|
明日に架ける橋
「それでお願いって。今、外よね……どこか行くの。ああ、バイト。このあいだのジャズバー?」
光月羽澄は、受話器を持ち替えながら、訊ねた。だが返ってきた答は予想外のものだったらしい。
「えー、そうなの? そんなの平気? 音楽家さんにはきついんじゃないかしら。身長あるくせに、わりと細いじゃない」
電話の相手は何と云ったのか、
「お弁当ですって。そういうのはお母さんか彼女に頼むもんじゃないの」
ころころと、羽澄は笑った。
「わかった。いいわよ。届け先教えて。……ん、オッケー。一応、リクエスト聞いとく。……うん。そう? ええ、またあとで」
電話を切った。
ぱたぱたと、店の奥へと消えてゆく。店番の途中だったが――、どのみち胡弓堂はひっきりなしに客が訪れる種類の店ではない。
やがて、台所から食べ物の、家庭的であたたかい匂いが流れてくる。それは羽澄特製の、幼なじみのベーシストに届ける弁当なのだ。
工事現場で働くというから、しっかりご飯を食べたほうがいいだろう、と、おにぎりを握る。卵焼きに、たっての希望のたこ型ウィンナーはおさえるとして――あの年頃の男の子は放っておくと肉ばかり食べてしまうものだから、野菜を食べさせたほうがいい、と、いんげんのゴマあえに、エビとトマトの蒸し煮。羽澄の料理の手は手際がいい。
すこしのあいだ、店は閉めさせてもらうとして、羽澄は出来上がった弁当を届けるために外へ出た。
黄昏が、宵へと変わろうとする頃だ。近い場所だったので歩いて向う。
(…………)
ふと――、足が止まった。
「……?」
たとえて云えば誰かに呼ばれたような。羽澄は辺りを見回す。そこは、ビルの狭間を縫うように流れる都会の河に、ひっそりと架かる橋の上だった。
(なんだろう。この感じ。悪いものではないけれど、これは――)
かつて、橋の上で行き交う人の声に耳を傾け、拾った言葉を元に吉凶を占うという占術があったと聞くけれど――。
「あの……」
――と、これは本当に呼び掛けられた。
「はい?」
初老の、紳士だった。
仕立てのいい背広に、ソフト帽。そして、この年齢にしては、いささか奇異に思えるレイバンが、しかし、とてもしっくりと馴染んでいる。
「あ、いや」
向こうから声を掛けてきたくせに、紳士は口籠った。
「すみません。知り合いに似ておられたもので、つい」
「ええ……」
羽澄は小首を傾げた。そして、あ――、と思い当たる。どこかで会ったことがあったかしら、と思っていたら……彼は有名な映画俳優だったのだ。スクリーンやDVDを通して、見慣れた顔だったのである。もっとも、いわゆる“往年の大スター”というやつで、映像でよく知る彼の姿はとても若い。最近は、名脇役といった風情で、ひっそりと、しかし、それでも確固たる位置を芸能界の片隅に占めていたはずだ。
「あの……失礼ですけれど、ここで、何を――?」
何があるというわけでもない、橋の上なのだ。
「ええ……河を、ね――。見ていたのです」
羽澄は紳士に並んで、柵に身を寄せた。東京の街中の河だ。見るべきものなどあろうはずもない。
「なにか……この河に思い出でもあるんですか?」
羽澄は訊いた。
彼は何かを語ろうとしている。それを聞くべきだ、聞き届けるべきだ、と彼女は思った。そのために、自分は今日、この橋を渡ろうとしたのかもしれない――、そんなあやしい妄念のようなものが、羽澄の心の中にゆらいだ。
そして彼は、ゆっくりと、話し始めたのである。
たまたま路傍で出会っただけの、少女を相手に、遠い過去の出来事を、語り出したのだ。
「あそこにマンションがあるでしょう。そう、レンガ色の壁の。もう建て替わってしまっているけれども、ずっと昔……私はあそこにあったマンションに住んでいた。三階の角の部屋。この橋に立つとね、あちらの方向にまっすぐ、ちょうど、私の部屋の窓が見えるんだ。だから、彼女とはいつもここで、待ち合わせをしたんだよ」
「彼女と出会った頃、私はしがない役者だった。でもそのうち、たくさん仕事をいただけるようになって……あそこのマンションに住み、この橋で待ち合わせをしていた頃は、なかなか、ふたりが会う時間を取ることも難しくなっていた」
「今のように、携帯電話やメールで気軽に連絡が取れる時代じゃなかった。若いお嬢さんには想像がつかないかもしれないね。……この橋から、私の部屋の窓が見えるように、私の部屋の窓からも、この橋が見えた。遠く、彼女の姿が見えたら、私は部屋の電気を点けたり消したりする。それが『今スグ行ク』の合図。それから、あの橋まで、車を回して……」
紳士の目が、穏やかに、周囲を見回した。
今にも、若い頃の自分が、車に乗ってやってくるのが見えるとでも言わんばかりに。そして、はにかむように微笑んで、助手席にひとりの女性が乗り込むのを、羽澄もまた見たような気がした。
「今とは時代が違った。私たちの交際は……人に知られてはいけなかった。私が忙しいせいもあったから、ただ、時間を見つけてはドライブするくらいのことだ。しゃれた店も、遊園地も、カラオケもなにもない……ただそれだけが――私たちのデートだった。ずいぶん、退屈な思いをさせたと思う」
「そんなことないですよ」
羽澄の言葉に、紳士は、まるで過去から直接返事をもらったかのように、はっと驚いた顔で彼女を見返す。
「女の子は、好きな人と一緒に居られれば行き先なんてどこだっていいんです。王子様が馬に乗って迎えに来てくれたら……その先はどこでも構わない。迎えに来てくれるってことが嬉しいんだもの」
「そういうものかな」
苦笑を漏らす。どう見ても三十歳以上は年下の――下手をしたら四十も離れているかもしれない――少女に諭されたような気になったらしい。
「そんなことを言われたこともあったような気がする」
羽澄は微笑んで頷いた。
その彼女は――?と訊くことはなかった。たぶん、その答えはわかっている。
「……今日が命日なんだ」
しかし、問われる前に、彼は語った。
「あの日は朝から小雨が降っていた。窓からのぞくと……それでも、彼女の赤い傘が見えた。だから私はいつものように、合図を送った。それから部屋を出ようとしたとき――電話が鳴ったんだ。……ある人気俳優が怪我をして、急に代役が必要になった、と、マネージャーだった。私を代役に推薦してくれたそうだ。しかし監督は気難しいので有名で――今すぐ撮影に来れないなら必要ない、と……。すぐに車を飛ばしても間に合うかどうかぎりぎりだった。私は心の中で彼女に謝りながら――……いや、それは嘘だな……、もうそのときには、映画のことしか頭になかったかもしれない。とにかく私は橋のほうへは回らず、撮影所へと急いだ」
「私、その映画観ました」
羽澄は言った。プロデューサーが復刻したDVDを貸してくれたのだ。それが彼の大出世作となったのだが、出演のきっかけが代役だったというのは、映画通のあいだでは今さらトリビアにもならないエピソードだった。
だが、その背後に、約束を信じて待ち続けた女性がいたことは知られていない。
「彼女はそれから小一時間ほどもこの場所で待っていたようだ。いや、もしかしたら……もっと待ち続けていたかもしれない。雨で視界を見誤り、スリップした車に轢かれなければ」
「…………」
「私がそのことを知ったのは三日も経ってからだった」
かすかに、声がふるえた。
「もう……何十年もの昔の話になってしまった」
「それから、ずっと此処へ?」
恥ずかしそうに、彼はかぶりを振った。
「命日のたびに、とでも言えれば格好良いのだろうが、私は薄情な男でね。正直、もう長い間、思い出すこともなかった。いや……思い出すことを拒んでいたのかもしれないな」
「後悔――なさっていると」
「だってそうだろう」
レイバンを透かして、年齢を感じさせぬ、少年のような瞳があるのを、羽澄は見た。
「あの日、約束しなければ。私がそれをすっぽかさなければ。せめて一分の労を惜しまず、この橋に来ていれば」
「でも……」
「急に思い出したんだ。それで来てみた。周囲の風景はすっかり変わっているが、この橋だけは昔のままだ。……莫迦な話だが、もしかしたら、彼女はまだここで私を待っているのじゃないかとさえ――」
聞きながら、羽澄はそっと目を閉じた。
あるいは彼の思った通りかもしれないと考えたからだった。しかし――、橋とその周辺には、これといった霊の気配もなく……
(あ…………)
そのかわり、羽澄は、今しがたまでここにいた、彼女のよく知る人物の名残りをみとめた。
(そうか。そうなのね――)
一人合点に、唇に笑みを上せる。そして告げた。
「大丈夫」
「え――?」
「大丈夫ですよ。彼女……怨んでなんか、いないと思いますし」
「……」
「気休めじゃないですよ。だって……女の子は、デートのときって、待つことも楽しみのうちなんですもの」
それを聞いて、紳士の顔にも笑みが差した。
「だから、きっと大丈夫。起きてしまったことは変わらないけれど、後悔にとらわれて動けなくなってしまうのは、死んでしまった人だけで充分。それは、そういった人の救い手に任せて……生きている人は前に進めるんですから」
うたうように、羽澄は云った。
催眠術にでもかけられたように、ぽかん――、とした表情を、男は浮かべた。それがやがてゆっくりと、穏やかな笑みへと溶けてゆく。
「そのとおりだね。……ありがとう、お嬢さん」
「あ。いけない。こんな時間だ。……じゃあ、失礼します」
ぺこりと一礼。そして駆け出してゆく羽澄の後ろ姿を、彼はじっと見送っていた。
《彼女》は、安らかに行けただろうか――、羽澄は考える。彼が手を貸したのなら、うまくいったはずだ。残された彼は……力のある役者だ、うまくやってゆけるだろう。めったに会う機会のない人物、ほんとうはもうすこし話していたくもあったけれど、今日は独りにしてあげたほうがいい。第一……、羽澄は弁当を届けないといけないのだから。
幼なじみに会ったら、そのおせっかいをどう問い詰めよう。そんなことを考えながら、羽澄は駆けるのだった。
(了)
|
|
|