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歌声と狂声
何処にでもある街の路地裏。
…の、筈だった。
ある日、辺り一面にぶちまけられたような血と、何者かに食い荒らされたような――肉片が見付かるまでは。
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…月刊アトラス編集部で耳にした話。件の『人食い』の正体を見付けた者に裏で五十万の賞金が出てる話よ、当然話題性もピカイチだし、誰か見付けて記事にしなさい、と編集長が編集員の尻を叩いている中――セレスティ・カーニンガムもその件について独自に調査を始めていた。別に五十万などと財閥総帥にとっては大した額でも無い金額が気になった訳では無い。どちらかと言うと編集部のお手伝いの延長だろう。それに事件自体が、知ってしまえば放っておいて気持ちの良い話でも無い訳で。
肉片は人間のものであるとすぐに知れている。熊か何か――猛獣が何処からか逃げ出し人を襲っているのではと当初は思われていた。そして事実、現場は飢えた猛獣が人間を食い散らかしたのでは無いか、とでも思わせるような惨状で。当局も研究家や獣医に猟友会等、動物の専門家の手を借りつつ、その線で動いていた。けれどその容疑者と思しき猛獣は見付からない。動物園やサーカスから逃げたと言う話も無かった。ならば山から下りてきたのか。ともあれ早い時点では容疑者は猛獣だったらしい。
ただ、被害者が食い散らかされているのは――何の意味があるのか、殆ど人気の無い、同じ路地裏でばかりで。その件と、被害者――獲物にとどめをさし、絶命させてから食べている訳では無さそうだ、と言う事にも専門家は首を傾げていた。
ひとまずはその路地裏への立ち入りを禁じるのが応急処置的な判断だろうとセレスティは思っていたが――さすがにやり切れるものでもなかったらしい。確かに事件が起きた局所的な場所は封鎖している。その路地裏にあるショットバーや風俗店も事件が起き始めてから閉めっぱなしになってはいるが――そもそも二番目の被害者は第一の現場保存に当たっていた警官――それも機動隊員だ。そうなると封鎖と言ってもあまり意味が無くなってくる。…なるべく路地裏には近付かないように、最後にはそんな間抜けな呼び掛けしかできない歯痒さ。パトロールも強化しているが…それでも物見高い野次馬が何処からともなく現れ、時にはそのまま何事も無く帰還し、時には新たな被害者となってしまっている。…そして猛獣は見付からない。
…そんな中、専門家の方から疑問の声が上がる。近隣で、糞尿や爪を砥いだ痕跡――即ち、猛獣らしきものが居る気配が、いつまで経っても見付けられない。猛獣の仕業では無いのでは無いか。そんな声が上がり始めていた。が――だとするとそれこそ、この事件はいったい何なんだ、と言う事になる。無論、人間で為せる事だとは誰も思わない。
糸口も掴めず、為す術も無いまま――暫く時が経っていた。
だが。
たったひとりの生存者が保護されてから――事情が変わった。
その生存者の男が保護されたのは夕暮れ時。今まで同様派手に血塗れで肉片の飛び散っている現場――そのすぐ側、店の植え込みの影にがたがたと震えながら縮こまっていたところを保護された。…余程の恐怖に晒されたのか、まともな精神状態には無かったようだが…それでもその証言が事件の見方を変えさせた。男は断片的な事しか話す事もできない。そんな様子だったが――根気よく聴取を続けた結果、『女』、『人の形をした化け物』、『笑い声』、『食った』――その四つだけは、どうやら見たままを話しているようだと判明した。…『人の形をした化け物が被害者を食った?』そうとでも推測できる内容。少なくとも、『猛獣』、などと言う言葉は一切出て来ていない。この証言ではむしろ当局が真っ先に否定した『人間の仕業』との説が改めて浮上する。けれどそうなると…手口からしてそれこそ、猟奇殺人どころか…証言にあった『化け物』の言葉の通り、怪奇現象の類になってしまう。どうにかしなければならない。けれど…お手上げだ。
そして相変わらず為す術が無いまま時が経ち、同じ路地裏でまた別の噂が流れ出す。酷く綺麗な声で歌う女。静かな、素朴な、それでいて沁み入るような、何処か物悲しい歌――けれど、その噂には『女』と付いている。『女』が歌っている。『女』…それは、たったひとりの生存者、彼が証言した『女』と関係があるのか。少なくとも場所は同じ、そして、噂になる――即ち、そのくらい目立つ奇行をその場所で取っている『女』が、少なくともそう思われる『何か』が居る。何かしらの関係があるのか。漸く出た手掛かり。当局もその線で動き出している。これは、賞金を狙うなら急いだ方がいい…。調査中に、そんな話まで飛び交っているのを見付けた。
…いつも思うがゴーストネットOFFに齎される情報は鋭いものが多い。警察の情報と思しきところまで突いている事も結構ある。無論、推測憶測の類も多いが…それもまた、無責任に書き散らすだけではなく、そんな考え方もあるだろうとセレスティをしても納得できるだけの書き方をしてある書き込みも少なくないのだから、ここが各方面から信用されている理由もわかる。
ただ、今回の場合は――直接事件を見た相手はさすがに居ないようで。噂や情報からの推理は相当深く繰り広げられているが、事件に関して直接の情報を持っている人物は、書き込まれている語感からして見当たらない。
掲示板の上、繰り広げられている推理。そんな推理の中のひとつに、『女』の唄う歌についての話もある。断片的な歌詞を聴いた者が居る。死を悼むような内容。聴いた当人も、鎮魂歌、そんな印象に思えたと言う。そしてその歌を聴いた者は――別に何があった訳でも無く、無事。…同じ歌を聴いたものは案外たくさん居た。どうやら肝試しにしろ興味にしろとにかく現場へと赴き、無事帰還した者は皆聴いているらしい。そんな事実までわかった。だからこその噂か。…けれど『人食い』の噂も消えていない。さすがに野次馬も学習したのか少しは被害に合う数も減ったようだが――時々は被害者が出ている。これらふたつの噂が同時進行。
…また、どうやらこの『歌』が聴こえる時には『人食い』は出ていないのではないか、そんな風に推理をしている人も居た。だから『歌』の噂が広まった。酷く綺麗な声。聴かなかった――聴けなかった者が『人食い』に食われているのではないか? そんな風にも書かれていたが――そこは、食われた者に今になって訊く事は叶わない以上、言い切れる事でもない。だが、状況から察するに、歌声に魅せられ囚われる…と言う事では無さそうで。
…それから、その路地裏では何故か携帯電話も繋がらなかった、と言う情報もあった。何故か、そこに入るなり唐突に圏外になっているらしい。何か電波を遮る物でもあるのか。
…そこまで調べ、経過を確かめてからセレスティは静かに息を吐く。
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赤黒い血の痕。…封鎖は確かに意味が無くなっている。セレスティは別に超法規的な根回しをした訳ではない。なのに現場に来る事が出来ている。まだ消えていない血の痕まで確認が出来る。…それは確かに、警察とて命は惜しいだろうが、それにしても他にやりようはないものか。簡単に侵入出来過ぎる。
…黒服を数名引き連れたセレスティは現場へと赴いていた。机の上で調べられるだけ調べた後、やはり直接見ないとどうしようもないだろうと言う結論に辿り着き。だが、これ程簡単だとは思わなかった。当局はそこまで捨てているのか。これではいつ誰が来て――誰が被害に遭ってもおかしくない。
と。
思った――その時。
セレスティの耳に、歌が聴こえた。
これが件の噂の歌か。思いながらセレスティは源を探す。何事ですか、黒服の訊ねて来る声。聴こえませんか? とセレスティは問い返し耳を済ますよう耳に片手を添えて見せた。そこは感覚の鋭いセレスティか、黒服たちより先に『歌』に気付いている。セレスティが言い出して初めて、黒服たちも歌に気が付いた。澄み切った酷く美しい声。その声が紡ぐ何処か物悲しい歌。…確かに鎮魂の歌だろう。そう思える。
歌が止まった。
その、止まった場所は近い。あそこに、と黒服の声。黒服の指す方向に驚いたような顔の少女が立ち止まっていた。黒髪で、小柄な――目立たない印象の。
「何をしているんですか、こんなところで」
目を見張り、何処か茫然と少女は問う。…歌声の主。その声だった。
「君こそ…こんなところで何をしていらっしゃるんです?」
ここは『人食い』が出ると噂の場所でしょう? 危険を承知で、ここに居るんですか?
それとも、君がその『人食い』ですか? …そうならば、危険は無い筈ですからね。
…セレスティの直球な揺さ振りに、少女はきょとんと目を瞬かせる。
「私…は、食べられた人たちの為に…歌っていただけです」
酷い目に遭ったから。かわいそうだから。痛かっただろうから。
せめて、安らかに眠って欲しいから。
少女は口篭りながらそう告げ、伏し目がちになる。セレスティを見ないようにしているようで。なにか疚しいところがあるのか。一瞬、そうも思ったが、違うとすぐにわかった。この少女は――自分の容姿にコンプレックスを抱いている。…私の姿は、そのコンプレックスを刺激してしまうものなのかも知れない。けれど、この彼女は――『人食い』の件を探るには、避けて通れない相手だろう。今ここで、はいさようならと言う訳にも行かない。
「君は、その、噂の『人食い』を見た事があるんですか? それとも…何らかの形で知っている、と?」
「…貴方は?」
「私は、セレスティ・カーニンガムと申します。今回の件について調査している者なのですが」
「…調査」
「ええ」
「…じゃあ、止めさせてくれるの!?」
あの、『人食い』を。
少女は希望でも見つけたようにぱっと顔を輝かせ、セレスティへと駆け寄って来る。が――そこでもまたセレスティの顔を計らずも直視してしまったか、弾かれるように俯いてしまった。
「あ、…ご、ごめんなさい…」
「いえ。構いませんが。それより…ひとまず、君のお名前も伺って宜しいですか?」
名前を知らないこのままではお呼びしようがないですし、とセレスティ。その言葉にその少女はまた慌て、ごめんなさいと小さくなる。まあまあと宥めるが、それでも恐縮しっぱなし。
そんな中、改めてぽつりと綺麗な声が呟く。
私は、アリス、と言います。…少女は――そう名乗った。
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アリス。今時では日本人でもそんな名前を付けられる事は無くもない。偽名か愛称か戸籍上の本名か――そこは不明だが彼女自身がそう名乗った以上、それでいい。特に詮索するつもりも無い。もし万が一、何かある相手だと思ったら、その時は幾らでも調べようはある。
そもそも――今、アリスの住まいだと言う木造の安アパートの部屋にまで上がり込んでしまっているのだから。セレスティにとってはその時点で信用できる調査材料はある事になる。
あの場所では落ち着いて話も出来ない。いつ『人食い』が出るか知れないと噂のある場所で、のほほん話し込む気には当然なれない。少女の方でもそれを察したか、だったら――近くですから、ひとまずうちに来ますか、とセレスティたちを誘っていた。何にも無い…本当に何にも無いところですけど、ここで話しているよりはまだましだと思いますから、そう言って。
…その部屋には、部屋の主の言葉通り何も無かった。
何も無い、その言葉は謙遜でも何でもなくただ事実を言っていたのだと知ったのは部屋を見てから。本当は空き部屋ではないか、そう疑いたくなるくらい生活感のない部屋。ただ…無造作に置いてある古びたラジオだけが、『人間』の気配を感じさせた。打ち捨てられたものではなく今もなお人に使われている道具。この部屋の中では唯一、その物体からだけ感じられる、生活感。
ここに来て、この彼女から得られた情報は――殆ど事前にセレスティが得ていた情報と大差無かった。ただ、彼女が歌い始めた時期を確定させられたのは収穫と言えば収穫か。『歌声』の噂。そちらの源は確かめられたと言う事なのだから。…後は『人食い』の噂。ふたつの噂に関係があるとは言っても、『歌声』の方は『人食い』の犠牲者を悼んで、と言う関係ならば、調査しても何も出ないだろう。
気を付けて下さいね。色々と話をしてから、最後にそう告げてセレスティたちを送り出すアリス。今度は自分はそのまま部屋に残るようだった。
…何処か印象に残る少女。ただ――彼女と別れた後も何故か、胸騒ぎめいたものがセレスティの中に残った。
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少女のアパートを後にし、再び路地裏に戻る。ショットバーや風俗店の店員については予め――現在の所在を確かめた上で黒服を向かわせ、ある程度の聴き込みをしていたのだが――彼らですら見ているのは壁一面に飛び散った血に浮かぶ肉片のみで役立ちそうな情報は何も無かった。
この路地裏に入るたびに何処か異界にでも迷い込んだような印象を受けるのは気のせいか。ほんの微かな違和感。そして――今戻って来て、この場所に明らかな異変が起きている事にセレスティも黒服たちも気付いていた。
…鼻を突く強烈な血と汚物の臭い。
それだけで何が為されたかわかる状況。黒服たちはセレスティを庇うようにしながら周辺を窺う。セレスティは目を閉じ感覚を研ぎ澄ました。念の為持参していた水筒――中身は無論水が満たしてある――の口を開けながら。…少女と共にここを離れた僅かな間に『人食い』がこの場に現れた。まだ近くに居る可能性は否定できない。そして――事実、まだ自分たち以外の人の気配がある。否、人の気配か? 判別し難いような気配も複数あった。ひとりでは無い? 複数犯?
ぺちゃりペちゃりと舐めるような音と、耳を塞ぎたくなるような咀嚼音。
それが消えた――思った時には、少し離れた場所に銀髪の『女』が立っていた。黒服の背から僅かながら動揺する気配が窺える。…セレスティの下には大抵の事では動揺するような柔な部下は居ない。となると大抵の事では無いと言う事で。
…立っている『女』は裸体だった。グラマーな肢体を惜しげも無く晒し、隠そうともしないままでいる。銀髪の合間から覗く瞳には狂気の色。赤く塗れた口許は弧を描いている――笑っている。
彼女に従うように数十の気配。ただ…そちらは人間とは到底言えないような連中だった。まるで影。人型の粘土細工とでも言おうか、そんな不格好な影人間がぞろりと立っていた。
唐突に『女』が頭を仰け反らせ狂ったような笑い声を上げる。意味を為さぬその声は場に不釣合いなくらい澄みきって美しく。ただ――悠長に聴いてもいられない。その笑い声がまるで合図のように、影人間たちがセレスティらに襲い掛かってきたのだから。即座に対応する黒服。能力者ではなく唯人だとは言え、その立場に見合った程度の護身・警護の術は心得ている者たち。それは普通の人間を相手にするのとは勝手が違うだろうが――その黒服たちの手でひとりひとり影人間の身体は翻され、倒されている。セレスティの方でも彼らが駄目なら私が――と水筒を持ち用意してはいたが、どうやら影人間の方は超常の力を持つ訳では無いらしい。危なげない部下の姿にひとまず安堵し、大人しくそちらは彼らに任せる事にして――セレスティは改めて『女』の様子を窺った。この様子では『人食い』当人は女の方だろう。先手必勝――思い、セレスティは自分はそちらを、と判断する。口許と両手の血。何も持たないただの女の膂力で為せる筈の無い仕業。水筒に満たしておいた水を使用し、セレスティは容赦無く女の心臓を狙う――が、そのタイミングで仰け反っていた頭がかくりと人形のように元に戻った。途端、いつ動いたのか『女』はセレスティへと肉薄している。凄まじい速度。思ったそこで『女』はセレスティの身体を横薙ぎに薙ぎ払っていた。車椅子から叩き落とされる。けれど次はやらせない。完全に透かされたながらも先に攻撃を仕掛けていた水の針を数本、『女』の背後から突き刺した。甲高い叫び声。水の技は目の前の男の仕業。ヒステリックな動きで『女』は腕を振り上げ、セレスティへと振り下ろそうとする。この事件の凶器であるだろうその爪。逃げ場は無い。咄嗟にセレスティは目の前の『女』の血流を止めようとした。
それが間に合ったのか、『女』の動きが止まる――鈍くなる。腕が振り下ろせない。動こうとしているのに動けないような震え。銀髪の『女』、その髪の間から覗く顔――その顔は。
…『人食い』を、やめさせて。
そう願った少女の――アリスのものとまったく同じもので。
唐突に胸騒ぎめいたものの理由がわかる。腑に落ちる。美しい声。あの少女とこの女は同一人物。どちらもアリス。何故こんな事をする? 自分では止められないのだろうか。
セレスティの前でアリスの――少女の顔が歪む。それに呼応して鈍くなっていた動きが少し戻る。動きを止めたのは私の力では無かったのだなとセレスティは思う。…先程話した少女が『人食い』の女を止めていた。
やめさせて。
声が響く。…幻聴だったのかもしれない。わからない。それでもこの『人食い』を止めさせる事が歌う少女の願い。じっくりと考える猶予が無い。願いを叶えるか、否か。今しか無い。セレスティは意を決し、針と化させた水を改めて手許に戻し鋭い切れ味――力が弱くとも人の首くらい易々切り落とせる程の――を持つ刃に変えた。
………………そして。
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…歌う少女の願いを叶えたセレスティは、暫く経ってから…月刊アトラス編集部に顔を出す。そろそろ路地裏の『歌声』の噂も『人食い』の噂も消えかかっている時期。歌う少女の事、『人食い』の女の事。心と情報を整理するのに随分掛かってしまった。今更では意味が無いでしょうか、と苦笑しつつ、幾らか纏めた『人食い』の件のレポートを渡しに行くと、いえいえ消えかけたところに再燃させるのもまた一興ですからね? と艶やかな編集長の声が返って来る。…怪奇雑誌の編集長は強かだ。
実際、この場所に――雑誌社に、彼女についての情報を纏めて渡すのはセレスティには少し躊躇われた。が、碇麗香はその辺りは弁えている人物だ。そう思って当初の予定通り編集部のお手伝いがてらレポートを纏める事にした。…『人食い』を悲しみ、止めたがって歌う少女が居た。その事実は変わらないのだから。
ただ、それでも残っている謎がある。
あの少女――アリスは何者だったのか。
…結局のところ、そこがわからない。
【了】
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