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<東京怪談ノベル(シングル)>


Lumen Lunae

 
「行ってこい。今だけは、お前は自由だ」
「いきなり自由と言われても。何をして良いかも、わかりません」
「飛んでこいよ。せっかくのその翼を、畳んだままにしておくのは、勿体ない」
「使っていますよ。この力。あなたが一番ご存じのはず」
「違うって。自分のためだけに使って来いって、言ってるんだ」

 
 浅い微睡みの中から唐突に引き上げられ、彩臥は、二度、三度、瞬きを繰り返した。
 冬山の澄んだ空気は身を切るように冷たく、立ち枯れの森を渡る風が、微かな雪の匂いを運んでくる。
 仰ぎ見た月は、雲の縛鎖をも突き抜けて、なお煌々と地上を照らす。全てが、青く、蒼く、霞んで見えた。空の真円の切り抜きが、その白さを、一層に強調するような、厳冬の深夜。
「満月……」
 天后の姿を、わざわざ確認するまでもない。いつも何かが欠けているようなこの中途半端な肉体に、力が満ちる。人でもなく、獣でもなく、恐らくは、この世界に存在する全てのものと比べても異質極まりない彼の体に、刹那、純白の翼が広がった。
 翼は確かな質感を持ち、羽の一枚一枚が、まるで何かの結晶のように、鮮やかな光の粉を散らす。しんと静まりかえった静寂の中に、打ち響くのは、天狼の羽ばたきのみ。
 翼持つ狼は、鳥よりも奔放に、しばしの間、夜の散歩を楽しんだ。遮る物は、何もない。咎める者とて、皆無だった。月が最大の光を放つ、今この一時、彼は全てから解放されて、自由になる。
 この感覚が、懐かしい。
 本来の自分。
 本当の自分。
 あの忌まわしい出来事さえ起こらなければ、彼は、完全でいられたのだ。今更言っても、詮無きこととは、知ってはいるけど……。
 目の前で殺された片割れの流した血の赤を、二度と、忘れることは出来ないだろう。
 
「参られた。天狼さまが」

 ふと地上を見下ろすと、そこに、黒々とした獣の影が見えた。
「天狼ですか」
 その呼び名は、相応しくない。彩臥自身が、一番よく知っている。だが、それでも、呼ばれたからと、彼は地に降り立った。
黒い獣は、恭しく頭を垂れた。本物の獣ではなく、森に住まう何かの霊が、化身したもののようであるらしかった。
「驚きました。まさか、霊山でもないこのような下賤な山に、天狼さまが現れようとは」
 黒い獣は、嬉しそうに尾を振った。彩臥は、何も答えない。天狼ではないと、その資格はとうの昔に失ってしまったのだと、悲鳴のような声が、喉の奥まで出かかった。
 消えることなく繰り返される、あの悪夢のような一瞬。
 なぜ、天界より、この下劣な地上に降り立ってしまったのか、後悔は尽きない。白く霞んだ平穏な天にいれば、こんな目に遭うこともなかった。彼は片割れとつつがなく成長し、やがては定めに従い一つになり、そして、完全な「天狼」になるはずだったのだ。
 ろくに力も出せない幼子のうちに捕らえられた、あの屈辱。
 目の前で、何よりも大切な片割れを殺された、あの絶望感。
「取り返しは、きかないのですね……たとえ、それが、天の住人であっても」
 ぐるぐると脳裏を駆け巡る、数多の不吉な記憶を閉め出して、彩臥が、獣に問いかける。

「私に、何かを、お求めですか」

 呼ばれたことには、理由がある。
 黒い獣が、ゆっくりと、語った。

「一昨日前、大がかりな山狩りが行われました。人間が捨てた犬たちが、この山で、野生化しており、それが人を食い殺したのです」
 惨いことを。
 彩臥が、呟く。
「捨てたのは、人間の罪。人を襲うは、野生の者の性」
 縄張りを荒らす者たちを蹴散らすのは、必定。飢えていれば、それが、たとえ、不味い人間だったとしても、食らうだろう。
生きているものの営みなのだ。殺すために殺す生き物は、地球上を我が物顔で図々しくも席巻する、人間という生き物をおいて他にはない。
「彼らは、自分の都合しか考えません」
 黒い獣が、訴える。
 いや、訴えるという表現は、相応しくはないだろう。獣は、あくまでも、淡々としていた。人間の醜い性など、今に始まったことではない。彼らの栄華は、他の弱いものたちの犠牲の上に成り立っているに過ぎないのだ。
「天狼さま。山狩りで、犬たちは、全滅しました。捕らえられ、みな、殺されました。彼らの魂を、慰めて欲しいのです」
 獣が、月を仰ぎ見る。紺色の空に浮かぶ、白い光のすぐ下に、切り立った崖が聳えていた。
「この森で、一番高い場所です」
 彩臥が、地を蹴った。
 白い翼が、月光を弾く。崖の先端に降り立つと、なるほど景色が一望出来た。
 森は黒々と渦を巻き、死んだ獣達の霊を呑み込み、ただ重苦しくそこにある。勘の鈍い者ならば、響いてくる悲鳴に、気付きもしなかったに違いない。彩臥さえも、黒い獣に言われるまで、熾火のような微かな思念に、意識を引かれることはなかった。
 吹けば飛ぶような、か弱い訴え。
 けれど、彩臥にとっては、紛れもなく、眷属の苦しみ。

「我が声を聞け。遠く、我に連なる者たちよ」

 天狼が、哭いた。
 ただ、一声。
 ざあっと、夜気が、一瞬揺れた。囚われていた魂魄が、音を立てて天に還る。雪が、地上から天へと巻き上げられるような、その光景。黒い獣も、つられたように、高く鳴いた。他の者と同じく形定まらぬ姿になると、彼もまた、在るべき界へと還って行った。

「全員……逝ったか」

 視界の端に、ふと、何かの光がちらりと見えた。
 遙か東の峰に、夜明けを報せる陽の存在。全てを不躾に照らす朝が、間もなく、訪れる。
 帰らなければならない。彩臥もまた。在るべき場所へと。
 自由なる夜は終わりを告げた。
 これからまた、縛られた毎日が始まる。満ちていた力は月の翳りと供に消え、この身もまた、使役されては精を啜る畜生と成り果てる。
 

「帰ってきたのか」
「ここ以外に、帰る場所がありますか」
「そのまま、飛んで行ってしまうんじゃないかと思った」
「縛られたこの身に、その選択はあり得ません」
「俺は、まだ、お前にとっての飼い主かい?」
「他に、どんな関係があるというのですか」
「さぁ……な」

 親友とか。
 呟いた主の声は、彩臥の耳には届かなかった。

 翼をもがれた天狼は、無言のまま、暁の光を見つめ続ける。
 再び、満月の夜が来るまでは、獣の中に、真の自分を眠らせよう。

 それまでは……。