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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


君、未だ吾が名を呼ぶ


一、声先の代

 和装の男は、いつの間にか草間興信所の隅にひっそりと佇んでいた。
 大方の依頼が片付いて、慌しく人の出入りが過ぎ、買い物に出掛けた妹が部屋を出れば、草間武彦と男は二人きりになった。そこで漸く、武彦が彼に気付いたのだ。
 目の下で切り揃えた黒艶の髪、後ろ髪はゆるくひとつに束ねて腰ほどまで達する長きに、結うた紐は紅く、飾りに鈴でもあるようで、武彦に歩み寄った男の後ろでチリリと響。年の頃は二十かその辺りの若さだが、それは琥珀色の肌に印象的な、大きな金眸のせいかもしれなかった。
「……誰だ?」
 武彦は訝しげに男を見遣る。
 本日扱った依頼の調査員でも、依頼人でもない。個人的な知り合いでもなかった。
 男はそんな武彦に目許を和らげて、微かに笑みを含む。
「初めまして、わたしはテンと申します」
 外見にそぐわぬ高い声音がそう名乗って辞儀した。
「こちらに或る調査を、お願いしたい」
「調査? ああ、依頼ですか」
 客と分かると途端敬語になるが、併し武彦は相手がソファーに落ち着く前に、その調査の内容を尋ねた。場合に依ってはソファーではなくドアを勧めねばならない。
「内容……ええとですね。わたしの住んでおります家が、この度取り壊されることになったのですが、そこでどうしても見付からないものがありまして、それをこちらで探して頂きたいのです」
 つまりは家の中で探し物をすれば良いだけと云うことか。武彦は安心して、テンと云う名の青年へソファーを勧めた。
 テンが坐ったところで、
「それで、その探して欲しいものとは?」
「声の主です」
「は?」
「はい、わたしの家には、夜な夜などこからともなく声が聴こえて参ります。その声の主をですね、探して欲しいと、そういう依頼です」
 武彦は早速テンをソファーから立たせてドアへ案内したくなった。そんな武彦の様子に、テンは頸を傾げて、着物の袂を何やらごそごそと探り出す。「お金なら、ちゃんと用意してありますから……」
「いや、料金とかそういう問題じゃなくてですね。うちはその、壁の貼り紙……って、あ? 剥がれてるじゃないか。ちょっと待って下さい、この貼り紙をご覧に――」
 貼り紙を直そうと武彦が立ち上がると、不意にチャリンと云う金属音が部屋に響いた。武彦が振り向けば、果たして応接テーブルの上に出された銅貨が三枚。十円玉が三つ。
 三十円也。
「これで、宜しくお願いします」
 テンは唖然とする武彦へ、晴れやかに笑い掛けた。


二、事務員の優越

「ごめんなさい、まだお湯が沸かなくて……」
 困ったように息を吐き、シュライン・エマは今火に掛けたばかりの薬缶を思い、給湯室を振り返った。客人へ茶を淹れようとしたがポットの中の湯も空だったのである。「武彦さん、気が利かないんだから」
「いいえ、それにわたしは熱いものは苦手なので、ぬるま湯ぐらいがちょうど良いのですよ。どうぞお気遣いなく」
「第一、俺はまだ受けてないぞ依頼。客じゃない」
 遠慮する声は依頼人テンの、続いた無遠慮な声は武彦のものである。
 数分前、草間零と共に興信所へ戻ってきた事務員は、テンから繰り返しとなる依頼の内容を聞いて、「そうですか」と返事をすると茶の準備をし始めたのだった。
「それに聞いたか依頼料? 三十円だぞ、三十円。さんじゅう――」
「聞いたわ。何度もね」
「せめてあとゼロが三つは必要だろ」
 それでも少ない。
 シュラインはお湯の方は零に任せて、テンへと諒解を取って三枚の十円玉を確認した。手に取り、蛍光灯の燈の下よく観察してみたが、不審な点は見付からない。現行の普通の十円玉である。刻まれた製造年も、それぞれ平成十五年、平成六年、昭和五十四年と、特別古いものではない。今シュライン自身の財布を検めても同じような年の十円玉が入っているだろう。
「テンさん、と云ったわね」
 十円玉をテンへ返し乍ら、シュラインは尋ねた。「この十円玉、どこで手に入れたものかしら?」
 テンは渡された十円玉を大事そうに袂へ戻す。
「どこで、と申しますと? これは、わたしの家からお持ちしたものですが?」
「テンさんの家と云うと、今回の依頼の――夜な夜な声が聴こえてくる?」
 はい、と頷いて、テンはシュラインと武彦とを交互に眺めた。「あの、それで……依頼は受けて頂けるのでしょうか?」
 武彦は横に、シュラインは縦に、頸を振った。

 間もなく沸いた薬缶の湯で淹れた茶と、昼間興信所を訪れた常連の調査員の残していったクッキーで、四人――シュライン、武彦、零、テンはテーブルを囲んだ。冬の夜、底冷えのする寒さに対抗するには、興信所の暖房器具は余りに貧弱だ。否、買ったのだ。ヒーターもストーブも電気カーペットも買い揃えてはあったのである。それらの精鋭部隊は併し、本格的な冬到来の前に次々と体調不良を訴え、現在は老兵のストーブだけが辛うじて細々と火を蓄えていると云う戦況である。
(やっぱり、此処を訪れる人たちの影響かしら……)
 思い浮かべる面々の殆どは「人」ではない。
 そんな事務員の苦悩を余処に、テンは漸く冷めた湯呑みを両手で包んで、にっこりしていた。テンの正面に坐る武彦の仏頂面とは見事に対照的である。見兼ねたシュラインが、武彦へコーヒークッキーを勧めた。
「ほら、武彦さん、そんな顔しないで。コーヒーも冷めるわよ?」
「……何で」
「え?」
「何で受けたんだよ、依頼。三十円だぞ? 怪奇だぞ?」
 恨めしげに壁を見る。「怪奇ノ類 禁止!!」と書かれていた筈の貼り紙は、其処には無い。剥がれて落ちたようだった。いつからなくなっていたのか、まったく気が付かなかった。そして壁を振り向くことを忘れるぐらいには、舞い込む依頼は怪奇のオンパレードなのである。依頼も怪奇なら依頼人自身も怪奇であったりするし、調査員も怪奇なご身分の者揃いであったりするのだから、怪奇要素の欠片もない依頼など、一体前にいつ受けただろうか。思い当たらなかった。
「――ねえ、武彦さん」
 外方を向いた武彦へ、シュラインのやわらかな声が掛けられる。
「……何だよ」
「一緒に行かない? この調査」
「調査って、テンの家にか?」
「そう。これから向かえば早速調査が始められると思うし……今日中に着ける場処よね?」
 シュラインの確認に、テンは家のある地名を告げた。電車を使えば二時間以内には辿り着けるだろう。
「ね、だから一緒に行きましょうよ。今日は他には用事もないんだし、お留守番は零ちゃんに任せて」
「はい、頑張ります。いってらっしゃい、兄さん」透かさず零も言った。
 肝心の武彦は、
「嫌だ」
 と言ったきり、むっつりとしている。
「どうしても嫌?」
「嫌」
 取り付く島ない武彦へ、シュラインは「そう」と応じると、
「じゃ、仕方ないわね」
 立ち上がった。
「私個人で受けてくるわ。――行きましょ、テンさん」
「はい、お願いします」
 弾んだテンの声に頷いて、シュラインは早速傍のスチール棚から懐中電灯や、普段調査に赴く際に携帯する諸々の品を小型のバッグに詰めた。その間、相変わらず外方を向いていた武彦だが、いつの間にやらその視線はシュラインを追っていた。
「おい」
「なあに? 武彦さん」
 武彦の呼び掛けに応え乍らも、シュラインは準備の手を休めなかった。
「テンと二人で行くのか?」
「ええ。この時間に他の調査員を集めるのも難しいし、報酬も一人当たり十五円未満になってしまうもの。……ちょっと着替えてくるから、待っていて」
 最後はテンに向け笑顔で言い置くと、シュラインは武彦の方を見向きもせずに隣室へ消えた。
 数分後に隣室から戻ってみれば、果たしてコートを着込み、車のキーを手にした武彦が口から煙草を放したところだった。シュラインが戻ったのを合図に灰皿へそれを押し付け、零とテンもソファーから腰を上げた。
「あら、武彦さん、行かないんじゃなかったの?」
 シュラインの口許に、意地悪な微笑が浮かぶ。
「ついでだ、ついで。煙草が切れたんで買いに出る、そのついで」
「買い置きなら、その棚に入ってるわ。それにすぐそこに自販機あるじゃない」
 本当に、嘘が吐けないひとなんだから。
 シュラインの指摘に、武彦はがしがしと頭を掻いて、言葉を探しているようだった。
「――怪奇依頼、嫌なんでしょ?」
 止めとも云えるその一言に、武彦は漸く折れた。
「俺も、行く」

 零に見送られ、興信所を出た三人は、武彦の運転する車でテンの家を目指した。
 車中、
「仲が宜しいのですね」
 テンの言葉に、面にさっと朱を走らせたのは武彦の方だった。


三、テンの説明

「夜な夜な、と先にお話ししました通り、声が聴こえて参りますのは、決まって夜――時間ですか? そうですね、子の刻か、それを越えました辺りが一番多いように思います。声が聴こえたと思ったら、家中探して歩いてみるのですが、何処でも同じような具合に聴こえます。わたし、耳は良い方なのですがねぇ……」

「その声はテンさんだけに聴こえてくるの?」
 車のドアを閉め乍ら、向かいから降りるテンへシュラインは訊いた。
 興信所を出て一時間余りの後、車は隣県の閑静な住宅街の外れに停まった。一昨日の融け残りの雪が道の端、陰となる処に薄汚れて僅か乍らも積もりをみせている。高級な住宅街と思われる建物の黒が少し離れた場処にぽつぽつと見え、周りに人工的にだろう植えられた木立が、ざわり、ごう、風音を誇張して寒々しさが増すような心持ちもする。露になっている手指に真白い息を吹き掛け、シュラインはテンの返答を聞いていた。
「いえ、わたし以外にも、聴こえた方はいらっしゃいます。そのせいもあって、取り壊しが早まってしまったのではないかと……」
「そういや云ってたな。取り壊されるって」
 武彦は取り出した煙草に火を点けた。紫煙のそれよりは、吐息の白色が闇の中はっきりと揺れている。
「取り壊しは、いつなの?」
 シュラインの問いに、テンは口を開く代わり、すいと腕を持ち上げ、前方を指した。車を停めた場処の斜め前に、古めかしい木造の門構え。その先の植木に垣間見える黒は、門に相応しい日本家屋と予想できた。
「……此処が、テンさんの家?」
「はい。門をよく、ご覧下さい」
 三人は門の前まで進み、武彦は門に何か貼り紙があるのを認めると、傍らのシュラインを振り向いた。シュラインは頷いて、手にした懐中電灯を其処へ当てる。貼り紙には、取り壊し日時と、物件の所有者の署名が記されていた。
「……市役所……?」
「取り壊しは明日から、か……それでうちの興信所へ来たのね?」
 頸を傾げる武彦を無視して、門を観察するシュラインはテンへの質問を続ける。門の造られた年代を思えば大分新しい鍵が取り付けられていた。
「どうしても、声の主を見付けたかったものですから。でもわたしだけでは、この家がなくなってしまう前に見付け出せそうにありません。――今日が、最後なんです。お願いします」
 幾分沈んだテンの声。シュラインの照らす光が、侵入できる場処を探して蛍火の如く周囲を舞う。
「分かってるわ。大切な声なんだと思うから、きちんと見付けてさしあげたいわよね」
 テンは嬉しそうに頷いた。
「……おい、俺にはソイツが市役所の職員には見えないぞ」
「私にも見えないわね」
「アレか? 差押えとか云うやつか?」
「違うと思うわ。……正面から入るのは難しそうね。テンさん、何処か他に入口はある?」
「裏口があります。鍵は其方にもありますが、扉自体が低くなっているので簡単に乗り越えられると思います」
「オッケ、其処から入りましょ。警報器や監視カメラの類は?」
「数日前にすべて取り外されました」
「じゃ、問題なしね」
「大アリだ」
 武彦が割り込んだ。「不法侵入だろ」
「家主さんなら此処に居るわ。あ、武彦さん、表で見張りお願いね」
「家主と家入るのに見張りって、前半と後半の台詞矛盾してるの気付いてるか? それにおまえだけで大丈夫か――」
 武彦は言ったが、失言だったと口を噤み視線を逸らした。
「……何かあったら携帯鳴らせ。車はエンジン切ってあるが、不審車とでも通報されたら移動しとく。その時は此方から連絡入れる」
「了解」
 短く応じ、シュラインはテンを先導に塀を折れて裏口へ廻る。
 背中に、武彦の呟きが聴こえた。
「降ってきた……」
 シュラインの前にも、ひらりと白が。


四、寒夜の邸

 シュラインとテンは、予定通りに裏口の扉を越えた。低い戸とは云え、シュラインが巧く把手の部分に足を掛けて、敷地内に着地すると、その身の蹌踉めきを支えたのはテンの腕だった。シュラインは一瞬不思議そうにテンを見たが、すぐに「ありがとう」と礼を言うと、燈した懐中電灯の明かりを、塀を越えてしまわぬよう注意し乍ら庭に走らせる。
 先程シュラインが裏口を越える際、テンはまだシュラインの後ろに、外側に、居た筈だった。

 家屋に入る前に、ぐるりを調べてみたが、特に気になる箇処はなかった。庭に入るのには戸を乗り越えたが、今度はどうするべきかと玄関の前に佇むと、不意にテンが
「少々お待ち下さい。今、開けて参ります」
 言ったかと思うと、庭先に姿を消し、暫くして内からカチリと開錠の音。カラリ戸が横に滑り、テンの顔が覗いた。
「――さ、どうぞ中へ」

 家の内部は、想像していた姿とは随分違っていた。否、建物自体は純日本家屋のそれで、忙しく行き来する光に照らされる柱の色などは磨き込まれて美しい。綺麗過ぎるほどである。
「……電気が数日前にその他と一緒に止められてしまったようで、暗いままで申し訳ありません。足許も、お寒いでしょう」
「いえ、大丈夫よ。それよりテンさん、此処は何に使われていたのかしら?」
 テンの云う足許は、廊下に敷かれた花色のカーペットのお蔭でそれほど苦にならない。併ししんとした冷気が区切りの少ない家の中を満たしていて、頬の辺り、歩く度に染みるようである。
 テンはひとつひとつの部屋を案内し乍ら、明らかに後から貼り敷かれたカーペットの上を進む。
「主がおりました時分は、そのままの『家』でした。このように見世物として整えられましたのは……恐らく、二十年ほど前のことになるかと」
「見世物……成程、この家は一般に公開されていたのね」
 それでこのカーペットか。
「はい。玄関の隣に小さな部屋がひとつありましたでしょう。彼処が受付となっていて、百円もの見学料を取っていました。皆さん、なかなかの旦那方」
 シュラインは小さく笑みを洩らす。三十円のことを思い出したのだ。
「うちへの依頼料は、どこから?」
 興信所でも同じ質問をされたが、話の流れから何か誤解をされたとでも思ったのだろう。テンは立ち止まると、頸を大きく左右に振った。髪飾りの鈴音が大きく弾む。
「盗みなどは致しません。この三十円は、わたしが家中を探し歩いた時に、偶然見付けて大事に取っておいたものです。受付でのやり取りは偶に見ておりましたから、財布の中にこの十円銭があったのを覚えています」
 推測するに、見学に訪れた客か、職員が落としたものを拾い集めたものだろう。十円玉の存在は知っていたが、いまいち貨幣価値には疎いらしい。
 すべての部屋を廻り終えると、シュラインはテンへ動かぬよう指示を出し、耳を澄ました。通常の物音と、「声」の区別を付けるため、この家に聴こえる音を記憶するのだ。聴覚に関して特異な能力を持つシュラインの聴く音は、常人の聞き取れる音域さえも軽く超える。
 僅かな隙間から入り込み、部屋々々を渡る風の音。玄関の方向に、紙の触れ合う音がある。職員の置いていったメモかカレンダーが隙間風に軽く浮く、そんな音だ。建物の内側に不審な音は、他にはない。聴こえるのは後は、自分の服の擦れる音に、心音。それだけ。内よりは外側から聴こえてくる音の方がずっと大きく多い。近くを通る車の音。これは武彦の車ではない。やけにゆっくりと走行している。雪が強くなってきたのだろうか。この家とは離れているが、住宅街の方から生活音も聴こえてくる。意識を近くに戻した。庭に、雪音がする。風は鋭く。まだ降り始めの筈だが、吹雪にでもなるのかもしれない。
「――今のところ、特に変わった音は聴こえないわね」
 集中を打ち切り、シュラインは息を吐いた。慣れてはいるが、普段は抑えてもいるこの聴覚で意識的に音を拾うのは、それなりの疲労を伴う。気遣わしげなテンの視線に、シュラインは笑顔で「大丈夫よ」と応えた。
「家の間取りなども理解したけど、具体的にどの場処で声を聴いたのか、教えてくれる?」
「ええと……その廊下の隅に、手前の部屋、玄関で聴いたこともありますし、主の書斎でも聴きました」
「すべて室内ね。外では一度も?」
「あ、あります。庭の松の木の下で一度」
 シュラインはそれぞれの聴こえた場処を頭の中の地図上に置いた。場処に共通点も法則性も見出せない。てんでばらばらである。
「聴こえる状況には何か決まりはあるのかしら? 例えば、二人以上で居ると聴こえないとか、喋っていると聴こえないとか。逆のパターンも考えられるわね」
 テンは否定した。
「わたし以外にも声は聴こえたと申しました通り、そういった、状況の変化は関係ないようです」
「テンさん以外に声を聴いたのは?」
「受付に居たお爺さんと、警備員です。何でも忘れ物をしたとかで夜にこの家に入った時、声を耳にしました。わたしも近くに居て聴きましたが、結局二人は空耳か、家の外を誰かが通ったのだろうと、云っていましたが……」
 警備員と聞いて、シュラインは監視カメラの存在を思い出す。知っていれば其方を調べられたが、もう時間はなかった。外に居る武彦に頼んでも難しいだろう。今夜中が勝負なのだ。
 生活感のすっかり失われた家の中を見廻して、シュラインは提案した。
「テンさん、この家の戸を、すべて開け放ってみるのはどうかしら?」
「戸、ですか?」
「ええ。襖や鎧戸をね。何処で聴こえるか分からないし、私の耳でなら声の発生場処が特定できるかもしれない。その時に障害となる仕切りはできるだけ少ない方がいいわ」
 声の主が、視覚で捉えられるものなら尚更。
 テンも同意し、二人で早速家中の戸を開けて廻る。外に面した扉は音を立てぬよう注意を払ったが、管理がしっかりなされていたようで、軋みもなくその心配は無用だった。家の敷地を囲む高めの塀や庭木も、外からの視線を遮ってくれていた。
 そうして、すべての戸を開け放ってしまうと、庭を一望できる部屋の畳に二人して坐り、直に吹き込む雪風を浴びていた。シュラインはコートの襟を合わせ、ポケットの携帯電話を確認する。午前一時二十分。丑刻。テンの話では最も声の聴こえる可能性の高い時刻だ。武彦からの連絡は来ていない。辺りは愈々静けさを増して、人気のない筈のこの家周辺から物音が聞こえたとあれば本気で通報されかねなかった。
 チリン、とテンの後ろで、鈴飾りが鳴った。風に浮いた音は、より澄んでいる。
「……寒く、ありませんか?」
 そう言うテンは薄着であるにも拘らず、まったく寒そうな素振りはない。
「寒いわ。寒いけど、今日が最後のチャンスなのだもの。数時間くらい頑張らなくちゃ」
 戯けた調子で答えて、シュラインは耳と共に視線を凝らし、庭を眺めていた。やはり強めの雪が薄ら積もり始めていて、南天燭の紅い実生る枝先が、白を纏い重みを感じさせている。
「草間さんも、寒くないでしょうか。さすがに、車の中にいらっしゃると思いますが」
「どうかしら」
 シュラインは武彦の車のエンジン音が聞こえないのを確かめて、微笑んだ。
「武彦さん、変なところで真面目と云うか、莫迦正直だから。前に興信所の大掃除をした時なんか、邪魔になるから外に出ていてって言ったら、本当に寒空の下で何時間も待ってたのよ」
 今も雪空の下、突っ立ってなければいいけど。
 言い添えると、テンも笑った。
「そういえば、テンさんはうちの興信所をどこで知ったの?」
「ああ、それは――」
 言い掛けたテンを、シュラインの眼差しと口に添えた人差し指が止めた。テンは咄嗟に口を噤み、金眸を周囲に迷わす。

 ――          。

 聴こえる。
 何を云っているのか、内容までは詳らかではない。
 併し明らかに常人の発する声の聞こえ方とは違い、ひどくノイズの多いラジオのようなくぐもりがある。
 シュラインは必死に耳を傾けた。シュラインの聴覚を以てしても、聞き取りは容易ではない。部分々々、単語が微かに意味を持つそれとして認識できる。そして語尾は、決まって語尾は、特定の人物への呼び掛けとなっている。
 やがて、途切れた。


五、雪の中

 声が聴こえていた時間は、恐らく七、八秒と短かった。シュラインは記憶の中の声を追い、何とか単語を繋ぎ合わせて文章にしてみようとするが、できたとしてそれはどうやら日常会話のようなものであると考えていた。曰く、庭の花が綺麗だとか、茶が旨いとか、そういったものである。
 テンに質すと、眉尻を下げて悲しそうに問い返された。
「他に、何か意味のあるようなことは言っていませんでしたか?」
 シュラインは凝っとテンを見詰め、口を開いた。併しその唇に乗せられた声色は、シュラインのものではない。
「『――なあ、テン』」
 年嵩の男性の声である。
 テンはその声に目を瞠り、呟き洩らす。「ああ、やはり……」
「知っているのね? この声の持ち主を」
 テンへの同意を促すこの声は、先程の「声」の主のものだ。男性の呟くような言葉の終わりに、必ず添えられた呼び掛け。――なあ、テン。
「わたしの……この家の主の声です」
 戸惑い気味のテンの答えで、シュラインはこの一件の真相の凡の予想がついた。
「それで、声は何処から? 主は何処に居られるのですか?」
 続くテンの問いにシュラインは即答できず、家の中をゆっくりと見渡した。声が聴こえる前と、何ら変わりない寒々しい家である。
「シュラインさん……?」
 テンの呼び声に、思案を続け乍ら問いを返す。
「その前に、テンさんの『正体』を教えてくれるかしら? そして、分かっているのなら声の聴こえる理由も」
「理由は、分かりません。だからその理由を知るために、声の主を――わたしの主を捜しているのです」
 テンは先に理由のことを説明し、シュラインの云う「正体」についても驚くことなく先を続けた。今までの行動からして、隠すつもりはなかったようだ。
「『正体』の方は、わたしのこの姿で分かりませんか?」
 黒髪、琥珀の肌、金眸。
 シュラインはテンに初めて逢った時点で常人ではないことを察していた。そして依頼料が三十円と聞いて、九十九神や何かの変化の可能性も考えていたのである。
 テンは後ろに結んだ髪を手に取り、鈴を示した。「本来は、頸に結んでいたものです」
「頸に鈴……猫、かしら」
「当たりです」
 ナァ、と一声啼いてみせる。確かに猫の啼き声だった。
「じゃあ、猫の……?」
「はい? ああ、そうです。化け猫と云うやつです。猫の化け物ですね」
「いえ、そうじゃなくて」
「何です?」
 頸を傾げるテンへ、シュラインはだが、言わなかった。質問を変える。
「テンさんは、この家に飼われていた猫と云うことね? そしてさっき聴こえた声は、その飼主の男性のもの、と」
「はい。シュラインさんが再現された主の声――あれは主の口癖のようなもので、奥様が亡くなられてからは、わたしだけが話し相手だとでも云うのか、獣の身のわたしに、色んなことをお聞かせ下さいました」
「著名な方なのかしら? お家が一般に公開されていると云うことは」
「さあ……何でも、こういったお家は珍しいとかで、役場に渡った後に、公開されることになったそうですが、その辺りはわたしにもよく……」
「飼主さんは、今は?」
「昭和三十二年の春に、亡くなられました」
 五十年近く前の話だ。
「その後、この家は?」
「二度ほど他人のものとなりまして、今はこの通り、市役所が管理者と云うことになっている筈です」
「その間も、テンさんはずっと此処に?」
「はい。――他に行く場処もございませんから」
 寂しげに話を括り、テンは改めてシュラインの青の眸を覗き込んだ。問うているのだ。
 主の「居場処」を。
 シュラインは先程のように家の中、それに外を、確かめるように眺め遣って、それからテンへ視線を戻した。雪は、止んでいなかった。
「さっきの声だけどね、確かにこの家から聴こえたわ」
「この家の、何処です」
「この家。そうとしか云えない」
 シュラインは立ち上がり、庭に面した室の柱、なめらかな飴色の表面を撫ぜた。
「場処が、特定できなかったと云うことですか?」
「そうじゃなくてね。この家自体から聴こえたの」
「この家自体?」
「そう。全体から、と云った方がいいかしら。だから特定の、飼主さんの幽霊の声と云うことではないと思うわ」
 シュラインは霊に関して特別な能力を持つわけではない。併し今まで数多のそういった依頼に触れてきたし、それなりの知識もある。
「多分、声はこの家に染み付いた、残留思念じゃないかしら」


六、君の名前

 残留思念。
 シュラインは声の聴こえ方、そしてその内容から、そう判じた。
「ちょっと云い方は違うかもしれないけど――私たちが聴いた声は、この家の主が存命中に実際に話した声なのだと思うわ。内容も日常のものだったようだし。その声をこの家が記憶していて、主が亡くなった後、聴こえるようになった……」
 推測の域を出ない。だが優れたシュラインの聴覚が捉えた声は、この家自体から聴こえてきたものであるのは間違いなかった。
「テンさん、声が聴こえ始めたのはいつ頃?」
「二ヶ月ほど前です。もっと早く聴こえていれば、より詳しく調べられたのかもしれません」
 肩を落とし、テンは深く溜息した。主は居ない。そして「声」に何か意味があったわけでもない。そう聞かされて、心底残念に思っているのだろう。
 シュラインの方は、今までに聞いた様々な事例を思い起こして、考えを巡らしていた。今テンから聞いた、声が聴こえ始めたのは二ヶ月前と云う事実が、何を示しているのか考えているのである。主が死んだのは五十年も前のこと。その後家は人手に渡り、これまで特に変化はなかった筈だ。取り壊しが決まったからか。否、それならば他の声が雑じっていても良いもの――。
「……わたしの名前」
 不意に、テンが呟いた。シュラインが振り向くと、庭を見据える横顔があった。
「テン、と云うのは主が付けてくれたものなんです。わたしは捨て猫で、道をふらふらと歩いていたところを、主に拾って頂いた……ちょうど、今日のような雪の降る日でした」
 静かな声が仄めき夜に通る。白雪にいっそう明るさ増して、開け放たれた戸の故に、室内乍ら夜の一部となっていた。
「辺り一面雪景色で、道は真ッ白だったと云います。其処に、わたしが居りました。――分かりますか? 白のなかに、黒がぽつりとあったんです。だからわたしの名前は『テン』なのだと、そう聞きました」
 テンの字は、「点」なのだ。
 シュラインは目許をやわらげて微笑んだ。テンの顔にも穏やかな表情が見えている。
「シュラインさん、今日は本当にありがとうございました。残念乍ら、主からの伝言の類のものではなかったようですが、家がなくなる前に、その事実を知れただけでも良かった」
 それでも些か名残惜しそうに庭に視線をさ迷わせてから、テンは立ち上がった。柱に靠れていたシュラインも身を離す。開けた戸をすべて元の通りに閉めていかねばならない。
「……明日からだったわね。取り壊し作業が始まるのは」
 言ってから、もう今日のことなのだと気付いた。
 テンは返事もせず、雪明かりの届く開けた室内を、再び区切ってゆく。ひとつ吐息を落としてから、シュラインもそれに倣おうと手前の襖に手を掛けて――止まった。

 聴こえる。

 シュラインの耳に、極微かな声が聴こえてきた。あの声だ。この家の主の声だ。テンを振り向いて、動きを止めるよう指示した。テンには聴こえていないようだったが、シュラインの様子にそれと知ったのだろう。たとい過去の声であってもいいと、同様に耳を澄ます。
 声は止まない。それどころか、大きくなっているようで、テンの耳にも聴こえ始めた。同時に、シュラインは或る変化を感じていた。家全体から聴こえていた声が、近付いてきている。徐々に収縮し、集約してきているのだ。声は、主は今やはっきりと、名を呼んでいる。

 ――テン。

 テンはびくりと身を震わせて、庭の方を惚けたように眺めたまま、立ち尽くしていた。
 居る、とシュラインは思った。テンには見えているようだが、その姿をシュラインは確認できない。それでも確かにこの場に居ると、感じていた。何より呼び声は、眼の前からしていると、聴覚が教えている。

 ――まだ此処に居たのか、テン。

 ひどくやさしい声だった。
 テンはそれを聴いて、はっとシュラインを振り向いた。恐らくこれは、過去の声ではない。この家の記憶していた声ではない。姿ではない。主自身の、「今」の声だ。家自体を憑代とした。憑代として、何をしに来た。何を伝えに来た。

 ――おいで。

 迎えに、来たのだ。
 テンを。
「シュラインさん、わたしは……」
 状況が上手く呑み込めていないテンは、戸惑いの眸をシュラインと主との間で行き来させていた。
「迷わないで」
 雪夜の静謐に、凜と張るシュラインの声が響く。
「テンさん、あなたは変化の者であるけれど、それ以前に、既にこの世のものではない」
 五十年もの永き間、主の居ないこの家を見守り続けていた。その役目も、今日で終わる。そして、主はだから、迎えに来たのだ。
 テンはもう、シュラインの方を見ていなかった。青年の姿も解けて、一匹の黒猫が其処には居た。そろそろと畳を進み、縁側に出て、ひらりと雪上に降り立つ。振り返った。
『ありがとうございました』
「いいえ。……最後にひとつだけ、教えてくれる?」
『何でしょう?』
「うちの興信所、どうやって知ったの?」

 雪の止む気配はない。
 次々と舞い落つ白片が、世界を満たしてゆく。
 庭先に降りた黒猫は、最後の言葉を交わし終えると、主の後を追い雪道を往き――点となって、消えた。
 チリン、と鈴の音ひとつ、残して。


七、深更の帰り路

 家中の戸を結局すべて一人で閉め終えて、シュラインはその家を後にした。玄関を出る際に、鍵が掛けられないことに気付いたが、仕方ないのでそのままにする。
「……あら」
 玄関の前には、十円玉が三つ、並べて置かれていた。

 車に戻ると、武彦は車の中で震えていた。シュラインがドアを開くと同時にエンジンを掛ける。シュラインはシートに坐り乍ら、小さく笑い声を上げた。
「……何だよ」
「車の外で待っているのかと思ったわ」
「俺を凍死させる気か」
 大掃除の一件は忘れているらしい。「それよりテンは?」
「テンさんなら、お迎えが来て、行くべき処へ行ったから大丈夫」
「は?」
「テンさんね、猫だったわ」
 武彦の反応を楽しむように教えた。案の定こういったことに敏感な男は、見る見る眉根を寄せてゆく。
「興信所に来た時点で、気付かなかった?」
「気付くかよ。外見もっと怪しい人間だって居るだろ。おまえは知ってたのか?」
「ええ。だって――」
 テンに逢った瞬間に、シュラインは彼が常人とは違う存在だと知った。「心音がなかったもの」
「……そんなこと分かるの、おまえぐらいだろ」
 漸く暖まった車をゆっくりと発進させる。シュラインは「そうね」と笑って応じ、
「そういえば武彦さん、テンさんはどこでうちの興信所を知ったと思う?」
「嫌な予感がする……」
「残念だけど、その予想は当たりだわ」
 テンの話に依れば、テンと同じような、つまり妖怪変化のものたちで、草間興信所の存在を知らぬ者は居ないと云う。あれだけ日々多種多様な人々の出入りがあれば当然の結果とも云えた。
「……帰ったら新しい貼り紙作るぞ。効果のありそうなやつな」
「はいはい。武彦さん、運転気を付けてね。雪道は慣れてないんだから」
「分かってる」
 シュラインはそして、ちらりと武彦の横顔を窺った。いつもの顔だ。このところ依頼が立て込んでいたから、怪奇依頼の同行とは云え、気分転換に外に連れ出したのは正解だったようだ。
「どうした?」
 視線に気付いたか、面を前方に据えたまま、武彦が問うた。
「……何でもないわ」
 穏やかに告げて、運転に集中する武彦のコートのポケットに、そっと一枚の硬貨を落とした。


 <了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

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■         ライター通信          ■
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お久し振りです。当依頼へのご参加ありがとうございました。ライターの香守桐月です。
お一人のみ募集の調査依頼ということで、プレイングを頂くまでどんな展開になるかドキドキだったこのお話ですが、聴覚のエキスパートであるシュラインさんの参加で調査も大分すんなりと行えたのではと。それにしても寒い中すみませんでした……しかしこの後に風邪をひくのは、やはり草間氏の方だと思います。
また、プレイングを拝見し、当初は同行予定のなかった草間氏との会話を入れたいと思い、このような流れとなりました。少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。
それではまたお逢いできる機会がありましたら、宜しくお願いします。
ありがとうございました。