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冬の蕾
つんと澄んだ空気が、冬の彩りを見せる世界に広がっていた。空は雲一つ無い青空、太陽の光が遠く高くから躊躇いがちな暖気を落とす。
思わず身震いをする様な世界の中でも、今日は特別それさえも許せてしまう。
町々を包む楽しげな雰囲気は、聖夜を喜ぶ人々の成せるもの。それは日本だけに限らず、ここパリでも変わらない。
もっとも、"ここ"での笑顔はそれだけでは無いのだが。
そう思いながら、蒼王翼は小さくため息をついた。
翼が今居る場所はパリ市郊外のとある教会だ。色とりどりのステンドガラスに映る蝋燭の灯火が静かに揺れ、粛々と行われてゆく儀式が神聖なものだと実感させる。多くの人々がその儀式を見守り、祭壇の向こうの神父が聖書を片手に朗々と声を張り、純白のドレスを着た美しい新婦が微かに涙を浮かべ、背筋を伸ばした新郎が愛情深く新婦の手を取っている――パイプオルガンの響きに身を委ねながら、結婚式は進んでいた。
見守る人々の表情は、どれもこれもこの喜ばしき日を心から祝福している。ただ、二人を除いて。
二人の内の一人は、翼だった。否、けして祝福して居ないわけでは無い。
けれど翼に取って本日の主役達は極めて他人に近い。そもそも招待を受けた理由さえ、首を傾げてしまうのだ。
翼は本日の結婚式に、『新婦の友人である桜塚金蝉の友人』という立場で訪れており、その新婦本人には二度会った事があるくらいであまり言葉を交わした覚えも無い。他人というのは余所余所し過ぎるし、かといって友人と呼ぶ程親しくも無い関係上、自分がここに居る事が場違いな気がして悩んでしまう。そういう意味合いもあって幸せになって欲しいと祈りはするものの、結婚式気分に傾倒する程ではなかった。
そうしてあと一人は――。
翼は傍らに立つ金蝉を盗み見た。何時もの和装を脱ぎ、雰囲気に合わせたフォーマルな洋服に身を包む金蝉は良くも悪くも目立っている。元来美しい顔立ちの青年は女の目を引き、嫌に貫禄のある立ち姿にどこぞのマフィアか何かかと怯えと好奇の視線を集める。
眉間に皺を寄せている顔は何時も通りだが、うつむき加減にらしくも無い寂しそうな瞳を見せる金蝉に翼の胸が微かに疼いた。
金蝉の友人である新婦は、金蝉の初恋の人だ。初めての恋というものは、どんなに時を重ねても心の奥に残るものだという。金蝉はまだ彼女の事が好きなのだろうか？
好き、なのかもしれない。
視線を祭壇へと向け直して、表面上はにこやかに微笑みながら翼はまた疼いた胸に気づいた。
桜塚金蝉という男は傲慢不遜唯我独尊的であり、己というものに確固たる自信を持ち、生き方に迷いが無い。短気で笑みを表情に乗せる事すらあまり無く、眉間に皺を寄せている姿が馴染み深い。羨望と嫉妬、恨み辛みを招く対象であっても、本人がそう感じる事は無いように思えるだろうが。
それでもやはり人間らしい感情が無いわけでは無い。初恋の君の幸せに両手を挙げて喜べ等、言う気も無いし見たくも無い。金蝉の性格からしてあり得ない事でもある。
翼は新婦と新郎の誓いの言葉を聞きながら、胸の痛みの理由を考えた。
そうして二つの影が重なった時、翼は――その理由が、心から祝福出来ぬ事実に行き着いて――瞬間、たまらなく恥ずかしかった。
＊＊＊＊＊＊
結婚式は教会からその庭へと移り、一時笑い声に包まれた。祝福の言葉が飛び交い、新婦と新郎へ掛かる声はどれも暖かかった。翼も表面上は笑みを浮かべ賛辞を述べた。
この日も男装の麗人として乙女達の黄色い声を浴び、何事も無いように談笑する。
「わざわざ有難う」
うっすらと涙を浮かべて翼の手を取った新婦に、翼も満面の笑みを浮かべた。
「お招き頂けて光栄です。花の様に可憐な姿に、思わず新郎から奪ってしまいたくなる」
翼が優麗な青い双眸を細めると、新婦は楽しげにころころと笑った。遠くで乙女のなんともいえぬ声が上がったが、翼の性別を知る彼女は頬を染めただけに至った。
「幸せになって下さい」
「有難う」
最後にそう言って、二人は別れた。表情とは裏腹に、翼の心は重かった。
＊＊＊＊＊＊
式は滞りなく行われ、太陽が西に傾いて一層冬の寒さを濃くし出した頃。
二次会へと場所を移すべく、教会から人の気配が薄れていく。翼は金蝉とは離れ人々の中に身を置いていたが、自身達も移動するべく金蝉を探していた。
金蝉は教会の裏手に居た。ベンチが一つ、今は何も無い花壇の前に位置している。そこに腰掛け、何思うでも無く煙草を銜えていた。
「金蝉」
玲瓏な声に呼ばれて、金蝉は視線を動かした。教会の壁に手を置いて体を預ける人影が、太陽を背にしていた。眩しさに思わず手を翳す。
「そろそろ行った方が良いと思うけど？」
肩を竦めた細い影の表情は、そこだけ深い色の影が落ちていて良く見えない。
「……あぁ」
人中に身を沈めるのはあまり好きでは無い。その煩わしさを思ってため息をつく。好奇の視線など屁でも無いが、今この状態では遠慮したい。
「淋しいのか？」
「――あ？」
唐突に言われて、金蝉は落とした視線をもう一度上げた。翼の表情は変わらず窺えない。声音も何時もと変わらない。ただ、聞かれた事だけがうまく飲み込めず、そのまま翼の言葉を待つような金蝉に翼が少し声を荒げた。
「教会でも、今も、キミは酷く淋しそうだ」
淋しそう。言葉の意味を反芻するように息を吸い込み、吐き出すと紫煙が大きく揺らいだ。
淋しそう。自分の何を見て翼がそう判断したのか、金蝉は眉間の皺を歪めて首を傾げた。
訳が分からない。問う事の意味も、問う者の心も。教会でも今も、淋しいと思った事は特に無い。教会でも今も、自分が何を思っていたかといえば、眠いの一言に尽きた。眠くて式どころでは無かったのだ。式が何時終わったのかも朧だ。式の最中に寝るわけにはいかぬとしていた自分の表情が翼には寂しげに映ったのだろうか。
しかし長い付き合いである翼がそんな思い違いをするのも可笑しな話ではある。
黙りこくる金蝉に、翼が痺れを切らしたように歩み寄って、金蝉の横に腰を下ろす。その顔に笑みは無い。瞳を真っ直ぐに見つめ返してくる翼。
「初恋だろう？」
問われて一瞬思考が止まった。
そしてやっとの事で、その意味を悟った。翼の態度や言葉や、どこか不機嫌な空気に合点がいったのだ。
一つ小さく頷いて
「昔の話だ」
ともう一度紫煙を燻らす。それでも納得がいかなげな視線を頬に感じ、金蝉は言葉を続けた。
「好きな女を他の男に取られて、我慢できる程人間が出来てねぇ」
二人の金髪を冷たい風がさらう。
翼は何か言いたげに口を開き、閉じた。
実際、金蝉の言葉に嘘は無かった。あまり嬉しい気分で無いのは確かだろう。だが同時に昔の話であり、今も好きかともし問われたならわからないとでも答える。好きだと答えるかもしれない。けれどそれが愛情なのか友情なのかプライドが痛むだけなのか、自身の感情といえどもその機微を言葉にするのも、自分で理解するのも難しいものなのだ。
好きも嫌いも紙一重。壁は薄く壊れやすい。だから、自分の感情が一番理解出来ない。ある意味では一番厄介だ。
翼がどう言えば満足するかもわからない。
だから金蝉は黙って煙草を吸い続け、翼もまた、黙り続けた。
けれどやがて金蝉は、自分達がそんな事をしている場合ではない事を思い出す。教会から人の気配は既に失せ、辺りを来い闇が覆いだしている。何より、元から半数しか無かったが、煙草がすべて吸殻に変わってしまっていた。
立ち上がりかけた金蝉は、だがその途中でその動作を止めた。
傍らでうつむく、いまだ不満げな翼の顔。目鼻立ちの整った美しい娘は拗ねた様に投げやりな視線を遠くに向けている。
ああ、なんて――。
思わず口元が緩む。それは明らかな、見るに明らかな。
友情からくるものなのか愛情からくるものなのか、それとも幼さゆえなのか、心優しいからなのか。その感情の生まれる場所が何処か分からない。
ニヤリと皮肉げに唇を歪めながら、それでも金蝉の瞳に浮かんだ感情の様に。
言葉でどう表していいのか、どう結論づけていいのか。
酷く単純で複雑な感情に、金蝉は思わずそのやわらかい頬に口付けていた。
この時微かに、本当に小さな。
誰の目にも止まらない蕾がそれぞれの胸の内で芽吹いた。
やがて春が来て花開くだろうそれは、その時どんな色で咲き誇るのだろう。
どんな感情で育つだろう。
冬の蕾は静かに、春を待つ――。
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