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<東京怪談ノベル(シングル)>


君へ捧ぐ音楽


 冷え切った空気が重くのしかかるステージの中央に、スタインウェイのコンサートピアノがひっそりと佇んでいる。照明は必要最小限に絞られ、辛うじて楽譜を読み取れるかというところだ。
 ホール内に人の姿はない。――ピアノの弾き手である天音神を除いて。
 天音神は椅子を引いて腰を降ろすと、十本の指を、そっと鍵盤に添えた。最初の一音が弾かれると同時、ホールを支配していた冷たい空気が何か別のものに変化する。
 それを、彼は感じ取ろうとした。
 ミスのない堅実な音だけでは駄目だ。美しく技巧的な演奏など、練習を重ねさえすれば誰でもできる。彼が目指すのはもっと高次のもの。崇高で難解な音を求めているのではない。彼が求めているのは、聴く者に安らぎを与える音だ。あるいは闇を払拭し、悲しみに打ち克つことのできる音。
(そんな音がどこにある?)
 自身の演奏の音色に耳を澄ませる。
(どうやったらその音を創ることができる?)
 五感を駆使しても、音に宿った魂を知覚することはできない。決して易しい作業ではなかった。易しい作業ではないが、少なくとも、自分は生きていると実感することができる。俺は生きて、俺の想いをこのピアノに託そうとしている……。
 プログラムの曲を弾き終え、神は手を休める。どっと疲労を感じ、倒したままの譜面台に伏せた。
「疲れた……」
 焦点の合わない目にぼんやりと映るのは、譜面台の横に放り出された楽譜。曲目は、明日のコンサートで演奏する予定の『天は御神の栄光を語り』。ハイドンのオラトリオ作品『天地創造』の中で合唱団によって歌われる曲だ。ピアノ独奏用にアレンジされている。
 人前で弾くのには慣れていたが、明日のコンサートには多少の不安があった。何しろクラスメートと大喧嘩した後なのだから。
 さんざん言い争った挙句に自分の主張を押し通した以上、それに見合う演奏をしなければならない。単に「上手い」以上の演奏。観客の心に染み渡る演奏を、だ。だいたい、客がいない舞台上でシミュレーションをすることに無理があるのであって……。
「疲れた」
 再度つぶやく。譜面台から起き上がり、両腕を伸ばした。凝り固まった筋肉を解す。
 ピアノを弾くのは好きだ。音楽なしでは生きられないと思っている。それでもやはり、精神的、肉体的な疲労は蓄積される。明日の本番のためにもそろそろ帰ったほうが良いかもしれない。
 舞台袖から楽屋へ戻ろうと楽譜を手に立ち上がる。
 神はふと、足を止めた。
 無人のホールを見渡す。目を閉じて、客席が観衆で埋まっている様子を想像する。緊張に鼓動が早くなった。神にしては珍しいことだった。やはり、クラスメートとの喧嘩を少々引き摺っているようだ。
 大丈夫。大丈夫だ。
 黙して神の演奏に聴き入る観衆の代わりに、大切な人の姿を思い浮かべた。それから、彼女が奏でる和琴の音色を。――俺は、彼女のために弾けば良い。
 神は目を上げて、遠い祖国にいる彼女へ問いかける。
 俺の音楽は、貴方に届いていますか?

    *

 発端は、おそらく些細な一言だった。
 自分の何気ない一言が相手を怒らせたのか、自分が相手の挑発に乗ってしまったのか、それは良く覚えていない。一つだけ確実に言えること――不愉快だった。そして悲しかった。好きな音楽のことで言い争いなどしたくなかったから。
「良いよな、才能のある奴は」
 吐き捨てるように言われたその一言。
 ショックじゃなかったと言えば、嘘になる。
 ――アメリカはニューヨーク、才能の流出を防ぐために創立されたという音楽の名門、ジュリアード音楽院。
 極めて閉鎖的な音楽院内の、おそらくトップレベルの学生が、天音神だった。
 単に演奏の腕のみならず、作曲家とヴァイオリニストを両親に持つサラブレットであり、若くして留学していることからも、彼が将来を嘱望される演奏家だということが伺える。
 しかしここにいる多くの生徒がそうであるような野心家では、彼はなかった。
 エリート意識が高い連中を彼はあまり好いておらず、第一、音楽をステータスにしたり、競走の道具にするなんて何か間違っている、と。
 ひたむきにピアノを弾くことのみに専念し、コンクール等にはちっとも頓着しない彼を、クラスメート達はかねてから目障りな存在と見なしていた。らしい。
「どういう意味だ?」
 人の好い神にも、敵意を向けられたらしいことはわかった。困惑の表情を浮かべ、低い声で問い返す。
 閉鎖的な学校の、決して広いとは言えない講義室でのことだった。
 神に対する態度が中でもあからさまな学生が、敵意剥き出しの眼差しで神を睨んでくる。
「才能のある奴は、努力なしでも認められて良いよなと言ってるんだ」
「…………」何か不本意なことを言われている。神は腕を組む。「俺のどこを見て、俺が努力していないと?」
「だってそうじゃないか。僕はコンクールなんかには興味ありません、て面してる」
「ないよ」
 きっぱり言い放つと、突っかかってきた相手は心底嫌そうな目で神を見返した。
「その良い子ちゃん面が」びし、と人差し指を鼻先に突きつけてくる。「気に食わないんだよ。才能がある癖に生かそうとしないのも、こっちから見ているとイラついてくるだけだ。野心なんてない、競争とは無縁だ、言い換えれば――俺達とは別だ、って顔してる。自分が特別だと思ってるんだろ」
 むっとした。努力を怠ったことなど一度たりとしてないし、自分は特別だなどと驕り高ぶっているつもりもない。
「――貴方達こそ、なんで音楽を競争の道具にするんだ?」やや険のある声音で言い返す。「演奏の腕を競って、優劣を決めて……、そんなことに何か意味があるとでも?」
「意味? 上まで上りつめなければ、自分は音楽家だと名乗ることすら許されないんだぜ。名声を浴びたくて当然だろ?」
「でも優劣をつけるのは間違ってる。コンクールでトップになるために、審査員好みの曲を審査員好みのスタイルで演奏して、それで首位になったからって何が偉いんだ? 名声を浴びるって、誰から? 自分達には音楽を聴く『資格がある』と信じている、一部の金持ち連中から?」
 相手の表情が険しくなったのを神は見逃さなかった。下手したら掴み合いの喧嘩に発展してしまいそうな雰囲気だ。周囲のクラスメートがはらはらした目で成り行きを見守っているが、どうやら自分には味方がついていないらしい……。
「だから! その綺麗事が腹立つんだよ!」
 怒鳴り声が響き渡る。しん、と教室が静まり返った。
 神は無言でクラスメートの雑言を受け取った。
「……そう」張り詰めた空気を壊さぬように、小さくつぶやいて、それから目を逸らす。「言いたいことはそれだけ?」
 何か反論しようと口を開きかけるクラスメート。
 それを遮るように、ばん、と机を叩いて立ち上がった。
 同行を見守っていたクラスメート達が、びくりと身体を強張らせたのが、視界の隅で見て取れた。たおやかそうな神が、挑発に乗ってやり返すとは思っていなかったようだ。
「ピアノを弾くことは俺のすべてじゃない」きっぱりと言い切る。「ピアノは俺の一部なんだ。だからそれを競うための道具にしたくないし――」
 神は視線を落とす。
「俺が、ただ願っているのは……」意を決したように顔を上げると、驚いたような表情のクラスメートと目が合った。「ある人の心を癒したい。それだけなんだ」
 ――その、酷く思いつめたような、切実な声の響きを、理解する者はいただろうか?
 神は荷物を手に、教室を後にした。講義があることはわかっていたが、そんなものは知ったことではない。

    *

 なんとか空きの練習室を見つけて、滑り込んだ。
 神は防音措置のなされた天井を振り仰ぎ、溜息を一つついた。
「……こんな言い争いはしたくなかったんだけどな……」
 脳裏に大切な人の姿が思い浮かぶ。そして彼女の琴の音色も。
 和琴から紡がれる繊細で美しい音は、深い悲しみを湛えている……。
 ――音に気持ちが入っていない、と。
 幼い頃に、そう言われた。
 完璧な演奏をしたはずだった。難易度が高いと言われているベートーヴェンの作品を、ミスなしで最後まで弾き切ったのだ。作曲者の解釈通り、譜面通りに。幼い子供の演奏としては、これほどパーフェクトで、そつのない演奏もなかったろう。
 自信を持っていた。
 しかし彼の師は、眉間に皺を寄せて、たった一言こう言っただけだった。――音に気持ちが入っていない、と。
 ベートーヴェンの肖像画みたいな顔してさ、と胸中でぼやきながら、幼い神はぶらぶらと外を歩いていた。音に気持ちが入ってないなんて、そんな漠然とした評価、さっぱりわからないや。
 音が響き渡るのは物理的な現象。音の高低、強弱、長短、その連続を音楽として認識しているのは、人間の脳。……目に見えない「気持ち」を認識させるなんて、どうすれば良いんだろう?
 嬉しいと思いながら弾いたら、悲しい曲調の曲でも楽しげな曲になってしまうのだろうか。
 悲しいと思いながら弾いたら、悲しい曲はもっと悲しく聞こえるのだろうか。
 そういう簡単な話ではない気がする……。
 悩む神の耳に彼女の演奏が飛び込んできたのはそのときだった。
 彼女の和琴の音色を聴いて、神は突然、理解したのだ。
 なんて悲しい音色。深く、底のない悲しみが湛えられた音。
(ああ、そうだったんだ)
 きっと彼女の悲しみは、琴を弾き、音楽にのせることでしか昇華できないほど深いものなのだ。
 そこには切実な想いがある。言葉では言い表すことのできない想いが。

 ならば、俺は……。

 神は両手を鍵盤の上に載せる。
 思考は現実に立ち返った。狭い練習室に。生徒達にさんざん叩くような勢いで弾かれつづけたおかげで、調律が酷いことになっているアップライトピアノに。
 彼女がいる場所からは程遠い、海を隔てた場所で、それでもこの音が彼女に届くことを祈りながら。
「俺は、少しでも彼女の悲しみを取り除けるピアノが弾きたい」

    *

 客席の照明が落とされ、聴衆が静まり返る。
 ステージ上のコンサートピアノが、煌々と白色の光に照らされ、じっと弾き手が現れるのを待っている。
 小さく深呼吸をしてから、神は舞台の中央に出た。
 瞬間、拍手が沸き起こる。割れるような拍手だった。何人の観客がいるのか、検討もつかない。学生コンサートとしては異例の集客率だろう。
 一礼してピアノの前に座る頃には、拍手は波のように引き……、
 耳が痛くなるような静寂の中、神は、鍵盤に添えた指で最初の一音を鳴らす。
 張り詰めた空気が、何か別のものに変化していくのを、神は感じ取ろうとした。
 そうして、遠い祖国にいる彼女へ、問いかける。俺の音楽は貴方へ届いているか、と。
 そして願う。
 ――俺の音楽が、貴方の悲しみを取り除くことができますように……。


fin.