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<東京怪談ノベル(シングル)>


Timing

【擦れ違い】

 何を期待していたのだろう?
 用事も無いのにいきなり尋ねた自分の方に、明らかに非はある。
 まさか、「あいつ」がいないなんて、夢にも思わなかったのだ。
 本当に必要だと感じた折には、何となく、いつもそこにいる。いなければ困る時には、何処からともなく、現われる。
 あいつは、影のように目立たない男だ。自分を主張しすぎることもなく、言葉の全てが淡白で、態度はもっと薄情だった。
 積極的に関わるべき、綺麗な人間ではないことなど、百も承知。
 だが、理屈とは別のところに、感情はある。
 時々、あいつは、思い出したように優しいのだ。背を向けているように見えて、本当に躓きそうになった時には、さりげなく、支えの手を差し伸べる。
「なんでいないんだ」
 文句を言うのは、お門違い。彼には彼の生活があり、仕事がある。その仕事も、一時啓斗が携わっていた「それ」と、早い話が同質のものだ。場所も日時も選ばない。あいつは、修行僧のように規則正しい暮らしを勤しむサラリーマンとは、訳が違う。
 望むときに、望むようにいてくれると思う方が、きっと、どうかしているのだろう。
「何処行ったんだ?」
 表面上の啓斗の顔に、変化はない。淡々として、いつものままだ。だが、少しでも彼を知っている者ならば、声に滲んだ不満の調子に、事務所をぐるりと見回す視線の端々に浮かぶ落胆の色に、鋭く気付いたに違いない。
「タイミング悪かったわね。ついさっきまでいたのだけど」
 アトラス編集長、碇麗香がその気配に気付いたのかは、定かではない。
「そっか」
 肩をすくめ、別に、と呟き、啓斗はその場を後にする。
「待ってないの?」
 立ち去ろうとする背中に、麗香が声をかけてきた。
「珈琲くらい淹れるわよ?」
「……いや」
 いらない、と、首を振る。珈琲は嫌いだ。苦くてまずい。特にブラックは最低だ。断るための口上が、怒涛のように頭に浮かんだ。
「違う……」
 いや、本当は、啓斗にもわかっていた。珈琲を飲みながら、あいつを待っていたくないのだ。それでは、自分が、下手に出ることになってしまう。あいつとは対等でいたいのだ。会いたくて、話をしたくて、戻ってくるのをただひたすらに待っているなど……考えられない。考えたくない。
「帰ります」
「来たってこと、伝えておこうか?」
「結構です。暇だから立ち寄っただけなので」
 扉を閉め、編集室を後にする。
 あんなボロい部屋なのに、ドアで空間を遮断してしまうと、廊下の寒さが、尚更に身に沁みる。階段を降り、ロビーに出た。冬の空気が、まともに顔に吹き付けてきた。誰かが、外扉を開けっ放しにしていた。
「寒……」
 外に出て、家に帰るまでの間、またしばらく冬の風に晒されることになる。温かい飲み物が、急に欲しくなった。ふと見ると、ロビーの片隅に、自動販売機が置いてある。
 財布の中の小銭を探り、硬貨を入れた。かつん、と、乾いた音がして、ぱっとランプが点灯した。
 お茶もある。ココアもある。コーンスープもあった。もっと口に合うものを選べたはずなのに、だが、何故か、啓斗が選んだのはブラックの珈琲だった。まずいとは承知の上で、熱い缶を傾ける。露骨に眉を顰めた。やはり……美味しいとは思えない。
「珍しいのね、弟以外の事で怒るなんて」
 いつの間にか、そこに、麗香が立っていた。
「怒っていません」
 啓斗が答える。
「嘘おっしゃい。怒っているのは……珈琲に対してかしら? それとも……あのタイミングの悪い無愛想な男に対してかしら?」
「怒っていませんよ。本当に」
「嫌いなブラックの珈琲をお金払ってまで頼むのは……彼の影響かしらね?」
「俺は誰の影響も受けません」
「それをあえて口にするのは、影響を受けつつある確かな証拠だとは思わない?」
「…………」
「向こうも、多かれ少なかれ、影響を受けているでしょうけどね」
 五分五分かしら、と、麗香が笑った。
「気のせいですよ」
 我慢して飲み干した珈琲の缶を、屑籠に放り投げる。舌に苦い味は残ったが、体の方は温まった。お土産よ、と、麗香が、少年に何かを放り投げた。ブラックの缶コーヒーだった。
「タイミングの悪い男に会ったら、渡してあげて」
「俺が?」
「恩を売れるわよ。この寒空に温かい缶コーヒーは必需品でしょ」
「冷めますよ。すぐに」
「その前に会えると良いわね」
「会えませんよ。きっと、今日は」
 少年が、身を翻す。寒気に包まれた街を歩くには、やや頼りない薄い上着が、風に大きく翻った。
「会えませんよ。タイミング、本当に悪いんだから……」



【望み】

 忙しない街中を、やや俯き加減に地面を睨むようにして、啓斗は歩く。
 癖なのか、既に身についてしまっているのか、足音はしない。雑踏の騒音が、奇妙に耳について不快だった。意識を逸らすわけではないが、歩きながら、取りとめもないことを考える。
 弟のこと。友人のこと。父親のこと。今まで生きてきた間に出会った、様々な事柄。十七年という歳月は、決して、長い時間ではない。どこぞの老人が聞いたら、この若造がと笑い飛ばして終わりだろう。
 だが、長さではないのだ。過去の長さは、必ずしも、記憶の強さに比例はしない。経験してきた全ては重く、常に色濃い残像を伴って、少年の身に、心に、纏わり付く。
 
「願いは?」

 残像の一つが、語りかけてくる。
 あれは何処だっただろう? 確か、あいつが、そう聞いてきた。あの時は、望みは?と言ったはずだ。
 何処だった? 自分は何をしていた?
 そう昔のことではない。古い古い話ではない。薄暗い洞穴だった。戦っていた。現実ではなかった。夢のような、幻のような、虚構の世界。何だか、ひどく、遠く思える……。

「望みは?」

 簡単に聞いてきた。揶揄するようなその響きにも、むっとした。名前を聞いたのに、あの時は、答えようともしなかった。今にして思えば、実にらしい反応だったわけだが……物凄く認めたくはないが、助かったのは事実なわけだが……。
「簡単に聞くな」
 啓斗が、呟く。
 いきなり、願いは?望みは?と尋ねられ、これがそうです、と答えられる人間がいるのだろうか?
 欲しいものは、求めることは、たくさんある。それこそ、数え切れないほどに。そのどれもが、ささやかだけど、叶えにくい。いや……全ては叶わないと無意識に知っているからこそ、今、必死に戦っているのだ。
 せめて、既にそこに在るものを壊さぬように。
 守るために……。
「本当の望みも、願いも、簡単に言えるもんじゃないじゃないか……」
 冬空を見上げる。問いに答えて欲しい人は、未だ、現われない。
「もし、全てが叶ったら……その後、俺はどうなる?」
 いないのを承知の上で、問いかける。
「見当も付かない……」
 願いは、叶ってしまったら、きっと、気が抜けてしまうだろう。目線よりも高いところにあるからこそ、望みは、望みのまま、あり続ける。
 外套のポケットに手を突っ込むと、缶コーヒーのひやりとした冷たい感触が、指先に伝わってきた。
 冷めてしまった。もう、今からでは、たとえ会っても、恩は売れない。

「望みは?」

 明確な答えを、啓斗は、あの時、返していない。
 言霊は、きっと、生きている。

「望みは……」

 とりあえず、この寒い空の下彷徨わせたことに、文句の一つでも言ってやろうか。
 自分がわざわざ尋ねて来てやったのに、微妙な差でいなくなるなど、言語道断。

「望みは、俺がふらりと尋ねたとき、そこにちゃんといること」

 叶わない望みが、また一つ、増えてしまった。
 まぁ、いいさ、と、啓斗が呟く。
 こんな我侭な子供みたいなことを、口にするつもりは、毛頭ない。
 思っただけだ。
 寒いから……冬が、寒すぎるから、きっと、ふと、思っただけなのだ。

「帰るか」

 灰色にくすんだ景色の中に、人影が、ゆっくりと……呑まれて消える。
 澄み切った青が天を覆い尽くす季節は、まだ、遥かに遠かった。