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戦いという名の儀式
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二〇〇四年もすっかり暮れてしまった頃。
セレスティ・カーニンガムは待ちに待った、実に久しぶりの完全休日期間へと突入していた。その記念すべき初日を、彼は最も有意義なことに費やそうと以前からずっと考えていた。
そしていざその日を迎えた彼は、さも幸せそうな表情で、大好きなベッドの上で思うままに眠りを貪っている。
これを惰眠というなかれ。確かにセレスティは空調の整えられた自室の馴染み深い弾力のあるベッドに沈んだまま昼頃まで起きようにも起きられずごろごろしていた。しかしそれは決して怠惰からではない。
では何故か。低血圧だからである。体質なのだから仕方がないのである。なかなか起きられないのは仕様なのである。
……そう自分に言い聞かせながら、セレスティは眠りつづけている。
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それなのに。
覚醒と睡眠のはざまで心地良くたゆたっていたセレスティの耳元で、彼はよりによってこんなことを囁いてくれたのである。
「横になっていてばかりでは、床ずれができてしまいますよ?」
意地悪な響きを帯びた彼の声。セレスティはまだ身体から気だるさが抜けきっておらずぼうとしていたが、彼の言葉の真意に気付くなりいつもより大きく寝返りを打ってみせてやると、片腕をついて半身を起こした。
そして彼に向かい、微笑みは崩さぬままに仰々しい口調でもって言ってやる。
「これでよろしいですか? 主治医殿」
すると、彼が笑いを堪えるときの喉の響きが耳に聞に響いてきた。
「はい、結構ですよ」
やがてくつくつ笑いながら紡ぎだされた台詞。ここでセレスティは、先日――あの巨大な神獣たちの決戦が行われた日のことを思い出した。あのとき。彼と自分は車の中で似たようなやりとりをした気億がある。違う点は、そのときは「結構です」とくつくつ笑ったのが自分だったのに対し、今回はそれが彼だったということ。つまり一本取られてしまったというわけである。
やられましたね、と心の中で呟きつつ、セレスティが苦笑する。
「しかし床ずれだなんて、年配の方ではあるまいし」
「何を仰います。あなたは私よりも齢二百もお年を召してらっしゃるではありませんか」
「失礼な。あなたとは二百も離れていませんよ。齢百九十八差です」
「そういうのを『五十歩百歩』と言うわけですね」
彼はセレスティの耳元でまたくつくつと笑いながらそう言うと、踵を返しドアへと歩き出した。
彼がドアの前で立ち止まる音。ノブに手をかける音。ノブを回す音。ドアを開く音。そして部屋から踏み出す音。聴きなれた音が聴きなれた順番で、セレスティの耳へと響いてくる。順番通りなら、次は彼がドアを閉める音が響いてくるはずであった。
しかしその前に。彼がセレスティに声をかけてきた。
「ああ、言い忘れておりました」
「何でしょう」
「この屋敷で使用されておりますベッドは言うまでもなく再高級品です。デザインの美しさは当然として、身体への負担に関しても人間工学的に緻密に計算され、品質にも絶対の自信を持つものだけが使われております。ですから、床ずれの心配など無用ですのでどうぞごゆるりと夜までお眠りください。それでは失礼致します」
彼はそれを言い終えると一礼し、ドアを閉めていずこへかと去っていった。
「……今日はまた、随分と意地悪ですねぇ」
彼の足音が聞こえなくなるなり、セレスティは苦笑気味にそう呟いた。
おそらく、いつまで経っても起きてこない自分を気にかけて部屋を覗いてくれたのだろうが、それにしてもどうかと思う。いきなり年寄り呼ばわりされるわ、厳密な歳の差について訂正したら厭味を返されるわ、去り際にはベッドに関する薀蓄を連ねただけでなく「夜までお眠りください」などとまるで自分が眠ってばかりみたいなことを言われるわと散々だったのだから。
「……可愛い子に逃げられでもしたのでしょうか」
セレスティはぼうとした頭でそんなことを考えつつ、ベッドから身体を起こした。本当はあと五分だけでもベッドに身を埋めていたかったのだが、それを彼に見られた日にはどんな厭味を言われるやらわからない。
なのでセレスティは不本意ながらものろのろと身支度を始めることにした。
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遅いブランチ――いや、悪足掻きはやめて昼食と言い切ったほうがいいかもしれない――を終えたセレスティは、再び自室へと戻ってきていた。
彼の『休暇にしたいことリスト』の中には読書が含まれていたので、以前から読んでみたいと思っていた本が何冊か、それに辞書の類が数種類、既にデスクの上に重ねてあった。準備万端である。
彼にとっての『読書』は、普通の人間が普通に本を読む作業とは異なるものである。彼の瞳はものを捉えない。本のページを繰ったとしても、目の前に広がるのはもやのかかった少しの光だけだ。
ゆえに彼はその書物に含まれている情報を「読み取る」ことで書を読む。彼のその繊細な指が触れるだけで、書物に紡がれている文章たちがすうと脳に流れ込んでくるのである。彼はそうして読書を楽しむ。
セレスティは慣れた動作で椅子に腰掛けると、重ねてあった書物を手にとりどれから読もうかと思案した。手に取ってはデスクに戻し、また取っては戻し、の繰り返しである。そうしているうちに、彼の指に薄い冊子が触れた。
それは先日発売されたばかりの『月刊アトラス』という雑誌であった。旧友と会うことこそできなかったものの、また新しく朋友と呼べる相手ができた、あの『竜虎の決戦』が記事になっている刊がこれにあたる。
セレスティも記者の一人にインタビューを受け、決戦の様子や、あのとき姿を見せなかった『玄武神』についてあれこれ語ってやった覚えがある。その記者は、セレスティが知る冴えない風体をしたからかい甲斐のある青年とは異なりしっかりした腕の持ち主であったようで、インタビューの礼という名目で送られてきたこの雑誌に掲載されていた『竜虎の決戦』の記事はとても読み応えのある内容に仕上がっており、セレスティも楽しんで読ませてもらったものだ。
「……あ」
ここでセレスティは思い出してしまった。『竜虎の決戦』について、彼に「話くらいは聞かせてくださいよ」と言われていたことを。「本当は私も見てみたいんですからね」と言いつつも身をわきまえた彼が屋敷へと戻っていったことを。実際は彼があの場に居合わせても何の問題もなかったのだろうが。
成る程。もしかすると彼は、いつまで経ってもその話を聞かせてくれない自分に少しばかり腹を立てていたのかもしれない。腹を立てる、までいかなくともちょっとした厭味のひとつふたつくれてやりたい気分になったのかもしれない。それでああして意地の悪い言動ばかりしていたのかもしれない。有り得ない話ではない。彼が意地悪なのは別に今に始まったことではないので全く気にも留めていなかった。
するとここはやはり約束を果たすべきであろう。あのとき自分は彼の願いを了承したのだから。
ただし。
先程までの彼の態度。セレスティは残念ながら、あんな風に意地悪ばかりされて黙っていられるような性質の持ち主ではなかった。相手が彼だというなら尚更である。
「……私だって負けてはいられませんものね」
セレスティはふふりと笑うと、積んであった本のうち適当な一冊を手にとって、それを読み取りはじめた。
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暫くして。聴きなれた足音が徐々に近づいてくるのに気付き、セレスティは少しだけ身構えた。
その足音の主はセレスティの部屋の前に立つと、ドアをノックしつつ「失礼します」とこちらへ声をかけ、それからドアノブを回して中を覗き込んできた。
やはり、彼である。
「おや。何か御用ですか?」
セレスティは椅子に腰掛けながら、彼に身体を向けてみせて微笑んだ。
彼はというと、少しばかり戸惑っているようだった。どうせ二度寝でもしているのだと思われていたのだろう。その読みが当たっているとすれば腑に落ちない気もするが、とりあえず意表をつけたので良しとする。
「見ればわかると思いますが、私は今読書中ですから。邪魔はしないでくださいね」
セレスティは満面の笑みを作りながら、彼にそう言ってやった。これなら「夜までお眠りください」なんて台詞はいくら彼でも発することはできないだろう。セレスティは内心喝采していた。
しかし。
「読書も結構ですが」
次に彼の口から飛び出してきた台詞はセレスティの対抗心を一層煽るものであった。
「室内に篭りっきりでは肩や腰に良くありません。少しくらい身体を動かしてみてはいかがです?」
彼のその台詞に、セレスティは自分の極上の微笑みが知らず知らず凄みを増すのを感じていた。
セレスティはやがて持っていた本をデスクに戻すと、大きく首を回し、肩を回し、伸びをして、本日二度目の台詞を彼に叩きつけてやった。
「これでよろしいですか? 主治医殿」
口許に仰々しく張り付けた笑顔でそう言ってやると、彼は満足気な声でこう返してきた。
「ええ、結構ですよ」
彼のこの台詞も、本日二度目である。
彼の足音が遠ざかるとともに、セレスティの作られた笑顔も元へと戻っていく。
意地悪の仕返しをするつもりだったのに、さらに一本取られてしまうだなんて。しかもまた「肩や腰に云々」と年寄り呼ばわりされてしまうとはどういうことか。
セレスティにとって、先程の戦い(敢えてこう表現させてもらおう)の結果は極めて不服であった。このままでは自分の負けになってしまう。それはいただけない。何としても彼にもうひと意地悪してやらねば。
そもそも。もし先程部屋を訪れた彼が、素直に自分の言葉に従ってくれてさえいれば、自分は彼をこの場に呼び留め、使用人にティーセットと菓子を用意してもらい、それを楽しみつつ例の『竜虎の決戦』にまつわる話を聞かせてあげようとさえ思っていたのだ。こうなってしまった今だから言うのではなく、本当にそうしようと思っていたのだ。それなのにあんなことを言われてしまっては、ますますそれもおあずけにしたくなってしまうではないか。いやもうおあずけにすることに決めた。
セレスティはデスクからまた一冊本を手に取ると――それは先程まで読んでいた本ではなかったがそんなことはどうでもいい。時間が潰せればそれで良いのだ――読み込みに集中しようとした。
しかしどうにも思考が散漫で、話が頭に入ってこない。自分で昇華できなかった部分をもう一度、読み取る。しかし話が右の耳から左の耳へと流れ出ていってしまうかのように、集中できない。
「……少し疲れたのかもしれませんね」
セレスティは少しだけ、ベッドに横になることにした。
ころりと投げ出された身体を、ふかふかのベッドがふわりと迎えてくれる、その心地良さ。
目のあたりが、とろんと、落ちていく……。
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セレスティがその日二度目の覚醒を迎えたとき、瞳に触れる光が妙に柔らかいのが気になった。やけに室内が暗い。窓辺に寄って少しだけ窓を開けると、吹き込む風が「もう夕暮れも過ぎてしまったよ」と教えてくれるように彼の頬を撫でていった。
これは失態である。少しだけ横になるつもりがこれではすっかり二度寝ではないか。こんな姿を彼に見られようものなら、また何を言われるやらわからない。意地悪返しをするつもりの自分がこれでは勝負にならないではないか。
セレスティは窓を閉めると一旦ベッドに腰掛け、これからどうしようかと思案しようとしたのだが、ふいに何かの香りが鼻腔をくすぐっているのに気付き、探るようにその香りの元へと近づいた。
刺を全て取り除いてある薔薇が一本、デスクの上に置かれている。先程から鼻腔をくすぐっていた香りは、この薔薇のものだったのだ。
そしてこの香りは確か、彼の温室で咲いていた薔薇のもの。
ということは、彼はこの部屋を訪れていたのだ。自分が何も気付かず眠っている間に。
セレスティはまたしても失態だと思った。しかし、その失態の意味合いは先程とは異なる。
そう、こんなに焦らすつもりはなかったのだ。セレスティは、彼が次にこの部屋を訪れたときこそ、あのときの話を面白おかしく語って聞かせてやるつもりだったのだ。これもこうなってしまった今だから言うのではなく、本当にそう思っていたのだ。
だから今、セレスティの胸にこみ上げて来た感情は、彼に対する懺悔の気持ちであった。
自分の失態のために彼を必要以上に焦らしてしまうことになったそのことへの、懺悔の気持ち。
セレスティは、彼が待っているであろう『温室』へと行ってみることにした。
途中見かけた使用人に彼について尋ねてみたところ、やはり温室にいるとのことだったので、セレスティはいつもより足早にステッキで歩を進めた。
雪もなく雨もなく、足元の整えられた道のりには何の危険もなかった。それにセレスティ自身何度も往復している道でもある。セレスティはすんなりと温室の前へとたどり着くことができた。
ドアの向こうからほんのり薔薇の香りが漂ってくるのがわかる。先程部屋に漂っていたのと同じ薔薇の香り。それは何故か、いつもより濃厚であるように感じられた。
セレスティがドアをそっと押して室内へと足を踏み入れた、その瞬間であった。
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頭上で小さな破裂音がしたと同時に、むせかえるような薔薇の香りが身体の周りを包みこんだ。
はらはらと舞うように、セレスティの髪を、頬を、手を、撫でながら落ちてくるのは――薔薇の、花びら。
無数の薔薇の花びらが、優しく降り注いでくる。
セレスティはただ呆然と、その場に佇んでいるしかなかった。
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モーリス・ラジアルは、目の前でまさに今起こった出来事に、自然と口許が緩むのがわかった。
唖然とした表情の彼が、無数の紅い紅い花びらが舞い散る中、ぼうと佇んでいる。
こんな美しい光景を見たことがある者など、他にはいるまい。
モーリスはなおも状況を掴みきれない様子の彼をじいと見ていたが、やがて腹をかかえてくつくつ笑い出した。
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モーリスは彼がいずれこの温室の扉を開くことを予想していた。いや、知っていたと言ってもいいくらいだった。自分はここにいると使用人たちにわざわざ言いふらしてやっていたし、それを決定付ける証拠――摘みたての薔薇の花を彼の部屋にそっと置いてきていたのだから。
そしてその読みは見事に的中した。彼は何ひとつ疑うことなくこの場所を訪れ、そして罠に填まってくれた。
いや、罠という呼び方は不適切かもしれない。なにせ自分は彼のために今日の自分の時間を全て費やして薔薇を――しかも花盛りの最も香り高いものだけを選定して摘んでいた。それが終わると今度は小さなくす玉を作り、芳醇なその香りをすべて閉じ込めてしまうかのように、摘んだ薔薇の花びらを一枚一枚ばらして詰めていった。
そうして温室のドアの上にそれを設置し、ドアが開いたら割れるようにと準備していたのだ。
こんなに手をかけて作ったのだから、罠なんていう呼び方は相応しくないとモーリスは思う。
「これはまた、随分な贈り物ですね」
そのとき彼の口から、あまりに適切なタイミングで、且つあまりに適切な表現が出てきたので、モーリスは思わず笑ってしまった。笑いながら「そうでしょう」と彼に言うと、彼は「ええ」と頷いた。
そう。あの薔薇の花びらのシャワーは、彼への、敬愛の意を込めたギフト。彼を何よりも美しく彩ることができるように、そのために用意した贈り物なのだ。
「しかし今回は、私の完敗でした」
彼は晴れやかな笑顔でそう言って、モーリスの瞳に視線をやった。今日一日彼の瞳を支配していたいたずらな輝きはもうそこにはなく、いつもの穏やかな色が瞳をたゆたっている。
「眠ってばかりいらっしゃるからですよ」
モーリスが意地悪な笑みを浮かべながらそう言うと、彼は少し苦笑気味にため息をついた。
「モーリス」
「ふふ、申し訳ございません。今回の一戦もなかなか楽しゅうございました。次も楽しみにしております」
モーリスがそう言うと、彼の瞳に一瞬だけあのいたずらな色が過ぎった。
「ええ、次こそは負けませんからね」
そしてすぐにいつもの全てを包み込むような優しい微笑みに戻るなり、彼は言った。
「折角ですから、この温室であのときのお話を聞かせてあげようと思っていたのですが、もうこんな時間になってしまいましたね……ねえ、モーリス」
「何でしょう」
「夕食をおあずけにするのと、お話をおあずけにするのと、どちらがお好みですか?」
ほんの少しだけ挑戦的な瞳でそう自分に問い掛ける彼。モーリスは一瞬目をくるりとさせてから、肩をすくめて苦笑した。
「……話のおあずけはもう十分過ぎるほどいただきましたのでね」
「それでは、夕食をおあずけにするということでよろしいですか」
くすりと微笑む彼に、モーリスはゆっくり頷いた。
そして彼の手を取り、温室の片隅にあつらえてある小さなテーブルセットへと誘った。そのテーブルセットの上には、勿論ポットとティーセットが準備されている。これもモーリスが用意していたものに他ならない。
つまりこういう流れになることも、モーリスは知っていたということになる。
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結局、この日の総帥対庭師――セレスティ・カーニンガムとモーリス・ラジアルの対戦は、庭師の勝利に終わった。
この戦いもまた、ふたりに流れる永い永い時間の狭間で行われる、儀式のひとつ。
……なお、今までの戦績がどちらの何勝何敗なのかは定かではない。
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2005.01.07 祥野名生
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