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<東京怪談ノベル(シングル)>


not only


 いくつもの電飾で彩られている街路樹が並ぶ街並み。
 篠宮夜宵(しのみや・やよい)は風で翻った夜に溶け込むような色の柔らかなカシミアのコートの裾を正す。
少しかがんだ瞬間に肩から落ちてきた上品なブルーのマフラーを肩に掛け直して、ゆっくりとした足取りで街路樹沿いに並ぶ店頭のショーウィンドーを眺めながら歩いていた。
 1年に1回。街全体がクリスマスムード一色に染め上げられている。
 いつもと同じ街並も店も、クリスマスというエッセンスが加わっただけで心がウキウキする。
 行きかう子供はもちろん、大人ですらも。
 イルミネーションを眺めながらウィンドーショッピングを楽しんでいた夜宵はある店の店頭に飾られていた品物に目とそして足を止めた。
 夜宵を引き止めたのは至極シンプルな男性物の皮手袋だった。

 黒の上質そうなカーフの手袋。

 それはある人に贈ったそれとよく似ており、必然的にその人を思い出させ……寒空の中だというのに、夜宵はしばらくその場を動く事が出来なかった。


■■■■■


 夜の闇を写し取ったガラスに、手袋を見つめ続ける夜宵の姿が映る。


―――そんなこともありましたわね……


 まるで昔のことのように懐古の情をかみ締めるが、想いを寄せていたのはそんなに遠い昔のことではない。
 そう、あれは今年のバレンタインの日―――素直な渡し方は出来なかったが夜宵は想いを寄せていた相手の上着のポケットにビターチョコレートと一緒にその手袋をそっと忍ばせた。
 寄せていた―――と過去形になってしまったのは、ある光景を偶然に目にしてしまったからだ。
 それを見た夜宵は悟った。
 そして、自分の恋心をそっと仕舞いこんで、気持ちを伝えることなくその人の前から去る決心をしたのだ。
―――もしかしたら、あの人のことだからまだ自分の気付いていないかもしれないですけど。
 極端に鈍感な彼はもしかしたら自覚すらないかもしれない。
 皮肉な事に、彼を想い彼を見てきた夜宵はその変化に気付き、そして判ってしまった。
 だから何も言わずに去った―――いや、正確には言えなかったと言った方が正しいだろう。
 きっと、彼に自分の想いを伝えれば、ただ彼を悩ませて困らせるだけだという事は容易に想像がついたから。


 それからは夜宵は彼に対する想いはすでに思い出なのだと考えていた。想い出にしたのだと自分自身に言い聞かせて。
 けれど、仕舞いこんだはずのその想いはまるで古傷のように時々夜宵の心をざわつかせる。
 きっとこんな風に些細な事で想い出しては胸を痛めるのは、思いの欠片すら直接彼にぶつけることもしなかった事で、完全に想いの区切りを付け損ねてしまったからなのだろう。
 思えば一体いつから始まっていたのか判らない恋だった。
 気が付けば惹かれていて―――始まりはとても曖昧で。そして、終わりもまた曖昧なままで。

 夜宵はガラスに映る自分を励ますように微笑みかける。


―――大丈夫。まだ、大丈夫。まだ遅くありませんわ。


 そして、ある決意をしてその店の中へ入った。


■■■■■


「……」
 帰宅した夜宵はコートとマフラーを玄関口で脱ぎ着替えもそのままに鞄の中から先ほどの店で購入したあの手袋とメッセージカードを取り出す。
 彼に手袋を贈った時、この手袋が古くなったらまた贈ろうと考えていた事を不意に思い出したのだ。
 そして、夜宵はそのカードにゆっくりと、しかし確かな筆跡で、


『ずっと好きでした。
 さよなら。
        夜宵』


と書き記した。
 その短いメッセージを手袋が入っている箱の包装紙とリボンの間に差し込むみ、ドレッサーの引き出しのひとつを空にして中にその箱だけを仕舞い施錠した。
 そして、ドレッサーの上にあった細かな装飾の施された小さな箱の蓋を開けた。
 ゆっくりと小さな音楽が流れる。
 くすんだ銅色をした鍵はそのオルゴールの小箱に入れた。

―――これでおしまい。

 あの時、彼の前から去ることを決めた時も涙は出なかった。
 ただただ心が痛んだ。
 その痛みは癒しの闇に身を任せても消えることのない痛みで。
 彼への想いも胸の痛みも……全てを夜宵はその手袋とメッセージカードに託して鍵を掛けた。


 いつかこの手袋を捨てる日が―――捨てることの出来る日がきっと来るから。
 必ず。


 だからせめて今夜くらいは、闇にたゆたいながら報われなかった想いに涙してもいいだろう。
 恋心の弔いのために。