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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


人魚が流す涙


 ずっと好き。ずっとずっと大好き。私のもの。私だけのもの。誰よりも傍に居て、誰よりも分かってあげられるのは私だけなのに―――
 路地裏にひっそりと店を構えるアンティークショップ。
 ショーウィンドゥに手をつき、白いコートに身を包み、淡く明滅するクリスマスツリーの飾りを暗い昏い瞳で見つめる。
 本当に愛しているのは、私だけ。なのに、なのに、なのにどうして―――どうして誰もが私から取り上げようとするの?どうして―――?
 ギシリときつく噛んだ唇。
 握り締めた手の平に食い込む爪。
 巡る呪詛は、ただひとりに向けられた愛ゆえのもの。
 奪われるくらいなら、いっそ。
 いっそ。
 そんな強い想いに呼応するかのごとく、不意に乾いた音を響かせて店の扉が押し開かれた。
 流れ出す異国の言葉で綴られた聖誕祭の音楽。
 キラキラと薄闇の店内で明滅する光の中で、彼は微笑み、ゆっくりと手を差し伸べる。
「あの……」
 彼の手からツリーのグラスボールが滑り落ちる。
「あ」
 つい両の掌でソレを受け止めた瞬間、彼女の中で何かがふつりと切れた。
「ようこそ……ここは夢を永遠にする場所……貴女の望みもまた、永遠にふさわしい……」



 草間興信所のソファに座る依頼人こと立野寛の身辺で起きるのは、少々不可解な出来事だった。
 人が消えるのだ。
 仲の良かった妹も、結婚しようと家族に紹介したばかりの彼女も、帰りが遅くなったので途中まで送った会社の同僚さえも。
 ジングルベルの曲で溢れかえった街中で、彼だけがどんどん孤立していく。
「つまり貴方の周囲の人間ばかりが消えると、そういうことですね……?」
 問いを投げ掛けながら、草間武彦は目の前の男をじっと観察する。スーツ姿の、本当にどこにでもいそうな普通の青年だ。その表情は不安と焦燥に駆られて僅かに歪んでいる。
「何が起こっているのか、彼女達は一体どこに消えたのか……こちらならどんなことでも調べていただけると聞きまして……」
 藁にも縋る思いで、とそう彼は打ち明けた。
「いつ頃からソレが?」
「いつ頃……いつ頃なのでしょう……本当に最近のような気もするんですが……」
「最近、ですか」
 ほんの一瞬、草間の頭を過ぎったのは性質の悪いストーカーという存在だ。
 何かにスイッチして今回のような行為を繰り返しているという可能性は否定できない。ただし同時に、何人もの人間をそう簡単に消すことが出来るのかという疑問も浮かぶ。
 人為的現象か超常的現象かの判断は迷うところではあるが、放っておくわけにもいかない。一応人探しはこちらの領分だ。
「……いいでしょう。その依頼、お受けします」
 ほんの一瞬ざわりと肌を嫌な寒気が撫でていったが、それでも草間は立野に頷いて見せた。
「ではお願いします……あの、必要な時はいつでも呼び出していただいて構いませんから……」
 深く頭を下げてから席を立つと、彼はよろめきながら興信所を後にした。言葉以上に憔悴が見て取れる。
 気落ちした男の背を見送りながら、草間は黙って煙草を一本口に咥えた。
 まだどこかにザワザワとした感覚が残っている。
 それはいつかの記憶。
 かつて感じたものと同じ。
 不吉な予感とは往々にして現実になるものなのだ。
「武彦さん。いますぐ調査員を手配して構わないかしら?」
 ファイルを手にしたシュライン・エマの声が沈黙を破る。
「デリケートな問題になりそうだ。必要最低限の数でいい。出来ればあまり警戒されないような。人選はお前に任せるよ」
 溜息のように紫煙を吐き出しながら、草間は再び眉をひそめて思考に沈み込む。
 そんな相手の常らしからぬ態度を気にしながらも、シュラインは彼の指示に従って黒電話を繋げるべき相手を決めた。



 ずっと好き。ずっとずっと好き。誰よりも傍で誰よりも愛してる。だから、私だけのものでいて………



 じわりと嫌な予感だけが滲んでいく興信所から、黒塗りの高級車が一台滑り出る。
 向かい合ってそこに座しているのは、ステッキを手にした銀色の紳士と3人の黒髪の淑女だった。
 興信所の依頼に参加するのはコレが初めてではない者達ばかりとあってか、自己紹介も軽く交わすだけ、後の会話は既に綿密な打ち合わせの様相を呈していた。
 何を手にし、何を知り、これから為すべき方向は何か。
 運転席との間で仕切られた後部座席は、いまや会議室も同然だった。
「立野さんのお話、上手く聞きだせるといいですね」
 最近よく一人で出かける夫を店に置いて藤井せりなが調査に乗り出したのは、もしかするとこの事件の根底に流れるものを予感して、なのかもしれない。
 シュラインからの連絡を受けた瞬間、回線越しに自分が見たのは暗く揺らめく炎の残像だった。
 けして多くはない、深く深く沈みこんでいくひたむきな情熱。
「そう、ですね……ストーカーだとしても、まずは彼が関わった一切を知ることから、と私も思いますよ」
 穏やかに頷きを返すセレスティ・カーニンガムの手にあるのは、シュラインが用意した調査資料だ。既にいくつかの走り書きも見られる。
「楽しみ、ですわ」
 海原みそのは両手を胸の前でぱちんと合わせてにっこり笑った。
「え、と……みそのちゃん?」
 シュラインはどういう表情を浮かべるべきか、しばし悩む。
 彼女が纏うのは、クリスマスツリーをイメージしたという漆黒のドレスだ。モールの代わりにファーがぐるりと彼女の躰を取り巻いている。
「男女の情愛はあの方も好むところ。久方ぶりに素敵なお土産を持ち帰られるかと思いましたらドキドキとしてまいります」
 屈託のない笑みを浮かべる盲目の巫子は、せりなとは別のモノ……事件を取り巻く『流れ』をそこに見ていた。
 だが彼女はそれを口にはしない。
 ただニコニコと楽しげに、13歳の少女らしい笑みを浮かべているだけだ。
 それからどれだけ走ったのか。
 寡黙な運転手が操る車は、4人の調査員を乗せて雑多な人とモノで溢れる街中から閑静な住宅街へと入り込んでいた。
 日が傾き、家々を飾る意匠を凝らしたクリスマス用のイルミネーションが瞬き始める。
 楽しげで暖かな色合いの中に、依頼人の家はあった。
 特別な豪邸でもない代わりにたんなる建売住宅でもないソレが、彼の育った環境を表していた。
 応接間のソファで、彼は相変わらず暗い顔をしている。
 両親は不在らしく、お茶のセッティングまでの全てを立野ひとりで行っていた。
「立野さん……異変の始まった前後からの行動を教えて頂いてもよろしいかしら?」
「行動といわれましても、それほど大きく変わったところはないように思うのですが……」
 アンティークのテーブルに並ぶ茶器を前にして、せりなの穏やかな一言から話はゆるやかに始まった。
 最近の行動を思い出せる限り羅列していく。
 どんな些細なことでも構わないという言葉に戸惑いつつも、可能な限り。
 だが繰り返される日常を正確にトレースしていくのはかなり難しい。時間を費やしたとしてもそうそう全てを思い出すことなど出来はしなかった。
 一週間のほとんどを会社と家の往復に費やし、婚約者とのデートは週に一度。彼女のために用意したデートコースもコレといって珍しいものではない。
 変化といえば、婚約者を家に招き、家族の前で彼女を紹介した、ただその一点のような気さえする。
 ほんの少し前まで、当たり前に幸福が約束されていた青年。
 両親と妹の4人で何の憂いもない二十数年を過ごし、結婚を間近に控え、本人がソレと気付かないほど幸せは当然のように傍らにあった。
 けれど今、立野は不可解な現象によってじわりじわりと孤独の片隅へ追い詰められている。
 妹が消え、婚約者が消え、そしていつしか自分の周りにいるだけで次々とヒトが消えていく。
「……本当に、どうしてこんなことが……」
 頭を抱え、こぼれる溜息はどこまでも深い。
 目に映るのは立野を取り巻く、暗い、けれどどこまでも純度の高い血のような黒い炎。限りない束縛と情念の証。哀しいくらい深みへと落ち込んだ心の火。
 ソレはこの家のそこかしこにも残っている。
 シュラインは、カーニンガムは、みそのは、この炎の片鱗を感じているだろうか。
 ふと、何かに思い至ったのか、みそのが小首を傾げて
「立野様……何故、『けいさつ』には行かれませんでしたの?」
「……行きましたよ。妹が消えてすぐ、そして彼女が消えたときにもアチラのご両親を通じて……でも、ただの失踪では警察は動かないんです……何ひとつ事件性はないと、そう判断されては対処の仕様がない」
 だから興信所を訪れたのだと、彼は言外にそう語る。
「つまり捜索願は出されたのね?」
 シュラインの確認には、沈んだ表情で頷いた。
「届けること以外何も出来ませんでしたが」
「まあ……けいさつ、とはそのようなお仕事でいらしたのですか?」
「ん〜難しい質問ね」
 知り合いの刑事の顔を思い浮かべつつ、シュラインは困ったような苦笑を浮かべる。
 警察には行った。
 ソレはつまり、探られて痛い腹はないと本人自身は思っていることの証になるだろうか。彼自身が仕組んだコトでも、望んだコトでもないのだと判断しても間違いはないのかもしれない。
「そういえば……最初に消えたのは妹さん、でいいのかしら?」
 思考を巡らせながら、更に問いを重ねる。
「例えば消えた順番。最近幾度となく目に付いた人物、できれば友人からただの顔見知りまで印象に残る人全て、ね。事件の度に符合する出来事がきっとあると思うんだけど」
 相手から一方に知られているだけなのか、それとも既に顔見知りなのか。彼が気付いていないだけで、『犯人』は近しい存在である可能性も否定できない。
「明日香が最初です。それから少しして薫が……その後はもうよく分からない……俺は彼女たちが消える瞬間を一度も目撃できず、守るどころか手掛かりひとつ見つけ出せないで居るんです……」
 口の端に浮かぶのは自嘲の笑みだ。
「……おかしいですよね……こんなトコになっても、ほとんど思い当たることがないなんて」
 初めて妹が消えて、続いて婚約者。身近な人間が2人消えた。もしもソレで終わっていたのなら、犯人はもっと容易に絞り込めたかもしれない。
 だが、今はもうまるで手当たり次第なのだ。
「ソレは、相手側が自分の存在を知られないように細心の注意を払っているということなのかもしれませんよ」
 それまで無言のまま、じっと何かを探るように俯いていたカーニンガムが顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。
 自分の痕跡を丁寧に消して、ただ人が居なくなるという現象だけを立野に見せ付ける。ソレは独占欲と嫉妬欲の間に見え隠れする、自分に気付いて欲しいとねだる『ワガママ』な一面のようにも思えた。
「もし人物が絞り込めないのならせめて……そうですね、消えた方々が普段と違う、あるいは何か手に入れなかったか覚えていませんか?」
 せりなからみその、シュラインからカーニンガムと、角度を変えながら投げ掛けられる質問。
 焦らないようにと優しく声を掛け、自分を責めないようにと慰めながら、その中で少しずつ紐解かれていく記憶
 4人は出来る限りの事前情報を彼から引き出していった。



 誰も居ない。何も感じない。奪われたくないという想いだけを胸に抱いてふらふらと彷徨い歩く。
 そこに居るのにどこにも居ない存在となって、ただひとつの居場所を守るために。



 年末の慌しさか、それとも間近に控えた盛大な祭りのためか。街はいつも以上に華やかな飾りと人で溢れている。
 その一角に構える馴染みのカフェで、シュラインはコーヒーとパフェと刑事を前に座っていた。
「何気に久しぶりだねぇ、エマちゃん。何?どうしたの?まぁた面倒ごとに関わってるわけ?」
 片山はへにゃりと笑いながらも、そこには心配そうな色が混じっていた。
 彼の目の前にはクリスマスヴァージョンの巨大なパフェがドンと構えていた。大きな器に盛られたアイスは3色。赤と緑のリボンが小さく飾られている。
 忙しい時期だろうに、1,000円のパフェで快く彼は来てくれたのだ。
「その興信所絡みなんだけど……ちょっとだけ教えてもらいたいことがあるのよ」
 コーヒーを一口、それから手帳を取り出すと改めて彼に向き直る。
 捜査の進行状況――それを聞いておきたかった。
 だが、
「家出じゃ警察は動かないってのが定説だよね。実際どこまで介入できるかって問題もあるし……ストーカー法が制定されたって、本当に対応し切れているのかって言われたら疑問が残る」
 慢性的な人手不足ってのがなにより情けないんだけど、と、片山は苦笑いを浮かべた。
 膨大な数にのぼる失踪者たち。年間この都市だけでどれだけの人が消息を絶っているのか分からない。
 それでも立野に絡む内容で分かっていることを可能な限り数字上のデータとして話してくれる。
 家族や友人たちの証言では、失踪は決まって黄昏を過ぎてからなのだ。夜の訪れと共に、彼女たちは何処かへと消える。
 みそのはマスコミが騒ぐのではと言っていたが、より猟奇的な犯罪が跋扈する中ではただの家出人など取り上げてももらえないのが現状だ。
 やはりこちらからアクションを起こさないと事態は進展しないのかもしれない。
「今回あんまし独り言が言えなくて申し訳ない」
 頭の上で両手を合わせて拝む彼を見て、ふと思いついたことを口にしてみる。
「そういえば」
「ん?」
「片山さんはクリスマス、予定はあるの?」
 立野は婚約者とも家族とも過ごすことが出来ないかもしれない。自分はたぶん興信所に居る。もしかするとライター業に負われているかもしれないし、この調査が長引いて、聖夜に犯人を追いかけているかもしれない。
 そんなことを考えつつ、何気ない調子で問いかけただけなのだが、
「うわ〜ヤなコト聞くなぁ。刑事ヒマなし。この世に悪がはびこる限り年中無休でオシゴトだよ。エライヒトの誕生日どころか盆も正月も関係ないない」
 トホホとこぼしながら力いっぱい否定する片山に、つい笑みを洩れる。
 同情すべきところなのかもしれないが、きっとこちらもそう状況は変わらない気がした。
「ああ、そうだ。役に立つかどうかわかんないけど、ちょこっとイイコト教えてあげるよ」
「イイコト?」
「全然別の筋から入ってきた噂話。でも興信所絡みなら手掛かりになるかもしれないっしょ?」
 そうしてぐっとテーブルに身を乗り出し、スプーンを握ったまま声を潜ませて話し出す。
「ええと、なんていうんだっけ?あのツリーに飾るやつ」
「オーナメント?」
「そうそう、それそれ。それをね、配ってる女の子が居るんだって。白いコートを着たすごく髪の長い子でね。にっこり笑って差し出されたそれをうっかり受け取ると」
「受け取ると?」
「あっという間に自分がオーナメントに変えられて、死者の国のツリーに飾られちゃうんだって!どう?怖いでしょ?」
「…………ん〜……」
 身を乗り出して真冬の怪談話を語った彼は至極真面目な顔だ。
 どう返してよいのか迷いながらも、長く探偵めいたことを続けてきたせいだろうか。ひどく気になる。だがソレが何か分からない。
 迷いながらも、シュラインは彼の目をまっすぐに見つめ返す。
「………ええと、片山さん?それは一体何の話なの?」
「立野明日香を初めとした失踪者たちは、いずれも噂の発祥地店と思しき場所を訪れている。人が消える瞬間を目撃したものから広まった都市伝説……という考え方も出来ない?」
「……他の調査員達に確認してみるわ。有難う」
「なんのなんの。可愛いエマちゃんのためならこれくらい」
 軽口は照れ隠しなのか、それとも生来のものなのか。
 それよりも、この怪談。
 嫌な予感がする。
 何か不吉なものが介在している。
 以前にも一度、自分はこの感覚を味わった気がする。
 どこで?何に?誰に?
「んじゃ、またね。今日はクリスマスプレゼントってコトで情報料はただにしてあげるよ〜」
 下手なウィンクをすると、片山は伝票をさらい、カラになったパフェグラスとシュラインを置いて慌しく立ち去った。
「え?片山さん?」
 彼が影響してくれた『噂話』――それが孕むものについて考え込んでいた為に見事に反応が遅れ、結局片山の背中を見送るのがやっとだった。



 せりなはいまいち足元のおぼつかないみそのと一緒に、彼女たちが消えたとされる現場を辿っていた。
 立野が彼女たちと通った道はどれも当たり前のカフェと当たり前のファッションビル、そして当たり前の居酒屋。そこから続くのも当たり前の帰路。
 消えた彼女たちの足取りを辿るのは、けして容易なことではない。
 だが、せりなの、そしてみそのの目はそこに刻まれた不可視の記憶を拾い上げる。
「女の子、ね……」
 もっと、そう、もっと立野の年齢につりあう大人の女性をイメージしていた。だが、過去の映像が見せるのは白いコートを纏った、少女とも呼べる存在だった。
 長い黒髪が揺れている。
 物陰からそっと窺うような位置にその姿がちらつく。
 けれどそれ以上に気になるのは、少女が両手の中にそっと包み込んでいるもの――淡い光が指の間から洩れ出ているソレが一体なんであるのか。
「何かを手に入れたのは、立野さんじゃなくてアチラのようね」
 ちらつく姿は不明瞭で、辛うじて少女らしいということしか分からない。せりなの瞳をもってしても人物を写真のように映し出すことは出来ない。
「こんなこと、あまりないんだけど……変ね」
「チカラが……そう、異界のチカラが作用しておりますわね」
 みそのが見つめる深淵。閉ざされた視界に揺らめくのは、青白く発光する病んだ光の筋だ。
「……そうして、チカラを使う度、その方はどこかの流れに呑まれて行かれるのですわ……」
 まるでなんでもないことのように、盲目の巫子はゆったりと微笑む。
「一刻も早く彼女を止めなくちゃいけないってことね」
「白く青く黒い流れが、見えますわ……とてもとても不思議な色……これが、男女の情愛というものなのでしょうか」

 自身が仕えるかの御方に連なる流れではないけれど、確実にこの世界に長く関わり続ける存在。
「海の香り……闇に潜む魔性が浸透した、不可解な流れ……あの方とは違うけれど、遥かな時を経て生成された……」
 ふぅっと、盲目の人魚は微笑む。
 まるで興味深いおもちゃを発見した子供のような無邪気さで。
「ああ、なんという幸運でしょう。わたくし、初めて出会いますわ」
 喰らい付いてきた一本の流れ。
 追いかけたいという衝動。
 アレをすっかり辿ることが出来たら、きっとあの方への素敵な土産話になる。
「あ」
 見えないから躓くのではない。見えていようと関係なく、みそのの身体バランスが著しく低いせいで躓くのだ。
 あまりにも物に溢れすぎて逆に何もないかのようなコンクリートの上で、みそのがバランスを崩す。
「気をつけましょうね、みそのちゃん。折角のお洋服が台無しになってしまうわよ?」
 子育ての合間で培われた『反射』でもって抱き止めたせりなは、みそのをちゃんと立たせると、まるで子供を引率する先生のように白く冷たい彼女の手を握った。



 カーニンガムは立野が婚約者と立ち寄ったという会社近くの喫茶店に、同僚の女性社員を2人誘い出す。
 突然の申し出に渋ることなく応えてくれたのは、彼の生まれもっての美貌と、そして人ならざる雰囲気のためであったのかもしれない。
 ステッキをついた紳士に目を奪われ、心まで奪われる様を間近で目撃できれたものもいたはずだ。
 周囲からの注目を出来る限り集めないよう、彼は視覚の多いボックス席を選んで彼女たちと向かい合う。
 他愛のない世間話のように、けれど相手の好奇心を充分に刺激しながらそろりと切り出される言葉。
 彼女たちは嬉しそうに語りだす。
「立野さん?ん〜、そうね……最近ちょっと怖い噂が立ってるから怖いかも」
「噂?」
「そ。私達が言ったって言わないでね?」
 声を潜め、ぐっと身を乗り出して、彼女たちは秘密を打ち明ける。
「彼が誘拐犯じゃないかって噂」
「はじめはね、なんか最近元気ないよねぇとかそんな話だけだったんだけど、由香が居なくなってからかな?噂になってきて」
「由香さん、ですか?」
 遅くなったために途中まで送ったという同僚だろうか。
「そうそう、由香が居なくなって、その後にも何人か、だっけ?」
「別に立野さんのせいってワケじゃないとは思うんだけど。やっぱちょっとヤバイかもねってことで避けちゃうのは確か」
「あ、でも恵はいなくなったって言うより、上司と合わないからって自主退社しただけじゃん?立野さんの噂利用してさ」
「うっそ、マジ?」
「マジマジ」
 一気に話が脱線する。だが、そんな彼女たちの会話もまた貴重な情報源となりうるのだ。真実はいつも思いがけない場所に潜んでいる。
 だからカーニンガムは穏やかな笑みを浮かべて、緩やかな軌道修正を掛けていく。彼女たちがリラックスした状態で気付かなかった何かを発見するのを待つように。
「彼自身はいかがですか?」
「ん〜別にどうってことない、普通の人よ?めっちゃモテる訳じゃないけど、まあそこそこ?」
「ライバルが多いとかはございませんでしたか?」
「ライバル?ないない。立野さんが結婚するって聞いても、社内中みんな『お幸せに〜』って感じだったし。ね?」
「ねぇ?」
 どうも『彼女』はかなり巧みに自身の想いと存在を隠しているようだ。
 カーニンガムは自身の印象の手応えを感じる。
「由香さん、でしたか。その方がいなくなる時期と前後して、何か不審なものを見たとか聞いたとか言うことはありませんでしたか?」
 例えば見知らぬ女性の影、あるいはおかしな品物。あるはずのないアイテム。それらを羅列してみせると、彼女たちは互いに顔を見合わせ、しばし思案する。
「どんな些細なことでも構いませんし、そうですね……お2人以外の方が呟いていたことでも良いのですが」
「どんなことでも?」
「どんなことでも、ですよ」
「ガラス」
「はい?」
「ガラスの欠片がね、由香のいなくなった場所に落ちていたらしいの……」
「それを見せていただくことは出来ますか?」
「ん〜聞いてみますね。ちょっと待ってください。いま電話掛けてきますから」
 いそいそと彼女は携帯電話を手に席を立つ。
 ガラスの欠片。
 ソレはなんでもないものかもしれない。ただ偶然そこに落ちていただけのものかも知れない。
 だが、カーニンガムの勘が、事件の中核を為すものだと告げていた。



 ころりころりと手の中でグラスボールを転がし眺める彼女の顔を、内側から洩れる仄かな光が照らし出す。
「渡さない……誰にも絶対に渡さない……」
 許さない。
 邪魔な存在全てを一掃したら、その時はまったく新しい自分に生まれ変わって告白をしよう。
 そうすれば、きっと誰ももう自分達を引き離そうなんて考えない。
 そうすれば、そうすれば、そうすれば………



 事件を解決するためのピースは少しずつ集まってきているが、不確定要素がいまだ多いのもまた事実だ。
 カーニンガムはみそのを招いた自宅の応接間で、パズルの組立作業に掛かりきりとなっていた。
 立野の周辺を探ってみても、ほとんど何も出てこない。辿ったはずの糸はすぐに切れ、根底にあるはずの流れを追うには細すぎる。
 それでもシュラインとせりなが聞き込みと現場検証を続けている。
 彼女たちほどの機動力はない代わりに、自分たちの傍らには、現場に落ちていたというガラスの破片がある。半透明の磨りガラスの表面には散らばる水面のような模様が刻まれていた。
 触れた指先に伝わるのは、凛とした切なさの残像だ。
「とても不思議な感触ですのね」
 そろりと隣から伸ばされたみそのの手がガラスを撫でる。
「あの方が残していかれたもの、ということは……コレもまた暗い流れの一端を成すもの……」
「貴女は彼女を視ることが?」
「せりな様と共にたくさん、あの方の残像を拝見してまいりましたの。とてもとても不思議でしたわ」
 にっこりとみそのは笑い、小鳥のように可愛らしく首を傾げる。
「その方は突然現れるのですわ……ふぅっと闇に立ち上がる夜霧のように、影がカタチを持つように、どこでもない場所から現れますの」
「どこでもない場所……とはまた、不思議ですね」
 彼女はおそらく真実を視る。
 比喩ではなく本当に影や闇から生まれるのであれば、それはもうヒトの域を超えてしまっている。
 立野に絡む少女は一体何者であるのか。
「占いという手もありますね……」
 せめて何かキッカケを掴めたら。
「一番最近立野様と2人きりになったのは―――」
 ガラスの欠片をそっと握りこみ、ゆっくりと瞑想に沈んでいくカーニンガムの中で、水晶はひとりの女性の名を導き出す。
 同時に、彼女に迫る黒い影も。
 予知夢にも似た映像群を読み解きながら、彼は
「……間もなく、次の犠牲者が……」
「ではお二方にもご連絡を差し上げた方が宜しいですわね」
 嬉しそうに、みそのはテーブルに置かれた携帯電話を手に取り、彼へと差し出した。



 ずっと好き。ずっと大事。取らないで。奪わないで。私だけのもの。私だけの―――



 街にはクリスマスツリーと並んで、門松などが飾られ、日本独特だろう年末の不可思議な光景が展開されていた。
 そんな中、せりなは主婦業の合間を縫って、シュラインは年末進行で早まった原稿をそうそうに上げて、2人でもう一度立野と共に周辺を調査していた。
 彼女たちの手にあるのは、証言の数々を文字に起こしたものだ。
 彼の傍に居る人間。彼が誰かと2人きりになった瞬間を目撃できるもの。監視しているのだとしても、その時間が許される状況でなければならない。
「ゴミを荒らされたりとかもしてないんですよね?」
「……俺自身も、家族からもそういう話は聞いてないです」
 シュラインに問われて頷く彼の隣で、せりなは目を凝らす。
 ストーカー現象として、郵便受けやゴミを荒らされている場合が多く見られる。だが、念のためにと彼や、周辺に聞き込んでみてもそれらしい形跡は一切認められなかった。
 この辺り一帯が持つ『記憶』を視ていくけれど、彼と別の女性が一緒にいる時、それを見つめる存在はどこにもない。
「おかしいわね……立野さんの行動を完全に把握できるような立場の人間は見当たらない」
 ならばどうしてここまで彼の生活パターンを、間に挟まれるイレギュラーも含めて把握することが可能なのだろうか。
「ストーカー……だとしても、もう少し何か分かりやすい符号があってもおかしくないわよね」
 だが、彼の周囲にちらつく影は何もない。相変わらず独占欲と束縛の炎だけが彼を取り巻いているだけだ。
「……じゃあ、どうやって俺の行動を……」
「何か別の方法があるのかもしれないけれど……シュラインさん、何かおかしな音は聞こえる?」
 耳を澄ませてみても、カメラや盗聴器といった機械類特有の作動音は聞こえてこない。彼自身からも不審な音はない。
「………ない。と言い切っていいかもしれない……」
 カーニンガムとみそのはあの『証拠品』から『何か』を掴むことが出来ただろうか。
 そんな考えが頭を過ぎるのとほぼ同じタイミングで、シュラインの携帯が控えめに着信を知らせてきた。



 近付かないで。話しかけないで。笑いかけないで。見ないで。取らないで。盗らないで。獲らないで。トラナイデトラナイデトラナイデ―――



 夜の訪れと共に闇を纏い、少女は現れる。
 人通りの途絶えた路地でひとり歩く女性を、正面に見据えて。
 双眸には暗くちらつく炎を宿り、両手の中には何かを抱いて、そっとそっとじわりじわりと外灯の元へ歩み出る。
「許さないわ」
 差し伸べられた掌には、小さなグラスボールがひとつ。真珠の色を秘めて拍動する。
「あなた、誰?」
 憎しみを孕んだ視線をぶつけられ、怒りを覚えるよりも驚くよりも先に恐怖で体が竦んだ。
「傍に居るなんて許さない。声を掛けないで。誘惑しないで。近付かないで。笑いかけられたりしないで」
 呪詛。
「……消えて」
 差し出された両手の中に覗くのは、たゆたう水の流れを刻んだグラスボール。
 凍えた世界に閉じ込める、魂の牢獄。
 彼女の意識が途切れ、その場に崩れ落ちる。
 そして、蠢く闇の触手が少女の手から生まれ、女性の身体を飲み込もうとしたその時、
「明日香!」
「―――お兄、ちゃん……?なんで?」
 大きく見開かれた黒い瞳。
 見られた。
 気付かれたくなかったのに。
 すっかり生まれ変わるまで、けして会いたくはなかったのに。
 自分はまだちゃんとした姿になっていないのに。
 羞恥と焦燥と様々な思いが膨れ上がり、少女は――明日香はコートを翻して『人でありえない速さ』で以って夜の向こう側に紛れて消えた。
「明日香!明日香、待ってくれ!!」
 どれほど声を張り上げても、妹はもう闇の中だ。
 むなしい叫びだけが路地に響き、伸ばした手は空を掴む。
 後に残されたのは、倒れ伏した女性と、立野、そしてシュライン達だけだ。
「何故……何故だ……明日香がどうしてあんな………」
 むなしく彷徨う手を拳に変えて、立野はショックを隠そうともせずに呟き続ける。小刻みの震えが全身を覆っていく。
「立野さん……今の少女はもしかして……」
 せりなが気遣わしげに彼を見る。
「……明日香は、俺の妹で……でも、どうして……居なくなったはずじゃないのか……?アイツが彼女たちを……?どうして……どうしてあんな……」
 疑問符に捕らわれて、正常な思考が奪われていく。
「彼女の方は大丈夫。気を失っているだけだわ……気がつく前に送った方がいいかもしれないわね」
 倒れた女性を抱き起こし、シュラインは立野を見上げる。
「立野さん。この方は?」
「……あ、ああ……彼女は……友人の奥さん、で……最近ちょっと明日香や結婚のコトで相談に乗ってもらっていて……でもどうして……」
 唇を噛み締めて、また答えの見つからない問いを繰り返す。
「お願いします。妹を……あの子はきっと騙されているんだ。そうでなきゃ、きっと悪いものに憑かれてる!そうとしか思えない……思えないんですよ……」
 哀しいと気持ちとは違う。
 ただ、妹を信じたかったのだ。彼女自身が望んで罪を犯しているのではないと、そう信じたいと願う立野を、2人はただ無言で見つめる。
 グラスボールのキラキラとした輝き。歪な思いを抱いて、まるで真珠のように内側から仄かな光を放つアレは、けしてまともなものじゃない。
「いったいどこからあんなものを」
 せりなの独り言に答えたのは、物憂げなシュラインの呟きだった。
「一箇所、というか、ひとりと言うべきか分からないけれど、そんなことが出来る相手に心当たりがあるのよ……」
 シュラインは険しい表情のまま、ポツリとその店の名を口にした。

 アンティークショップ『獏』――熱を持たない青年が店主を勤める妖の城。
 


 邪魔された。お兄ちゃんに見られた。あの人は誰。追いかけてきてた、あの女のヒト達は誰?
 クリスマスまで時間がないのに。お兄ちゃんをちゃんとヒトリにしなくちゃいけないのに。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしようどうしようどうし……ようもないじゃない。
 約束したんだもの。決めたんだもの。私はジャマモノを残らず全部消去して、そうしてちゃんと生まれ変わる。
 そうでないと……お兄ちゃんにちゃんと愛してもらえないと……何のために私は……



 路地裏にひっそりと佇むこぢんまりとしたアンティークショップ。古びた看板には『獏』の文字が読める。
 ショーウィンドゥに飾られているのは、時期を意識してかクリスマスツリーがひとつ。ただし街中を賑わせている派手なものではない。
 一体どんな電飾を使っているのか、ツリーを取り巻くグラスボールが淡くゆったりと明滅を繰り返している。
 シュラインの案内の元、調査員達全員がこの店の前に立つ。
 またここに来ることになるとは思わなかった。
 シュラインは眉をひそめ、そして静かに扉を押し開く。
 頭上で、カラン…と重く鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
 透明感のある穏やかな声が、客である自分達を薄闇の世界に招きいれる。
 古びた外観の割りにどこにも誇り臭さはなく、代わりにほわりと甘い香りが辺りを仄かに包み込んでいた。
 年代を感じさせる調度品と、ガラスケースの中でさざめくモノたちの狭間で、店主は相変わらずぞわりと粟立つほど凄みを秘めた笑みをその白皙の美貌に湛えていた。
 黒衣を纏い、妙に浮いて見える白エプロンを着用したその青年を前に、カーニンガムの表情が僅かに険しくなる。
 捩れた空気。
 歪な空間。
 今まで接してきた不可思議な現象の中でも埋没することのない、病んだ夜の気配がする。
 悪夢を具現化すればこんな顔を見せるのかもしれないと思わせる、異質な世界へと足を踏み入れたことでの違和感。
「……コレは珍しいお客様ですね……ようこそ、永遠を叶える夢の場所へ」
 店主は恭しく頭を垂れる。
 かつて一度ここを訪れた彼女に、心を覗くことのできる女性に、人ならざる血を受け継ぐ紳士と少女に。
「……貴方は何者、ですか?」
 誰よりも先に、カーニンガムは問いかける。
「私は永遠を望む切なる声に耳を傾けるモノ、ですよ」
 誰でもなく彼が、その問いに微笑みをもって応える。
「……このお店に女の子が来ましたよね?白いコートの髪の長い少女……思いつめてしまった彼女に、貴方は何を売ったのかしら?」
 せりなの目に映るのは、店のそこかしこで残り火のように揺らめく明日香の強い思いの欠片だ。ソレはガラス棚に飾られた食器類や立ち並ぶ調度品たちと何かを囁きあっている。
「私がお客様にお売りするのは永遠の愛……永遠の夢……この店を訪れる方、この店で何かに惹かれてご購入下さる方は皆さん、それを求めていらっしゃいますので」
「……貴方が関与していることだけは確かということね?」
「おや、お久しぶりですね、シュライン・エマ様。お客様もそれを望まれたのではありませんか?なにしろ当店に2度も足を運んでくださったのですから……」
「……私は必要のないものだと言わなかったかしら?」
「そのようなお答えは頂戴しておりませんね」
「そうだったかしら?」
 かつて彼は今と同じ笑みを浮かべ、シュラインに『幸福』というものについて語ったことがある。
 永遠を望む心。
 弱くも美しい想い。
 幸福の絶頂とはすなわち壊れる瞬間を最も恐れる位置でもあるのだと。
 そして、いつか訪れるかもしれない終局への恐怖と猜疑心に耐え切れない者の為にこの店はあるのだとも。
 背を伝っていく冷たい汗を感じる。
 いくつもの怪異を目の前にして来たからこそ分かる異質な存在。どうしてこの店を訪れる者たちはこの畏怖すべき禁忌の存在に自ら身を投じようとするのだろうか。
「明日香様が手にしたのはどのようなものですの?」
 物珍しげにアームチェアに座るドールの髪に指を絡ませながら、みそのは問う。
「立野明日香様がご購入くださったツリーは美しく彩られた悲恋を紡ぐもの、人魚姫の物語になぞられた逸品なのですよ」
「人魚姫……ですの?」
「ええ。グラスボール……クリスマスツリーに関する曰くはお聞きになっていかれますか?」
 みそのの顔を覗きこむように、彼女の頭上に掲げられた天使のレリーフで飾られた鏡を撫でながら、店主は微笑む。
「ぜひお伺いしたいですわ」
「私達もぜひ聞かせていただきたい。美しいもの、不可思議なもの、それら一切を含む全ての事象に私は心惹かれますから」
 カーニンガムもまた静かに、そして艶やかに微笑みを返す。
「それではお話いたしましょうか」
 そうして薄闇の世界で彼は言葉を紡ぐ。
 同時に、ザワザワと周囲の空気がいろめきだつのがわかった。まるで何事かの言葉を為そうとするように。
「報われない愛に惑い、行き場のなくなった独占欲と内に向かう狂気によって蝕まれていく心。彼女の流す涙によって作られたこのグラスボール。それぞれの想いを刻んでは閉じ込め、ツリーを哀しみで飾っていくもの……」
 空気が震える。想いの炎が揺れる。妖しく美しく、長い時を綴ってきた曰くつきの品々が、店主の声に合わせて独特の旋律を奏でる。
 それはある種のまやかしにも似て、心地よい浮遊感すら与えてくれる。
 彼が紡ぐ物語は、真実であるのかもしれないし、ただの虚構であるかもしれない。
 だが、明日香はそれに捕らわれた。
 彼が語り終えるまでの間、シュラインはじっと考える。
 どうすれば彼女を救えるのか。
 どうすれば他の女性達を助け出せるのか。
 自分が次に取るべき行動派なんであるのか。
 ただひたすらに、お伽噺を聞きながら思考をめぐらせていく―――
「―――以上が、立野明日香さまのお買い上げくださった『夢』でございます」
 店主の声で、現実に引き戻される。
 みそのがうっとりと、カーニンガムとせりなは言いようのない表情で以って彼の話を受け止めているのが見えた。
「……貴重なお話を有難う、店主さん」
「いえいえ、どういたしまして。それでは、またのお越しをお待ちしております」
 そうして彼の冷たく穏やかな笑みに見送られながら、最初にシュラインが、続いてせりなと彼女に付き添われながらカーニンガムが扉の外へ。そして最後、みそのは閉じかけたそこに手を掛けたままゆったりと振り返る。
「店主様」
 すぅっと投げ掛けられるのは、問いと言うよりもずっと確定的なものだ。
「あのお方に伺ったことがございますの。店主様はこの世ならざる世界に名を連ねるお方……夢を食べる『夢喰』さま、ですわね?」
 目ではなく感覚で視る青年の姿は、深い闇と虚構とで紡がれた異形である。
「食べるのではありませんよ。私は永遠を望む人間の心を愛し、彼ら、彼女らに必要な『夢』を提供するだけの存在です」
「まあ……ソレはとても素敵な生業でございますわ」
「ええ、とても素敵な生業です」
 漆黒の人魚と黒檀の獏は闇の中で穏やかな笑みをかわしあう。
 ソレは表に居る者たちの誰も見たことのない、禍々しくも透明な魔物同士の戯れにも似ていた。
 今度こそ骨董品店の扉は、かろん、と重い鈴の音を奏でて閉ざされる。
 後には静寂と不安感と言いようのない奇妙な空気だけが残された。
 そして、扉を背に感じながら顔を上げたみそのに、すっと手は差し出される。
「お待ちしていましたよ、みそのさん」
「まあ」
 カーニンガムが、車の前でみそのを待っていた。他の2人は既に乗り込ませたらしい。彼以外の姿はなく、遠くに喧騒を聞きながらひそやかに言葉を交わす。
「みそのさん……確かめられたのですか?」
「はい」
「ではやはり?」
「喰らうのではなく与えるのだと、そう仰っていましたわ」
「与える……そういう表現も出来るのかもしれませんね」
「素敵な生業でいらっしゃいます」
 心底そう思っているかのように邪気のない笑みで頷くみその。
「ところで」
「はい?」
 カーニンガムは己と本性を同じくする少女に問いかける。
「人魚の流す涙……どう思われますか?」
「どう、とは……?」
 首を傾げ、漆黒の少女はうっすらと笑みを浮かべたまま問いを返す。
「そうですね……アレは果たして涙なのかというところから始めるべきなのかもしれませんが」
「わたくし、思いますの。激しい恋に身をやつし、焦がれて流す涙はとてもロマンチックですわ……でも本当の人魚はきっとそう簡単には泣いたりしませんわ」
「ええ、そうでしょうね……それでも流す涙があるとすれば」
「魔を孕んだものとなりますわね」
「そうして後に残るのは………」
 夢喰から始まったこの流れの行き着く先は、おそらく破滅でしかありえない。
「……さあ、興信所へ参りましょう……」
 穏やかに搭乗を促すカーニンガムの表情には憂いの影が落ちていた。


 そして、悲しい少女が涙と共に紡ぐ物語は聖なる夜へと収束を開始する。


 調査の経過をたずねに興信所を訪れた立野に、シュラインは現状をいくつかあげて説明した。
 ただし、そこには若干の隠蔽もある。
 憶測でしかない状況で全てを話すわけにはいかないし、何より異形の存在が関与していたとして、それを告げるコトで悪戯に悩ませる必要性は見出せない。
 だからこそ、得られた情報のうち、彼が必要としているものだけを提示していく方法をとったのだ。
「人魚姫……ですか……あいつ、そんなものに関わったのか……」
「え?」
「好き、だったんですよ……妹が……クリスマスは一緒に過ごしてやれないから、代わりに一番欲しいものをやるよって言ったら、あいつ……」
 人魚姫。童話の世界で紡がれ、多くの人によって語られる悲恋の物語。報われない愛に生き、そして泡になって消えた哀しい少女。
「でも、そうね……彼女って実は幸せなのかもって思うことがあるのよね」
 シュラインが知る物語はいずれも結末は変わらない。それでも、彼女はきっと満足だったのだ。自身を思う他の誰の言葉でもなく、己の心に忠実に愛を貫いたのだから。
 そして、あの話には続きがある。
 彼女は海に身を投げて終わるわけではないのだ。
 けれど多くの場合、物語がそこで終わっている。今回少女があの店主と共に紡ぐ物語を、果たして自分は正しい方向へと導くことが出来るのだろうか。
 なにより。
 そう、なにより気掛かりなのは、明日香が自分たちの目の前に現るのかどうかだ。
 彼女は一度失敗している。
 そしておそらくは立野を追いかける自分とせりなの姿も認めた。
 そのうえで再び兄に近付くものを狙ったりするだろうか。
「立野さんと関わった女性だけが狙われているのだとしたら、手っ取り早い方法がひとつあるんだけど」
 調査員たちを前に、シュラインはすっと目を細めて口の端を上げる。
「賭けに出ましょう?」
「シュラインさん。まさか貴女――」
 せりながはっと顔を上げる。
「……ああ、なるほど……そういう手もありますね」
「思い切っていらっしゃいますわ……素敵です」
「ありがと。頑張るわ」 
「お願いします。アイツを、アイツを取り戻して下さい、助けてやって下さい!巻き込まれた彼女たちと一緒にアイツも救ってください。お願いします!」
 必死の懇願は悲痛な色を帯びて、調査員達に取り縋った。
 悲恋のままでこの物語を終わらせるわけにはいかない。
「立野さんにもお願いしたいことがあるんですが」
 シュラインの言葉で、空気に緊張の糸が張られる。
 そこから紡がれるのは、少女に与えられた能力を逆手にとっての作戦である。



 胸が痛い。胸が苦しい。兄の傍に集まり続ける女性の影。誰だろう。どうしてそこに居るのだろう。何をしようとしているのだろう。
 グラスボールの中に映し出される光景はどれもが心を乱すのに充分だった。
 怖い。
 とても怖い。
 未だに自分の兄に近付く存在が居ることが信じられないし許せない。
 ずっと好き。ずっと大事。私のもの。私だけのもの。渡さない。誰にも渡したくない。
「お兄ちゃんは渡さない」
 今までそうして来たように、明日香はグラスボールを手に、闇の中から一歩を踏み出した。
 罠かもしれない。
 また邪魔されるかもしれない。
 今度こそ、
 だがそんな危険など、兄を奪われる恐怖に比べればどうってことないのだ。
「渡さない。渡さない渡さない渡さない!お兄ちゃんは私だけのものなんだから!」
 悲痛な叫びがチカラとなる。
 切なる願いが突き動かす。
 黒髪のきれいな青い瞳の女が光の中に呑みこまれていく。
 悲鳴も、そして驚きもなく、反射的な防衛行動すら取らずに、グラスボールに吸い込まれてしまった。



 繁華街より少しだけ距離を置いた場所にひっそりと止められた黒塗りの車。そこでカーニンガムはみそのと共に水晶球を覗き見る。
「シュラインさんが……」
「はい。接触なさったようですわ」
 ひとりきりにならなければ少女は姿を現さない。
 消えた彼女たちの居場所を探るために単独で囮を申し出たシュライン。異変が起こればすぐ知れるようにと施していた監視の呪が、彼女の消失を告げている。
「店主様が明日香様に与えられたのは『人魚の涙』……シュライン様の居場所もまた、人魚の流す涙の中ですわ……」
「では成功ということで」
「わたくし達も参りましょうか」
「逃すわけには行きませんからね」
 闇に紛れ、一度は逃した少女を、今度は彼ら2人が追う。
 その手の中にあるのは、あの真珠色をしたグラスボールの欠片だ。
「この世に存在する全ての流れ……水であっても、物語であっても、留まることなく流動するのあれば、ソレは私の管轄でございますから」
 みそのの手が操るのは不可視の糸。
 彼女へと繋がる昏い流れ。
 ソレが次に留まる場所をみそのは読む。
 車は緩やかに発進した。



「ここは……」
 自分が引き摺りこまれたのはキレイなグラスボールの中。雪が降り、一面を白銀で染められたそこは、混沌とした狂気に満ちている。
 根底にあるのは、行き場のない愛に涙をこぼす少女の痛み。
 切なく繊細な歌声を遠くに聞きながら、シュラインはぐるりと見回す。
 カーニンガムには聞こえるだろうか。
 あるいはみそのの感覚が拾い上げるかもしれない。
 せりなならば気付くことも考えられる。
 発信機の代わりにとカーニンガムが持たせてくれた小瓶が無事であることを確かめると、耳をそばだて、じっと周囲を探っていく。
 この世界の在るかもしれない綻びを求めて。あるいは、どこかに繋がり、どこかに捕えられているかもしれない女性たちの居場所を確認するために。
 哀しい旋律に乗せて聞こえる、かすかな息遣い。規則正しいソレは眠りに落ちたヒトのもの。
 この世界は内側で繋がっているのだろうか。
 消えた彼女たちもこの白い世界のどこかで。
 降り続ける雪の中を、シュラインは懸命に歩き続ける。
 あまり長く閉じ込められていると、ここを満たす哀しみに押し潰されてしまうかもしれない。
 早く、早く見つけなければ。
 そしてあの子を止めなければ。



 行動開始の合図を受けたせりなは、ひとり、立野の自宅近くにぽかりと開いた児童公園で暗い空を見上げていた。
 もう間もなく、明日香はここへ来るだろう。
 そしてみその達もまた、ここにくる。
 自分の娘たちはどんなクリスマスを過ごしているだろう。夫は大人しく店の片付けてしているだろうか。帰ったらちゃんと一緒にお祝いが出来るといいのだけれど。
 そして、想いは少女へと流れていく。
 彼女の心。
「あの、藤井さん……」
 きゅっと土を踏みしめて、青年は暗がりからやってくる。
「立野さん?どうしてここへ?」
「窓から、藤井さんの姿が見えたもので……追いかけて、きました……」
 悲壮感さえ漂う憔悴しきった顔で、立野はゆっくりと近付いてくる。自宅で待機してもらうよう話したはずだ。何が起きるか分からない。彼女を刺激してしまうかもしれない。だからシュラインと二人きりの時間を作った後は、全てこちらに任せてくれるよう、そう告げたはずだ。
「妹が、アイツが、ここに来るんでしょう?」
 だとしたら自分にもまだ何か出来ることは残されているはずだと、彼は真摯に訴えかける。
 おそらく何を言っても彼はこの場を引かないだろう。
「………ねえ、立野さん?」
 せりなは溜息をつく代わりに、そっと問いを投げ掛ける。
「あ、はい。なんでしょう?」
「例えばの話……あの子をちゃんと叱って、そしてちゃんと受け止めることが貴方に出来るかしら?逃げずに、目を逸らさずに」
「……俺に、ですか?しますよ。するに決まってるじゃないですか。俺の大事な妹なんですよ?」
 どこまでも純粋に、妹を思い続ける兄の姿。
 せりなは考える。
 じっと考える。
 明日香が彼に求めているのは肉親の情ではありえない。
 それでも彼は、彼女を止めることが出来るのだろうか。
 公園の中心に立つ時計が、仄かな光を灯しながらゆっくりと深夜を指して進んでいく。
 後もう少し。
 後もう少しで彼女はここに―――
「どうして?まだ居るの?まだ、お兄ちゃんの傍に……あの人で終わりじゃなかったの?」
 暗い絶望と憎しみと悲哀の声が、せりなたちの背後からふつりとこぼされた。
「明日香!」
「明日香、さん」
 白いコートを纏った少女を呼ぶ声は、控えめなブレーキ音で掻き消される。
 続く足音。
 誰かがやってくる。
 車からこちらへと向かうふたつの影の正体を、せりなは知っている。
「ようやく、追いつきましたわ」
「まだ、間に合いますね?」
 みそのとカーニンガム、2人の登場に、明日香は更に混乱する。
「どうして邪魔をするの?どうして?どうして?どうして?」
 驚愕が震えとなって少女を動揺させる。
 彼女の瞳からこぼれた涙が手の中でグラスボールを形作っていく。
 淡い真珠の光を放ちながら、少しずつ少しずつ、大切な人を奪う女を閉じ込める為の牢を作っていく。
「さあ、殿方に活躍の場をお譲りいたしましょう」
 ゆったりと少女は微笑み、カーニンガムのために道をあける。
「レディをお守りするのが紳士の務めでもありますしね」
 しなやかな白い手がフッと闇を斬った。
「逃げていただいては困るんですよ……私達は貴女をその悲劇からお救いしたいのですから……」
 水がぐるりと渦を巻いて、少女のゆく手を阻む。
「きゃ!」
 足元をすくわれ、バランスを崩した明日香の身体を水がクッションとなって受け止める。
「は、離して――っ」
 もがき足掻く少女の前に、人魚達はその手を差し出す。
「さあ、もう、終わりにしましょう、明日香さん」
「明日香様……」
「離して!いや、いや、いや―――!」
 時間が迫る。
 早く早く早く。
 少女はありったけの声で懇願し、抵抗する。
 彼女が求めるその先には、立ち竦む兄と、そこに寄り添うせりなの姿があった。



 ソレはある種とても美しい幻想光景だった。
 シュラインの目の前にあるもの。
 東京では見ることのない一面の白い世界の中で、彼女たちはまるで樹氷のように静かに立ち尽くしたまま眠っている。
 記憶する失踪者たちの顔が美しい彼女たちに重なった。探していたものたちに間違いないだろう。
 このまま永遠に眠り続けるのか、それとも何がしかの力へと変えられてしまうのか、それとも消滅あるのみなのか。
 これから先に待ち受けるものを自分は知らない。
 けれど、為すべきことは分かっている。
「セレスティさん……」
 服の内ポケットから小瓶を取り出す。
「さあ、出してもらいましょう……ここから……そして悲劇を、止めなくちゃ……」
 深く息を吸い込み、そうして発せられるのは共鳴を引き起こす甲高い音。
 震わせて、砕く波動。
 カーニンガムがシュラインに持たせてくれた赤い液体は、物語を構成する人魚の血であったのかもしれない。
 重なる。
 声と声が血を介して重なり合う。
 そして。
 内側からのチカラに耐え切れず、呪を凝らしたはずの空間はあっけないほど簡単に砕け散った。
 同時にシュラインを包むのは不自然な引力と浮遊感。衝撃。意識が一瞬だけ吹き飛ばされる。



 真珠の光を放つガラスは、キラキラとまるでダイヤモンドダストのように舞い上がって降り注ぐ。
 ソレは夢の終わりをも告げる音。
 そして、それまで居なかったはずの人間が唐突に出現する。
「お帰りなさいまし、シュライン様」
「ご無事で何よりでした」
「お疲れさま……」
 雪に濡れたシュラインを抱きとめたのはせりなの細い腕だった。
 いまだ意識を取り戻していないけれど、消えた女性達もまたみそのが操る大気のクッションに守られて横たわっている。まるで羽毛布団のように優しくやわらかく彼女たちを包み込み、保護する。
「ウソ……なんで壊れちゃうの?どうして?どうして?どうして?」
「明日香!」
 狂おしいほどの悲鳴を聞きながら、立野は叫ぶ。
「もうやめてくれ、明日香!帰ろう?誰に唆されたかは知らないけど、でも、もう充分だろう?」
 頼むから。頼むから一緒に帰ろうと、兄の立場で彼は訴えかける。
 せりなの瞳に写るのは、哀しく揺らぐ情念の炎。
 届かない。永久に届かず、理解されず、おそらくは許してもらえない想いを抱いて、少女は苦しげにもがいている。
 まるで溺れるように。
 彼女が本当に望むものは、やはり立野には与えることは出来ないのだと、その確信だけが強くなっていく。
 少女は哀しげに首を横に振る。
「充分なんかじゃない……戻れるわけ、ない」
 そして、伸ばされた手を拒絶するのだ。
「誰の命令でもないわ。これは私自身が望んだコト……妹じゃなかったら『結婚』の契約だって交わせたのに……お兄ちゃんを理解できるのは私だけなのに、血が繋がってないってだけで、たまたま兄妹じゃなかったってだけでお兄ちゃんを独占する権利を持つなんて許せない。私だけのものなのに。私だけがお兄ちゃんの傍に居られるのに、誰よりもぜったいぜったい私の方がお兄ちゃんを愛してるのに」
 瞳から溢れ出た涙はガラスの粒になってカロンと音を立てながら地面に落ちていく。
「明日香……」
 思いがけない、女としての告白に、立野は動揺と戸惑いを隠せずに呆然と立ち尽くす。
 婚約者の存在――彼女を紹介してしまったことが『引き金』になったのだと、今ならばはっきりと分かる。
「明日香……明日香……気付いてやれなくてごめん……本当にゴメン……」
 けれど優しいその謝罪は彼女が求めるものではない。
「私は要らない存在になっちゃう……私はもう、どこにもいれなくなっちゃう……お兄ちゃんは私のものなのに、ずっとずっと好きだったのは私も同じなのに……どうして……どうして……」
 せりなの手から離れ、シュラインは微苦笑とともに溜息をこぼして少女に近付く。
「人魚姫と同じね……」
「え」
 水に呪縛された彼女の頬に伝う涙を、そっと人差し指で掬い上げた。
「けして叶わない恋……でも、それはとても大切な気持ちだとは思うわ……ずっとずっと大切にしていい気持ちだと思うわ」
 そうして、華奢な少女の身体を抱き寄せて髪を撫で付ける。
「明日香さん……」
 痛々しげに、カーニンガムは華奢な少女を見つめる。水の呪を解いた。彼女はもう逃げない気がした。
 そして、自分には彼女のために出来ることがまだ残っている。
 それをしても構わないか、彼女に問いかけようか。
「明日香さま」
 だが、思案する彼の横をすり抜けて、漆黒のツリーを模した深淵の巫子がシュラインに抱かれる少女の手を取る。
「記憶を、消すことも出来ますわ……お兄様からも、他の皆様からも、もちろん明日香様からも。何事もなかった時間まで巻き戻すことだってきっと出来ますわ。素敵な物語を紡いで下さったんですもの。わたくしからの『くりすます・ぷれぜんと』にさせてくださいな」
 普段ならばけしてしない。
 だが、クリスマスとは願いを叶える聖なる祭りだという。
 ならば、彼女が望むのならば、そういうカタチの終焉を迎えるのもまた良いと思えた。
「ありがとう……でも……でもやっぱり……」
「――――!?」
 不意に少女の背後から不定形の闇がぐにゃりと蠢き、シュラインとみそのから彼女を引き離す。
「明日香ちゃん!?」
「契約、だから……戻れないの……コレも人魚姫と同じね」
 少女の足元から這い上がり、白いコートにまとわりつき、そうして少しずつ彼女を侵食していく。
 それはまるで抱きしめようとする誰かの腕にも見えた。
「クリスマスまでに邪魔者を全部消して、お兄ちゃんに愛してもらって……そうじゃないと私は生まれ変われない………もしもダメだったら、その時は……お兄ちゃんを手に入れるの……」
 コレで、永遠を手にするの。
 そういって差し出されたのは、白く妖しいガラスの短剣。
「ねえ、手に入れるってお兄ちゃんを殺すことだったのかな……?だとしたら、初めから無理な話だよね」
 グラスボールという異界のチカラを手にする代償に、彼女は自身の『存在』を差し出した。
「人魚姫が王子様を殺せるわけ、ないじゃない……」
 涙をこぼして笑いながら、純然たる狂気と愛情の想いを抱いて彼女は選択する。
 シュライン達でも、兄でもなく、まして今の今まで閉じ込めてきた女性達でもなく、明日香は闇の向こうから伸びる白い手に身を任せた。
「明日香!やめろ!戻ってこい!行くな、明日香!明日香ぁ!!」
 悲鳴を上げて駆け寄ってくる、愛しい人の声。
 必死に伸ばされる腕。
 十数年間、ずっとずっと傍に居た存在。
 彼女は兄の叫ぶ声に応えるように閉じていた瞳をもう一度だけ開き、まっすぐに見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「ゴメンね、お兄ちゃん……ごめんね……」
 ただ彼の傍に居たかった。
 彼だけを見つめて居たかった。
 誰が誰にふさわしいとか、そんな話なんて聞きたくもなかった。
 でも今は、心から思える。
「幸せに…なって、ね……?」
 愛してるという言葉の代わりにそう呟いて、彼女は闇色の魔物に引きずり込まれ、闇の中へ消えていった。
 ソレは儚く消える泡のようにも見えて………
 いつのまにか降り始めた雪の中で、立野は妹の名を呼ぶ。
「……明日香……」 
 彼女の望みを頭の中で繰り返しながら、立野は地面に手をついたまま、ただひたすら呆然と視線を彷徨わせていた。
 変えられるはずだった運命。止めることが出来るはずだった選択。引き返す道もあったはずだ。
 自分に出来たこと。
 自分がしなくてはならなかったこと。
 妹を追い詰めたのは、自分だという事実。
「救えなかった……助けてやれなかった……俺は……俺は明日香を……」
 いまだ目を覚まさぬまま横たわる女性達を見つめ、立野はただひたすらに自身を責め続けた。
「立野さん……」
 カーニンガムがそっと不自由な足で跪く。
「すみません……私達は貴方の依頼を遂行することが出来ませんでした……本当に、申し訳ありません……」
 痛みに眉を寄せながら、謝罪を繰り返す。
「いえ。いえ……違うんです……皆さんのせいじゃない……悪いのはみんな俺なんです……俺があいつの気持ちに気付いてやれなかったから……」
 だからヒトリで行ってしまったのだ。
 せめて自分を道連れにすればいいものを、たったヒトリで、あの華奢な身体で、闇に飲まれてしまった。
「……不思議、ですよね……」
「はい?」
 嗚咽交じりのくぐもった声が、疑問を投げ掛ける。
「人魚姫に出てくる王子は、どうして隣国の姫君と結婚することが出来たんでしょう……あれほど強く想いを寄せられていながら、どうして……どうして……気付いた筈ですよね。彼女が消えたことに……」
 それでも何事もなかったように王子は幸せになれた。
 自分には出来そうにない。
 婚約者は戻ってきた。おそらくもう間もなく目覚めるだろう。だが、今までと同じように接することが出来るだろうか。妹のあんな激しい想いと最後の姿を見てしまった自分が日常に戻ることなどできるのか。
「王子様が幸せに暮らしたのはたぶん、それを人魚姫が望んだから、よ」
 せりながそっと立野の肩を叩く。
「報われない想いに涙を流しても愛する人を手に掛けることは出来なかった。それが彼女の優しさのカタチだったと思うわ……」
「明日香さまは選ばれたのですもの……それはきっと、たぶんきっと、とても素敵な気持ちなのですわ」
 みそのは無垢な笑みを浮かべて立野の手を取った。
 2人に支えられるようにして、ようやく彼は雪まみれになりつつも立ち上がる。
「あの子は……幸せだったのかもしれない……でもやっぱり、やりきれないわよね」
 熱情に浮かされ、激情に身を任せて、少女は十数年分の想いを伝え、笑って消えた。
 二度目だ。二度も自分はあの店主と対峙していながら、結局助けを求める少女を救うことが出来なかった。
 永遠の愛。永遠の夢。泡になって消えてゆく、優しく哀しく切ない物語が幕を下ろす。
「運命を変えることも、出来たのかもしれませんが……」
 彼女はそれを拒絶したから。
 カーニンガムは少女が残した涙の欠片を拾い上げ、そうして静かに弔いの言葉を紡ぐ。

 鐘が鳴る。
 24日から25日へと日付が変わり、2000年以上前の聖人の誕生を祝う鐘が何処からともなく鳴り響く。
 夢に喰われた少女は泡になって消えた。



 薄暗い店内。小さなツリーを飾るはずのグラスボールがひとつ、ことりと音を立ててサイドテーブルに転がった。
 白い手が愛おしそうにソレを持ち上げる。
 淡く儚く切なく光を洩らすそのガラスの中には、幸せな夢に浸る少女の魂が眠っていた。
 永遠の愛。永遠の夢。永遠の幸福。その身を代償に差し出してでも、得ようとした心が美しい輝きを添える。
「永遠の夢を貴女に……」
 穏やかに微笑む店主の視線はどこまでも優しく慈愛に満ちていた。



END

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1388/海原・みその(うなばら・みその)/女/13/深淵の巫子】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【3332/藤井・せりな(ふじい・せりな)/女/45/主婦】

【NPC/立野・寛(たての・ひろし)/男/25/会社員】
【NPC/夢喰(ゆめくい)/男/?/アンティーク・ショップ『獏』店主】

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■         ライター通信          ■
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 明けましておめでとうございます……とご挨拶してしまう時期に納品となって大変申し訳ありません。ほ、本当は『メリークリスマス』と書きたかったライターの高槻ひかるです(両手をついて反省)
 久しぶりにゲリラ開けした当依頼を見つけてご参加くださり、誠に有難うございます。
 さて、お詫びから始まった本年初納品にして18タイトル目の今回は、童話の中でも特に思い入れのある『人魚姫』を題材に、悲恋モノをご用意させていただきました。
 ラストについてはどうするか正直最後まで迷ったのですが、結局こちらを選択しました。
 繊細な雰囲気を保てるよう気をつけてはみたのですが、いかがでしたでしょうか?
 少しでも楽しんでいただければ幸いです。

<藤井せりなPL様
 ママさんでは2度目のご参加有難うございますv昨年は藤井一家には大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 今回せりな様はかなりの勢いでフォロー役に回って頂いております。何より心を覗くことの出来る能力によって、登場人物同士のすれ違いを第三者の目を通して表現することが出来ました。
 もしかするとせりな様は、みその様やセレスティ様とは違ったスタンスでこの物語の結末を覚悟されていたのかもしれません。
 帰ったら、パパさんとささやかなクリスマスパーティを開けますように。
 
 それではまた別の事件でお会い出来ますように。