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<東京怪談ノベル(シングル)>


 年初めの午後に

 古い年が去り、新しい年を迎えてから数日。多くの人々が何とはなしに浮かれ、また気持ちを新たに望んだ年初め……その余韻が、いまだそこかしこに漂っている。とはいえ、それはせいぜい百年という短い生を送る者たちの話。長き時を生きる者に、飽きるほどに繰り返された暦上の区切りなど意味がありはしない。
 と思われたが。
(新しい年らしく、何か吃驚させることでもないでしょうか……)
 仕事の手も空き、アイルランドの自室でゆったりと午後を過ごしていたリンスター財閥総帥のセレスティ・カーニンガムは、落ち着いたその表情の裏側で、そんな、幾分子供じみたことを考えていた。
 適度に室温を管理された部屋は心地良く、セレスティはソファに沈みながらつけっ放しのテレビの音に耳を傾けている。セレスティは視力が極めて弱く、テレビに目を向けてもその映像を捉えることは出来ない。彼にとってテレビの放送はラジオ代わりである。
『……私は今、新年を迎えたばかりのパリに来ています。見てください、……』
 テレビの中から浮かれた女性の声が届く。
 特番だろうか、世界各国の新年の様子を流している。イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、中国……。様々な国の様々な祝い方、多くの喜びは、録画ではあっても十分に気持ちを高揚させる。昨年も――そして今現在も――不穏なニュースは絶えなかったが、それでも気持ちは前向きになる。
 セレスティは穏やかな心持でそれらに聴き入っていたが、テレビがある地方のバザールの様子を伝え出すと、さらに意識を集中させた。『バザール』とはインドや中央アジア、中東諸国などに見られる街頭市場のこと。普通は店が屋根を持つ歩廊式の建物内に並んでおり、売られるものは食料品から衣料品、生活雑貨に骨董品など様々である。呼び込みの声が行き交う活気に溢れた市の様子に、セレスティは繊細な指先を軽く顎に押し当てた。
(買い物に行きたいですね……)
 アンティーク市や古書市を回りたい。バザールの様子は蒐集家である彼の興味を駆り立てた。
 とは言え、行こうとするなら往復にかかる時間、そして何より疲労を考えなくてはならない。『普通』の方法で行くとなると、それだけで気持ちは九割方減退する。
だが都合の良いことに、彼には行きたい場所に空間を繋ぐ能力を持った部下がいる。相手は休暇中だが、そこは大目に見てもらおう。セレスティはスーツの胸ポケットから携帯を取り出した。
 短い呼び出し音の後、電話が繋がる。
「――私です。今、時間はありますか? ちょっとお願いがあるんです。私の部屋まで来てもらえます? ええ、なるべく早くしていただけると嬉しいですが。……ああ、車は駄目ですよ」
 部下の快諾――釘をさされたことに対する不満は滲んでいたが――に通話を切る。携帯を戻して、セレスティは目を閉じた。心の中で、ゆっくりと数を数える。
 一。
 二。
 三。
 空間が一瞬の膨張のあと、ぐわり、と大きな口を開ける。セレスティは目を閉じたまま、それを肌で感じ取った。そして次の瞬間には、空間は瞬きをする間もなく元に戻り、部屋はまるで何事もなかったかのような顔を見せる。
 しかし先ほどまでと明らかに違うことに、部屋の主人の前には、小柄な一人の男が立っている。
 セレスティは目を開くと、行動の迅速な部下にやわらかな笑みを向けた。
「休暇中のところをすみません。実は、あそこに行きたいんです」
 言って、身振りでテレビを示す。部下の視線がテレビへ向かい、再び彼の方へ戻る。セレスティは傍に立てかけていた杖を取り、言葉を重ねた。
「お願いできますか? それと、数時間で戻ってきますから、そのときはまた繋いでください――…」


                    ***


「……セレスティ様、お食事の支度が出来ましたが、如何なさいますか?」
 不意に上から降ってきた言葉に、セレスティは本をめくる手を止めて顔を上げた。視力を使って読んでいるわけではないので気がつかなかったが、部屋はすっかり暗くなってしまっている。セレスティは彼女のために手元の灯りをつけた。
 橙の光にセレスティの表情を知った使用人が、軽く目を見張る。
「何か?」
「いえ、その……」
 机を挟んで前に立つ使用人は、リンスターで仕事を始めてからまだ日が浅い。それがセレスティの傍で仕事をしているのは普段身の回りのことを頼んでいる者たちに休暇を与えているためであるが、それゆえ彼女の行動には何処となく戸惑いが滲んでいた。
「……セレスティ様が、とても楽しそうにしていらっしゃるので」
 ああ、とセレスティが頷く。手に持つ本と脇に積み上げた数冊の書物を指し示し、買い物に行ってきたんですよ、と説明する。
「買い物……ですか?」
「珍しい本が手に入りましたよ。ああいった場所ははあまり遅くまでいられませんから、駆け足の買い物になりましたけど。それでも十分な成果です」
 彼はいつ部屋を出たのだろうか。そう首をかしげる使用人に、セレスティはただ満足そうな顔で口を閉ざしている。
「どちらに買い物に行かれたのですか?」
 好奇心が強いのか、セレスティの温和な顔つきも後押しし、使用人は問いを重ねた。セレスティは素直にそれに答えたが、それを聞いた使用人は「まさか!」と笑いながら首を振った。
「からかっていらっしゃるのですね」
 この使用人はあまり『不思議なこと』に免疫がないらしい。彼女は主人の言葉を冗談として受け止め信じなかったが、セレスティの表情は変わらなかった。
「あ、それでセレスティ様、お食事は……」
「ええ、いただきましょう」
 セレスティは丁寧に本を閉じると、誰彼ともなく魅了してやまない美しい笑みを浮かべて立ち上がった。