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<PCシナリオノベル(シングル)>


裁きの日

 高い水音を立てて、秋山悠は水の中に倒れ込んだ。
 飛びついた悠を支えきれなかったピュン・フーは当然その身体の下、がぼりと水を飲み込んで吐き出す泡を触れた唇に感じて、悠は慌てて胸倉を掴んで水から引き上げた。
「ちょっとピュン・フー、しっかりして!」
揺さぶりにガクガクと揺れる首に、後頭部が水面を叩く……その向こう倒れた皮翼は淡く光を帯びる水の下……聖別された水の中、じぶじぶと音を立てて宿った亡者が溶け消えて行く様はかなりシュールだ。
 自らの災害吸引能力の有り様を垣間見て、濡れた衣服に奪われる体温とは別に背筋が冷えて、悠はくしゃんと一つくしゃみをした。
「お大事に」
のほんとした声が後に続いて厄を払うのに、悠は鼻の下を擦りながら眦を険しくした。
「何好き勝手されてんの、このお馬鹿!」
「あ、拳はヤだ、拳は」
振り上げた手に頭を抱えて見せるピュン・フーに、悠は肩の力を抜く。
 ピュン・フーの紅に戻った瞳、そこに宿る確かな意志に、安堵の息を吐いて悠は両手で顔を覆った。
「……どうなるかと思ったじゃない」
「あ〜……悪ィ」
声を震わせる悠に、ピュン・フーは気まずく謝罪を口にするが、次の瞬間、悠の頭突きが額に炸裂した。
「こんの、お馬鹿〜ッ!」
そりゃ拳はイヤだと申しましたが。
 のたうとうにも腹の上に乗られて脇を膝でがっちりとホールドされている状態に、ピュン・フーは再び水底の住人にならないよう、肘で上体を支えるのが精一杯だ。
「た、確かに不覚……」
痛打か悔恨か、呻くように声を搾り出して、ピュン・フーはハ、と短い息を吐き出した。
「唇奪われるなんて……」
「不満なんかい!」
今度は顎に掌底が入って、ピュン・フーは盛大に仰け反って抵抗も敢えなく水の中に落ちる。
「接触しただけで騒がないでよ、生娘でもあるまいし。人命救助のマウストゥマウスみたいなモンじゃない。大体ね、古今東西、王子様の眠りを覚ますにゃ乙女の本気が効果絶大と相場が決まってんのよ!」
遠くに見える噴水の水柱の高さと共に水位が下がり始めたのが幸いして、今度は水没せずに済んだピュン・フーが、口元を片手で覆った。
「本気?」
耳の端を水に浸して見上げる眼差しに、悠は身体の上から下りる。
「そ、夫子ある身じゃ処女の接吻と質は違うかも知れませんけどね。マジになった女の魅力ってヤツのレベルは段違いだから、効いたでしょ?」
「魅力っていうか……」
今度はピュン・フーが掌で顔全体を覆う……ジャラ、と手首の間を繋ぐ鎖が鳴る。
「すっげ、いたたまれねぇんだけど。悠の旦那さんと嬢ちゃん達に申し訳立たなくて」
何を今更、と鼻で笑いかけて悠はピュン・フーの耳が赤い事に気付いた。
「……ちょっと待って。ねぇ照れてんの? 本気で? ちょっと見せなさいよほら」
「イヤーっ、犯されるーっ!」
悠から逃れようとするピュン・フーだが、聖水に浸って破れ傘のようになった皮翼の、骨格の重みに起きあがれずにもがくのみである。
「悠、そっちオサエテッ」
「任せて頂戴……って、ステラ?」
暴れるピュン・フーを取り押さえる腕が、横からもう一組伸びて来るのに悠がピタリと止まる。
「ハァイ、悠♪」
朗らかな挨拶に、じたじたともがくピュンフーの腕を掴んだ西洋の麗人は、豪奢な金髪を掻き上げて、その鮮やかな翠の瞳を瞬かせる……が、悠は無言で視線を合わせる。
「……ダッテ……あんまり楽しそうだったカラ、ツイ……」
もじもじと、水も引いてぐっしょりと湿る芝生にのの字を書くステラ。
「見てたのね」
既に問いではなく断定の悠の口調に、ステラはこくりと小さく頷いた。
「怒らないで、ネ? ラヴシーン邪魔しちゃイケナイと思って……ソレニ、ウチの子達が巻き込まれタラだし……ヒューも捕まえたカラ、ネ?」
ステラの言に視線を向ければ、引き立てられたヒューが両脇を黒服の男に固められて歩いていく所だ……盲目の身で、何か感じる所が常人と違うのか、肩越しに僅か、悠に微笑みを向けて去っていく。
 寸前までは確かに居なかった黒服達が周囲をうろつく様に、悠はむっと口をへの字に曲げた。
 彼女の能力は近くに居る人間程、その被害を被る確立は高い。
 保身を図るなら、遠目にするが最上の方法とはいえ。
「おいしいトコ取りはダメ! 私だけが堪能するの!」
「えぇ〜、ズルイ〜ッ! そんな可愛いトコ見せてくれたコト、あまりないノヨ? トッテモ貴重なのニィ!」
既婚者二人が本人の主張を無視した上に、お互いダンナの存在をちょっとそっちの棚の上に除けて権利を奪い合っている間、ピュン・フーは「平常心」と幾度も呟きつつ、頬の火照りを引かせて、女の争いに口を挟む命知らずな行動に走る。
「それはもういいからさ、悠、ステラ」
悠とステラは大人げなく、全く同時に苦情を飛ばす。
「ピュン・フー、まだ照れてなさいよ!」
「ピュン・フー、まだ戻っちゃイヤァン」
お叱りとお強請りに苦笑を洩らし、ピュンフーは肘で支えて上体を起こした……自重に最早耐えきれない、皮翼の骨に亀裂が走り、音を立てて砕けるのに眉根を寄せる。
「ちょっと、まだ横になってなさい」
「そういうワケにもいかねーんだよ。お迎えが来ちまったし」
お迎え、という言葉にステラにピュン・フーの視線が向けられ、その後を追った悠の眼差しに『IO2』に所属する麗人は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「……『IO2』に戻ったら、そりゃしこたま叱られるでしょうけど。身体、治して貰えるのよね?」
ピュン・フーは元々『IO2』の技術であるジーン・キャリア……吸血鬼の遺伝子を後天的に注入して造られたいわば人為的なモンスターである。
 喩え一度は離反し『虚無の境界』に属したとはいえ、自らの意思で組織に戻れば、温情で以て決定的な処断は下されないのではないかと……その為ならばどんな微力でも力を尽くすと願いと決意を、込めた悠の問い掛けに、ピュン・フーはふ、と笑った。
 それは今までに見せた微笑み……笑っていても何処か覚めたようなそれでなく、心の底から滲み出る、そんな自然な表情で悠はほ、と息をつく。
「大丈夫……」
なのね、と安堵を言葉で確認しかけて、その手に黒光りする銃が握られている事に気付いた。
「ピュン・フー、それ私の……!」
気付いたステラが取り返そうと手を伸ばすが、すいと動いたピュン・フーの眼差しがその身体を撫でるのに、きしりと人形めいて動きが止まる。
「生死不明っていうのが一番気になるんだったよな」
ピュン・フーの意図は、瞬時に理解出来た。
 だが、乾いた声が喉に張り付いて咄嗟の制止が適わない。
「悠」
名前を呼んで笑いかけ。
 ピュン・フーは自らの左胸に、銃口を押しつけた。
「旦那さんと嬢ちゃん達と、幸せにな」
酷く緩慢な時間の流れの中に響いた銃声は……重なっていたが、複数、あったように思う。
 伸ばした手が肩を掴もうとするが、身を折るようにして横様に……傾ぐ身体には届かずに。
「ピュン・フー!!」
強く名を叫んだ自分の声が、苛立たしいほどにゆっくりと過ぎる時間の呪縛を解くと同時に、ピュン・フーは地に頽れた。


 身体を引き起こして背を支えれば、こほ、と小さな咳を吐きだし……口の端からそれは鮮やかな血の紅を零してピュン・フーは苦笑した。
「あ〜、すげ。まだ生きてやんの。流石にしぶといなぁ」
自らの手で、胸に銃弾を打ち込んで他人事のように言うピュン・フーに、悠は平手を振り上げた。
「馬鹿! 私をこんなに不幸にしやがって!」
バチィッ!と額に当たって派手な音を……立てるかと思いきや、その手はふわりと額から髪を撫でる。
 痛みを覚悟してか、強く瞑られたピュン・フーの紅い眼がきょとんと開いた。
「ゴメン」
まるで子供のような謝罪に、悠はふと笑う。
「本当に馬鹿」
断定する悠の言にピュン・フーはしどろもどろと弁明らしき言を吐く。
「ヤ、だって……俺のせいで悠が不幸ってのはよくワカンねーけど、少なくとも旦那サンと嬢ちゃん達に後ろめたいなとか……」
多分、自分でも何故に謝罪を口にしたのか解ってない様子のピュン・フーに、悠は苦笑した。
 膝行って後退し、背を支える手でをゆっくりと横たえさせて頭を膝の上に乗せて少しでも楽な姿勢を取らせてやろうとする。
 ジーン・キャリアは、どれ程の生命力を持つものなのか。
 左胸、人ならば即死であろう心臓を貫いた傷からは未だ血が溢れ、その身体の下に赤い領域を広げて行く……いっそ痛みがなければいいが、確かな意識は胸だけに止まらない全身の痛みに晒されているだろう事は、推測するのに容易だ。
 身体に流れる全ての血を失えば、死ぬ事は赦されるのか。または伝承に聞くように細胞の一片までも灰と化さなければ眠りは与えられないのか。
 人としての部分を侵蝕され、最早後戻りの出来ぬであろうピュン・フーの……苦痛を思えばその生を望むは利己的に思える。
 残酷なまでに決別を明らかにする為だけの手段として死を、選択した彼に、今更何が救いになるかすら判ぜられぬ。
 心中の煩悶をお首にも出さずに悠は呆れ、に似せた溜息を吐き出す。
「不幸になって当たり前じゃない。ピュン・フーが居なくなるのに」
何かを言いかけて開きかけたピュン・フーの唇に、悠は指をあてて言葉を塞ぐ。
「……でも良い事教えたげる。死んで女を不幸にさせる男は、世界一の幸福者なんだよ」
ピュン・フーに触れた指をそのまま自らの唇にあてて、「ヒミツだけどね」と微笑めば、いつもの笑みがその口の端を彩った。
「そんなトップシークレット明かされたら、お返ししねーワケにいかねーじゃん」
ピュン・フーはそう息を僅かに詰め……腕を動かそうとしたのだと、膝に触れる肩の筋肉の動きで判じられたが、それは既に適わないのかふ、と吐き出す息に身体の力が抜けた。
「俺の名前。お袋が付けたの」
「……変わったお母さんね」
悠の素直な感想に、ピュン・フーは吐息だけで笑った。
「ワケねーじゃん、言ったろ? ピュン・フーは通り名だっつって。月って書いて、ユエっての……」
言葉尻に行くほどに声が弱まって、うと、と眠たげに目が細められるのにその額に手を置く。
「情報としてはまぁまぁね」
「ネタになりそ?」
「それは使ってみないと」
悠は目元を細めた。
「さ、許してやるから」
神も組織も世界も関係なく……『秋山悠』という妻でもなく母でもなく、『秋山みゅう』でもない、ただ女としての悠自身の想いで、その死と、永別と、そしてその幸福を、赦して。看取る。
 吐息が薄くなる。弛緩、していく身体が重みを増す。
「ゆっくり休みなさい」
そして見上げる赤の眼差しから、ふ、と焦点が失われて。
 悠はその目の上にそっと片手を置いて、その視界を覆い……片手の甲に、涙の雫が零れて、落ちる様を隠した。


 左右に開く自動ドアに招じ入れられて、悠は大型書店に足を踏み入れた。
 活字離れが嘆かれる中でも、相変わらず新書や文庫、文字のみの書籍が売り場を占める面積は広く、最近の流行にホラー・ミステリーの系統ばかりを集めた書棚も増えて、それを専門としている悠としても、仕事の場が増えて有り難い限りである。
 最も、既存の小説は飽くまでも娯楽として、作品としてのインスピレーションは実体験に頼る悠がその売り場に足を向けるのは珍しい。
 平積みにされた新刊を端から眺める悠のその進行を遮って、学生と思しき女の子が二人出入り口から真っ直ぐに売り場に駆け込んで来た。
「あ、あったあった。『秋山みゅう』の新作!」
息を弾ませて迷いなく、売り場から一冊取り上げるのに何とはなし、悠はくるりと方向を変えて脇の本棚の間に入り込む。
「あんたホントに『秋山みゅう』好きねぇ」
「だってヤなんだもん、ドロドロ暗いだけの救いがないハナシ」
パラパラと新書版の頁を繰って、少女は連れの子に指で示して見せる。
「同じ遣りきれないにしてもさ。『秋山みゅう』ならこうきゅーって切ないっていうか……希望がある? みたいな。だからいいのよ。登場人物に個性あるしさ。ホラ、新しいシリーズの主人公、自分が言われたらどう答えるだろな、とか思わない?」
どれどれ、と覗き込んで二人は同時に声を低めた。
「ねぇ、あんた今、幸せ?」
お互いに精一杯に男の低い声を真似たのがおかしかったのか、二人は明るく笑い出す。
 もう一人も興味を引かれたのか、同じ新刊を手にしてレジに駆けていく……のを本棚の影から少し……否、かなりアヤシイ風体で見守って、基、覗いていた悠は、ほ、と肩を落とした。
 胸に残る痛みは、裡なる怒りに燻られ続けてきっと消える事はないだろう。
 ピュン・フーの亡骸は『IO2』に引き取られ、何もなかったように。ジーン・キャリアの事も組織の事もなかった事にするよう、悠は家族と生活とを盾に取られたも同然の誓約を求められた。
 全ては闇に。誰の目にも触れる事がないように。
 けれど忘れ去らせる事は、誰にも出来はしない……彼等に、世界に、悠は忘れる事を赦さない。その為にぎりぎりの譲歩策として彼を、題材とした作品を書く事を認めさせた。
 また一人、新書を手にする先程の少女よりもう少し年嵩の女性の姿を認める。
 彼は彼女にも分け隔てなく、楽しみを秘めて悪戯っぽいような、そしてほんの少しだけ寂しさが滲むような表情で楽しげに、いつもの問いを向けるだろう。
「……今、幸せ?」
悠は呟いてそっと売り場から離れた。
 ……時折夢に、あの黒い姿を見る事がある。
 旧いモノクロームの無声映画のような世界に、いつもと同じ黒い革のロングコートを翻す影以外には誰も居ない。
 白と黒の街で佇むあいつに、書く事で、記す事で、伝える事でそうやって、悠が永遠の命を吹き込むのだ。
 彼女たちの心の中に創られて行く街は、彼の魂に添って……きっとピュン・フーが戸惑う程に、多くの少女達の一途な思いが彼に届く事だろう。
 そうすれば、そこはもう。
『誰も居ない街』じゃない。
「……よっし!」
売れ行きばかり気にしていても仕方ない。
 控える次巻の〆切に向けて、悠は拳を固めて気合いを入れた。