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アンダルシアに憧れて
「ここで会ったが百年目、ってか」
へらへらと、和馬は笑った。
紅牙は、笑わなかった。
夜の埠頭の倉庫街だ。
ただ月だけが、ふたりを見下ろしていた――。
季節は流れた。
東雲紅牙の放浪は続いていた。
かつて属していた組織を出奔してから、どのくらいの時が経っただろう。
物か家畜のように紅牙をみなし、ただ冷徹に人殺しを命じるだけの『組織』であっても、それは唯一、紅牙が“属している”存在だった。その、家族も友人ももたぬ彼にとっての、ただひとつの絆さえ捨てて以来、都市の底辺を転々としながら、紅牙は熱病にさいなまれるように、眼前にちらつくまぼろしを追ってさまよっていたのである。
ある日のことだ。
紅牙は、人のごったがえすスクランブル交差点に差し掛かった。
そこは以前、ふと垣間見た幻影に、激情にかられ、はからずも殺戮を行ってしまった場所だった。だが、紅牙がそんなことに頓着することはない。そこはただ、せんに見た《夢》にあらわれた場所で――
(……!)
ぞわり、と、肌が粟立つような感覚。
雑踏を縫って歩む、黒いスーツの背中を、彼は見た。
意外にも……それからの紅牙は冷静だった。ただ慎重に距離を取って、後を追いはじめる。
不思議と、心は渇いていた。
砂漠で迷った人間が見た、オアシスの蜃気楼のように、あれほどもとめたものだったのに。……いや、あるいはそれは、いつかこうしてめぐり会うことを、確かにわかっていたからかもしれない。
路上で音楽を披露する、若者の前を通り過ぎた。うらさびしいアルペジオの響きが、残響のように、耳にこびりつく。
追われるものにおいても、季節は流れた。
時の流れは誰にも平等である。
ただ――
藍原和馬に関して云えば、彼は自分が誰かに追われているなどと思っていなかったし、また、どれだけ時が過ぎようが、それは彼自身に何の影響も及ぼさぬことだった。
だから、追うものがあてどない彷徨の迷路に嵌り込んでいる一方で、和馬はあいかわらずの日々を送っていた。
すなわち、東京の街をふらつき、さまざまな仕事に首をつっこみ、漂うように暮らしていたのである。
そしてその日は、月の光に誘われるように、夜の散歩へと足を向けたのだ。
「……行くぞ」
低く、呟く。
紅牙が云ったのは、それだけだった。
空気を裂いて、鋼の糸が唸る。
「そうそう!」
和馬の脚が地面を蹴った。
「これが得物だったよな」
一呼吸遅れて、彼がいたあたりの地面が弾けた。
「あンときぁ、一張羅駄目にしやがって」
紅牙は、あくまでも静かに、間合いを取りながら、見えないなにかを手繰り寄せるような動作をした。
「っと!」
常人の目には何も見えない。だが和馬の動きを追っていれば、鋼糸の攻撃が、執拗に彼に向ってくるのだと知れた。そして、和馬があざやかにそれをかわし続けていることも。
「こういうの何て云うか知ってる!?」
不敵な笑みで、和馬は叫んだ。
「バカのひとつ覚えってンだよ!」
跳んだ。
ありえない跳躍だった。月の夜空を背景に、倉庫の屋根に届かんばかりの高さまで、和馬の身体が持ち上がり……
「――」
無言で、あくまでも冷徹に、紅牙は鋼糸を操る。
「う!?」
はじめて――和馬の顔から笑みが引き、かわって、血飛沫が黒いスーツを破ってほとばしったではないか。
「……く、空中に別の糸を……!」
落下してくる血まみれの和馬を見ても、紅牙の表情は鉄仮面のように変わらない。
ただ、その赤い瞳で、自身が操るものとは別に、倉庫の屋根と屋根のあいだに渡した、《罠》の鋼糸が、首尾よく獲物をとらえたさまを眺めるのみだった。
そして、落ちてくる和馬めがけ、鋭い蹴りを加えた。
「……ッてェ! なにしやが――うぉっ!」
間髪入れず、第二撃、第三撃。そして、さらに鋼糸の洗礼が和馬を襲う――
「…………」
紅牙は、燃えるような瞳で、宿敵を見下ろしていた。
黒いスーツも、その下のシャツもズタズタで、血があふれている。常人ならばとっくに絶命しているだろう。だが、男はまだ呼吸をしている。冷たいアスファルトの上に、ぼろくずのように横たわってはいるが、紅牙が不用意な動きをすれば反撃に転じるに違いないのだ。
慎重に、とどめを刺すための間合いを詰めてゆく。
月が、紅牙の足元につくる影の中で、なにものかの待ちかねたような性急な息遣いさえ聞こえ――
(獲った)
紅牙は確信する。
それは永年の勘による確信だった。
(この男を殺せば)
(俺の旅も終わるのか)
だが――
(そして、それからはどうする――?)
咆哮。
弾かれたように、和馬の身体が躍り上がった。……いや、違う、これは――
「何!」
はじめて、紅牙の口から狼狽の声が迸った。
和馬はもはや、和馬ではなかった。出血は止まっている。いや、それどころか、破れた着衣の合間からのぞく肌には黒い剛毛が覆い、その体格そのものも、骨格からして変わったように膨れ上がり、そしてなによりも……その顔が、人間のものではなかった!
(獣――)
呼応するように、紅牙の足元から、彼の闇の半身が出現する。
影の獣が、獣人を迎えた。
鋭い爪をそなえた和馬の――和馬だったものの手が、影の獣に組み付く。かッと真っ赤な顎を開き、影の獣は和馬の喉笛を狙ったが、それよりも早く、逆に、人狼が影の獣の、闇を固めてつくったような胴に喰いついたのだ。
それは月夜に繰り広げられた、なんと狂気じみた一幕だったろう。二匹の凶獣が、互いを喰らい合い、押し込めようともつれ合い……
「――ッ!」
声にならぬ叫び。
うつつの肉体を持たぬかのように見えた影の獣は、しかし、獣人に肉を喰い千切られて、叫び声らしきものを上げた。そして獣人は、信じ難い怪力で、その獣の身体を持ち上げる。つねに、その半身を影の中に沈めていたはずの影の中から、獣の全身が引きずり出されようとしていた。影の肉体にできた傷から、血が噴き出す。
「や、やめ――」
紅牙は叫んだ。
つねに彼とともにありながら、決してそれを友だとも、同胞だとも思ったことなどない、影の獣をかばって、彼は飛び出した。だが、それより先に、獣人は影の肉体をしたたかに、アスファルトに打ち据え、全身で抑え込んでいた。
「くそ……!」
ひゅん、と、風を切って鋼糸が舞い、獣人の腕に絡み付いた。本来なら、それだけでもう、その腕はすっぱりと切り落とされていたはずだ。だのに、結果は――反対に、紅牙のほうが糸をひっぱられて、前のめりに体勢をくずされてしまう。
次に、紅牙の視界に入ってきたものは……天上の月、だった。
半歩遅れて、しびれるような痛みがやってくる。
獣人に殴られて、自分がふっとんだのだと悟った。
この感触は……どうやら骨が砕けたか。
ずん、と重たい一撃が、さらに。
はぜるように、血を吐いた。
月夜に咲いた、血の花だ。
(血の匂いがしやがる)
(人を襲うのは、“月のない晩”ってぇ、昔から決まってンだよ!)
(こんな、いい月の晩にァ――荒事は野暮ってもんだぜ)
(ここで会ったが百年目、ってか)
血と、痛みと、スパークする記憶と感情でできた万華鏡が、くるくると回った。
血――
夕陽のように赤い血。血のように赤い夕陽。
両親が流した血。
テディベアを抱いていた女の子の血。
指令によって葬った幾人もの人間の血。
影の獣の牙からしたたる血。
血の花。
真っ赤な――
カルメンの薔薇のような……
(藍原和馬……)
(俺は――)
夜風にちぎれて、むせぶような、アルペジオの音色を聴いたと思ったのは気のせいか。
そう……、それはまぼろしに違いない。
そのときすでに、東雲紅牙の意識は、漆黒と深紅の、まだらの闇へと沈んでいったのだから。
「畜生め」
和馬は、肩で息をしながら、悪態をついた。
せっかくの夜の散歩が、またしても台なしだった。傷は治癒していたが、服はぼろぼろで、彼は全身を、血と埃にまみれていた。
目の前には、紅牙が(むろんそのとき、和馬はまだ彼の名を知らない)倒れている。死んではいないだろうが意識はない。あの奇妙な影の生物は――見当たらなかった。この青年の、影の中へと還ったのだろう。
真夜中の倉庫街には、他に動くものとてない。
ふたりの死闘を見届けたのは、ただ、月だけだ。
(了)
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