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月と鬼と信頼の
草木が揺れ、擦れる音に混じって、荒い息の音が聞こえる。
「はっ、はっ……」
闇の中に金髪が煌いた。
吐息の位置は素早く移動して行き、止まっては風の切る音が聞こえる。
「いったい何匹……!」
チェリーナ=ライスフェルドは、洋弓の弦を引き絞った。
足音が響く。細かな多数の足音だ。その足音を前に静かに息を殺し、待つ。見えた。直後に手から矢を離すと、闇の中に吸い込まれていく。矢の空気を切る音が途絶えた。
今のは手応えが有った。恐らく、闇に紛れる階の一匹を、貫いた筈だ。狼のような階だった筈だ。
だが、まだ安心は出来ない。今仕留めたのは、一匹であろう。まだ何匹も何匹も居た筈だ。今チェリーナが一匹仕留めた事で、相手は警戒している。互いに、動かない。動けば位置を知られる。
(どっちが先にまいるかな?)
相手だ……と言いたいところでは有るが、多勢に無勢なのが響いている。
もう、既に二、三匹は仕留めたが、軽快な運動を行ううちに体力を使って来た。相手の方が有利だ。なら、相手に有利な手段を取ることも有るまい。
息を詰め、一気に飛び上がる。木の枝を揺らし、派手な音を立てて相手に位置を知らせる。
気配が迫る。その気配を迎え打たんとして、チェリーナは振り向いた。再び矢を番え、放つ。素早く次の矢へと手を伸ばし、次々と放った。時折、弦に指を弾かれ、指に血が滲む。
多い。その数は予想以上だ。これでは、幾ら矢を放とうと間に合わない。
前へ、前へと感覚が吸い寄せられる。予想以上の敵の数に、自然と前へと意識は集中していた。そして、それが仇となった。
ただし、仇とはなっても、実際に被害は無かった。
「え、後ろ?」
振り向くと、そこには首を跳ねられた狼が転がっていた。
「……鬼?」
黒く染められた鎧の”顔”の部分に、鬼の顔が在った。その鬼の高さは3メートル近く有るだろうか。少なくとも二メートルは優に越えている。これを見て人間と言う者が居ようか。多くの人はこれを、鬼と形容するに違いない。ただ、その鬼は無機質な雰囲気が感じられた。その鬼が生きている、といった印象が感じられない。
遠くの喧騒が止んだ。他の階が居た筈だが、その音も止み、別の音がゆっくりと近付いてきた。
それも決して少なくない。木々の合間から姿を現したのは、鬼の面を被った黒装束の者達だった。チェリーナを取り囲むようにして、彼等が身を並べる。
「私に、どういった用なの?」
問答無用で殺すのではあるまい。それならば、とっくに攻撃してきているだろう。
だが、不気味だと言う感覚は隠しようも無い。辺りを鬼の顔に囲まれている。これで気分が良いなんて言える人は、居ないんじゃないだろうか。チェリーナにはそう感じられた。
「挨拶が、遅れたわね」
鬼が喋る言葉は、人間の言葉だった。女性らしい、スマートな声が響いた。鬼からの外見からはとても想像できない。
それもそうだろう。この鬼は、鎧なのだから。だが、全身を覆うその姿からは、生物的な部分が見える事が無い。全身が、金属なのだろうか。その金属の擦れる音と共に、鬼の胸が開いた。
「私は応仁守瑠璃子、鬼神党を知っているかしら?」
単刀直入な言い方だと感じた。けれど、それだけにストレートに力が伝わってくる感じを受ける。
「えぇ、知っているわ」
確か奈良近郊の山間部から姿を現し、周辺豪族を次々と討伐して領域を拡大している組織だ。敵対すれば戦……その戦闘的な方針と、その部隊の禍々しさには常々警戒していた。鬼の面を被る、異形の部隊として。
そうかと納得する。この者達がその”鬼神党”か、と。
「……そう言うのなら、私の事も知っているの?」
チェリーナは、差し出された手を静かに握り返す。鬼の背丈は三メートルにも届こうかという程に大きかったのだが、中から姿を現した瑠璃子の背は、とてもではないが三メートルには届いていない。姿を現した瑠璃子は鬼ではなかった。極普通の、人間だった。その姿以外は。
やや高めの身長に、黒に染まった服。そして、顔には鬼の面。
ぱっと見、周りを取り囲む者達と同じようでありながら、だがその細部は、遥かに凝った作りになっていた。
最も違う点と言えば、その鬼の面からは力強さよりも繊細さが感じられる。まるで、繊細である事が必要なのだと言わんばかりに。
「助けて貰った、のかな? ……有難う」
矢を弦から外す。チェリーナは、極めて自然に、人好きのする笑いを見せた。
「気にしないで。ただ、恩に着せる訳じゃないけど……」
「……?」
「チェリーナ=ライスフェルド。貴女に鬼神党傘下へ加わる事を要求するわ」
「突然そう言われて、イエスなんて簡単に答えられると思うんですか?」
表情を険しくして、チェリーナは瑠璃子を見た。鬼の面に隠れた表情が、言葉を捜している。瑠璃子から発せられる言葉を待つ事無く、口を開く。
「私はこの奈良市近郊の人達を護る為に、戦ってきた。貴方達鬼神党の目的は何?」
決して茶化すのではない、チェリーナの真剣な眼差しが鬼の面を射抜く。鬼は、瑠璃子はその面に手を掛けた。
ゆっくりと面を降ろす。その鬼の下には、力強い眼差しが光っていた。互いの視線が、初めて直に合わさる。今度は待つまでも無い。瑠璃子は、素早く口火を切る。
「人々の生活を守る為、己の力を確かめる為」
力強く結ばれていた唇が、ふっと綻んだ。
「……そして野心もね」
「正直ですね」
瑠璃子の口元に釣られるように、思わず笑みを零す。
「月の巫女という割には、太陽みたいに笑うのね」
その言葉に思わず顔を赤くした。誉められたのが恥ずかしい上、隠すのは苦手だった。
月の巫女……前世の記憶も有ったからなのだろうか、気付けば、周囲からは『月の巫女』と呼ばれていた。月の女神、アルテミス神の巫女だと。チェリーナにとっては、その呼び名にどれほどの必要が有るのかは解らなかったが、瑠璃子がそう呼ぶという事は、ある程度自分の事を知っているという事なのだろう。
「解りました」
意識して天を見上げる。白く、丸い満月が彼女を見下ろしている。月に聞く。月に聞いて、彼女は自分の心を整理する。この瑠璃子という人は偽りを言う人ではない……極めて直感的な判断では有るが、チェリーナはそう感じていた。
「私は領域争いや、力量比べには興味は無いの。私は、貴方達鬼神党の領内での活動を認めます。通過も使用も、自由にして下さい。……これって事実上の降伏、なのかな?」
「有難う……」
笑うチェリーナに静かに答える瑠璃子。そして、チェリーナが感じていた印象は、瑠璃子にとっても同じであった。チェリーナは、偽りを好むタイプだとは思えない。
「私は、貴方方鬼神党が、人々の抑圧者にならない限り、生涯鬼神党を裏切る事は有りません」
そう、あの時の事は二度と繰り返さない。私は戦わない。ただ、人々を抑圧する者を放っては置けない。けれど、だけれど人々を戦いには扇動しない。戦う時は私一人、命を掛けて戦う。
幾人もの勇気ある者が、人々の前に立って駆け抜ける。
神官、戦士、騎兵、農民、ありとあらゆる雑多な群が、うねるように敵へと向かう。だが、相手に押し包まれ、眼前に広がったのは血。泣かないと決めた瞳から涙が溢れ、かつて無かった程に人々の血を浴びるその中で、自分自身の胸を槍が貫く。
視界が薄れる。その視界の中では、血の嵐が何時までも続く。
そんな、風景。
残っている最後の記憶と、風景。
「私は、鬼神党が人々に対して……」
その言葉に、周囲から声が上がり掛ける。
瑠璃子が、そのざわめきを素早く手で制する。
「抑圧者と化した時、貴方は私たちの敵になるのね?」
「月に誓って。この命を掛けてでも」
しっかりとした口調が、瑠璃子に答える。
「……命の諌言者ね」
背筋を伸ばし、口元をきゅっと結び、敬意の表情を見せて、再び、瑠璃子は手を差し出した。
チェリーナが、柔らかに笑いながら瑠璃子を見る。
手袋に覆われていた素手を晒し、ゆっくりと、だが力強く、二人は握手を交わした。
月と鬼が、手を結んだ。
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