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<東京怪談ウェブゲーム 神聖都学園>


巻き戻し

 もしも過去へ戻れる階段があるなら、どこまで降りていくだろう。
 私立神聖都学園にはその「もしも」があった。中学校校舎の裏側にある二階建ての用具倉庫、外壁に取りつけられている金属製の回り階段を下りていくと、戻りたいと願った時間へさかのぼれるらしい。

 一番に願ったのは、弟のことだった。今、時間をさかのぼることで弟の命が救えるのなら、なにを引き換えにしても構わない。本当に時間が戻るのなら、弟の死んだ時へ戻り、その命を救いたかった。
 けれど命を救いたいと願うのと同じ分だけ、世界にどんな奇跡が起ころうとも人の命だけはどうにもならないのだということも、瀬戸口春香にはよくわかっていた。命を救いたい、けれど救えない。絡み合う心が、時間の巻き戻しを惑わせた。春香は階段の上で目眩を起こし、瞼を強く閉じた。
 頭の中をつむじ風が荒らしていったような感覚はどうにか治まり、目を開いてみると、春香はなぜか自分の部屋にいた。しかし今住んでいる屋敷の中の部屋ではない。自分が逃げ出した、古い部屋の中だった。
 春香は愛用の椅子に深く体を沈め、うなだれていた。少し視線を上げると、いつも傍にいるメイドの少女の細い足が見えた。彼女は、涙を流していた。
「なにを泣いているんだい」
と訊ねようとして春香は、自分が彼女を言葉で傷つけたことを思い出した。そこで、ますます椅子から立ち上がれなくなってしまった。彼女を傷つけてしまったという自己嫌悪が、春香の全身を椅子へ強く押しつけていた。
 かつて、春香は彼女よりも打ちのめされていた。弟が死んだのは自分のせいだったから、あのときは別の理由で自己嫌悪が体の中をうねっていた。のた打ち回るような苦い痛み、全く、この世に自分より不幸な者はいないと思い込むには充分だった。自分には打ちのめされる権利があるのだと言わんばかりだった。彼女は、弟を失い打ちひしがれている春香をなぐさめようとしてくれたのに、春香はそれに鋭い棘を以って返してしまったのだ。
 自暴自棄は春香本人だけではなく、周囲をも傷つける。当時の記憶を思い出すだけでも春香には辛いのに、覚えていないときでは一体、彼女にどんな言葉をぶつけていたのだろう。

「ああ、春香さま」
しかしメイドは、春香が我に返ったことに気づくと、慌てて涙を拭いなんでもなかったように取り繕った。泣きはらした目は隠せないのに、気勢を張っている。
「……すまない」
俯いたまま春香はつぶやく。傷つけた彼女の顔をまともに見ることはできなかった。するとメイドは、春香に顔を見られていないと思い込み、声だけは元気なふりを装った。
「春香さまがお気になさることではありません。私はぜんぜん気にしてませんわ」
彼女は自分で気づいていない。自分が嘘をつくとき、しきりに指先でエプロンをいじる癖があるということを。それは、俯いている春香からでもはっきりとわかった。彼女は自分で想像している以上にずっと、嘘が下手だった。
 それに、涙を必死で堪えているせいか、彼女の声が震えている。
「泣きたいのはこっちだ」
思わず、春香は呟いていた。すると彼女はびくりと肩をすくめ、そのまま黙り込んでしまった。苦い沈黙が流れた。
 以前と同じことをそのままなぞっていた。彼女を傷つけたこともそうだ。彼女に謝ったこともそうだ。そして彼女の嘘を見抜いてしまったこともそうだ。ただ一つだけ違っているのは春香に、今の自分自身を傍観する余裕が生まれているということだった。ボードゲームを第三者的立場から、高みで見下ろすかのごとく、昔の春香と彼女を見つめている現在の春香がいた。
 若かった二人は、互いの手の平に傷つけてはならない、それなのにひび割れてしまっている宝石を握っているように見えた。赤い宝石は鋭利に切断されており、断面からは血があふれ出している。その血は春香のものでもあるし、彼女のものでもあるし、また弟のものでもあった。宝石の涙は血の色をしているのだ。

 春香の握っている宝石は、彼女の心だった。そして彼女の捧げている宝石が、春香の心だった。以前の春香はそれに気づかず、胸の痛みを覚えるたびに何度も手の平を握り締め、脆い宝石を傷めつけていた。それなのに彼女の宝石には、曇り一つ見当たらない。彼女は宝石を大切に守り続けていた。
 春香が彼女を傷つけたのは、一度きりではない。近頃はようやく平生を取り戻したが、以前はなにかにつれ死を望み、己の存在を無価値と思い込んでいた。必死に励まそうとする彼女にも、鋭く当たった。
 それなのに彼女は決して春香の元を去らず、こんなにも尽くしてくれていた。
「俺は、お前に辛い思いばかり与えている」
健気な彼女の献身に、自分はなんと答えればいいのだろう。
「春香さま?」
いつだって彼女は無表情な春香の眼差しの変化、眉の辺りに漂う憂いを細かに見極める。どこかお加減でも悪くされましたか、という過ぎた心配性が玉に瑕だ。
「俺のことを心配するより、お前は大丈夫かい」
「え?」
「……」
こういうときに限って言葉が出てこない。なんのために言葉を操っているのだと、自分の生業を責める。
「俺は、お前に……その、言わなくてはならないことがある……しかし……」
言葉が出てこないのは、気恥ずかしいせいだった。自分の告白をわかってもらいたいけれど、完璧にわかってもらうのはたまらなく恥ずかしいので、自然に言葉が鈍るのである。
「……お前がいてくれるから、俺はここにいられる」
すまない。春香は謝罪とも、感謝とも呼べる言葉を呟いた。
 果たして彼女は、どちらの意味で春香の言葉を聞いたのだろう。はっきりとはしないまま、彼女はまた泣き出してしまった。ああ、どんなにしても泣かせてしまうのだなと春香は彼女を慰めるために深くもたれていた椅子から立ち上がろうとした。
 瞬間、床に敷かれた絨毯が、複雑な模様にあわせてさざなみを起こしたかのごとく揺らいだ。

 足元を掬われたように、春香は体制を崩した。いけない、これは錯覚だ。春香はその場にしゃがみこむと両手で顔を覆い、ゆっくりと数を数えはじめた。一から十まで唱えて、それからゆっくり瞼を開くと、春香は神聖都学園の用具倉庫の前にいた。
「……元の時間へ、飛ばされたのか」
目眩や立ちくらみは、時空が歪んだのが原因らしい。恐らく時間の流れが変わる感覚は、春香の体質に合わないのだろう。
 鼓膜の底に残る耳鳴りが治まるまで用具倉庫の下でしゃがみこんでいたら、メイド服の上にコートを羽織った彼女が春香を迎えに来た。めったに屋敷から出ない春香が突然姿を消したので、心配してあちこちを探し回ったようである。
「こんなところにいらっしゃったのですか」
風邪をひかれては大変ですと薄着の春香をいたわって、自分のコートを脱いで着せようとする。本当に、彼女は心配性なのだ。
「大丈夫だよ。早く帰ろう」
「はい」
春香の言葉に従う彼女は、時間をさかのぼる前と今と変わらない。白い息を吐く穏やかな笑顔を見ていると、自分が行ったことに意味はあったのかどうか不安になる。春香自身の心は楽になったが、彼女の心はどうなのだろう。
「なあ」
春香は、彼女の名前を呼んだ。
「あのときの言葉を、覚えているかい?」
「……いつの言葉でしょうか」
申し訳ございませんと彼女は謝った。しかし、彼女の指先はコートの裾からはみ出したエプロンを気づかないうちにいじっていた。

 手の平の中にある宝石がきらめいたようで、春香は微笑んだ。同時に、今まで以上に彼女へ対し優しい気持ちを抱ける自分がいることにも気づいた。
「寒くなってきたから、帰ろうか」
「は、はい」
質問を重ねられたらどう答えようかと恐れていた彼女は、嬉しそうに顔を上げた。頬から耳まで真っ赤になっていた。寒そうにコートの前をかきあわせながら、早足で歩く春香の後を追いかける。
 彼女のほうを決して振り返らずに、春香は想像する。恐らく、彼女は主人である春香から感謝されたということを思い出すのが恥ずかしいのだ。辛い記憶よりもよっぽど、思い出したくないらしい。不意に優しい言葉をかけられると、嬉しくて涙が出てきてしまう。その涙から、春香へ対する感情が溢れてしまわないかどうか心配でたまらないのだ。
 彼女の本心を知る春香には、そんな彼女の気持ちも察するものがあった。だから、気づきながら気づかないふりをした。
「声に出すのは一度だけ」
それだけで、彼女は決して忘れない。そして彼女が忘れずにいてくれる限り、春香の心にもなにか、救いのようなものが湧きあがるのだった。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

3968/ 瀬戸口春香/男性/19歳/小説家兼能力者専門暗殺者

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■         ライター通信          ■
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明神公平と申します。
本来「巻き戻し」の意味は過去にさかのぼることで
自分が変わるという物語なのですが、今回は
相手の気持ちを変えて、その後の相手の反応によって
自分の心が暖かくなる、そんな話になったような
気がします。
辛い思い出や恋心というのは感覚が微妙で、
春香さまの記憶とずれたところがなければいいのですが、
と心配しております。
またご縁がありましたらよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。