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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 〜待焦人〜


 桐苑・敦己(きりその あつき)は、目の前に広がる湖に満足そうに微笑んだ。
「やっぱり、気持ちがいいですね」
 大きく息を吸い込み、吐き出す。体内の浄化ができるのではと思うほど、空気は澄んでいる。周りが木々に囲まれているのも多きな要因かもしれない。ざわ、と敦己の茶色の髪を揺らす風も心地よい。
「水もこんなに澄んでいるなんて」
 敦己はちょこんとしゃがみ込み、水面を見つめた。透明度が高く、目の前の浅瀬くらいならば水の底を見ることができた。ボートでも持ってれば、真ん中に向かっていってどこまで水の底を見ることができるのか試してみるのだが。
「ボート、買ってきてみましょうか?」
 ぽつり、と敦己は漏らす。事情を知らぬ人が聞けば、冗談とも思える一言である。だが、敦己の黒の目は至って真面目である。何故ならば、敦己には祖父が遺してくれた莫大な財産があるからだ。
(しかも、遺言が『一代で食いつぶす事』ですからね)
 敦己は祖父を思い、小さく笑った。祖父らしい、と思えてならない。そこで全国を気ままに旅することにしたのだ。もっとも、持っていくものといえば多少の着替えと財布と携帯、そして手帳だけ。泊まる場所は、民宿や小さな旅館、ともすれば野宿。移動手段は殆どが徒歩。何とも簡素な全国行脚である。
(世界に出るのも、いいですしね)
 世界は広い、と敦己はつくづく思う。日本だけでもこんなに広いのだから。
「……まあ、ボートは断念するとして」
 この湖に至るまでに結構な山道を登ってきたのを思い出し、敦己は呟いた。また麓に下りて、ボートを買い、再びボートを担いでこの湖まで来る事はいくらサバイバルに精通した敦己といえども、面倒であった。
「もう少し暖かければ、泳いでも良かったんですけど」
 ちゃぷ、と湖の水に手をつけながら敦己は呟く。水は温かくも無ければ、つけていられぬほど冷たいわけではなかった。が、勿論泳ぐのには適した水温とはいえない。
 敦己は立ち上がり、濡れた手をひらひらと振った。ぐるりと辺りを見回し、これからどうしようかと考える。
「念願の湖も見れたし。出発してもいいんですけど、山に登るか麓に下りるか……それが問題ですね」
 携帯電話の時計を確認すると、真っ赤な文字で『圏外』とあり、時間だけが表示されていた。時間と太陽の位置、それから自分の体力を考えて、敦己は二つのルートについて真剣に考える。どちらでも、大丈夫そうな気がした。
「山に登れば、山小屋がありそうですし……麓まで行けば、小さな旅館があった気がしますし……」
 どちらにしようかと、敦己は考える。湖の傍で野宿しようかとも考えたが、時間的にじっとこの場にいるのも勿体無いような気がしてならなかった。
「……という事で」
 敦己はにっこりと笑い、ポケットからコインを取り出した。表が出れば山に、裏が出れば麓に行くと決める。チリン、と勢い良く指で弾かれたコインは宙を舞い、そして敦己の手の甲に落下した。そしてそっと開くと、そこには裏になったコイン。
「麓、ですね」
 敦己はそう言うと、麓に向かって歩き始めようとした。
『……どうして』
「え?」
 突如聞こえた女性の声に、敦己が振り向いた瞬間だった。湖の水が勢い良く敦己に覆い被さろうと津波を起こしていたのだ。思わず敦己は目を閉じる。
(洪水……!)
 冷たい水が襲い掛かると、ぎゅっと身を縮めていたというのに、いつまで経っても水は来なかった。敦己は恐る恐る目を開ける。
「……これは……」
 敦己は呆然と立ち尽くす。気付けば、自分は透明な世界の中にいた。ゆらゆらと揺れる景色の中、だが周りには何も無い。見渡す限り、光だけが支配しているのだ。
「まるで水の中、ですね」
 ぽつりと呟き、でもまさか、と敦己は付け加えた。ありえない話じゃない、と思い直したのだ。
(今までだって、これに似たような不思議な事はいっぱいあったんですし)
 この世に絶対にありえない出来事、というものが存在するのかどうかですら怪しのだ。不可能だと思われる現象も、この広い世界のどこかでは起こりうることなのかもしれない。今まで旅してきて、それは実感として敦己の中に根付いてきている。
「……にしても、何かしらの要因はあるはずなんですよね」
 敦己はそう言い、うーんと唸る。すると、揺らめいていた世界が一瞬ぶわりと大きく揺れ、人型を形成する。それはだんだん明確な形を為していき、ついには一人の女性を模った。
『……行かないで』
 髪の長い、顔が綺麗な女性はそう呟いた。じっと哀しそうな目で敦己を見て。
「それは出来ません。……俺は、しがない旅人ですから」
『……ずっとずっと、待っていたのよ』
 ひらひらと風も無いのに、赤いワンピースが揺れていた。ゆらり、ゆらりと。
「俺を、ですか?」
『来てくれる、誰かを』
 女性はそう言い、ゆっくりと敦己に近付いた。
「いつから、待っていたんですか?」
『もう、忘れてしまったわ』
 敦己は「そうですか」といい、にっこりと微笑む。
「俺を待っていてくれたのは、本当に嬉しいです」
『……一人は、寂しかったわ。でも、必ず来てくれると思っていたから』
「信じていてくれたんですね」
『私には、それしか出来なかったから』
 女性はそう言うと、小さく微笑んだ。そっと手を伸ばし、敦己をじっと見つめた。
『このまま、私と一緒にいて。寂しいの、とても。本当に、辛いの』
「ですが……俺は、ここに留まる訳には行きません」
 敦己はそう言うと、伸ばされた手をぎゅっと握り返す。
「逆に、俺と一緒に来るのは駄目ですか?ここにずっと留まるのではなく」
 敦己の言葉に、女性は目を大きく見開いた。考えた事も無かった、といわんばかりに。
『私は……いけないわ』
「どうしてですか?」
『私は……私は……待つことしか出来ないから』
「そんな事はありませんよ。意外と、できるかもしれませんよ」
 敦己がそう言うと、女性はちょっと笑った。哀しそうに。
『縛られているから、駄目よ。ここを出てしまうと、私は私ではなくなるから』
「でも、ここにいては寂しいんでしょう?俺はこのままずっとここに留まる訳には行きませんし」
『皆、私を置いていくのね』
 女性はそう言い、天を仰いだ。流れ出そうとする涙を堪えるかのように。
『気付けば私は一人だったわ。こんなに綺麗な世界に、一人ぼっち。時々、誰か来たけど誰も私という存在には気付かずに行ってしまったわ』
「俺は、気付けましたか?」
 敦己が尋ねると、女性は顔を元に戻し、微笑んで頷く。
『私の声を、あなたは聞いてくれたわ。だから、あなたならば一緒にいてくれると思ったの』
 女性はそう言い、そっと握り締めていた敦己の手を外した。
『本当に、残念だわ』
「……一緒に行きましょう。こんな所に、一人ぼっちじゃ本当に寂しいですよ」
 敦己の真剣な眼差しに、だがしかし女性は首を横に振っただけだった。赤のワンピースをひらひらと揺らしながら、女性は綺麗に微笑む。
『それは出来ないの。それは私が私である為の、絶対条件だから』
「でも……!」
 敦己の言葉に、女性は一つだけ頷いた。大きく、たった一度だけ。
『覚えていて。私は、私の名前は……』
 ざあ、と敦己の耳に轟音が響き渡った。思わず敦己は目と耳を閉じる。ゆらりゆらりと、世界全体が揺らぐのを確かに感じながら。


 気付けば、元にいた場所であった。敦己はしばし呆然としながら湖を見つめる。時計を見ると、あれからものの5分も経ってはいなかった。
「あれは一体……?」
 敦己はゆっくりと湖に近付き、小さく微笑む。そして近くの茂みから花を一本手折り、湖に浮かべた。
「必ずまた来ます。それは約束の証ですから」
 敦己はそう言うと、手を振って最初に決めたとおりに麓に向かって歩き始めた。
 ぴちゃんと赤い鯉が撥ねる音が、敦己の背中に響いてくるのを確かに聞きながら。

<約束は花のように鮮やかに刻まれ・了>