しながらひとつ頷く。おまえは下らぬことを言う男だ。言いさした所で、肩越しに振り向いていた彼が微笑いながら言った。いや待て紫暁、私は誤ったぞ。
「有明の頃合こそ其れ、真におまえの名の紫雲が浮かぶ。此の逢魔が刻では少々字が足りぬ」
 口角だけをにやりと上げる細面の彼に紫暁はやれやれと息を吐く。同じ鬼鎮の名を冠するものの、彼の家は代々文人肌を揃えた変り種。斯様な言葉遊びを好む様、紫暁にはをさをさ解らない。だが、若き当主であり近しい知人である彼のことは、残念ながら嫌いではない。
 然様な男の許に、ある夕暮れ時訪ねし折の事だった。
 紫暁は庭を臨む縁に掛け、立った男は着流しの肩に羽織を掛け、二人特には言葉も無く山の端に沈み行く赤を眺めていた。碌に手入れをしていないと見える彼の短い黒髪が、稲穂の様に砂金を弾く。端整ではないが愛嬌のある横顔に目を遣り、また戻す。沈黙の寂々たる一時。此の男とは然様な程が最も心地良い、然う思い合う間柄だった筈だ。

( あれは、いつのことだったのか。随分と、記憶も朧に霞み立つ )

 もう明日か、と紫暁は彼に言った。もう明日ではないか、用意は良いのか、恙無いのか。
 彼を見ぬまま、併し仄かに笑んで続ける。────おまえの、晴れの、婚礼であろうが。
「……ああ、然うだな」
 おや、と其の刹那思ったのは気のせいだったか。答える彼の声が薄く翳りを帯びていた、様に覚えた。
 だが即座振り返り、顎に手を遣った不遜な笑みで続けた彼は、やはり常の其のままで。
「仮にも鬼鎮四家の内一つの血筋を守る長の、恐らく人生最良の日だ。紫暁、明日は盛大におれを祝えよ。同じく当主として、喜ぶと良い」
 無駄なまでに言葉を尽くす彼の物言い。果たして嫁御は耐え切れるのかと戯れれば、巴御前の様に気丈な女だと聞いている故案ずるな、と遣り返される。
 ならば良い。おまえは真っ当人として生を貫き終えると良い。紫暁は穏やかな表情を崩さぬままに、併し確かに心の内で続けた。俺の様に、生きる価値も与えられぬ曖昧な存在として永らえるな、と。

( 然うか、あれは、我が身の中に此の鬼が、息づき初めた、後の事 )

「なあ紫暁」
 僅か伏していた面を上げる。彼は遙か彼方を望む顎の角度でもう一度、紫暁よ、と呼ぶ。
 何だ如何した。答えたのに、彼は口を噤んだままだった。眉間に皺を刻み、腕を組み、今度こそ奇妙な間を空け斯う続けた。
「我らの家は鎮めのチカラを持つ血脈。故に思う。鎮めと対を為すものとは、果たして何であろうか」
 何を訊くかと思えば。やや面食らって瞬いた。其れは当然、荒れ乱れる事に相違なかろう。眠りの対が、目醒めである様に。
 舌が淀む筈も無い、代々家に伝わる通りの口上を述べた自分に併し彼は「然様だろうか」と振り向く。一陣の冷風が吹き込み、彼の着物の端を煽り、また自分の黒髪さえも弄って。
「鎮めとは、荒れぬ事、乱れぬ事を、言うのだろうか。なあ紫暁よ、鬼鎮の男よ。おまえは真実然様、思うのか?」
 一片一片がまるで堰を切って溢れたかの強い語気。面喰い言葉に詰まる。斯様な表情、似つかわしくない此の男には。おまえは、一体、何が言いたい。何故、そうも、唇を噛み締める。問うたなら、おまえは如何答えるのだ。鎮める事とは、果たして何だと────。
「兄様」
 慎ましやかに掛けられる女の声が在った。途端、玻璃の様だった空気がぱりんと割れる。
「おまえか、何だ」
 元に戻った彼が座敷の奥へとそう呼ばう。知らず強張っていた肩の力を抜き首を廻らすと、座敷の襖が何時の間にやら開けられ、其処に彼の年子の妹が三つ指揃えて控えていた。
 きつく結い上げられた髪と凛とした鼻筋。兄譲りの一重の瞳を柔和に笑ませて、「紫暁様、失礼致します」と此方に挨拶を寄越す礼節が冷えた湧き水のように清清しい。然様な娘御であったと今でも思う。
「兄様、明日の事で少々お話が」
「今か。……うむ、了解った。すまんな、紫暁。名残は明日に持ち越しだ」
 いや構わぬ。答えて、長居してしまった腰を上げる。目を遣った茜空には寝座に帰る鳥の黒い群。其れに急かされるようにして自分は、兄と妹とに見送られて帰途に着いた。
 また明日。明日の佳き日にまた逢える。然う信じて疑いも無く、何の匂いも嗅ぎ取ること無く、其の時は彼の家を後にした筈だ。

( 真実か? 本当に、何も、無かったのか? 俺はあの時、然程に、鈍い愚か者であったのか? )

「兄様、明日ですね。おめでとう御座います」
「……ああ、おまえも祝え。其の様に、振舞って呉れると善い」

( 否。聞いた、何処かで。併し、確かに。あの時俺は、其れを聞いていた。 )

「私は幸せ者です。兄様と、血を分かち合って生まれる事叶いました。其れだけで、私は」
「言うな。皆までを、おれは望まぬ。だから……言って呉れるな、今は、おれを、兄とは」
「……はい」

( 其の、総ての予兆を。其の、総ての真実を。帰り掛けた俺は足を止め、聞いていたのだ。 )


 ──── 嗚、呼 ………… 。


 報せは、丑三つ時をも過ぎた頃に齎された。闇の中を血塗れの男が息も絶え絶えに駆け抜けて、彼の家の惨劇を伝え来たのだ。
「当主様が、御乱心を。当主様の、鬼が、鬼が」
 目を剥ききって絶命した下働きの男を見下ろしながら、自分は呆然と呟いた。まさか、まさか、あの男が。己よりも鬼を御していた、人として生きていく筈だったあの男が、まさか。
 半ば信じられず、そしてまた半ばを信じることを拒み、自分は太刀や呪符すら携えずに家を飛び出した。死んだ男の来し方を辿るのは容易で、其れは偏に、風が運び来る濃厚なる血の匂いの為だ。身の内の鬼が此方此方と騒ぎ立て、左の眼が燃える様に黄金色を帯びていく。彼の家に着く頃に其れは、宛ら烈火の熱を孕んだ。
 屋敷は、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
 家人らが逃げ惑う騒然たる足音に、奥より響き渡る怒号。彼方此方の壁に床にべったりと血が塗り付けられ、其の前には人であったモノたちが累々と横たわる。
 鼻を突く異臭に腐臭は奥まるに連れ濃さを増し、冷たい汗が自然額を首筋をじわりと伝った。まさかまさか、おまえなのか然様なのか。虚しい問い重ねながら座敷を抜け廊下を駆け、遂に自分は蒼い炎の揺らめきを見つけた。己に宿る鬼とは似て非なる炎が、中空で凄惨にも妖艶にも燃える其の様を。
『疾くも、来たか……紫暁』
 荒く乱れた息を整える間も無く唾を飲み込む。瞠目し、首をふるると打ち振った。
 ────つい先頃笑っていた彼の双眸が金に光り。手には彼愛用の太刀を握り。
 ────そして、白銀の刃で最愛の妹の胸を貫いていた其の惨たらしい光景を。
 どうか、嘘だと、彼に、否定して欲しくて。
『……もう、手遅れだ』
 妹の躯がどうと畳に落ちて伏す。そして彼が──否、鬼と化した面が此方を見て目を眇めた。醜悪な表情を露に、隠しもせずに。
『おれは──此の男は、両の眸を鬼に、領ぜられた。人には、戻れまい』
 白き肢体より抜き去った太刀を男が振り、破れ障子に赤黒い雫が飛ぶ。其れが合図であったかの様に、浮かぶ鬼の蒼炎が揺らめいた。
 ぽう、ぽう、と数を増し、呆然と立ち尽くす自分を取り囲んでいく。ゆらゆらと踊り舞いながら其の輪を狭めていく。併し自分は視線を彼に釘付けたまま動けない。身の内の鬼が囁く、何をしているのだと。途端、炎が轟と一直線に襲い来る。そこで鬼が雄叫びを上げた。

 ──── …… !

 止めろ陀牙鵺。叫びは声と為ったか為らなかったか。檻を突き破って現れた鬼が牙を剥く。アレを滅せよ迷いはいらぬ。左の瞳が熱い。燃える、焼ける。何を迷うかアレは主に害為す荒ぶるモノよ。炎が舞う。構わぬだろうアレは。紫が蒼を喰らい尽くす。────アレは、もう人に非ずの、悪鬼だ。
『紫暁』
 男が太刀を横に払うと、失せた筈の蒼炎が再び幾つも虚空に浮かんだ。男は其れを従わせる様に纏いながら地を蹴る。上段よ下段より、何度も斬りつける薙ぎ払う。陀牙鵺も紫炎を発しながら刃を避ける。右に左に逃げる。金の瞳同士が睨み合い、壁際に追い詰められ振り下ろされた白銀を、刹那紫炎を纏った掌が受け止めた。ぎりぎりと押し、また押し返し。双方、笑みすら浮かべる力の拮抗。
『紫暁、おれを、鎮めよ』
 併し、鬼と鬼とが闘う間、自分は唯彼の声のみを聴いていた。陀牙鵺と彼の鬼との炎をぶつかり合う中、只管呼び続ける彼の声だけに自分は耳を傾けていた。
『紫暁、同じ血を引く男よ。頼む、おれを、鎮めて呉れ。鬼ごと、おれを、滅して呉れ。でなければおれは、何処まで何をまで殺め尽くすのか、最早知れない身と成り果てた』
 何故だ。何故斯う為った。御せよ。俺ではないおまえならば、出来る筈だ。
『否。此れは、おれの意志。おれは、心荒れ乱れる其の侭に、鬼に身体を渡したよ。人を恋う為に心は波と荒らぶり、命と同義の恋に殉ぜられぬ為に心は千々に乱れ、故に人で在る事をおれは捨てて仕舞ったのだ。なあ紫暁、鎮めとは優しくも残酷だ。心乱れなければ穏やかだ。併し乱れぬ心に温みはあるか。鎮めとは心凪ぐとは、生きていると言えるのか』
 掌に刃が食い込み鮮血が滲む。最早炎だけでは止められないと察した鬼が彼の喉笛に喰らいつく。犬歯がずぶりと皮膚を破る。どちらのものとも判ぜられぬ血がごぶりごぶりと溢れ出て、鬼の、自分の金の瞳を汚した。其れが頬を伝い流れて、まるで、涙の様だった。
『紫暁、おまえの、チカラで、鎮めて呉れ。おれを、逝かせて、眠らせて、呉れ』
 彼の声が乞う。何度も乞う。切実な響き。遂げられなかった想い。そこに横たわる彼の妹。終わらせてくれ。鎮めてくれ。心の荒らぶる波を、心の乱れる水面を。どうか、どうか、おまえが、おまえのチカラで。
『……紫暁』


 ──── 嗚、呼 ………… 。

************** **


 ──── … オ オ オ オ オ ン 。

「…………」
 徐々に浮上していく意識の隅で終の鐘の音を聞いた。
 長く尾を引く余韻を遠く山の端の向こうにまで響き渡らせて、夕刻の世界はまた、紅のみの静寂へと戻る。冷風の指先が、起き抜けの頬をさらりと撫でていった。
 開ききらぬ瞼の爪跡の様な視界。傍らにちらと目を遣れば猫がふああと欠伸をひとつ。紫暁は、醒めきらぬ惚と緩んだ表情で暮れ逝く空を見上げた。自分の名に一文字足りぬ紫雲が遙か彼方に望めて、然様かだからかあの盧生の夢は、とひとつ息を吐く。

 夢の続きの記憶は酷く曖昧で、其れは流れ去った時間のせいでもありまた、自分なり鬼なりの意志に因るものなのかもしれない。ただ、気付けば、暗闇に覆われていた筈の一切が明かく白み始める刻限で、倒れた障子の向こうに明けゆく庭が望めて、掌から首筋から流れ出た赤が其の光の純白に洗い清められていく様で。
 そして自分は、腕の中に、事切れた”彼”を抱いていた。
 身体中の力がぐったりと削げ落ちていたのはチカラを使ったからだ。立ち上がる事も声を上げることも侭ならぬ、倒れ伏す寸前の眩暈と悪心。血の気の失せた蒼白の顔で、併し自分は彼の骸を抱いていた。
 其の永久の眠りの為に閉じた瞼の内は、最早金の光を放ってはいなかっただろう。自分の瞳もまた、紫暁としての黒曜石に戻っていたのだろう。其の黒い泉の表面に、暁の紫雲がとてもよく見えて。何故だか其れだけは、よおく見えて。

 ────嗚呼、あれが、俺の名の雲か。長き眠りに就いた男よ、あれが、おまえが指し微笑った雲か。
 ────何故、俺だけが、此の雲見ること、叶うのだろうか。何故、俺だけが、人として眠ること、叶わぬのだろうか。

「……俺なぞが生き永らえる、理由など、何処にも無いものを」
 なあ、と猫が啼いた。其の首筋を戯れに撫でて遣ると、気紛れな眷属は甲に温かな頬を擦り付けてくる。そろそろ風が冷たい故中に入るかと、問わず語りに呟いて漸う重い腰を上げた。
 彼の家は、あの後絶えた。当主が為した罪を鬼鎮の頂点に立つ自分は赦せぬ、との表向きで紫暁自ら絶やしたのだ。尤も、直系であった彼と妹に子が無かったのだから当然と言えば其れまでの帰結。異論を挟む者は誰もおらず、故に紫暁の心の内を窺い知る者もまた誰一人としていなかった。
 唯、残ったのは、人でもなく鬼にも成りきれない自分が生きていると言う、然様な事実だけだ。

 男よ、鎮めとは、生きることの対の言葉か。
 なれば、鎮まる心で、人ならずの心で俺は、生きも出来ずに行き続けるのか。
 おまえの方が、荒れに乱れに苦しみぬいて、逝ったおまえの心こそが余程、人の其れであったものを。

 問いにならぬ問いに答える者はいない。自分もまた、其れを求めているのか判らない。
 今日の日は沈み、明日には暁、紫に棚引く雲、其の天の元自分はまだ死ぬ術を見付けられていないと言う、其れのみが確かなだけなのだ。

『 紫暁、おまえの名をした雲があるぞ 』

 一度だけ、歩みを止め振り返る。
 刹那開きかけた唇が言葉を紡ぐことは遂に無く。其れを一文字に引き結ぶと、紫暁はまた、遠き落日に背を向けた。

 了